『あやかしびと』から7年、ようやく、ようやく「あの頃」のような東出祐一郎が帰ってきた! いや勿論、まだ足りないし、別物にもなっている。作品の中で最もつまらないのが戦闘シーンであるというのは燃えゲーとして見れば致命的だし、「私が黒幕だ」「いや私が黒幕だ」「いえいえ私こそが真の黒幕です」「じゃあ私が……」「「どうぞどうぞ」」みたいな展開は軽く失笑モノですらある。ただそれでも、テキスト・キャラクタ・シュジェート、そこに色艶はある程度取り戻せた…………まだ足りないのは確か、だけれども。神ゲーを待ち望む我ら百億のエロゲーマー、百億のあやかしびとファンに「僕は神ゲーではない」と告げているようなものであった、だけれども。しかし、たとえ神ゲーではないとしても、『東京バベル』は一己の作品として、その存在意義を高らかに謳い上げてもいる。『あやかしびと』という神の模造品として、ではなく。
不満点・欠点、というのは枚挙に暇がないかもしれませんけど、これはこれでいいのかなと。何よりもラストがちょー素晴らしいので、ああこれは肯定してしまいたいなぁ、と思ってしまったのが個人的な本音。
一番の欠点は、なんと戦闘シーンが作品の中で一番つまらないという点。この原因として目立つ点が二つあって、まず一つ目は、刹那に関してだけですが、レゾンデートルバトルですね。刹那がレゾンデートルに目覚めて以降は、<万能機械>が発動するまでは敵が倒せない(ので、見ててスリリング度が低い前座になってしまう)、かつ、<万能機械>が発動すれば敵をもう倒せる(ので、見ててスリリング度が低い「終わった話」になっている)。まさに文字通りの機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)が武器になっちゃったので、あまりにもその重大性が大きくなってしまっている。結果、発動するまでは退屈だし、発動してしまうともっと退屈になる。これが一つ目。とはいえこっちは比較的どうでもよくて、問題は二つ目の点のほうで、とにかく(サブ)キャラクターの掘り下げが微妙という点です。そのキャラクターの思いも、因縁も、あまり掘り下げる前にバトルがはじまり、あっという間に終わってしまう。平たく言うと、プレイヤーが感情移入する前にキャラクター同士が殺しあってしまうので、なんだかのめり込めない。特にサブキャラvsサブキャラのバトルはその辺残念なことになっていて、たとえばカマエルやらベリアルやらルキフグスやらの戦いを、僕たちは駅のホームで目の前を通り過ぎていく特急列車を見ているような気分で眺めることになる。つまり、僕たちが彼らの話に乗れていないにも関わらず、戦いだし、そして彼らは(死んだりなんだりで)どっか行ってしまうのだ。まあそもそも、説明不足だから感情移入できにくいというより、そのキャラクターの造形的に(たとえ説明されても)感情移入できにくいのかもしれません。なにせ天使や悪魔ですから、人間の物差しで彼らを理解しようっていうのが無理という可能性もある。アスタロトやメタトロンなどは比較的説明されていましたが、これに感情移入すんのはなかなか難しいんじゃないかなと。
まあただ、サブキャラの感情・心情に関しては、下手に掘り下げすぎてもつまらないことになるかもなーとも思うので(そもそも東出さんはそういうの描くの得意にしていないとボクは勝手に見做しているので余計)、このくらいの距離感・このくらいの付き合いで丁度良いんじゃないかな、と思っています。
で、素晴らしいのはラスト。これは本当大好き。
それぞれのルートというのは、刹那と彼女の相同性を元に、それぞれの個を見つけ出すみたいな筋書き。
たとえば、ラジエルと刹那は、お互いに言葉で世界を終わらせた同士です。だから最後(シナリオのラスト)は、言葉で世界を(自分を)認めた。美しいと、世界を、そこに生きる者たちを認めて、後悔はないと、自身を言葉で認めた。
空見と刹那は、お互いに人ならざる造られた人間同士。だから最後は、未来で「ただの人間」として生きるわけです。しかも最初から、かつてのように”何かの目的のために”能力が与えられているわけではなく、むしろ逆、ありとあらゆるものが奪われている。そこから、自らの意思と自らの力で、這い上がり、手に入れていく。
そしてリリスと刹那は、お互いに模造品の幻同士。だから最後には、幾年幾距離を越えて、並行世界という世界の壁すらも越えて、模造品でも幻でもない”たった一人のその人に”会いに行く。
特に良かったのが(ルートロックかかっているので)最後にプレイすることになるであろうリリスルートのラスト。
一つの存在として立ち、一つの己として生きる。
神や何かに縋るのではなく、自分の意思で、自分の力で。
その為に必要なのが存在意義(レゾンデートル)で、それにより生まれるのが存在意義(レゾンデートル)。
本作における「存在意義(レゾンデートル)」をめっちゃ簡略化して言うとおおよそこんな感じだと思いますが、これは実際の人間においては”なかなかこういうふうには”生じ得ないと思うのです。作中では「愛憎」とか「理不尽の打倒」とかを、その人間の存在意義として置いているわけですが、しかし現実の人間の存在意義ってのは(もしあるとしても)その時々によって結構変化しますよね。たとえば誰かにすげー恨みを抱いていて、「復讐」を自らの存在意義に置いたとしても、実際に四六時中復讐のことだけを考えられる人間というのはなかなかいない。あるいはもうちょい身の丈にあった喩えをするならば、たとえば大学入るためにこの一年間は猛勉強しよう、今の俺の存在意義は「受験勉強」だ! と心に誓った人間がいるとする。てゆうか受験生の時、実際にそんな感じの決意を抱いた人は結構いるかと思うんですけど。しかしそう決意しても、四六時中受験勉強にしか向き合わないというのは難しいです。遊びもするし休みもする。リフレッシュや気分転換と云うけれど、リフレッシュや気分転換としての機能以上に(つまりリフレッシュや気分転換という言葉を言い訳にして)ついつい必要以上に遊んだり休んだりしてしまったことがある人は少なくないのではないでしょうか。そしてさらに続ければ、これらの喩えは、その目的が終了してしまったら存在意義が消えてしまうことになります。「復讐」を果たしたらどうなるのか。「受験」を果たしたらどうなるのか。存在意義がなくなる。
じゃあそこで死ぬか? ―――いや、そこで本当に死ぬ人もいるでしょう。けど、ほとんどの人は、その続きに、今までとは「別の存在意義」を見つけて挑むんじゃないでしょうか。
つまり、一つの存在意義が終われば、また別の、次の存在意義が生まれる。
で、リリスシナリオのラストってのは”まさにそう”だから素晴らしい。人間にとって存在意義なんて今この瞬間生まれて次の瞬間には消え去ってまた次の瞬間にはまた新たに生まれるものなので、ものであるべきなのです、ものでなければおかしいのです。何故なら成長にしろ衰退にしろ、自分は/あるいは世界は変化していくのだから。
『東京バベル』における存在意義(レゾンデートル)というのは、奈須きのこにおける「起源」のようなものとは異なります。奈須きのこにおける「起源」というのは、「そう生まれたからにはそうである」という、その人の人格性格人生全てを無視して、そういうもののさらに上位レイヤー(プロパティやらメタやら)に既に書き加えられているモノです。つまり、最も端的な例、”殺人鬼として生まれたモノは、たとえ一人も殺していなくても殺人鬼である”。
『東京バベル』における「存在意義」は、奈須きのこ的な拭い去りようがない「起源」とは別物である。てゆうか、そうでなければ、この作品の話は全部ただの悲劇だし、登場人物はみんなウソツキってことになってしまう。ラジエルが神との戦いで如何にレゾンデートルを更新したか、空見が自身の直接的起源である「自分が造られた理由」というものを如何に超克したか、リリスが本体ではないという嘘を如何に打破したか、そういうのを見ればありありと分かる。というかむしろ、全てのルートが、そういった「元から決められているモノ」の打倒でもある。起源の破棄、自身の己克。つまるところそれは、自分が生まれた理由とか、自分の生まれ持っている能力とか、自分の生まれの運命とか、そういう、自分にまつわる「理不尽」に対する勝利である。
で、だからこそ、自分も世界も流転するこの現実においては、自分が変われば自分の存在意義は変わる、世界が変われば存在意義は変わる。
つまり存在意義というのは可変なのです。我われ人間には。あるいは、東京バベルを出た彼らにとっても。
そこをリリスシナリオはバシッと描いたから好きです。要するにこれまでの全ての否定……というと言葉強すぎですが。英語でいうButみたいな感じです。「存在意義を見つけ出せとこれまでは言ってきた。しかし、現実の存在意義というのは東京バベルで見出せるような純一な、単一な、純粋なものではない。シンプルに一つでまとまり、それが永遠に続くようなものではない。現実世界では、まさに刹那が言ったように。」
―――僕は何の為に生きてきたんだろう。楽しむため?戦うため?笑うため?悲しむため?歩くため?生きるため?
全部正解で全部紛うことなき真実だ。
それでも、今日この日この時この場所でのみ、生きる理由は唯一つ。
「君に、出会うために生きてきた」
……現実における存在理由は単純ではない。純粋ではない。純一ではない。常に古い理由が滅んで、常に新しい理由が生まれて、常に滅びた理由が復権し、そして常に更なる新しい理由が生まれる。楽しむため、戦うため、笑うため、悲しむため、歩くため、生きるため。現実に生きる人間のレゾンデートルは、このEDにおける刹那のこの言葉のように、千変万化、今この時に無限に生まれ、無限に変化する。その中から、瞬間瞬間の「純一」を掴み取る、それが現実に生きる人間のレゾンデートル。今ここで刹那が「それでも、今日この日この時この場所で”のみ”、生きる理由は唯一つ」と、「のみ」と言ったように。
人の存在理由は、「東京バベル」の時におけるような、純粋な純一さを保持できない。そもそも「東京バベル」というのは、作中で説明があったように、未来からも過去からも切り離されていて、現世・現実世界(この世)からも天界・地獄(あの世)からも切り離されている。つまり、時間も世界も終わっているのです。時間も世界も停止している。だから流動性が無くなっており、それによりレゾンデートルが作中のように固定できる。先に書いたようにEDで刹那が「それでも、今日この日この時この場所で”のみ”、生きる理由は唯一つ」と言っていましたが、その「のみ」が延々続けられるのが東京バベルなわけです。なにせ未来も過去もなく、別の場所・別の世界も無い。つまり「今日この日この時この場所」が延々に続くからこそ、本来は「其処のみ」でしか有効ではないレゾンデートルが確固たるモノとして確立されるのです、東京バベルにおいては。てゆうか何で東京バベルにおいてだけはレゾンデートルあるとなんか特別なこと出来るのか、という点に対する解釈にもなり得るんじゃないでしょうか。流転しない世界(現状のパラメーターから変化しない)と、それに伴い流転しない自分だからこそ、レゾンデートルとして確固に打ち立てた自己の世界が「世界」を侵食できる。たとえ世界を侵食しても過去も未来もないのだから、それを世界側は修正する理由すらないわけだ。いや、実際のところは分かんないスけど。
とかく。停止した東京バベルにおけるレゾンデートルと、流動する現実世界におけるレゾンデートルは全く別物である。現実世界では東京バベルの時のような、瞬間を永遠にすることによって得られる純一さなどは存在していない。それでも、その瞬間その瞬間に純一さはあり、それは東京バベルのときの、自己存在として高らかに謳い上げる純一さと比べて、全くどこも劣っていないのである、というのが目に見えて分かるので、リリスEDは最高だなと思います。本編で何十時間と描いてきた「存在理由」と全く同じ重みのものを、あそこで、たった一言で描いている。あの瞬間の、あの言葉は、その通り、「あの瞬間にしか有効ではない」刹那の全存在をかけた純一な生きる理由なのだから。そして現実世界の人間というのは、その「瞬間にしか有効ではない」レゾンデートルを掲げて、重ねて、生きていく。それはレゾンデートルを高らかに謳い上げることと、何の違いがあろうか。