ErogameScape -エロゲー批評空間-

マルセルさんのSuGirly Wishの長文感想

ユーザー
マルセル
ゲーム
SuGirly Wish
ブランド
HOOKSOFT(HOOK)
得点
79
参照数
3975

一言コメント

hookの自称新システムは基本的にネタとして楽しむものであったが、今回というか最近あたりからようやく作品の内容に良くも悪くも関係しているものが多くなってきた。勿論それは「ゲ-ム性」云々ではなくて、基本的には何たらシステムとか言いだし「主人公視点の語り手」の他に別の視点を導入したり、何らかのシチェーションを物語内に導入する言い訳みたいなものに過ぎないのだが、今作のうち成功したシナリオはその応用に成功し、失敗したシナリオはシステムに完全に振り回されているのだ。「愛」シナリオの失敗はプロット自体がhookの幼馴染信仰にクソをつける内容というのも大きいが、中盤あたりまでのまったりテキストから後半までのシリアス展開への移行を「なんとか無理矢理じゃない感じ」に誤魔化そうと、システムをフル利用して失敗しているところが実に興味深く、杏奈シナリオの見事な成功とのコントラストが今後のhookを暗示していよう。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

☆基本データ

・総CG枚数(差分SD無し)80枚 総回想数20枠

・キャラ別CG(エロCG)&回想数

愛   18枚 (10)  4回
ひな  18枚 (10)  4回
胡桃  18枚 (10)  4回
朱音  18枚 (10)  4回
杏奈 18枚 (10)  4回

☆クリック数

簡単な説明:クリック数つーのは、既読スキップオン+テキスト速度ノーウェイト環境下で計った、ゲーム開始時から作品を終えるまで各シナリオ毎のクリックの合計回数のこと。

(1)初回プレイ時の「共通」+「個別」のシナリオの総容量が分かる
(2)2周目以降の、共通シナリオを除いた個別シナリオの総容量が分かる。

(ゆえに、一周目のヒロインルートはクリ数が多く、二周目以降はたぶん半減するが、一周目の「個別ルート」が他よりも長いというわけではないので注意)

(3)エロテキストのクリ数と。それを含んだ全シナリオのクリ数を比較すれば、両者の割合もある程度はわかる。
(4)テキスト速度の環境さえ同じなら、プレイ時間と違ってユーザーによる計測誤差は少ない。

といった四点が指標として役に立つとバッチャが言っていたような気がしないでもない。

(5)んで、今回から実験的に新しく追加されたhookの新システムが(←冗談です)BCとACというクリック数の計測。
BCは主人公とヒロインが恋人になる前までのクリック数で、ACは恋人になったあとのクリック数ね。
「その恋人になった「まえ/あと」ってどう定義するの?というのはなかなかにむずかしい話であるが、大抵のエロゲには告白CGなるものがありますからそこを基準にします
(そういうCGがなかったり、なんかズルズルだらしない感じでずっこんばっこんなシナリオの場合は、まぁ僕がテキトーに判断しますが、その場合は「?AC6992」みたいに?をつけまつ)


1周目 胡桃 「14066」 BC5033 AC4387
2周目 愛  「10822」 BC7336 AC3466
3周目 ひな 「8226」  BC4002 AC4224
4周目 朱音 「9605」  BC2872 AC6733
5周目 杏奈 「9201」  BC4196 AC5005


(備考:他にもサブキャラのおまけシナリオがありますが、まぁ500クリックぐらいのオマケシーンみたいなものなんでここでは省略します)

・各キャラのHシーンのクリック数


胡桃   1:456 2:322 3:437 4:411 
愛    1:513 2:412 3:433 4:336 
ひな   1:654 2:483 3:317 4:366 
朱音   1:472 2:453 3:468 4:422 
杏奈   1:518 2:688 3:533 4:382 


☆作品の大まかな評価。

簡単な説明:これはもうそのまんまですな。一応Z~SSSまでの評価基準が存在するらしいのですが、大抵はC~Aの間に収まっているようです。
「C」がだいたい「やってもやらなくても別にいいんじゃね」。「B」が「やればけっこう面白いんじゃね」。Aが「やってないヤツは人生つまないんじゃね」。
といったかんじになっております。


・シナリオ評価

胡桃  B-
愛   C-
ひな  C+
朱音  B
杏奈  B+
全体評価 B

   
・エロ評価

胡桃  C+ 
愛   C+
ひな  B+
朱音  B
杏奈  B


・イチャラブ評価

胡桃  B- 
愛   C-
ひな  B-
朱音  B+
杏奈  B+


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シナリオについて

(1)

まずは四の五の面倒くさいことを言いだす前に先ずは「ガーリートーキング」と「ロマンティックレシピ」なる二つのシステムについて、客観的な記述をしておこう。
一言で言えば、これは単なる「プロット(テキスト)の一部」である。「演出の一部」と言い切るにはシナリオの中心部分に位置しすぎているが、まぁ「重要な演出」と言ってもおかしくはないだろう。
「ゲーム性」だとか「分岐性」といったものはない。「体験版の通り」だと言えば一番わかりやすいと思うが、基本的に普通のテキスト進行と共に上記二つのシチェーションテキストが現れたり現れなかったりするだけである。
その頻度も「恋愛授業」のように定期的に訪れるものではなく、メタな言い方をすればライターとシナリオの都合でその度に挿入されるといった感じだ。朱音寮長は5分に一回ソロ活動といった感じだが、愛ルートの前半は殆ど出なかったりする。
故にこの二つのシステムを「ゲームシステム」的に論じる必要は全くないし、演出やら小ネタやらといったミクロレベルで解釈する必要もなく、単にシナリオ、或いはテキストの進行との関係において見ればいいだけだろう。

さて、何から話を始めたら良いだろうか。まずは上の「ガーリー」と「ロマン」について、僕が発売前に抱いていた何らかの興味を語ることから始めさせていただくと、
別に「ガーリー」や「ロマン」それ自体というか、まぁメーカーがOHPで謳っているような「売り文句」についてはあんまし興味はなく、「ガーリー」のヒロインサイド視点の語り手につても「やりたきゃやれば」ぐらいの印象しかなかったし、
「ロマン」のお祈りやら占いといった事柄に関しても、民放各社或いは公共機関等々が挙って原始宗教的な邪教淫奉に耽っているのは如何なものだろうか?今すぐ明治新政の精神に以下略して各地の偶像崇拝を以下略すべきだ!と言いたいぐらいである。。
まぁバカネタは兎も角として、それじゃあ僕は何に興味を持ったのかというと、こうした二つのシステムなりポイントなりだがが、広い意味でその作品にいかなる影響を与えるのか?といった漠然な興味があり、
これをもっと狭く言い換えてみると、hook伝統のまったりテキストにどういう風にこの二つを織り込むのかのぅ?といったところに好奇心がそそられたのである。

どういうことなのかというと、端的に言って萌えゲ、いやエロゲのシナリオの80%ぐらいは「プロット」の展開なんぞは「読める」ものじゃないですか。
もちろん、これはある意味では「当たり前のこと」である。例えばエロゲでも推理小説でもクラシックの音楽でもある種のお約束はあって、まぁ馬鹿げた言い方になるけれども、
推理小説のお約束とは「探偵役が犯人を必ず見つける」というもので、クラシックの場合ならまぁだいたいは「第一主題と第二主題が乱交しまくってどちらが優勢になってオシマイ」みたいなソナタ形式が中心となっている。
そうした形式において重要なのは、そうした「お約束」的な形式を前提とすることで、なるほど確かにマクロな展開は「もうみんなわかっているとしても」、その「マクロな既知の展開のなか」において、
様々なミクロな変化を精密に描いたり、形式自体のその完成度を向上させることができるということである。つまり、重要なのはその既知のマクロの形式におけるミクロの過程であって、
それはエロゲについて言えば「主人公とヒロインが毎回にたような展開の末に結ばれる」という既知のマクロにおいて、物語のミクロ過程において語られる主人公やヒロインの言動や行動や心理を重視するということである。
このような感覚を前提としていて、以下に詳細に論じる予定なのが「ガーリー」と「ロマン」のシステムだろう。前者はヒロインサイドの視点を用いて、主人公との恋愛における片方の心理をネタバレし、後者はやや曖昧な存在であるが、
基本的には「ガーリー」におけるヒロインサイドの「妄想」やら「願望」やらがそのシナリオの、特にエンディングに至までの伏線をこれまたネタバレする機能である。要は、日常テキストあるいはミニ展開におけるミクロなネタバレと、
シナリオのプロットレベルにおける展開のマクロなネタバレを予め暗示されることで、物語の「展開」よりもその「過程」に注意を喚起させようとするシステムだと言って良い――それが良く廻っているか悪く廻っているかは兎も角として。

故に「展開が読める」ことは、それ自体がそのまま「弱点」になるわけでもなく、ある意味ではその「展開」の一部を為している重要な要素だと言える。
これをもっと細かいレベルで考えれば「展開を裏切る」要素といわれるもののある種の矛盾を考えれば良い。もしもただ単に、誰も予測不可能な展開――例えばマルセル死のキンタマが画面いっぱいに表示されるとか、
といったものならば、それは端的に言って「ナンセンス」と言われるものであり、「だからどうした?」といったボーゼンしか引き起こさないだろう。
「良い意味で期待を裏切る」というのは、そうした展開が事前においては予測不可能なのに、それが起こった事後においては予測が可能であったと思われるような展開のことを指す。例えばフクシマの原発事故なんぞは良い症例であろう。
こうしたことは、まぁ通常の論理では矛盾と思われるものであるが、日常においてはわりと経験しているものであり、その説明を詳細に語るためにはあと10万文字ぐらいは必要なのであるが、端的に説明しようとするならば、
フィクションにおいては「先の展開の予測」、現実においては「未来の予測」というヤツは、それが実際に行為や記述として語られたり行われる場合には「一つの予測」として現れる傾向が強いが、内心ではというか「内心ではこう考える」というような、
意識的な決定はあんまりやらないものであり、「なんとなくこういう感じがするんじゃね?」程度の「我々と致しましてはこのような方向性で前向きに検討したいという御所存であったとお婆さまも述べております」といった感じの、
「大まかな方向性」ぐらいしか頭には浮かんでいないものである。これは実際に推理小説でもエロゲでも(僭越ながらこのマルセル死のレビューでも)良いが、そのフィクションを読んでいる途中に任意の時点において(例えば10分とか10Pごとに)、
そのつど「このフィクションはいったいどういう展開に進んでいくか?」というのをチラシの裏なりに100文字程度で纏めてみるとよくわかるだろう。なるほど、例えば「ヒロインが主人公と結ばれる」程度の展開は「方向性」として書けると思うが、
それが「どのような展開で」というミクロな部分は常に推測が曖昧であるかその都度変わっており、マクロな方向性は「読めていても」それをミクロな描写やミニ展開に落とし込むところでは大抵「読めていない」ものである。

このようなある種の矛盾と、先ほど語った「重要なのはその物語の過程において語られる主人公やヒロインの言動や行動や心理」といった萌えゲのお約束的な定義と、「期待を裏切る」展開が云々といった、この三つを比較検討すれば面白いことがわかる。
先ず「重要なのはその物語の過程~」というのは、前述した「マクロは読めるがミクロはその度に変わるので読めない」という論理に従ってみると、重要であるか無いかは兎も角として「ヒロインの行動や言動や心理」は
「マクロの展開」としては読めるが、それが実際にどのようにしてテキストにおいて語れるかは「ミクロの描写」は読めない(読みにくい)ので、そうした部分がユーザーの注意を惹きつけやすくなるというのは、それほど難しいことではないだろう。
そして、そこから「期待を裏切る展開」が、どのような場合には「良くて」どのような場合には「ナンセンス」になるのかも、何となくわかってきそうな感じがしないだろうか?
なるほど、論理的に言って「以降に続く全ての展開や全てのテキスト」が「予想通り」に言ったとしたら、まぁ最初は「自分の予想が的中しまくりでおもすれー」と感じるかもしれないが、その内に飽きるだろう。
しかし前述したように「マクロはだいたい読めて」「ミクロはだいたい読めない」というのが予測の基本だとすると、その「予想を裏切る」というのは単純に左記を逆転させて「マクロはだいたい読めず」に「ミクロはだいたい読める」ということになる。
このような事態は、まぁ常識的に言うとなかなかヘンな感じがする。何がヘンなのかというか「三日後のことは予想できないが、三時間後のことは予想できる」というのは、その予測が真実かどうかは兎も角、常識的な感覚としてはよく理解出来るが、
フィクションにおいては「最後のエンドは予測出来るが、30P後のことは予測出来ない」というのは、その予測が真実かどうかは兎も角、常識的な感覚としてはよく理解出来るからである。しかし、この変な感じこそがフィクションと現実の神秘であり、
このSuGirly Wishの各種シナリオの面白さとつまらなさを解く鍵になるのでアール、とあざとすぎる「先の読める展開」を告知しつつ、さっそく当作品の各種シナリオの評価に入っていこう。

(2)

そうはいってみたところで、僕のシナリオ評価は既に上の「データー評価」のところと、一言コメントのところでその結末は示されているのであるのだが、しかし「始めからクソ」だとわかっているシナリオでも、
それを覚悟した上で「じゃあ、どうしてこのシナリオはクソなのだろうか?」というような観点でやってみても、やはりウンコをシャーレの上に落として顕微鏡で観察するようなものであって
そのクササは防ぎようがない、ということが解ったのが愛シナリオである。オスカー・ワイルドという作家は、今からちょうど100年前ぐらいに
「(道徳的に)良いとか悪い作品というのはない。ただ単につまらない作品と面白い作品があるだけだ」という結構流行した言葉を吐いた。これは一般的には、審美主義、つまりある作品を道徳的な倫理観によって善し悪しを決めたり、
社会的な価値によって評価を下すのではなくて、その作品が持っている「美」や「完成度」といったものだけを評価の中心にしようという考えの代表のように思われるが、僕としては、この愛シナリオのようなクソなシナリオを読んでいると、
上のワイルド君の台詞を少々弄って以下のようなことを言いたくなるのである。「クソな作品は道徳的にも審美的にも社会的にも悪である。それは凡ての真善美の欠如を表象している」と。

ストレス解消はこれぐらいにするならば、先ずこのようなシナリオを批判する場合は、問題点を何個か分けたほうが良いと思われるのである。前述した言葉に引き続くならば「道徳的」な問題と「審美的な」問題をまずは暫定的に分類すべきだろう。
というのは、むろん「ワタシクは道徳的な問題など一切関知せずに審美的な完成度だけを批評できる」という人間ならば、それはそのようにやっても構わないと思うのだが、しかしそれを「他者」がよく認識できるかどうは全くの別問題である。
例えば「屁タレ主人公がムカつくのでこのシナリオはダメだ」というのは、これだけでは「道徳的な問題」と「審美的な問題」のどちらを議論しているのか、原理的にはよくわからないのである。
まぁ一般的にはこれらは「道徳的な問い詰め」のように解釈されるとおもうが、例えば燃えバトルものの主人公が屁タレである場合だったら、それは審美的な「カッコイイ主人公が闘うシーンはないのは怪しからん!}といった評価かもしれないのだ。
むろん、ここでは「道徳的な問題と審美的な問題をそんなに分けられるのか?」といった疑問も出てくるのだが、そこらへんはスルーするとしても、当人の意図としても「自分がどちらを問題にしているのか」他人からは理解できないという問題は残る。

もちろん、僕としては「ワタシクは道徳的な問題など一切関知せずに審美的な完成度だけを批評できる」と言えるほど完成された人徳を持っているワケはないので、今すぐ愛シナリオにおける主人公に空手チョップを喰らわせ、
メインヒロインである愛にも微罪ではあるが、まぁ二日間ぐらいケツメドの刑を味わって欲しいところであるが、まずはこうした「屁タレ主人公と幼馴染みをくっつけるためにお別れフラグをちらつかせるシナリオ」そのものが、
なんで僕を含めて大多数の萌えゲオタにかなりの割合で批判されるのか、その問題点をちっとは考えてみようではないか。
このようなシナリオの代表例というか、もう何が何だかわからないほど、誰がどうやっても(おおっと、NTRゲオタは例外か)擁護不可能だろうと思われるのはalcotの「FairChild」という作品における「日菜森こころ」幼馴染みシナリオである。
詳しくはググって見れば面白い悲鳴がたくさん聞こえるとおもうが、ざくっと粗筋だけ紹介すれば、屁タレ主人公とその友人であるウザ友人キャラと屁タレ主人公と同じくらい優柔不断なこころという幼馴染みの三人がおり、
友人キャラがそのこころに横恋慕しているわけで、その友人がこころに近づこうして、毎度の如く主人公は「オレのココロを勝手に取るな」と言った感じでこころへの思いに目覚めるというなんだかなぁな展開なのだが、
しかし目覚めたところで主人公は一向に動こうとせず、こころが暴漢キャラに襲われたときも彼は何もできずに友人にカッコイイところを取られまくって、主人公と同じくくらい優柔不断なこころは両者に明確な態度を最後まで取らずに――
もちろん、ハッピールートではなんだか三文芝居めいた友情話によって主人公がこころと結ばれるわけだが、圧倒的に説得力があるのはバットエンドの方であり、そこではこころが主人公に恨み言を言いながら、親友キャラとくっついてジエンドなのである。

まぁこういうことを書くと、上のシナリオをやってはいない人から「これだから萌えゲオタは困る。人間の繊細な感情を理解できないのか」という人が結構いて、それは確かにその通りであり、実際にそのシナリオをやってもいないのにも関わらず、
単なる自分だけの妄想によって「そのシナリオには繊細な感情が書かれている」と断定した上で人を批判出来るような、まぁ繊細と言えば繊細すぎる感性を持ち合わせていない僕のような萌えオタには、以上のようなシナリオを楽しむのは難しいのである。
因みに、上のは別に嫌味ではなくて、上のような萌えオタ批判を言う人は実は結構イイ線を突いている。こういう人は「人間的な」とか「人間には不合理な感情が」みたいな言い方が好きであり、
僕は「一部の動物は他の動物よりもより平等である」という、動物農場の入り口に書かれたメッセージをつい思い出してしまうのであるが、要は自分の思うところの「人間像」から外れた人間は
「人間ではない」と端的に人種差別をしたいだけであって、そういう動物には「繊細な」シナリオは理解できないということだ。
これが嫌味ではないのは、実際に上のようなフェアチャのシナリオは、主人公やその他登場人物の「人間的な」つまりは「なんか他人のことを考えているように見えて、実際は自分のことしか考えていない」エゴイズムを基調としているからである。
こころシナリオにおいて特徴的なのは、誰もが(まぁウザ友人キャラは多少の例外だが)「○○のことを考えたら自分は××できない」みたいなことや、「○○の為に自分は△△したい」みたいなことをいいながらも、結局のところは、
「自分が××できない」のは○○の為ではなくて単に「自分のため」であり、自分が「△△したい」のは○○の為ではなくそれ結局は「自分のため」でしかないというような、「他人」を言い訳として経由したエゴイズムである。
要は主人公がこころに告白できないのも、別に「友人」のためではなくて、単に自分が「振られるのが怖い」からに他ならず(これは「こころ」も同様である)、友人キャラは主人公にハッパをかけるためとかちらつかせながらも、
結局のところバットではこころを寝取っているわけであり、そのこころですらも「自分の本心」よりも「自分が積極的に振る舞うのが怖い」という理由だけでそれほど好きではない友人キャラとくっつきながら、主人公に愚痴ったりするわけである。
なるほど、確かにこれらは「人間的な」繊細なこころだと言っても良いだろう。以上において顕著なのは「オレの本心は繊細なんだからテメぇらはソイツを何とか察しやがれ」という自分の「内心」を何よりも至上とするサタンもたじろぐ傲慢さだ。
故に、そうしたものを肯定的に描写するシナリオが、そうした「人間的な心を持った」人以外に理解されないのは実に自明的な理である。何故なら相手の心を察っさない人間は人間ではないのであるし、
結局のところ自分を察しない人間はイラネって話なのだから、そういう人間外の萌え豚に理解させるようなシナリオやテキストを持つ必要は全くないわけである。まさに人間賛歌とはこのような素晴らしいシナリオのことを言うわけである。

で、あるからにして、この「愛シナリオ」を僕のような萌え豚がまったく理解できないのも、当然のこと言えるだろう。僕は当の本人に何の確証も得ずまったく無根拠に、告白したり恋人同士になっていないにも関わらず、
「愛がオレの側から離れるなんて考えられない」と始めから思い込んで(これはまぁ許すとしても)終わりまで、クリック数にしてだいたい3000クリックぐらい、時間にして一時間強も「思い込むだけで何もしない」主人公がまったく理解できないのだ。
僕はそのちょうど半分あたりで「ひょっとしてこの主人公には妄想具現化スキルがあるのではないか?」といった超展開を予想したんだが、そんなことは全くなく「日本の原子力は絶対に安全です」を繰り返して最後まで逝ってしまった。
ああ、怒りのあまりシナリオの粗筋を紹介するのを忘れてしまったが、まぁ紹介しなくとも大半の人は以上の振りで何となくわかると思うが、まぁなんだか愛がTV出演が切っ掛けでひょっとしたらアイドルになるかもといった展開があり、
それは愛の「主人公に自分への気を持たせるために」やった偽装ブラフなわけだが、案の定主人公は最後まで「オレの原発がこんなに爆発するわけはない」を終始繰り返して何もしようとせずに、そこで愛の方が「いやMOX燃料サイコーじゃねw」と
もう一段ブラフをあげると、「やっぱり原発は日本のために必要なんだ」と愛の目の前ではカッコイイことを言っておきながら、その数分後にゃ「やっぱ原発なんてやめときゃよかった」とこれまた最後までガクブルを繰り返して、
最後の最後になってやっとご都合主義展開によって主人公が告白するというMOX燃料もののシナリオである。因みに、クリ数を参照していただくとわかるが、この三文芝居が当シナリオの大部分を占めていて、この後は速攻でノルマのHを済まし終わりだ。

さて、そういうシナリオについて、いったい僕がどんな道徳的な違和感を感じるかと言えば、これまで言ったようなエゴイズムだの屁タレ主人公だの美しすぎる日本人の僕らだのといった話もままあるんだけど、
もっとストレートなことを言えば、まぁ僕みたいな童貞萌えオタが「恋愛がどーのーこーの」と言うような話をするのは確かに滑稽ではあると思うのだが、しかしこのようなシナリオを「恋愛話」だという滑稽さに比べれば可愛いものだと思うのだ。
あまりにも素朴におかしいものに対しては、こちらもひたすら素朴にこういうしかないのだろう。こういうシナリオはいったい何を語っているつもりなのだろうか? 
こんなの単なる傲慢な連中の自己チューが招いた間抜けな失敗談でしかないではないか?僕はべつだんここで「自己チュー」が悪いだとか「傲慢」が悪いだとかいった判断の元でそれを書いているのではない。
そうではなくて、単にテキストにおいて「自己チュー」と「傲慢」と「間抜けな失敗談」しか書かれておらず、
それらが主人公とヒロインのあいだでまぁ曲がりなりにも「恋愛」に発展する様子が「ちっとも」書かれていないところに、強いて言えば道徳的な罪があるように思われるのだ。この「ちっとも書かれていない」というのは誇張ではない。
上のような茶番劇が展開されているあいだ、主人公は終始「勝手に思い込んでいる」だけで「何も行動しない様子」だけが書かれ、儀礼的な日常描写の他に愛と会話する機会は(最後の最後まで)殆どなく、
愛のほうもこれまた勝手に自分に都合の良い妄想を勝手に描いているだけで主人公のことをちっとも考えておらず(無能主人公に対し彼女がそれを考える義理もないが)、両者とも最後まで実在の他者ではなく妄想上の他者でオナニーしているだけである。

この点で主人公の「実妹」である「ひな」も、この「愛」シナリオよりかは酷くはないけれども、似たような意味においてはクソっぽいシナリオであった。
此方も基本的には「主人公の気を惹くためヒロインがお別れブラフを持ち出す」という点では同じで、プロットの方をもうちょい詳細に語れば「自分を妹としか認識しない主人公に自分の思いを伝えるために、
主人公から一時的に離れて、夜の教会でひなはお祈りをする」というものである。此方はまだひなの行動に正当性(兄妹だから~というヤツ)があるので、
少なくともヒロインの好感度は余り下がらないだけマシであるが、主人公に対するフルボッコは愛シナリオ同様になかなか酷いだろう。主人公の行動は結局のところ愛シナリオと同様で「何も考えないし何もしないし何もできないと思い込む」という、
「生きた屍」戦法はここでもフルに発揮されている。まるで主人公が自己嫌悪じみた台詞を呟いたり、屁タレな振る舞いをするたびにヒロインの好感度がグングン上がっていくんじゃないかと言わんばかりの不思議空間だ。
ラストのオチも結局のところ愛シナリオと同じで、こういう展開を見るにつれて、別に冷静沈着な大人の恋愛シナリオを読みたいとか言うつもりは毛頭無いが、単に今まで堪えていた感情をどちらかが逆ギレして10分ばかり吠え立てれば仲直り、
という話(ばかり)なのはちょっとどうかと思うのだ。むろん、僕は別に感情的になるのがイクナイだとか冷静になるのがカッコイイみたいな話をするつもりはなく、単に「今まで堪えていた感情」が「開放されて愛でたし愛でたし」と言う話だと、
その「堪えていた」理由そのものとか、なんで堪える必要があったのかとか、正直に開き直ればそれでいいのか?みたいな、それこそ「恋愛感情」に属する話が、
単にガキが泣いて喧嘩して仲直り程度の「すっきりしてよかった」程度の話にしかならないのだ。僕はこういう「近親相姦を盛り上げるシナリオ展開」を見ていると、
こういうシナリオが好きな人はやたらに倫理観がどーこーだとか「重い話でした」みたいなことを言うけれども、正直言って「禁オナ」と何処が違うのか疑問に思う。
要はそれって「禁止されていたり抑圧されていたものが開放されるのがキモチイイー」ってことでしかないでしょう。だからこそこういうシナリオは「悩んだ(振り)」をしたあとは何の反省も兄妹の関係を問うまでもなくHしまくりなわけで、
勿論、僕は「もっと自重せよ」と言いたいわけでもないが、なんだかこうもH前とH後の主人公の態度の豹変を見るにつれて、戦前の日本人と戦後の日本人の豹変っぷりもきっとこんな感じだったんだろうなぁと祖先の逞しさを思うばかりである.


さて、そろそろ「おらぁ何だかすげぇムカついてきたぞ!」と思われる方が増えてきたと思うので、一番ムカついているこのようなクソなシナリオを今現在ネチネチ批判しているマルセル氏であると自慢しておくとしても、
森高千里ではないが「ストレスが地球をダメにする」のはある意味では本当である。そもそも、こんなクソなシナリオを批判したところで、自分であれ他人であれイイコトなんて殆どないんだからね。
僕は単にそれを我慢する害のほうが多いと考えるだけで。それに、このようなシナリオを基本的に「良い」と思う人がいても(僕は案外多いと思う)、基本的にはそういう人とは論理的な論争は不可能だろう。
それは別に彼または逆にマルセル死が理性的ではないからというよりも、もしも僕の上の批判が批判点として正しいと仮定した場合、まったく同じ理由がおそらく肯定派に肯定的に論じられるだろうからだ。
もっと丁寧に言えば、僕が上でグダグダ言ったような批判点が、それこそ人間的なんたらという繊細な感情を示すことになり、
そうした人間的な感情が描写不足じゃないかと僕が論難しても、その「描写不足」が「語りえないものを語っている」だとかなんとか感じる人も結構多いのである。これは別に嫌味ではなくて、本当にそのように感じる人は結構いるのであり、
そしてそこらへんの「空気感」とでも言えようか。つまり、同じ感情やら感傷やらを共有している人間ではないと良いと思えないような「描写不足の描写」とでもいうべきものがエロゲには結構あるわけだ。そうした共通感覚を、
僕らは○○記号だとか××属性だとか人間的だとか言い換えているわけだが、そうした個人的な感情をあたかも「客観的な存在や即物的な概念として」所与のお約束と見なして共同体の中で語るあたりに、
そうした「描写不足の描写」の正体は見受けられそうであるが。

で、あるからしてこのクソシナリオの「審美的な」批判について語ろうとしても、それは結局「お前が単にこういうシナリオを気にくわないだけじゃねーかw」以上に発展のしようがないと思う方も結構いるかもしれない。
しかし、そういうのは説得力がありそうに見えて実は何の説得力もない紋切り型のレトリックに過ぎない。僕がそのような「感情的」或いは「道徳的な感情」を持っているから故に、そうしたことを言っているというのは基本的に真であるし、
そうした僕の「立場」を云々することはまぁ好き勝手にやっても構わないが、それと「僕の言っていることが正しいか否か」という問題は基本的に別問題だからである。
単に僕の言っていることが「おかしい」ならば「その点」だけを批判すれば良いだけで、別に僕が○○厨だろうか萌え豚だろうか地下人力発言主義者だろうが、僕の立場は僕の言説を疑う要因にはなりえても、
僕の言っていることを否認する原因にはならず、それをするなら再度言うように「言っていること」だけを論難の対象にすればいいのだ。
バカ例を出してみれば、例えば「1+1」という数式を解くのに自分の人生を捧げた人間が居るとして、彼が死の間際にようやっと小学校の黒板に「1+1=2」という正解を書いたとして、その数式の解を否認する人間が、
「一生涯も数式に人生を捧げたような人間が出した答えは感情的であり客観的ではない」といったり、或いは数式の解を肯定する人間が「貴様は一生涯数式に人生を捧げた人間の心を汲んでやらないのか」といったりするのは、単純にヘンであろう。

ということで、この「愛」シナリオとついでに「ひな」シナリオの「審美的な」批判をやってみようとおもうが、そうした点から言って圧倒的に酷いのはこれまた「愛」のほうで「ひな」のほうはそれほど酷くはない。
「愛」シナリオは、どうにもシナリオが酷いという以前に、何らかの事情があって途中でシナリオを書き直したんじゃないか?という疑問さえ抱いてしまう。共通ルートと個別ルートの微妙な設定の食い違いもそうだが、
全体的な作りそのもののなかに、あちらこちらに「継ぎ接ぎ」みたいな痕が見え隠れするのである。そうしたところをチクチクやりながらも、まずは先ほどの「道徳的な問題」とちょい関連するようなお話からスタートさせると、
この愛シナリオのような「鈍感主人公にまわりの人物あるいはヒロイン達がハッパをかける」ようなシナリオそのものに含まれる「難しい」ところとは、多くの場合その「ハッパ」が幼馴染みシナリオの根底までを破壊してしまうところである。
だって、単純にこう思わないだろうか。もしも「お別れブラフ」やら或いは「嫉妬ブラフ」やらで、主人公或いはヒロインが「異性の思いに気がついた」とするならば、それは「恋愛」よりも単なる「独占欲」の結果でしかないのではないか。
これはわざとやっているのか、それとも素でそう書いたのか微妙なところではあるが、どちらにしてもこの「愛」シナリオで一番笑えるところは、愛がアイドルデビューするかもしないかもという段になって、学園中の注目を浴びるのだが、
そこで我らが無能キングダムの主人公が「あいつらちょっと前まではそんなに気にもとめなかったのに……」とか捨て台詞を吐くところである。当の本人もアイドルデビューするかもしないかもという段になって、
始めて愛が自分の身から消えるかもしれないとかビクビクしているのに関わらず、である。結局のところ、こうした無自覚性は「自分の幼馴染みは自分から離れない」という前提があって、そうしたものが破壊されそうになって始めて、
「自分がいままで持っていたものが無くなるのがイヤだから」という理由オンリーで「幼馴染みを異性として意識し出すようになる」のだから、こういうものを恋愛話と言うのは、実に哲学的な困難を覚える話ではないだろうか。

いや、もちろん、一般的な恋愛話と違うのが悪いだとか「そんなことは現実にはまったくあり得えない」を連呼するリアリズム信者みたいなことを言いたいわけではない。そうではなくて、単純に言ってそういうシナリオを読んで、
幼馴染みスキーや萌えゲオタが「面白い」と感じるかどうかという困難がここにあるわけだ(もちろん、それ以外の人たちが見ても単純に説得力の薄い茶番劇が繰り広げられているだけだと思うが)。
正直言って、この手のシナリオを「ストレート」に語ってしまった場合、あくまで僕の観測範囲では、ほぼ8割近くがブーイングである。
何故なら、この手のシナリオは、よほど上手くやらない限り単純に「主人公を屁タレ野郎」にして「ヒロインをまぁあまり好ましくない女性」に描くという結果に陥るからだ。こうしたシナリオを「ドラマチック」に書く場合、
それは物語論におけるテクニックであるところの「遅延」と「スリリング」をフルに活用するわけで、主人公を屁タレ化することによって問題を「遅延」化させ物語を引き延ばし、
ヒロインの寝取られフラグやらお別れフラグやらを引き延ばすことによって、ユーザーの物語への緊張度を高めようとするのだろう。
因みに、以上のように書くと、なんだか「文学ちっく」な感じがするが、これは例えば今ここでマルセル死が「明日の朝、○○で××を殺します」と実地と実名を書いたら、
まぁ読者の大半は「多少はびっくりする」のと同じで、べつだんエロゲにおいてユーザーを緊張させたり怒らせたりすることは、それ自体は赤子の手を捻るように簡単である。難しいのはそれが「煽り」以上に機能するかどうかであって、
大半のシナリオは「下手なシリアス」以上に認知されずに、この愛シナリオのように「ドラマチックな盛り上げ」のために、キャラクターたちは下手くそな人形遣いの手違いのためボロボロにされてしまうのである。
これこそ「シナリオ」と「萌え」を完全に別のモノとして認識するような人間がおかしそうな凡ミスの一つだ。「萌える」シーンは「萌えるシーン」だけで書いておいて、「シナリオ」のシーンは前者と関係なくって、
単に緊張感を煽ればいいと考えているような人間は好い加減エロゲライターをやったり、ディレクタークラスの役所にあってあれこれシナリオに文句を付けるのは止めて欲しいものである。エロ助で僕のように無駄な長文でも書いていればいいのだ。

まぁまてマルセル君。この作品には「ガーリートーキング」とか「ロマンティックレシピ」といったものがあるじゃないか。きっとこの新システムがキミの言う糞シナリオを輝かせる鍵なんだ……と言う人は、
実際にウンコにニスなりを塗ってみたことがない人間だろう。僕は中学生のころ、クソゲーをオタ友人と論じあっていたらそういう話になって、実際にじゃあうんこにニスを塗るとどうなるか……って話がずれたので本題に戻ると、
先ほど言った「あちらこちにら継ぎ接ぎが見える」というのが、何を隠そうこの「ガーリートーキング」と「ロマンティックレシピ」に関係してくるところだ。この二つと「愛シナリオ」のどこが不協和音を鳴らしているのだろうか?
まず、予想されうる反論からあげてみると、この二つのシステムこそがこの愛シナリオを成り立たせているものじゃないかという意見があるだろう。要は愛シナリオの愛の「ブラフ」が「偽装ブラフ」だとユーザーは前もってわかるから、
ユーザーは安心して話を進めることが出来るし、「ロマンティックレシピ」の最後のオチによって話が綺麗に纏まっているじゃないかというような意見。だが、僕には「ライター氏はそう考えたのでしょうねぇ」以上の同意は出来ないのだが、
しかしコレはある意味では啓発的な議論だとは思う。というのは、以上の議論に含まれる二つの命題(安心して話を進められる)(話が綺麗に纏まっている)を仮にイエスと答えたとしても、それが故にこのシナリオは問題だと言えちゃうからである。

まず「安心して話を進められる」がイエスだとしても、その話の内容がクソだということには変わらないだろう。つまり、幼馴染みが偽装ブラフを振っていて、主人公が相も変わらず無能であっても、「最終的には結ばれる」ことが、
「ガーリー」によってネタバレ的に暗示されていたとしても、お話の内容そのものが幼馴染みの偽装ブラフと無能主人公のイラ管展開だと言うことは変わらないわけで、後でクソを喰うか今クソを喰わなくてはならないかの違いだけである。
敢えてこの下品な比喩を引き延ばすなら、「綺麗に話が纏まっている」というのも、結局のところこの「ウンコ」は実は「チョコレート」の原材料でしたという「オチ」が最後に語られるだけであり、
今までクソを喰っていた時間がそれで報われるわけでも、歯にこびりついたクソが美味しくなるわけでもないのだ。これもよくある勘違いの一つだ。エロゲ的に言えば「シナリオ重視」的な或いは「テーマ」的な一貫性を重視しようとするあまりに、
単にシナリオにおける「ある部分」と「ある部分」だけの関連性だけを最後に無理に繋ぎ合わせて表面的に「話が纏まった」という印象を抱かせるやり方。無論、こんなのはトーデンのあらゆる発表と同じであり、
膨大なクソデーターの中からちょっと良いデーターだけを見積もってわくわく原理力ランドを開演させているだけである。つまり、「テーマ的な」起承転結を示す一部のテキストがが他の大部分のテキストと有機的な関連性を持っておらずに、
却って「纏まっていないものを無理に纏めさせようとしている」という印象を与えてしまうものである。「終わりよければ全てよし」とは、「終わりだけが良い」と言うことを意味しないことをいいかげんわかって欲しいものである。。

これは実際に「愛シナリオ」の全体的な構成を見れば一目瞭然である。おそらく、この作品のなかで一番テキスト量が多いと思えるシナリオであるが、それが故にそのちぐはぐなところが却ってわかりやすいのである。
僕が使っている「クリック数」を全体の指標とするならば、だいたい最初の4000クリックぐらいは、正直言って共通ルートの単なる延長であり、主人公と愛とその他登場人物の変わらない日常が描かれ続け、
異性愛的な感情が芽生える様子も殆どなく、後に続く伏線も例のテレビ番組ぐらいである。仮にそこを序盤から中盤としよう。んで中盤から後半までが、4000クリックから7000クリックぐらいのところであり、
ひなに対する愛のある種の嫉妬から愛が主人公への思いに気付き、例のブラフ大作戦が始まるわけだが、ここでも序盤と同じような日常描写のノリは変わらず、せいぜいブラフ関係のネタで「ガーリー」がちょいちょい挟む程度である。
そして、その4000から7000の中の、だいたい6000前後から例の「茶番劇」は本格化するわけだが、実際のところこの解決はせいぜい1000クリックも掛かっていない。どういうことかというと、この4000から7000のなかで、
普通の日常描写と同じテンポで、偽装フラグ大作戦や無能主人公のチンタラっぷりをこれまたチンタラやっているのであって、最後のあっけなく終わる告白シーン手前まではそれまでのまったりな日常シーン続いてしまうのである。
告白後の7000から10000のあいだは、エッチシーンを四回繰り返してとっととエンディングに進み、「ガーリー」で伏線されていた「ロマン」ネタで話をオチつけるわけだが、こうやって纏めてみても、本当にちぐはぐなシナリオだと思う。

何故なら、こうしてみれば、その大半以上、いや7割近くが「日常シーン」で埋まっているのに関わらず、「シナリオ展開」のキーとなるのは、そうした日常シーンと殆ど関係ない「茶番劇シナリオ」でしかなく、
その茶番劇シナリオがとっとと終わるならまだしも、日常テキストとシナリオの展開の上で殆ど有機的な関係を持っていないのにも関わらず、ズルズルと日常シーンの中でクソを漏らし続けるのが実に無様であるというしかない。
もっと言えば、序盤の日常テキスト中心的な展開によって描かれた「主人公と愛の幼馴染みの絆」を、中盤の茶番劇展開をズルズルと引き延ばし主人公を無能化させ愛をスイーツ女に仕立て上げることでそれを破壊し、
始めからオチが見えている茶番劇の「シナリオ的一貫性」を無理に作ろうと、後半のイチャラブを展開をエロだけに限定し「スピーディな展開」によって早めにオチつけようとしている最悪のシナリオ展開だということが出来るだろう。。
これは「物語のテーマは何か」みたいな一貫性で得られた視点ではなくて、全体としてその物語が、序盤はどういう意味とどういう描写とどういうテンポを持って、そして中盤は同様にどんな効果を持ち後半は……といったように、
シナリオを「静的な視点で全体を眺める」のではなくて、シナリオを「動的な視点でどのように最後まで流れ着くか」といったような、実際にゲームをやっていて感じる美点や不満点を遡行的に再認識するような視点である。
そのように見た場合、この愛シナリオは実に最悪なのである。日常テキストは単に「日常テキスト」としてしか機能しておらず、それが支えるはずの「シナリオ展開」は日常テキストによって得られたキャラクター性をあっけなく破壊し、
エンディングのオチも「シナリオ全体を表象する」ものではなく単に「それっぽく纏めた」だけであり、エロはエロで単にノルマの回数を繰り返すだけで何の色気もありゃしない。
「ガーリー」や「ロマン」がこうした欠点を助長させているのは言うまでもない。
これは悪い意味における「演出効果」というヤツであり、特殊な演出さえやれば、今までのテキストとの一貫性と関係なく、その演出のもたらす効果によってシナリオが説得力があるものだと思い込んでしまうわけだ。
序盤では殆ど現れなかった「ガーリー」が、中盤から後半になるとやたらに出てくるのも「ここでヒロイン視点の訴えを入れれば読者も納得するだろう」と言ったような舐めた演出の一つであり、
むろんそういう演出過多のシナリオを作るならそれでいいが、それをやるためには序盤の日常テキストやら中盤の展開がデブリ過ぎだということに気がつかずに、
ドグマチックなドラマティック展開を無自覚に狙ったために、このような酷いシナリオが生まれてしまったのである。

「ひな」シナリオも基本は「愛」シナリオと同じような構造であり、同じような批判がだいたいは当て嵌まるが、此方は「愛」シナリオよりも多少は体型が締まっており、展開もわりとスッキリしているため不満に感じる時間は短いし、
序盤の日常テキストから、中盤の「教会へのお祈り」シーンまでがわりとストレートに繋がっているので、構成上はそれほど難は感じないわけだ。主人公の無能シーンも、まぁ僕は基本的にこう言うのは認めないのであるが、
「主人公は兄貴だから妹に恋をするのはおかしい」という前提を全く疑わないで進んでいるので、その前提を認めればそれなりに話はちゃんと進んでいるように見える。実際のところ、無能主人公の無能自己嫌悪シーンをもう少し減らして、
最後のプチ喧嘩シーンを思い切って削除したら結構良いシナリオには感じれたんじゃないかと思う。実際に「ガーリー」と「ロマン」の使われ方を見ると、これも基本的には「愛」シナリオと同じなのであるが、
ヒロインサイドの視点を使ってヒロインサイドの行動がシナリオの展開の中心になるように書かれているのであり、正直言って主人公の存在なんぞは両方のシナリオにおいても(ラスト以外)「お前が悪い」以上の機能は全くないのだ。
そして、ヒロインサイドの視点をシナリオの中心にするが故に、主人公の「無能感」や「役立たず感」や「お前死ねよ感」はユーザーの間にいつも以上に高まってしまう。ずっと主人公視点で一貫していれば、まぁ彼が多少「無能」であったとしても、
ほんの少しは「でも、コイツにも良いところはあるんだよな」的な(まぁんなことを言ったら誰でも良いところはあるんだが)感情移入は出来る。何故なら、彼が無能なのは、彼がヒロインの感情を知り得ないからであり、
そして読者である僕らも、確かにヒロインの感情はかなりの程度で推測できても、「本当のところはよくわからない」ので、彼らが無能な行動を取ってしまうことにも一理あると思えるのだが、こう「凡てを知ってしまうような」視点操作では、
主人公は客観的に見て単なる無能以上のものではないと明確になってしまうわけだ。さらに、こうもヒロインサイドの視点が多くなり、そっちの方が魅力的に思えてくると、主人公に関する感情移入は
「どーせコイツが変なことやってシナリオ拗らせるんだろw」以上のものでは何もなくなる。ましてや、それが通常の屁タレエロゲ主人公の論理にのみ従っているなれば、彼の役割はチンポ男優以上のものではなくなるだろう。

まとめよう。詰まるところ、この「愛」シナリオと「ひな」シナリオの場合における「ガーリー」や「ロマン」の存在は、まずは物語のマクロな展開をネタバレさせそっちの方向にすすんでいくことによって、
何故かそれまでのミクロのテキストの魅力を殺してしまっている効果があり、またヒロインサイドの視点の強化と主人公を「屁タレ」化させてシナリオを展開させる方法が異常な不協和音を作品内に終始響かせ、
主人公の存在と行動が通常のエロゲ以上に説得力を失わせる結果があり、いつもだったら「詰まらないシナリオだけど日常テキストはまったりしていいよ」というhookの伝統的なシナリオに致命的な一撃を食らわせ、
「詰まらないシナリオだし日常テキストも良いところが失われているし全く褒めるところはないよ」といった、おそらくhook史上最大の糞シナリオを作り上げてしまったというわけである。

(3)

さて、僕としてもここまで悪口を延々と書き続ける予定はマジで無かったのであるが、「物語自体」が気にくわないだけなら兎も角、それを語る手法も最大限に滲んでしまえと思えることは珍しかったので、
ここまで愚痴をやってしまった次第である。多少は反省をする振りをして、以下はテンポを徐々に早めて比較的「成功」していると思えるシナリオについて語ってみよう。と、その前に前述したシナリオが「なんで失敗したのか」というか、
どうして「あのような失敗をやってしまったのか?」について多少の論評が必要になってくるだろう。ただ、具体的な部分における具体的な失敗の理由については(2)で延々と語ったので、ここはそうした「意図」を詮索してみよう。
そうした意図は「これこれこういうシナリオを作りたい」といった確定的なものではなくて、「ガーリー」と「ロマン」を入れたら、何となくこんな感じで良くなるんじゃねぇの?といった感じの「ヌルイ意図」なのであるが、
「愛」と「ひな」の失敗、今までのhookと同じくらい普通の「胡桃」、比較的成功している「朱音」や成功した「杏奈」といった各種シナリオを見る限りだと、やや図式的過ぎる理解であるが、要は「ガーリー」を使って日常描写を強化し、
「ガーリー」に多少関連する「ロマン」を使って、「hookはシナリオが弱い」と言われる弱点を克服しようとしたんじゃないかと思うのだ。失敗例のほうがそれを雄弁に語っていると思うのだが、愛の日常テキストの肥大は要は、
今まで通りの「まったりテキスト」は廃棄したく無いという現れであり、その日常テキストを殺している「偽装ブラフ」展開やそれが「ロマン」のオチに繋がっているのは、なんとか「綺麗なシナリオだ」みたいなシナリオ評価を得たいがためであろう。

そういう意味で今回の作品はある意味で「hookの実験作」と言っても良いようなところがある。まぁ実験云々で言えば、hookは思われている以上にわりと過激なメーカーであり、某妖精ライフの某メインヒロインなんぞは、
「hookがハルヒ崩れのDQNヒロインを完成させる!」とでも言うべき過激さがあり、あれ以降エロゲ業界からハルヒ崩れのヒロインはほ一掃されたという伝説を持つが、今回のシナリオは「キャラ毎に随分シナリオ構成が違う」という意味で、
まぁhookもAラインとBラインと分かれたことだし、各シナリオの評判如何で今後のブランドの方針を決めようとしているんじゃないかといった匂いを感じるのである。。
今までのhook路線というか「さくらビットマップ」に近いノリでやっているのが、基本的には「胡桃」シナリオと言うことになるのだろうか。日常テキストも短めで薄めで、シナリオ展開もごくアッサリとしており、
「ガーリー」も「ロマン」の両方もそうした基本路線に従って進んでいる感じというか。これはこれで個人的にはなかなか好きなシナリオなのである。例えば、エロゲの告白シーン或いはそれまでのシナリオ展開というのは、
基本的にどうにも説得力がないことが多く、それは基本的には主人公とヒロインの関係性が「ただ、何となく好き」ぐらいのものでしかないのに、それを「超愛している」までに盛り上げようとしているところに無理を感じたりすることがある。
その点、この胡桃シナリオは主人公が胡桃のことを「おっちょこちょいで可愛い」と感じる日常的な好きの感覚と、胡桃が主人公のことを「たまには頼りになるヤツで一緒にいても良いかも」と思えるような好きの感覚が、
アッサリとした日常テキストの中で着実に描かれており、最後の最後まで何の盛り上がりもないのは良いとしても、ヒロインの性格の変化のあたりの描写が弱いのは良くないとしても、
良い意味でhookらしい「まったりとした悪くないシナリオ」に仕上がっていたとように思われる。ここらへんは「流石安パイなhook作品」と言っても良い出来だろう。

朱音りょーちょーも基本的には「胡桃」シナリオの方向性を「ガーリー」と「ロマン」をフルに活用してさらに濃くして、所謂「イチャラブ」方面に特化させたような感じである。
これは上のクリック数の構成をみればわかると思うが、BC(付き合う前のクリック数)がこの作品のなかでは一番短く、AC(付き合ってからのクリック数)がこの作品のなかでは一番長く、
単なる偶然であろうがその比率は「愛」シナリオのちょうど正反対になっており、ココまで来るともう偶然だとは思えないのだが、そのシナリオ構成のやりかたも愛シナリオと全く正反対なのである。
というのは、もう序盤からは朱音りょーちょはある意味で飛ばしまくっており、そこらへんの性欲をもてあましている非モテ中学生も朱音りょーちょーマジばねぇっす!と尊敬するくらい妄想しまくリンクの地下原発発便所。
というか、もはやある種のコメディに達していると言っても良い。序盤の序盤から「ガーリー」に入る前から、朱音のりょーちょーは主人公の一挙一動作になんか萌えまくっており、
主人公視点のテキストが終わったかなぁと思うや否や、もの凄いナイスタイミングで朱音りょーちょーの「ガーリー」妄想フェスティバルが始まり、彼女の妄想の中で主人公は汚されまくっちゃうのであって、
そんな爆笑ものの淫夢妄想が語られた次のシーンにゃ、朱音りょーちょーがスマした顔で寮長をやっているんだからこれで笑わない萌えないワケがないのである。

ぶっちゃけ、このBCの期間はこうした朱音りょーちょーの「笑い」と「妄想」のシーンによってほぼ埋まっていると断言して良く、主人公の存在はあまり目立たないのだが、これはこれで正しいやり方だ。
何故なら序盤において、兎に角朱音りょーちょーのキャラを、やや「おいおいそれは無茶だろw」といったギャグ的な妄想シーンによって印象づけることによって、中盤から後半までの「ロマン」を中心としたシナリオ展開が楽になっているからだ。
先ほども言ったように、この朱音ーりょーちょーシナリオは序盤のBCが三割ぐらいであり、中盤から後半までのACが七割ぐらいであって、ボリューム的には後者にウェイトが置かれているのだが、
中盤から後半までになると、テキストの主体がそれまでの朱音りょーちょー主体の妄想ガーリーしまくり展開から、徐々に主人公を中心とした主人公視点の日常テキストへと変化していることに気づくだろう。
これは、今まで朱音りょーちょーでやり過ぎたという反省もあるだろうが、その時点でユーザーは朱音りょーちょーの「ロマン」をある程度は知っているわけで、それを「叶える」為にはというか、それを「叶える」ような感じを与えるためには、
それは主人公の行動が必要であり、もっと言えばある程度の主人公の視点を回復させてそこにある程度の感情移入が無ければ、朱音りょーちょーとのイチャラブも楽しめないわけではある。
余談であるが、主人公公視点だけに限れば、このシナリオが一番「寮生活」の雰囲気を味わえるものになっているところもある。主人公と朱音りょーちょーのイチャラブを通じた「寮長」としてのあれこれのイベントを通じて、
学園内の色んなところを動きまわる描写は、朱音りょーちょーのラブ&ライクな校則破りも含めて実に学園モノらしく、主人公と朱音りょーちょーがわりと素で、あと一年一緒に過ごす為に留年しようか♪と思ってしまうのも実に説得力を感じさせる。
ただ唯一不満なところは、これは「欠点」と言えるレベルのものではないけれど、やはり最後の「ロマン」のオチだろう。最後の泣き止まない朱音りょーちょーまでミクロな描写は完璧に書けてはいるが、どうも「最後の一押し」を狙っているのに、
その「最後の一押し」が微妙なところで弱いなぁと感じてしまうのである。

僕がネガティブな評価を下した「愛」と「ひな」ルートにおいては、中盤ぐらいまでの日常テキストから「ロマン」が目指すエンディングへのシナリオ展開が両者のバランスを破壊しており、
恣意的な「未来の結末」といった印象しかユーザーに与えていない。もう一方の「胡桃」と「朱音」シナリオは、決して「悪い印象」を与えるほどではないが、日常テキストにおいて「ロマン」と「ガーリー」の距離が近すぎており、
「ロマン」が目指すエンディングが単なる日常テキストの延長線上にしか見えず、それほど「ロマンティック」には見えないという違和感があった。要するに、、
今作の「ガーリー」や「ロマン」といったシステムとhookの「日常テキスト」が上手く合わさるためには、「日常テキスト」とそれらの「ロマン」等が分裂していては話にならないのは当然のことながら、
「日常テキスト」に寄り添いすぎるのも、あくまで「ロマン」をシナリオのオチとするのであれば、それはそれで問題だと言うことであろう。「ガーリー」というのは基本的に日常テキストにおける、
「ヒロイン視点」であるのと同時に、「ロマン」エンドに向かうある種の伏線的な機能を持っているわけで、「日常」と「ロマン」の間をつなぐ架け橋になっているといえるだろう。それがどちらか片方に寄り添いすぎてはダメだということなのだ。

ここで、(1)で書いたことを、再度引用しておくのも悪くはないだろう。


>>そして、そこから「期待を裏切る展開」が、どのような場合には「良くて」どのような場合には「ナンセンス」になるのかも、何となくわかってきそうな感じがしないだろうか?
なるほど、論理的に言って「以降に続く全ての展開や全てのテキスト」が「予想通り」に言ったとしたら、まぁ最初は「自分の予想が的中しまくりでおもすれー」と感じるかもしれないが、その内に飽きるだろう。
しかし前述したように「マクロはだいたい読めて」「ミクロはだいたい読めない」というのが予測の基本だとすると、その「予想を裏切る」というのは単純に左記を逆転させて「マクロはだいたい読めず」に「ミクロはだいたい読める」ということになる。
このような事態は、まぁ常識的に言うとなかなかヘンな感じがする。何がヘンなのかというか「三年後のことは予想できないが、三時間後のことは予想できる」というのは、その予測が真実かどうかは兎も角、常識的な感覚としてはよく理解出来るが、
フィクションにおいては「最後のエンドは予測出来るが、30P後のことは予測出来ない」というのは、その予測が真実かどうかは兎も角、常識的な感覚としてはよく理解出来るからである。

これを今作における日常テキストと「ロマン」の関係において見てよう。失敗しているといった「愛」やラスト以外は概ね成功しているといった「朱音りょーちょー」に共通しているのは、
どちらとも「マクロ(つまりロマンに関係するエンディング)はだいたい予想が付く」というものであった。ならば単純に「マクロを読めないような展開にすれば問題ナッシング」でやったね母ちゃんしたいところであるが、
そうはトーデンが卸してくれないのである。何故なら、先ほどにも言ったように「ロマン展開」は「ガーリー」における日常テキストの連関性と「ロマンエンディング」の伏線を担っているのであるから、
「愛ルート」のように途中で日常テキストへの連関性を弱めて「ロマン」方向性だけに突っ走ってしまったらそれはそれで最悪なことになる。無論、「ガーリ-」を廃止して急に交通事故を起こして感動のエンディング……というやつも、
なるほど確かに「マクロによって読めなかった」展開ではあるが、(1)でちょっと語ったように「全く予想の付かない展開」というのが原理的にはナンセンスに陥るしかないわけだ。例えば今ここでマルセル死が拳銃で頭を撃ち抜いておわりとかね。
つまり、敢えて矛盾する訳のわからない言い方をすれば、ミクロの日常描写やそれを繋ぐ「ガーリー」のテキストの中で、

「1」ある程度は事前においてエンディングの方向性が予感されながらも、

「2」そのエンディングの内容が、それが「起きる前までには」殆ど内容の予想がつかないような、

「3」それでいてそのエンディングが「起きたあとには」まるで全てが前もってこのために準備されていたというような、

物語がまさに要請されているわけだ。これは確かに表面的な論理では矛盾しているように思われるが、少なくとも良いフィクションや現実においては「フクシマ」事故といった時によく感覚される印象ではあるだろう。
そして、そのような要件を見事にhookの日常テキストと重ね合わせながら、「ガーリー」にも「ロマン」にも上手く嵌っていると思われるのが、最後に語る「杏奈」シナリオなのである。

(4)

この杏奈シナリオはある意味で朱音りょーちょーシナリオとペアになっていると言っても良いだろう。別段もう片方をやっていないとよくわからないとか、そういったものではないのだが、
朱音りょーちょーシナリオをやったあとに、この杏奈シナリオをやったほうが感覚的に「わかりやすい」部分は結構あるように思える。それはどういうことなのかというと、
朱音りょーちょーの序盤から中盤にかけての「ガーリー」は、要するに「表面上は、つまり主人公視点からみてはしっかりしているりょーちょー」が「深層的には、つまり朱音りょーちょーの独白では実は案外アレ」なキャラだという、
要するに「表面(仮面)/深層(素顔)」だというような二項対立を語っていたのである。もちろん、「二項対立そのものが良くない」というような二項対立を僕は言いたいのではなくて、
単にそのような二項対立的な図式をシナリオが用いていたということを確認したいだけであって、杏奈シナリオではそのような「二項対立」を使っているように見えて、実はそこから逸脱しているというようなことを言いたいのである。

上のような二項対立が前提にしてそれが朱音りょーちょーのようなシナリオで可能になるのは、要するに「ある人が他人と話していたり公共的な場面において振る舞っている行動や言動」は、
「自分が一人きりになったり、あるいは公共的な場面においても「内面」や「内心」において考えていること」は「多かれ少なかれちがう」というようなロジックだろう。これは一般的には「仮面」と「素顔」の二項対立として考えられるが、
そのようなケースはあり得るし、そのようなケースを社会的に求められることは多いとしても、「表面上の言動や行動」と「内心や内面の思考」の差異が常に前者が「仮面(虚構)」であって後者が「素顔(真実)」である必要はない。
そのふたつが基本的に「異なる」ことは事実であるが、だからといってそれが正反対に異なる必要は全くないし、「意味」において異なる必要もないわけだ。どういうことかというと、ここに萌え豚マルセル君がいるとして、
例によって例の如くある二次元キャラに内心からブヒブヒやっていることを、誰にも包み隠さずいたるところで喚きちらしているとしよう。さて、その場合、僕の「表面上の言動や行動」と「内心や内面の思考」にどのような違いがあるのか。
それは端的に言って「表出の差異」とか「表出の有無」の違いである。簡単な話「誰にも包み隠さずいたるところで喚きちらしている」というような、まぁ偶然見られたとかそういう話ではない場合は、僕がどれだけ意識やっているという話もあるが、
基本的には「他者」に向けて自分の言動なり行動なりを「表出」つまり「誰かに見せる形にしている」わけである。一方、僕の内心や内面の場合は、まぁそのような「内心や内面」ですらある種の表出であるという哲学的意見もあるだろうが、
基本的には何らかの「表出」はないか、或いは自分以外の他人に向けた「表出」形態ではないということになる。でも「おなじこと」を他人に示したり、内面で考えたりしているんだから、それは結局「おなじこと」ではないか?というような、
常識的な疑問は実にご尤もであり、確かに一般的にはこんなことを考える必要はあまりない。何故なら、一般的なコミュニケーションにおいては「そのおなじことが何であるか」が文脈にとって重要であり、それ以外はどーでもいいからである。

しかし、いま僕たちが話しているのはフィクションであって、しかも世界に誇る日本の文化であるところのエロゲーであるからして、その「おなじこと」が各表出において異なる「あらわれ」をするというのは重要なことなのである。
あまり、こういうことは言いたくないのだけれど、たぶんここらへんがよくわからない人には、杏奈シナリオの良さがあんましわからないと思うのだ。杏奈シナリオにおいては朱音りょーちょシナリオの「ガーリー」のように、
「表面上の言動や行動」を一種の「仮面」として見て、「内心や内面の独白」を一種の「素顔」と見るような、つまり、杏奈の「ミステリアスな言動や行動」を一種の道化としてみて、「内心や内面の独白」を本当の杏奈と見るような見方では、
このシナリオの面白さはよく理解できないだろう。どういうことか? 要するに主人公視点における杏奈の行動や言動は基本的に杏奈の本心の「表出の一部」に過ぎないのであり、また同様に「ガーリー」における杏奈の独白もこれまた、
基本的には杏奈の本心の「表出の一部」に過ぎないと言うことである。そのどちらかが「本当」であったり「真実」であったりすると言うことではなくて、そのどちらも杏奈の本心を「ちがう角度から見た」表出の一部だと言うことである。

これは理屈的にグダグダ言わなくても(まぁ理屈的にグダグダ言わないと解らない僕のような人間も居るが)、わかる人には杏奈シナリオのガーリーを三回ほど見れば一目瞭然であろう。
まず全体的な構成としては、朱音りょーちょほど極端にガーリーが挿入されるわけでもなくて、愛シナリオのように中盤から後半に入るまではほぼガーリーを無視するほどでなく、まぁ中庸なといったらおかしいが、
主人公視点をメインに置きつつ、たまに杏奈視点のガーリーが入るくらいで、このバランスは最初から最後まであまり変わらない。さて、そこで語られる内容というのは、単純に「意味」だけを言うならば、
主人公視点の杏奈と大して変わらないのである。もちろん、主人公視点の杏奈は主人公の匂いがする本(これは本スキーにとっては実によくわかる感覚であると少々ヤヴァイ発言を)をベットの中に持ち込んで
ゴロゴロはしないものだし、一人で鏡を見ながら「わたしってやべぇなぁー」と呟きながらニヤニヤしたりはしないだろうが、これらの言動や行動が示している「意味」は主人公視点でいつも主人公をニヤニヤ見ている杏奈と、
基本的には同じものであり、少なくともりょーちょーシナリオやその他ヒロインのガーリーのように「内面独白において主人公視点上とは異なった意味が明らかになる」といったようなものではない。杏奈は何時だってニヤニヤしているだけなのだ。

その「意味」は無論、陳腐な表現で言えば「杏奈は主人公のことが好きで一緒にいるとすげぇ楽しい」ということであり、主人公視点から見る杏奈のニヤニヤしながら良くわからんちんな行動や言動は全てをそれを意味した「表出」であるし、
ガーリーのそれは杏奈の独白通りに楽しかったお昼のことを思い出して思い出しニヤニヤしている自分をキモチ悪いと思っている自分がなんだか楽しくてまたニヤニヤしてしまう「表出」なのであるが、
そうした「意味」と「表出」の関係性ががわかったところで、杏奈のちょっと不思議な性格や行動の持つ魅力が全て明らかになるわけでもないし、またなんらかの「正体」が明かされたわけでもないだろう。
というのは、あくあでこの「意味=表出」のモデルは、静的なというか単なる大まかなモデルであって、実際のシナリオにおける杏奈の行動や言動の中では、大まかな構図は先ほどの静的モデルであっているとしても、
それぞれの個別のシーンでは「表出」とその「意味」と解釈が微妙に変わっているからである。それは多義性を持ったもので「ユーザーの解釈が云々」というはなしでもなくて、
「だいたいはこんな感じなんだろうけど、今回はちょっとそれが違う気がする」ズレがある程度は起こっていると言えようか。わかりやすいところでは、杏奈も含む主人公の仲間たちと幼稚園である種のお遊戯会をやる展開があって、
杏奈以外の全員が挙げた企画に杏奈はわりとええ加減にダメ出しをして、主人公がちょい切れて、まぁその後に、杏奈が主人公の部屋にやってきていろいろ相談した結果事なきを得る、というシナリオがあるんだが、
この相談シーンで杏奈はお昼にええ加減にダメ出しした理由について、主人公にちょい問い詰められた結果、渋々ながら実に論理的に明快なダメ出しを行う。
で、もちろん、主人公としては「なんで昼にそういう言い方をしなかったのか?」とかいうわけだ。
それに対する杏奈の答えは基本的には「なんかめんどうだしぃ」といった感じではぐらかして、その後に杏奈がナイスな提案をして結局さっきの問いは有耶無耶になってしまうんだが。。

杏奈シナリオにおいては、この種の「シナリオのなかで何か特別な意味を持っているわけではないのだが、しかしちょっと気になる杏奈の行動や言動」というのが、それなりにチラホラ目に付くのである。
とはいっても、それらのシーンにおいて杏奈は何か「隠している」わけではないのである。杏奈はニヤニヤ笑いはするものの、基本的に(朱音りょーちょー以外には)決して嘘をついたり隠し事をするキャラではない。
例えば、まいどまいど屋根裏部屋で何か怪しい薬を作って爆発騒ぎをするのも、変と言えばヘンで何か隠されていると思えばそのように理解できるかもしれないが、杏奈にそう問い詰めたりしても基本的には「だって楽しぜー?」と言われるだけだろう。
そういわれたときに、僕らが感じる「不思議さ」というのは、別に杏奈が何か「本当のこと」を「別の言葉や態度で隠している」というよりも、その「だって楽しぜー?」という杏奈の表出における「楽しい」について、、
その「楽しさ」はいったいどんな感じの「楽しさ」なんだろうか?といったように思うときの、疑問と不思議が入り交じった感情だろう。これは「主人公のことが「好き」で一緒にいるといつも「楽しい」」という、
杏奈が最初から最後まで言っている「好き」と「楽しさ」が、個々の場面と個々の表出においていつも微妙に異なる角度を持っているということなんだけど、
そういう日常描写のほんの少しの謎を「深い解釈」するまでもなく、また杏奈が変なことを言っているけど、何となくわかるようなわからないような可笑しさが可愛くてたまらねぇ毎日が杏奈シナリオの醍醐味なのである。
イチャラブという点で正統派的なのが朱音りょーちょシナリオだとしたら、こちらはやや異端的なイチャラブシナリオだろう。こちらもACは多めだが、主人公と付き合った後も杏奈はそれほど性格や態度が変わるわけでもなく、
基本的には付き合う前の杏奈と同じくいつもニヤニヤ笑いながら変なことをいったり変なことをするのは変わらない。変わっているのはいつもその側に主人公が居て、その杏奈のニヤニヤ笑いがモニタの向こうにも感染していることぐらいである。

で、あるからして杏奈の「ロマンティックレシピ」であるところの「眠れる森の魔女」が実に杏奈らしく、そしてhookの日常テキストと「ガーリー」と「ロマン」が素晴らしく融合したエンディングになっているのは自明の理なのである。
ちょい余談めいた話になるが、この作品をやったオタ友人その他数人とこのエンドの話になって、「あのオチは確かにえっ?と思ったけどまぁありえない話だよなw」という意見が大半だったが、僕はそれを聴いて少々鬱な気分になった。
もちろん「みんなと自分の感性がちがう」と言うことを空気の論理によって悩んでいたワケではないが、自分と他者の感性の違いに少々驚いたのも確かだ。「人が幸せすぎて病気になる」ということが感覚的に想像できない人が大多数なんてっ!
「人が(精神的に)鬱になってその結果肉体的な病気になる」ということは精神安定剤がちょーバカ売れしている日本なら社会的常識の一つになっているのに、同じ作用が反対方面に働けば身体の調子は狂うだろうと理屈レベルでもわかりそうなものだし、
現に「宗教的な」意味では幸せすぎてしまった西欧の中世では、そのうちの何人かは今でも「聖人」とか呼ばれているわけだが(その宗教を信じていない僕らが見ても彼らが超ハイレベルの変人であることは疑いようがない。見習わなくてはっ!)
あまりにも神を愛して幸福になりすぎた所為で頭と身体が少々逝ってしまった人間が多数存在していたものである。とはいっても、僕はこの「眠れる森の魔女」を見て、例えばそんな「杏奈のあまりにも強い思いに打たれた」だとか、
その後に語られる「留年した真の理由」を聴いて先ほどと同様の感情に襲われるといったような意味で「感動のエンディング」を感じたわけではない。そういう話もなくはないし、まぁ確かに「予想外」の展開といってもいいものだろうが、
しかしそうしたエンディングの真実を知ったあとでは、全てが前もって杏奈の不思議な行動のなかでそれが語られていたような気がして、「うん。やっぱり杏奈は杏奈だよな」というような穏やかな安心感に包まれるのである。
太陽に当たるのが嫌だという理由だけで体育をサボって学校をズル休みするような人間なら、主人公のためだけに「だって楽しそうだし~」というニヤニヤ笑いをするだけで、「一年間を棒に振る」という陳腐な慣用句現実から魔法の杖を作り出し、
自分と主人公だけの夢の世界を描き出すのは造作のないことなのである。こうして眠れる森の魔女は自分の罠で引っ掛けた王子様にベロチューをし束の間の眠りから目覚め、世界の混沌の海に王子様と一緒に乗りだしていくのでありました。
めでたし、めでたし。

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エロについて

今回のレビューでACとBCなる新しい指標(ってまぁクリック数を任意のところでチェックしてそこから分割計測やっただけなんだが)をやってみようと思ったのは、
某エロ助の某レビュアー(彼の身の安全のため名前は伏せる)の方からメールを頂き「最近某ゲームをやったんですが、CGがエロイのは良いとしても、後半のテキストがエロしーんのヤッツケな連続で酷いものでした」
といったようなまぁ雑談愚痴が書かれており、なるへそー、最近は取りあえずエロ回数が一定数ないとそれだけで叩かれるから、エロ回数を取りあえず増やしてみたけど、それとその他のシーンのバランスを取らないメーカーが増えてきたのかと思い、
そこらへんをわりと「客観的」に示す指標はないのかなーと思って、今回のACとBCを思いついたのである。要はあるシナリオのACからそのシナリオのエロしーんのクリック数の合計を弾けば、
後半のシナリオにおいてどれだけエロしーんで埋まっているのか、大まかなところはわかってしまうと言う三分クッキングなのである。お暇がある方は、上のクリック数を色々弄ってやってみると面白いかもよ。

さて、なんでそういう「エロしーんだけが連続で続くとやっつけ仕事に見えるのか」というと、それはまぁこの作品で言えば「愛シナリオ」を見れば一目瞭然だと思うけれども、
二回連続とか、あるいはシナリオ的な理由があって三回連続エッチシーンといった特殊なものなら良いとしても、代わり映えもしないエロしーんを連続で見させられ続けることほど「萎える」ものはないんである。
おそらく、この先にもそういう「後半のエロしーんがテキトーに詰め込んだって感じで萎えた」作品は増えてきて、ある種の「テンプレ化された悪口批評」の一部になる可能性は非常に高いが、
こういうエロしーんが「萎える」のはまず、ティンティンの回復力の問題とティンティンの攻撃力の問題があるわけである。例えば、ある人があるエロしーんで一回抜いたとしよう。

んで、その人がそこで一休憩いれるなりするか、それともそのまま続けるかは色々あると思うが、そのまま続けた場合には、少なくともまぁだいたい30分ぐらいは賢者タイムが続くわけで、
そういう時にエロしーんを見ても彼の下半身は黙秘権を行使するばかりではないか。むろん、彼が発情する否かは、彼の性癖やら彼の体調によっていろいろ変わってくるだろうが、
少なくとも「同じようなエロしーん」をあまりスパンをおかずに「連続で見せられた」場合には萎える可能性のほうが高いわけである。この点でエロゲの主人公とエロゲのユーザーを同一視してはいけない。
科学的に言っても、ある種の異常な興奮状態だとか(因みに、禁オナとかせーえきの量とかは再充填の時間とは関係ない)ある種の勃起薬(因みに、これを使えば何度でも勃起は可能だが、勃起時の気持ちよさは得られにくい)を使わない限り、
賢者タイム時から堅者タイム時への最短タイムはどの人も大して変わらないわけで、ユーザーが何度でも短い間に抜きまくったという話は、基本的に嘘っぱちが何らかの例外だと思ったほうがいい。
大半は一回抜いたあとは、それほど急に次のオナニーに入ろうとはしないものである。まぁ、僕はすん止めオナニースキルを持っているんで、ある程度は連続オナニーが可能であるが、それだってせいぜい3回ぐらいが限度であるし。

これを即物的な科学的観点じゃなくって、もっと「シナリオ」的な観点から見てみると、まぁ話を萌えゲー一般に限定するなら(他のジャンルには他のやり方があるだろうし)、基本的に萌えゲーのエロシーンの興奮は、
キャラに対する感情移入によって得られているところが多いので、それでヒロインと付き合って、まぁ最初の1~2回の間は「エッチやり放題やってしまいました」なノリでも、それはそれまでの禁欲からの開放ということで良いとしても、
そこから先もなんか好い加減にテキトーにエロを繰り返しているだけでは、ライターもしくはディレクタークラスでは「エロ回数を増やしたからエロ薄とか不満はないだろ」と思っていたとしても、
ユーザーのほうではその好い加減なエロの野放図な連続によって、物語とヒロインに対する興味を失って「萎えて」しまうというところが大きい。「お家に帰るまでが遠足です!」と小学生の先生は良く言ったものだが、
萌えゲにおけるエロも「エロしーんに入るまでがエロしーん」なのである。おやつは300円までですというルールも重要だ。何故なら1000円もお菓子を買ったところで単に途中で飽きて「お菓子って甘いだけだよね」と気づいてしまうからである。
また、そういうのは「あくまでエロだけの話であってシナリオ評価とは関係ない」というのも僕は間違いだとおもう。何故かエロゲは「遅れている」とか言いがちな人たちに限って、左記のようなことを言いたがる傾向が強いのが解せないのだが、
勿論僕は、エロしーんそのものに「人間の性がなんたらかんたら」みたいな60年代実存主義めいたカビ臭さが必要だとか、そういうものが存在するといいたいのではなく(まぁ、僕はそう言うカビ臭さも結構好きではあるが)、
単純にヒロインに萌えてそのエロしーんでオナニーしながらも物語を楽しむというのが端的なエロゲ享受の在り方のわけで、昔のような(その昔が良いか悪いかは別として)「物語(芸術)を読んでいる私」と「ポルノで興奮している私」というような、
賢者モードと堅者モードの二分法をもうけて作品を「芸術的に」云々したり「これはポルノだから」と云々するやり方は、少なくともエロゲに限ってはナンセンスであるというのが僕の立場である!……ってなんかすげぇ横道に入ってしまいましたねと。

そういう意味で「でも、これは悪いポルノだよなぁ」としか言えないのが「愛シナリオ」であり、その理由は今までさんざん述べてきたとおりに、ACとエロクリック数の合計を見ればわかるように、
下手くそなシリアス展開をやったあと、もの凄い勢いでエロしーんを「ノルマの回数」繰り返して、そしてそっこーでエンディングに入っているから、まぁ単なる「エロしーん入れとけば良いんだろコンチクチョー」って感じで萎え萎えなのだ。
しかも、何故かこういう時に限って「エロCG」だけは凄く良いんである。誰か「エロCGは凄く良いけど、エロテキストやエロシナリオがハクオロ級コンテスト」みたいなアンケートやってくれないかなぁ。
まぁそういうのは実際のサンプルCGとサンプルテキストがないと盛り上がらないから、著作権関係でアウトなんだろうけど、この愛のCGとそのシナリオのダメっぷりは結構イイ線いくと思うのだ。
らっこ氏のCGは最近流行のムッチリ感はどちらかと言えば薄めで、ふわふわして柔からめの手触りを感じるからだの輪郭と伏し目がちなエロ表情が絶妙にマッチしてよかったのだが、なんだかテキストとシナリオが中盤から後半にかけて
愛をスイーツちゃんにしているし、エロテキストの方もわりとイケイケに淫語とか強調しちゃうんで、あーあ、昔はあんなに大人しくて可愛いかったのに今は……という感じで個人的に萎え萎えでした。エロCGだけで一回抜いて終わりですよ。
そこまで悪くはなかったけれど、「胡桃」もそんなに良くなかったかな。胡桃もエロCGはちっぱいで大変よろしいんだけど、らっこ氏のような大人しめ方向のエロCGだと、青山ゆかり嬢をきゃーきゃー喘がせすぎるのはなんか違うんじゃないか?
と思ってしまうのだ。キャラ的にもエッチのときにもツンデレ解除しないキャラだから、なんだかエッチをしていると言うよりも、日常シーンの延長戦上でじゃれ合っているような感じがしてしまうのである。
もっと落ち着いた感じのエロシーンの流れにして、ゆかり嬢にあまりフォルテを要求させないで「そこはゆかり教育のノリでやって下さい!」をお願いすれば、らっこ氏のエロCGをもっと良く生かせたんじゃないか。

今回はらっこ氏の他に「桜はんぺん」氏がゲンガーを勤めていて、「朱音」と「ひな」の二人を手掛けているが、「さくらビットマップ」の頃の「ふーん、新人さんですかぁ」ぐらいの印象しか残さなかった頃に比べたら長足の進歩だとおもう。
まだ立ち絵はインパクトが薄いところがあり、ひなは表情の引き出しが少なくて単に「元気なキャラ」を「元気な立ち絵」単体でしか表現できないところがイマイチであるし、逆に朱音はキャラに対して表情とポーズが過剰な気がちょっとするけど、
エロCGは比較的フルボッキ(相対的ハンボッキとか絶対的カラボッキという表現もあるんでしょうか?)なものが多くて余は満足であった。なんだか少し笑ってしまったのが、朱音りょーちょーのエロCGの表情や全体の構図が、
妙にロリっぽいところが多かったところ。個人的には色気ムンムンお姉さんよりも、身体は大人でもこころはロリータなかわしまキャラが好きだったので、これは意外な収穫でよかった。
エロしーんの流れもどちらかと言えば、朱音りょーちょーがリードを握ろうとしても、結局は主人公が主導権を握ってしまうようなロリねぇ展開が多かったからね。年上スキーにはどうなのかちょっとよくわからないけど。
ひなのエロCGは流石ロリコンの(勝手に僕が決めつけているのではなくて北極星が彼は同士だとボクに告げているのだ)はんぺん氏らしく、わかっているねぇと思わせる表情や仕草が多くて大変ごちそうになりました。
個人的に壺だったのは、スク水を着てちっぱいが妙にとろんと強調されたひなが、無邪気な表情をしてお兄ちゃんと対面座位しているエロCGあんどエロしーんで、この無防備な表情と無防備な体型と、
ぴっちり締まったスク水のコンビネーションが、いったい全世界の数万にも及ぶ兄貴を正しすぎる道に追い込んだのかと思うのボクは今すぐレッツ背徳しなくては!と社会の窓をこじ開けたのであった。

杏奈みたいなキャラのエロしーんは結構むずかしいところがあって、こういうお道化調子のキャラは、勿論その調子でエロシーンに入ってしまったら、ある種のギャグシーンになってしまうのであるし、
かといって急に「しおらしく」なりすぎるのも、なんか不自然じゃねぇかと思ってしまうような難しい扱いである。いろいろと思い返してみたが、確かに僕はこの手のキャラのエロしーんであまり抜いた記憶がないのだ。
ただ、今回の杏奈は「お道化調子」ではあるものの、その「ニヤニヤ笑い」はシナリオのところで言ったように、何か隠しているとか、何か別のことを暗示しているわけではなくて、「ニヤニヤ楽しい」というものだから、
その「ニヤニヤ」はエロしーんからさほど遠くに離れたものではないのである。わかりやすい発想から言えば、なにかエロイことを考えてのニヤニヤ笑いから、主人公にエロイちょっかいをかけて挑発するときもあるけれども、
基本的にはフツーのといいますか、わりと真面目なラブラブムードからテレ隠し気味にニヤニヤしながらちゅーちゅーしっちゃったりもするわけで、そこで始めて意外に大きいおっぱいCGがふわりとひろがってたりすると僕はもう!
というわけで、エロCGもエロテキストの方も僕としては充分合格点を挙げたいところなのだが、それらのなかで一番よかったのはやはり「五行なずな」嬢のエロボイスだろう。こういうキャラのエロしーんの場合だと、
僕みたいな淫乱萌えオタは、ひとつひとつのエロしーんの台詞の微妙なニュアンスの移りかわりにハァハァしてしまうのだが(逆に、ひなのようなキャラの場合はテンポ良くキャーキャー喘いでいればいいのであるが)、
そういうところは流石に五行なずな嬢は上手い。日常シーンのニヤニヤ笑いのニュアンスが少しずつ羞恥心の色を染め出していくところなんざ、これこぞエロゲーでしか表現できないエロエロであると秋の夜長を嫋やかなエロボイスで耽るのだ。