打ち明けるだけでも救いなんだ。どうか、否定しないでほしい。
本作に対して感想を述べるのは、心苦しい。「分かった気になって」、「一歩引いた目線で」語る姿勢は、この作品に対して、誠実では無いように思える。しかし、一人の“精神的ダメージ”を受けた人間として、どうしても語りたい。なので、敢えて自分を主語にして語る。
私が、自身のトラウマを語る時、その姿勢に矛盾を感じる。
何故なら、簡単に分かってほしくなどないからだ。「あの時」の苦しみ、怒りは、その経験を直に味わった私にしか分かり得ないものだからだ。出来事それ自体は、「あの時」「あの場」に居た自分にしか経験できない。そして、「あの時」の心理は、私という唯一無二の人格・精神構造・人生経験を持った人間にしか、辿ることが出来ない。だから「分かった」なんて言ってもらっては困る。
整理して語る、ということなぞ出来やしないのに語ろうする、という点でも矛盾している。なぜなら、トラウマだから。二度と思い出したくない。意識から遠ざけたい。そんな体験を、伝えやすく整理するために、客観視して眺め回すことが出来るわけがない。今この会話の場で、急に、トラウマ体験を分かりやすく整理せよなんて、無茶言わないで欲しい。
…でも、どうして、語りたいと切実に思うのだろうか。分かり得ない、理解してほしくはない、伝えようもない、にもかかわらず、どうして表現を切望するのか。
…思うに、その理由は、その苦しみの存在だけでも、認知してほしいから。そこに救いを感じるから。もっと言えば…私という存在を、相手の意識に強烈に刻み込みたいから…壮絶な過去を伝えることは、何よりも、自分という人間を相手の脳裏に焼き付けるには持ってこいなのだ。
自分を認知してほしい、という欲求。うざったい、押し付けがましいと感じられても仕方がない。でも、この欲求自体は、唯一残された自己救済の術は、否定したくない。他人に対しても同じ。だから自分は、本作の作者に対して、何の批判もしたくない。“卑しい利己的行為”かもしれないが、これすら禁じてしまったら、私には何が残るというのか?
『 テスト、テスト。1、2、3。
というわけで、これが僕の告白だ。
これが僕の祈りだ。
僕の身の上話。無意味な言葉の羅列。
聞いてくれ。見てくれ。僕を忘れないでくれ。
最愛のどじ野郎。
できそこないのメシア。
恋人志願。神の御許に召されし魂。
僕はここに閉じこめられている。ノーズダイブに、僕の人生に、オーストラリア奥地の黄色い大地がみるみる迫るジェット旅客機のコクピットに。
変えたいのに変えられないものは数え切れないくらいある。』
(チャック・パラニューク『サバイバー』池田真紀子訳 ハヤカワ文庫)
和訳された本人インタビューから表現を借りております。以下リンク
https://note.com/fuglekongerige/n/n50dca45612fd