ドストエフスキー作『罪と罰』を意識しているのだろうか。プロットに於いても主題についても、本作はかの名作に近しい筋道を辿る。しかし作者瀬戸口は恐ろしいことに、主役に「子ども」を、物語の端緒に「虐待経験」を持ち込んでくる。罪なきはずの子どもが理不尽にも罪を背負い、それでも生きようとする、壮絶な物語。
(2021/08/14 長文感想を投稿し、それに合わせ一言感想を変更しました。)
ドストエフスキー作『罪と罰』を意識しているのだろうか。プロットに於いても主題についても、本作はかの名作に近しい筋道を辿る。しかし作者瀬戸口は恐ろしいことに、主役に「子ども」を、物語の端緒に「虐待経験」を持ち込んでくる。罪なきはずの子どもが理不尽にも罪を背負い、それでも生きようとする、壮絶な物語。
〇罪と罰の恣意性、翻弄されるしかない「子ども」
罪とは何か罰とは何か。誤解を恐れずに言えば、それは恣意的なものでしかない。そして本作は、虐待経験を背景に、その恣意性が「子ども」というか弱い存在を翻弄し抜く様を描く。
主人公の学は、一人親の苦悩と屈辱を子の存在の罪性へと転化する母から虐待を受ける。もう一人の主人公理紗は、家庭の崩壊を堰き止めるために父との肉体関係をも黙認し、虚偽にまみれた自分は「救われるべきではない」と思うほどの罪悪感を育む。それは間違っている、そんな罪は無い、と外野からは言えようが、彼らはまだ罪罰は所詮都合よく作り上げられるものでしかないことを知らない子どもなのだ。そして子どもにとって絶対的存在である親の言動・価値観は否定しようにも否定できない。
学は人格を分裂させてまで母を、絶対的存在であるが故に、愛そうと受け容れようとするが、耐えきることは出来なかった。遂にはもう一人の人格・武が母を殺してしまう。殺人は罪だ、というのは結局のところ社会のためのルール全体最適のためのルールに則った裁定に過ぎない。法を抜きにすれば、自身の安全生存を死守しようとしたこの行為が罪であると言えるだろうか。だが学は積極的に、必然のものとして、言い過ぎかもしれないが強迫的に、母殺しの罪を引き受ける。
欠陥だらけの人間が罪を見出し罰を下す、そんなどうしようもなく醜い人間世界。大抵の人は少しずつ悟っていく(はず)なのに、学と理紗は子どもでありながらそんな現実の中で生きなければならなかった。罪なんて罰なんて自分勝手なものだそれをまだ子どもだから知らないだけだ、と済ませるのは間違っていよう。むしろ本当に間違っているのはその開始地点、子どもであるにもかかわらずそんな過酷な現実から始めていかねばならないことである。
物語の形で解像度を増して描かれる児童虐待の凄惨な情景よりも一層、虐待児の壮絶な実存に、あり得るであろうこの陰惨な現実に、衝撃を受けた。「世界とは残酷で恐ろしいもの」と続編小説で学は書き記すが、ここまで残酷で恐ろしいのか。本作に触れてから、世の中の見方というものが変わった。
〇後付けでも理由を見つけて生きる
いずれにせよ、学と理紗は罪を抱えた。心には深すぎる傷を負い、もう頑張れない、もう生きていかれない。だが、しかし、生きていかねばならない。…瀬戸口とは、現在における生を、未来における死と同様に、逃れ得ない呪縛として描く作家だ。過酷極まりない現実でも生を選び取れと熱く語るのではなくて、辛くて仕方ないが生きる以外に選択肢は無いんだと諦念を込めて語りかける。
だから、いわばこの作品は、正解などないと分かっていながらも、生きる以外の選択肢は無いからせめて納得できる理由を後付けしようとする物語だ。何と切実なことか。「生きていて、いいの?」などという自問をする余裕など、もはや二人にはない。既に知っているからだ。その問いに答える神様などこの世界にはおらず、例え答えが見つかったとて何も変わらないということを。
学と理紗は、それぞれに「後付けの理由」を答える。それは学にとって、母殺しの罪と向き合いその苦しみを引き受けることであった。自身に都合の良いかたちで罪を擦り付け合い罰を下し合うそんな世界で、彼は自らの罪を定義し罰を引き受けようとする。何と倫理的な事だろうか。皆がそうでないから、彼は罪を背負ったというのに。
一方の理紗は、生きるとは幸福を追い求める行為であると定義し、「後付けの理由」とした。悲しいのは、ここにおいて幸福が手に入るか否かは問題でないと彼女が思い至っている点だ。純真さと引き換えに明晰な頭脳と徹底した疑心を手にした彼女は、幸福などただのガラクタ、馬の頭先に吊り下げられた絶対に手の届かないニンジンであることを見抜く。しかし、やはり生きねばならない。そこで彼女が「幸福を追う手段としての生には殉じられる」という苦しい結論を下す様に、壮絶な絶望と、消え去らないのが逆に悲しい未来への希望・生への執着が感じられ、心震えた。なんてものを描くのか。
〇ラストシーンとそのおぞましさについて
学と理紗が手を取り合い共に歩む姿で、この物語は締められる。人殺しという始まり方はおろかこの終わり方も『罪と罰』に酷似しているのだが、じゃあ二人の関係はラスコーリニコフとソーニャのそれか? と考えると、疑わしいとしか言えない。…そしてこれが、本作の最もおぞましい点である。
『罪と罰』は、ラスコーリニコフがソーニャの愛・救済により人間再生の道に着く瞬間をもって締められる。ソーニャもまた、ラスコーリニコフからの愛をしかと受け止めることで救済を与えられた、と言えよう。では学と理紗も、互いを救い合う関係にあると言えるだろうか。…いや、言い難い。続編小説で、二人の関係性は何も救うことなく限界を迎える様が描かれるのだが、本作内でもう既に、二人は空しい繋がりしか構築できないことが示されている。先達のレビュアーの、「二人の結末はもうここで示されているから続編小説は読む必要がない」という旨の投稿には始め疑問を抱いたが、こうして文章にしながら考察を進めると、確かにそうだと思えてきた。
(しかし、私は是非続編小説を読むことを勧めたい。確かに、その結末は示されている。しかし、分かっている未来を敢えて描く姿勢、終局までをキッチリ描く自作品の登場人物への誠実な態度、それだけでも読むに値するのではないだろうか。)
上述したように、学は自らの罪と向き合うことを、理紗は不確かでも幸福を追い求めることを、生きる「後付けの理由」とした。だが、これだけでは二人が手を取り合い共に歩むその理由にはならない。
『罪と罰』の比較のためよく引き合いに出される作品として柳美里の『ゴールドラッシュ』がある。ここでは、自らの罪を認める他者が傍に寄り添う、それだけでも確かな生きる拠り所となる様が描かれる。確かに、心許せる身近な存在がいる、というのはかなり重大だ。
だが、これ当てはめて『CARNIVAL』のラストを解釈しようとすると、ちょっと苦しい。学の生きる「後付けの理由」には、果たして理紗が傍にいることが不可欠なのか。母殺しの罪と向き合う時、彼に必要なのは罪の苦しみを癒してくれる身近な他者ではなく、罪の苦しみそれ自体ではないのか。それに、傍に理紗がいたとして、果たして彼の罪に対して何の助けが出来ようか…とも思う。
理紗についてはどうか。彼女は幸福とはガラクタ、届かないニンジンであると悟るが、その一方で、学と共に生きるのであればいつか幸福になれると信じる。徹底的疑心家で彼女でも、これだけは信じる。なので、厳密に言えば、理紗の「後付けの理由」とは「学くんと共に」という外せない注釈がついている。この注釈抜きではあの苦しい結論は出なかったのである。彼女にとって学は神様であり、唯一信じて頼れることの出来る存在なのである…理紗は学に全てを賭け全てを託す。
こう考えると、理紗については『ゴールドラッシュ』的解釈が綺麗に当てはまるのだが、重要なのは理紗のみに当てはまる、という点だ。本質的に言えば、学にとって理紗が傍にいることはさほど大切でない。一方の理紗は、学をひどく必要とする。彼がいなければ、ああまでして見つけた「後付けの理由」は成り立たない。もう一度、ゼロから作り上げねばならない。…この不均衡さが、清々しく見えるラストシーンには隠れている。もし、学が彼女の心境を、彼女の切実な思いを汲み取っていたのならば、話は全く異なる事だろう。でも、そうではなかった。現に、学は隣で眠る理紗を一度は置いて行こうとする。分かっていたら、そんなことをするであろうか。一方の理紗も、大きすぎる苦しみを引き受けようとする学に全てを託すことがどれだけ重荷で不安定なことなのか、分かっているのだろうか。
…つまり、学と理紗、彼らの思いは嚙み合っていないのだ。こんなにも二人は互いの苦悩絶望に触れたというのに、彼らはまだ、分かり合えていないのだ。理解するにはあまりに深すぎた。だから結局、彼らは互いを救い合えない。彼らが手を取り合い共に歩むのは、理紗がそう求めたからであり、それ以上の理由は無いのである。
ここまで苦悩絶望を子細に描きながら、助けてくれる神様など存在しないことはもとより、人ですら人を救い得ないのだと、何故ならそもそも相手の苦悩絶望の全てを理解することはできないからだと、本作は容赦のない丁寧さをもって描く。なんとおぞましい作品だろうか。
〇あとがき
後遺症が残るほどの衝撃を与える作品である。目を背けてきたものを見せられ、気付きたくない事実に気付かせる。ちゃんと味わおうとするなら、覚悟が必要になるだろう。何故なら、突き付けてくるものはフィクションだとして割り切れない、いや割り切ってはならない現実なのだから。
だが、読後には、何というか活力を得た感じがあった。作者はこんな物語を描いていながらも、決して、生を否定しない。むしろ全肯定する。何とかして生きよう、たとえ未来に何も救いがなかったとしても生きていこうとする学と理紗、二人の姿に強く心打たれた。
それに、「しかし、生きていかねばならない」という本作のメッセージ(恐らくこの一言で足りよう)、これには諦念がたっぷり詰まっているが、だからこそ優しく心に沁みる。
“暗い、重い、狂気といったネガティブなイメージが先に立つとは思いますが、その実はむしろ純粋で優しい物語だと私は感じました。”(Yam氏の同作長文感想より引用)
なるほど、確かに。