心揺さぶられる物語だ。だが、胃が痛む。※自分語り注意
なんで胃が痛くなるかというと、端的にいえば「ジュードって“おれら”と同じやん…」ってことだ。
だが安直に語る一般論は往々にして間違っているしそもそも良くない論じ方なので、ここでは“おれ”の話をしよう。
“おれ”がギャルゲーに手を伸ばすのは、現実での恋愛、広く言えば女の子と親しい関係になる、ということが出来ない…というのもあるが、それを面倒くさがっているからである。それは即ち、先にある結婚生活や家庭を持つこと、そして子を育て上げることからの逃避でもある。だが同時に、恋愛・結婚・子育てに対して興味深々、心の底では切望しているのも事実。この矛盾した心理の妥協点、鬱屈とした欲望の吐け口として、“おれ”はギャルゲーを、二次元でのシミュレートを求めるのだ。
最も、大抵の作品であれば、ここまで“おれ”は自意識的にはならない。主人公とヒロインの物語、それはどこまでいっても「お話」に過ぎない。自分とは関係がない。縁もゆかりもない。自己と切り離して捉えられる、だからこそ気持ちよく話に没入できる。
だが『終のステラ』はそうではなかった。この物語の筋書き…アンドロイドの“女の子”を自分の娘として見做し、愛して育て上げる…冷ややかに理解すれば、ジュードがやっているのは、シミュレーションだ。それも、“おれ”が逃げている最奥にして最上のもの、子育ての! 要するに、本作が与える体験は、自分が耽っているシミュレーションのシミュレーションであり、ジュードの言動行動が映すのは“おれ”の所業そのものだ。どうして自意識的にならずにいられようか(反語)。
他にも、この物語は“おれ”との共通点を突きつけてくる。ジュードは仕事人間だ。その背景には、単に文明遺物への興味だけではなく、他人に感謝されたい、自分の存在を認めてもらいたいという願望があった。この願望を叶える手段として、彼は運び屋という職業を“選択した”と言うが、じゃあ他の選択肢はあったのか…? 仕事とはとても都合の良い領域だ。他人なぞ興味ありません、食い扶持を稼ぐためだけにここにいますと他人にも自分にも示しながら、他人と共に行動し、他人に益を与えられる。しかし、恋人や家族を持つことを煩わしく思うのなら、他人との接点は唯一、仕事しか、残されない。そりゃあ“おれ”が仕事にのめり込むわけだ…何とも都合の良い話ではないか。
都合の良さ繋がりで(強引に)話を広げると、デリラとその運び屋の挿話に、苦々しい意味が浮かび上がってくる。死ぬまで家族愛に殉じたデリラに、運び屋からの虐待疑惑が浮上する。デリラが運び屋を父親として慕うその思いは、盲信と言わざるを得ないのではないか…? この疑念が、ジュードとフィリアの関係性を相対化する。親が子に温かく、子は親を純粋に慕う、そんな愛に満ち満ちた親子関係は絶対的ではない。親が子に冷たく、子は親を恐れ嫌う、そんな事があってもおかしくない…そうだ、フラフラと野人の集落に入り込むフィリアにジュードは優しく助け切ったが、彼の苛立ちは本物だった。反対に、冷たい本音をぶちまけるジュードに対してフィリアは銃口を向けたではないか。親と子の間で実際には生まれるであろう、憎悪の感情。だが、“おれ”がシミュレートして夢想するのは、心地の良い理想的な関係性だ。このどろどろとした現実をスッ飛ばし、都合良く甘い汁だけ啜ろうとしている…そうハッとさせられる。
個人的な解釈ではあるが、この物語、相当に毒を含んでいる。だが、良薬口に苦しとも言う。「次の世代へバトンを渡そうよ」、そんな前向きなメッセージを、まず始めに心地の良い孤独に籠り一人で完結せんとする“おれ”の在り様を暴き出してから伝えるのと、そうでないのとでは、鋭さが違う。コンパクトだが、上手く毒を混ぜ込んで切れ味のある作品に仕立て上げられている。流石ロミオ、と言ったところだ。
…だが『加奈~いもうと~』からの熱心なロミオファンには過ぎた薬効ではありませんかね。彼らって今40歳過ぎでしょう、孤独から抜け出して仕事一本になるのを止めて家族を築いてみては? と言われてももう遅い、もうどうしようもなく凝り固まってしまっている…おっとっと、良くない一般論、良くない一般論だ。
2023/3/25 追記
「フィリア」じゃなくて「ステラ」って書いてました…修正しました。