とても面白い。しかし、好きではない。 切り捨てるような評にすると、この物語は…人との繋がりを「持てる」者の、成金物語。…では、「持たざる」ものは、どうすればよい?
とかく読み応えのある作品だ。世界観として「経済」を据え置き、描く。こんな作品が面白くないわけがない。株取引、企業会計とその不正、不動産バブルとサブプライムローン問題。こういった、生活に密接している、いや生活そのものと言ってよいにもかかわらず理解を放棄しがちな「経済」の話を、物語のネタにしてしまえる作家というのは、とても貴重なのではないか。物語という枠組みによって、読者の心理的障壁は取り崩され、知らぬままにしていた世界にすんなりと触れることが出来る…そしてそこは、とても興味深い世界だった。しばらく乾いたままだった知的好奇心が満たされる、よい機会をこの作品は提供してくれたように思う。
しかし、本作は「経済」を描くことに終始しているわけではない。カネ(を稼ぐことについて)の話は往々にして独善的で鬱陶しいものだが、本作にはそういうところが無い。描くのはあくまで、「人間」…いかなる動機を持って、マネーゲームに参加するのか。野望、見栄、焦燥、不安、名誉の獲得、正義の達成…何であれ、“人間の意志”こそが経済の心臓だ。この物語において「経済」はあくまで舞台装置に過ぎない。ただ、そこに被写体を固定することで、本作はピタリと焦点を合わせた。
そして、経済という舞台に立つ人間を描くこの物語の、論理の拠って立つ軸、収束する先のメッセージとは…端的にいえば、「人との繋がり」を大切にせよ、ということではないだろうか。独善的になることへの警鐘、とも言い換えられよう。経済的な利害など関係なく、人を助け、支え、信じ、愛せ…それを拒絶したときには、取り返しのつかない喪失が待ち受ける。
己の利益のみを最大化しようとするエゴが向かう破局を、リーマンショックを翻案として描く…だがそれだけでは、血が通った、人間的な物語にはならない。必要なのは、人間それ自体を描くこと。そこで、主人公が辿った8年間が描かれる。独善的振舞いへの報い、その傷は、身近な人間からの愛ーーその呉れ手として、リサというキリスト者を据えているのが興味深いーーによって癒される。人間再生を経て彼は、自らも人との縁を守り、かつそれを支えにして贖罪の道を突き進む。本作はビルディングスロマンとしても、非常に丁寧に作られており、抜きん出て良質であると言えよう。成程確かに、ストーリーの要点を搔い摘めば、陳腐に見えるかも知れない。だが陳腐であるとは、繰り返して語るに足るほど、肝要な教示が含まれているということでもある。
しかし…ちょっと待ってほしい。私としては、この物語に、突っかかるところがある。
…この物語の論理が前提とする、「人との繋がり」は、果たして所与のものだろうか? この「繋がり」の獲得こそが、最も難しいのではないだろうか? ましてや、物語の舞台とした資本主義経済、新自由主義の下では、尚更…
この物語の出発点にも推進力にもなっているのは、リサの愛と慈しみだ。主人公を癒し、諭し、更生させ、ハッピーエンドへと導く。主人公が支えとした、人との間の繋がりも、彼女が提供する教会という場を起点として生まれ、育まれる。この物語は、彼女を要石として構築されていると言ってもよいだろう。だが、彼女のようなキリスト者は、彼女自身が自虐するように、弱肉強食イデオロギーの蔓延る資本主義経済世界では異端中の異端だ。そんな存在を、そう易々と、こんな世界に生きる人間たちの物語に要石として登場させてよいものだろうか…?
月面世界を覆っているはずの弱肉強食イデオロギーの不行き届きは、登場人物の配置だけでなく、彼らの心理描写にも言える。新自由主義が強要する自己責任の論理は、他者を助けないという態度を促すだけではない。他人に助けを求められない、求めてはいけないという内的な呪縛を掛ける…故に、人間はもっと深刻に孤独であるはずだ。あの月面世界では、自ら「人との繋がり」を求められないのだから。だが、この物語の大半は「繋がり」を獲得した後の展開を描いているのであって、最も困難な、「繋がろう」とする第一歩、内的呪縛との戦いは早送りにされているように思える…こちらの方が、よっぽど描く価値があると思うのだが。
リサは言う、「神様はいる」と。繋がろうとして、或いは繋がりを捨てまいとして、差し伸べられる手にその御姿を見たと。そのような神様が存在するということについては、信じよう。だがしかし…この神様が、自分の目前に、或いは自らの手に現れるとは、信じきれない。神様が自分に興味を持ってやってくるとは、自己責任論の内面化が既に始まっている自分には、信じきれない。だから、少なくとも今の自分にとって、この物語は「面白いが好きではない」という評価に落ち着く。
切り捨てるような評にすると、この物語は…人との繋がりを「持てる」者の、成金物語。 …では、「持たざる」ものは、どうすればよい?