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takaisoraさんのサノバウィッチの長文感想

ユーザー
takaisora
ゲーム
サノバウィッチ
ブランド
ゆずソフト
得点
85
参照数
2508

一言コメント

これはリスタートの大切さを知るためのゲームなんです! (加筆。qoobrandの『魔女こいにっき』のテーマを加味して、本作を再考察する。「『サノバウィッチは寝取られゲー』という批判」に対する批判を試みる)

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

このゲームのシナリオの狙いすらわかっていない輩が、『無駄なシリアス』などという、厚顔無恥なコメントをしていることが多々見られるので、ゆずソフトの名誉のために、本作の解説を試みます。

では早速、本作のテーマについて考えてみましょう。このゲーム内では、幾人かのキャラクターが様々な挑戦を試みます。それは、あこがれの先輩への告白であったり、惚れた先生への告白であったり、唐突な演奏会であったり、演奏会直前のボーカルヘルプ参加であったり……

これらの多くは、完全にはうまくいかないことを前提とした挑戦です。しかし本作は一貫して、失敗することを「悪いことだ」とは否定しません。本作はこれらをのシーン通して、「重要なのは、失敗しないこと、ではないのだ」ということを、繰り返しプレイヤーに強調しています。

では、我々にとって重要なことはなんなのでしょうか? プレイ後に振り返ってみると、寧々ルートが一旦終了した後に、これ見よがしにメニュー画面に表示された言葉が思い出されます。
「ああ、そうか。重要なのは、再スタートすることだったのか」と、最低限の理解力のあるプレイヤーは気づくでしょう。
こう考えると、実は物語内のアルプという存在も、人間としてやり直すことを目指しているという点で、本作が扱っているリスタートという概念そのものであるということにも気づきます。

自らの失敗をその辛さゆえに、消してしまいたいもの、今後あってはならないものと、私たちは否定的に解釈してしまいがちですが、その実、失敗したという事実やその辛さが、それだけ大きく自分を成長させていることを見落としている、ということを本作は気づかせてくれます。誰の中にも『取り消したい失敗』や『辛くて苦い過去』があり、それらを大なり小なり後悔しながら、自分で自分を責めながら生きていますが、それに対し、本作の「だけどその失敗のおかげで、成長した今のあなたがあるのでしょう? 失敗してもいいんです。私たちは再スタートできるのですから」という優しいメッセージは、自らの過ちを悔いながら生きている私(たち)にとって、あまりにも温かすぎた。

本作のシナリオが、個人の失敗を批判するのではなく、肯定的に認めてくれることにより、プレイヤーは自分の過去の失敗を受け入れられるようになるかもしれません。このゲームをプレイした上で、単にいちゃらぶゲーだと判断し、これほどまでに私たちの心を洗ってくれるメッセージに気づけないというのは、あまりにも不幸なことではないでしょうか。

最後に、作中の重要なセリフをいくつか引用して、結びとさせていただきます。
寧々「恋愛には、様々なトライ&エラーがつきものでしょうしね」
和奏「失敗はしょうがない。初心者だし。ただ問題は次からどうするかだと思うけど?」
和奏「重要なのは、ミスしても焦らないこと。そのミスを引きずらないこと。すぐに立て直すこと」
和奏「いや、だからってミスはしていいって物じゃないと思うから、練習は必要。でもミスひとつない完璧を目指すと、、本番でとてつもない失敗をしそうじゃない?」
七緒「悩みを経て成長することこそが、人の生というものだよ。君は今まさに生きている。存分に謳歌したまえ」
七緒「これからだよ。まだ何も始まっちゃいないじゃないか、気づいたばかりなんだ。すべてはこれからだ」




以下追記
tglさん、投票ありがとうございます! お礼を申し上げるのがこんなに遅くなって申し訳ありません!
あなたの投票のおかげで、私のレビューを読んでくださる人が増えたのだと確信しております。
お礼代わりにもなりませんが、レビューを加筆したのでよろしければご覧ください。

たとえば、自分が持っているゲームの続きを友人宅(パラレルワールド)でしようと思い、その際、やろうとしているソフトも、そのゲーム機も友人宅にある場合、どうするだろうか。普通はゲーム機やソフトを持参などせず、セーブデータが入ったメモリーカードのみを持っていけば、それで自分が今までやってきたゲームの続きができると判断するだろう。パラレルワールドの主人公も元の世界の主人公と同じ人間だと判断した人たちは、私が今述べたような単純な理屈を採用しているのではないだろうか? さらに言うと、友人宅にセーブデータのコピーを残しておけば、今後はメモリーカードを持っていく必要すらなくなる。その場合、自宅のゲーム機、ソフトが親などに没収され、メモリーカードが初期化されても、友人宅に行けば自分のやっていたゲームの続きがほぼ近い再現度で再開可能であろう。なお、ゲーム機とは主人公の人体を指し、ソフトとは主人公の精神、意識、自我などと呼ぶべきものを指している。要は、パラレルワールドにいる同じ肉体、同じ精神を持つ人間に、元の世界の記憶をぶち込めば、元の世界の主人公がパラレルワールドに復活すると考えられるのである。

あるいはより単純にこう考えればいいだろうか? 今回のケースは、「ドラえもんのどこでもドアで瞬間移動した際、移動前と移動後の存在は同じものであるといえるか?」という古典的な問題の変型版だとしよう。移動の直前に一瞬消滅し、移動直後に消える前と全く同じものが再現されるとしたら、それはどのように解釈できるだろうか? おそらく「それは実質的に同じものだ」という人たちと、「それは事実上別物だ」という人たちに分かれるだろう。もちろん、パラレルワールドの主人公は元の世界と同じ人物だと考える人(私を含む)は、前者の解釈をし、別人だと解釈する人は、後者の解釈をするだろう。どちらの解釈が正しいかという問題は私の手には負えないので、後者が絶対に間違っているとは言えない。しかし少なくとも、このように意見が分かれるだろう、という点については理解してもらいたい。
私の考えがどの程度正しいかはともかく、私はこのような理由で、パラレルワールドの主人公は元の世界の主人公と同じであると判断している。よって、寧々がパラレルワールドで全然別の人と恋愛を再開しているという批判は間違っているのではないか? とこの場で主張したい。

さて、前置きが長くなったが、もう一つの議題が本題である。寧々が別人と恋愛をしているという批判に対しては私なりの反論が可能であったが、元の世界の主人公はパラレルワールドの主人公に寧々を寝取られたのではないか? という主張に対するうまい反論は思い浮かばなかった。さっきの例でいえば、友達の家でゲームを再開できたとしても、本来は、自分の家にあり、思い入れのある自分のゲーム機、ソフトでゲームをする方が望ましくないか? 放置されたゲーム機たちはどうなるんだ? という主張は、それなりに説得力があるように思われる。しかしここできわめて重大な問題が浮かび上がってくる。それは、元の世界の主人公がヒロインと結ばれず、ヒロインはパラレルワールドの主人公と結ばれるのでは、元の世界の主人公が報われないじゃないか、という主張を受け入れた場合、我々エロゲプレイヤーは我々にとって、より不都合な事実を認めなければならない、というものだ。
ここで魔女こいにっきについて触れる。ストーリー自体は今は重要ではないので、この作品のテーマについてだけ解説するが、それすらいやだという人は、この場でブラウザバックを推奨する。

魔女こいにっきのテーマを大雑把に説明すると、こうだ。
「あなた方エロゲプレイヤーは主人公を介して、ヒロインとの恋愛物語を楽しみ、愛の言葉を伝えたり、あまつさえエロシーンを味わったりするが、その物語がエンディングを迎えると、あなたはヒロインの前から姿を消し、さっさと別のヒロインとの別の物語、別の世界へと消えていってしまうではないか。では、あなたがいなくなった物語世界に取り残されてしまったヒロインの気持ちはどうなるのか、考えたことはあるのか? ならばお前に対する、彼女たちの怨嗟の声を聞け」というのが、魔女こいにっきがクローズアップした内容である。しかしこういったヒロインの食い逃げは、魔女こいにっきに特有の問題ではなく、あらゆるマルチエンディングのエロゲ―に普遍的に存在する問題である(ヒロインの食い逃げは一つのゲーム内のみならず、プレイヤーにより、複数のエロゲにまたがってなされているという点は、魔女こいにっきでも指摘される)。
では、サノバウィッチに話をもどそう。我々エロゲプレイヤーは、本作においてどのようなことをしていただろうか? もちろん、今までと一緒である。共通ルート終了後、あるヒロインとの恋愛物語を楽しみ、それが終わったらさっさと別のヒロインの物語、いわゆるパラレルワールドへと移行し、前のヒロインとの恋愛は、忘れるなり、なかったことにするなり、あるいは、別の物語世界のことだから、と割り切った考えを持つなりしている。そして、前の物語で恋愛をしたヒロインが、次のヒロインとの物語で脇役として登場しても、プレイヤーは彼女に何の罪悪感も抱くことなく、主人公は涼しい顔して彼女と会話をする。
別にこれを悪いことだとは言わない。エロゲプレイヤーはみんなやっていることだし、メーカーも百も承知でゲームを作っている。

しかし、ここで一週目の寧々ルート終盤のことを思い出してみようか。彼女がやったことはなんであろうか。批判的な論者の意見は、こうだ。
「私は、あなたがいるこの世界から消えて、別の世界にいるあなたと恋愛をするつもりです。あなたは、私のことを忘れてください。いえ、きっと忘れることができるはずです(ちょっと寄○獣的な表現)」
これがどういうことか、お分かりいただけただろうか? そう、我々エロゲプレイヤーがいつもヒロインたちにしていることと同じなのである。いや、寧々は別の世界でも同じ相手と恋愛しようとしているが、我々は別の女性と恋愛しようとしている分、より悪質である。
我々はこれまで他のゲームでもこのようなことを何度も何度もやってきたし、これからも別のゲームで何度も何度もやっていくだろう。しかし本作は、普段我々がヒロインたちにしているこの仕打ちを、逆に主人公側が味わわされる形となっている。我々はいつもほかのヒロインとの恋愛を都合よく忘れているのに、たまたま一度自分が忘れられる側に回ったというだけで、この空間におけるサノバウィッチ批判者たちは、どのような反応をしているだろうか? いや、確認するのはよそう。

では、まとめに入ろう。サノバウィッチにおける元の世界の主人公の置いてきぼりや、寝取られ感という指摘を、私は否定することができない。しかし寧々の、「別の世界へ行き、前の世界の恋人のことを忘れ、別の世界の恋人との恋愛に興ずる」という行為は、我々が本作においてめぐるにも、紬にも、憧子にも、和奏にも、他のゲームのすべてのヒロインにも、幾度となく繰り返してきたことだ。そんな我々エロゲプレイヤーが、彼女のしたことに批判をする資格があるだろうか?
そんな資格はないと、私はここに断言する。
(本レビューに対するあらゆる意見を私は歓迎します。遠慮なくコメントしてください)