【21年9月 1周目プレイ後に初登録】醜い獣の生き方と、愚かな男の生き様について。これまでの国シリーズのなかでは1番ハマらなかった。 【22年8月追記】『大正決戦編』のために2周目プレイしたら評価が大きく変わりました。会話劇も情景描写もビジュアルノベルとしての演出も全てがとんでもないクオリティ。越冬編(明治)と星霜編(大正)という2つの時代に挟まれたユキカゼの不安定な自己をめぐるユキカゼのための物語であり、『星霜編』後に読み返すとユキカゼとハルカの関係をいったん描ききった「決別」のための話として涙を堪えきれない。
【1周目】
プレイ期間:2021年9月28-29日
合計プレイ時間:7時間10分
評価:79点
※以下、プレイ中のメモのコピペ。最後に感想あり
あ、年代飛んでないんだ
制作ブログを読んでからだと、よりいっそう、いかに立ち絵(表情、仕草、衣服、手持ち道具)の差分が多く、キャラが生き生きと動いているかがよくわかって驚く
商業作品でもここまで立ち絵が動くものは稀じゃないか。(『夏音』シリーズは結構動いてた気がする)
そういえば、"一回"の台詞(カギカッコ1組でくくられ、メッセージウィンドウ1つに収まる台詞文)でも、1クリックで全て表示されずに、途中でとまり、もう1クリックで続きが表示される……というような台詞もしばしばあるが、これもまた、ノベルゲームにおける文章のテンポ(音楽面)を良くするために練られているのだろうなぁ。ここにも注目しながら読み進めよう。
あと、これだけテンポを練っている作品だと、文章表示速度1つとっても作品受容に大きな影響が出ると思うのだけれど、そこはかなり自由に細かくこちらで変更できてしまっても良いのかと不安になる。
……まぁ、クリック間は1秒だろうが1分だろうがこちらの自由なのだから、そこまでセンシティブに考えなくてもいいんかもしれんけど。
表示速度やクリック間の秒数まで固定し始めたら、それこそ時間芸術のアニメや映画、そして音楽のほうへ接近することになる。
ノベルゲームという形式について、本シリーズをやりながら考えていきたい所存
・薩摩拵 ・・・「さつまごしらえ」?
そういやハヤ(ユキカゼ)って、ハルカと決闘しに旅立つまでは、特に何の目的もなく、フラフラと剣の道場破りなんかをしてテキトーに生きていたんだった。
(正直ハルカの行動の目的もよくわからないし)
あと化けっていつ自分が「消える」のかわかるの? ハルカも予想はしていても把握はしていないようだし、いつ消えるのか分からないのすげえ怖そう。寝て起きたら消えてるかもしれないじゃん。いや、何か使命を果たしたりビッグイベントを経ないと簡単には消えないのかな。ようわからん
化けだけじゃなく、ウルマとかの謎の存在も関わってくるのだろうか。急に現れて急に消えるのって似てるし
朱色の薩摩拵。こんな五木ってひと、越冬編に出てきたっけ? 会話はなんとなく覚えてるけど、立ち絵あったかな
羽州街道、狂乱の猪。確かに、そんな話があった気がする・・・
地図での説明がわかりやすい 湊(みなと)町、酒田かぁ。行ってみたい
あーそうか、東北って戊申戦争では幕臣(江戸幕府支持?)側だったのか。日本史なんも覚えてねえ
何者かになりたい若者ユキカゼ
まーた鞍馬か・・・
思えば、天狗の神通力の内容の設定はかなり絶妙ではないだろうか。強すぎず弱すぎず、チートすぎずしょぼすぎず……
ここで国外情勢まで絡んでくるとは。すげえな……
そういや沖縄まで第七収容所として世界設定に組み込まれていたのだったな。
海外にも天狗や化けはいるのだろうか
そうかぁ、化けは親もなく根無し草だからこそユキカゼは剣をアイデンティティとしたのか。ハルカもそれで寂しがり屋なのか。
親子の歴史性がない、というのは、歴史を扱い家父長制を描くこの物語にとってはかなり異色で、人間や天狗を相対化する位置づけにもなるかもしれない
ハルカの真似をして政治を論じるハヤかわいい
ハルカとハヤの関係がマジで良い・・・このツンデレコンビめが
確かに、姉妹のようでもあり師弟のようでもあり親子のようでもあり、かつ、それらのうちどれでもないような、かなり独特な関係。
そして意外にも五木が加わった3人組の関係もかなり面白い。五木が2人を「姉様方」と呼ぶのがいい。
ユキカゼなんて見た目的にも内面的にも五木よりだいぶ幼いのに。
ハルカとユキカゼの関係……お互いの呼び方にしたがえば、ゴジハヤ?? ロジハラみたいでやだな……
ハルユキだと味気ないというかそういう名前みたいで微妙だしなぁ
・最上川
1作に必ず1人はいるチビっ子だ!
五木さん32歳既婚子持ち(母子共にコレラで亡くなった)か……しかも九州の英彦への半年間の滞在経験もあり、すげえ面白いバックグラウンド
これは重要キャラ。なんか死にそうだけど
英彦でなんか天狗たちと色々あったから正直な報告書を書いたのかな。恋人とかじゃないだろうけど
俳諧! 冒頭のやつも五木さんの作だったのか?
ぜんぶドヤ顔で解説しちゃうハヤかわいい
そうか、ハルカがハヤに一緒に山籠りするよう誘った越冬編とは逆に、ハヤの猪退治にハルカが(勝手に)同行する構図になっているのか今回は。
大石田
スチルの絵がどんどん上手くなっている
ヒグマドン!? ヤバすぎ
ハルカは神通力の渡来でハヤの剣=鉄を遠隔操作している? この頃から神通力使えるのだろうか
なんか五木が怪しいんだよな〜〜 裏切っても驚かない
・雨中
清川口
生来的なものなんだ
神通力が通じない蛇の化けアカハギ……こいつがラスボスというか黒幕な感じはする。キリンの国の終盤にも何か出てきたような
成り行きで一緒に過ごした越冬編とは異なり、今回はハヤとハルカの関係を自覚的に探り、納得できるように構築していく……のが物語の骨子
アイデンティティ飢餓ってやつだな
しかも生まれが生まれなぶん、人間のそれとは次元が違う
ハヤは人間基準ではかなり子供っぽい性格だけれど、何歳なんだっけ?
五木さん女性人気高そう
カッコイイし弱さや可愛げもあるし。俳諧属性もいい
そんな必殺技もってたのか。そういや狐の幻術設定あったな
・小さき墓
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おわり!!!!!!
まじか〜これで終わりか。
うーん……これまでの国シリーズのなかでは、いちばん刺さらなかったかなぁ
五木良いキャラだとは思うけど、最後のとかは、ちょっとヒロイックすぎやしないだろうか。死に際のお涙頂戴回想パートとかすごくありがちなやつ。
いや、それが明治初期という激動の時代を生きる男──薩摩の剣士の生き様として清々しく徹底しているのはわかるけれど、自分好みではないかなぁ。
これまでの作品だったら、あの後に、五木の決死の行動や信条を相対化するようなパートが入っていたように思える。
この物語の大部分を占める「猪狩り」が、終盤のユキカゼや五木によって相対化される("あの猪は私だ")、という流れは非常に国シリーズらしくて良いのだけれど、そこからのもう一声が無かった。だからこそ「決別」であるのかもしれないけれど。
全体的に男男しいというか、血と汗に塗れていて、マッチョイズムが色濃く香っているのがあまり合わなかった。
それから、ユキカゼの言動にやや辟易してしまったのもある。
わたしは基本的に俺TUEEE系とか、有能すぎて周りから持ち上げられる主人公よりも、ダメダメで自分でもそれを分かって思い悩む主人公のほうが好みだ。
その線でいえば、今回のユキカゼは好みドンピシャであるはずだ。……しかし、それでも、ユキカゼの弱さや愚かさに多分に共感し、心動かされることもあれど、その一方で、いい加減学べよ、成長しろよと、自分がいちばん言われたくないことを思ってしまってもいた。その理由の1つには、ハルカが言うように、越冬編であれだけのことを通過したのに何も変わっていないのか、という前作への思い入れゆえの落胆はあると思う。
とはいえ、わたしはスタジオおま〜じゅとKAZUKIさんに完全に惚れ込んでしまっているし、今作でもハルカとハヤの面白い掛け合いがたくさん見れたので、楽しめなかったわけではない。
また、立ち絵の差分の細かさも本当に素晴らしく、何より、漫画のコマ割のようなスチルが大量にあり、戦闘パートはかなり臨場感があった。ここらへんがどんどん進化していて凄いと思った。(そもそもバトルモノ自体があまり好みではないというのも、今作があまりハマらなかった大きな理由ではあるのだが……)
さて、次はいよいよ大正編か……
かなり国の政情・社会状況も荒れてきているし、ハルカたち化けの立場も危うくなるなかで、一体どうなるんだろう・・・!
京都、あるいは鞍馬の天狗の国が舞台なのだろうか。それとも五木の故郷(の近く)、英彦??
ハルカとハヤは一緒にいてくれよ〜〜2人まで決別しちゃったら悲しい……
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【2周目】 2022年8月
8/8 2h20m 「雨中」のアイキャッチまで
8/9 2h40m 終わりまで
合計プレイ時間:5時間
評価:94点
8/8
猪との最初の邂逅、命からがら退避したところまで。
ユキカゼとハルカの関係が……良すぎる。やりとり、会話が面白すぎる。会話劇の魅力。(それでいて地の文、ユキカゼのモノローグや情景描写といった文章のレベルも桁違いに良い。)
ユキカゼ可愛すぎだしめっちゃ共感する。人間らしい化け。
そこに五木が絶妙なポジションで加わってくるものだから最高。五木がユキカゼたちを「姉様方」と呼ぶのすきすき。
星霜編への橋渡しとして、今作こそユキカゼとハルカの関係を(ひとまず)醸成させ描ききっているのだと2周目でわかった。1周目は五木や猪退治といった要素にばかり気を取られていた。
越冬編はユキカゼがハルカと出会い、一冬を共にすることで互いに掛け替えのない存在になるまでを描いた。
その続きの今作では、ハルカが自分にとって掛け替えのない存在になってしまったこと自体へのユキカゼの戸惑いと不安が根幹にある。かつて己自身であった「剣」よりもずっと、「御仁」のことが大切になっていると心の奥底ではわかっているからこそ、ハルカと勝負をした「そのあと」、自分のこれからの生き様について悩むことになる。なぜなら、「剣は己」「強さはわたしのもの」と言えるように、「ハルカ御仁は己」とか「御仁はわたしのもの」などとは言えないからだ。第一に、他者を己のアイデンティティとすることはできないし(他者への自分の想いについてならできるかもしれないが)、第二に、当のハルカは決してユキカゼという器に収まるほどに小さいものではなく、それをユキカゼ自身がもっとも切実に感じているからこそ、ハルカが掛け替えのないものになったのだから。
五木から猪退治を任されて、目標を失っていたユキカゼに暫定的な「生きる理由」ができた。しかしそれはもともと暫定的であることが約束されてもいるものだった。なにしろ早く狩らないと五木が猪か官に殺されてしまう。(剣を取り戻すためには「猪を狩る」だけでは不十分で、「猪狩りをしなくてはいけない五木を助ける」必要がある。そのため、五木を見殺しにして猪狩りにかんして悠長に構えるわけにはいかない。)
ユキカゼの焦りは、表面的には自分の剣を本当に取り戻すための戦いにハルカが出しゃばってくることへのいらだちだが、より本質的には、自分は(いま命を賭けて取り戻そうとしているはずの)剣よりもハルカ御仁と一緒にいることが大事であると気付いているにもかかわらず、そのことを認められないがゆえだろう。ユキカゼにとっては剣(=己)のための決死の勝負であるはずの猪討伐に、自分よりもハルカのほうが貢献しているというのは、ユキカゼの意識の底にある「剣<ハルカ」という不等式が現実に形を伴ってユキカゼの目の前に現れているようなものだから、戸惑い焦らないほうがおかしい。
そして、そんな2人を「姉様方」と呼び慕い、2人のやりとりをこっそりと聞いては和む五木の存在がまた絶妙すぎる……。ホタルのシーンの温かさと美しさよ。
自分の命より大事な荷のほうへと「賽を振る」あの男がユキカゼやハルカの目には奇異に見えているが、彼は星霜編でのユキカゼ、やっとう狐から生活狐へと転身したユキカゼの姿の暗示にも思える。物理的な身体、命よりも、社会へと広く根を張った経済的な身体(自己資産)のほうがより「命の実感」も「命の危機」も感じられるようになる、近代社会の小市民のアイデンティティ。(これは製作者ブログからの受け売り)
今作ではまだ、それが感じ取れない化けvs感じ取らざるをえない人間、という構図がかろうじて保たれているように描かれているが、いっぽうでは冒頭からずっとユキカゼ・ハルカの一行も「金をどう調達するか」で悩んでいるわけで、やはりこの決別編は、前近代社会の越冬編と近代社会の星霜編というふたつの時代をつなぐ過渡期、どちらの要素も併存しているから葛藤して不安定な自己となっている者/社会を描いているといえる。
そう思えば、前作、越冬編の最後に、祖母が死んで泣きじゃくる幼い梅にユキカゼが全財産の入った袋を投げて押し付けて去っているのもかなり象徴的だ。前近代社会の共同体(子供はその未来の象徴だ)へと、その時点での資本をすべて委譲/贈与することでユキカゼは「次」の先行きの見えない時代へと旅立つことになった(旅立つことができた)のだから。
また、そもそも羽州街道に出没する猪の化けを退治することが国/社会にとって必要急務なのも、酒田の湊との運搬網が使えないと経済的に大打撃を被ってしまうためである。人が直接何人も襲われて命を落とすよりも、社会の物流という拡張された〈身体〉にダメージがいくほうが致命的であるという倒錯が根底にある。
本作での印象的な脇役といえば、雪解けした川でふすまの障子を張り替える女やタニシ売りの童、それから父が猪に襲われて婚期を逃した気の強い百姓娘も忘れちゃいけない。特に雷雨のなか、おにぎりを4つも取って頬張りながら走ってくる百姓娘の毅然とした姿には心を打たれた。うまくいえないけど、彼女の立ち絵やスチルものすごく好き。(タニシ桶を覗き込む五木のスチルも大好き)
あとは、もちろん、ある意味で決別編いちばんの被害者にして哀れな存在である猪の化けと、ユキカゼ/ハルカたち化けの対比・共通点についても考えなければならないだろう。五木の思想と物語上での役割についても掘り下げなきゃだし、うわああん意外と短いなかでも要素が多いよぉ決別編は!!! でも楽しい。2周目ですごく評価が上がっている気がする。
8/9
おわり!!!
なんか半分以上の時間、クリックしながらずっと泣いていた。ボロ泣き。
ユキカゼの物語だった。ユキカゼと、ハルカの物語だった。ユキカゼとハルカと、五木のさんにんの物語だった。
『星霜編』でユキカゼのこの先の物語は描かれるけれど、ユキカゼとハルカの物語はいったんこれで描き切らなければならない。だから描き切っている。
猪との対決も、やはりユキカゼの心理の葛藤のためにあるようなものだ。弱くて情けなくて「なにもない」自分をようやく認められて安らかに死を受け入れようとするユキカゼの脳裏に浮かび上がってきた満開の桜、〈春〉という世界、その情景に、なんと言えばよいのだろうか。
そして殺めた猪の化けでさえもユキカゼの写し絵として本人に解釈されてゆく。血を流して絶命しながらも、激しき川の流れに逆らってなんとか岩にしがみついている猪。もはや感覚もなく、己が必死にしがみついているとも知らず、何のためにしがみついているのかすら分からずに、それでも全身全霊を賭けてしがみつく姿。それはユキカゼだけでなく、最後には五木の写し絵としてもリフレインされる。
猪を殺したユキカゼの首筋に貼り付いて血を吸う蛭。火で炙られて肉片となった蛭をユキカゼは右手で握りしめている。明らかに、ここでの蛭はユキカゼにとっての剣の代替物である。ユキカゼが手のひらのなかの蛭に自分を重ねて哀れむのは、それが「剣は己」と宣っていたかつての自分、本編を通してなかなか認められなかった、虚しく、すでに存在していない自分自身に他ならないからだ。
小さき者たちの墓。蛭の墓。すなわち、ここでユキカゼは蛭とともに、《剣》を、剣であった己を弔ったのである。
そもそも、明治時代が始まった『ハルカの国』冒頭の時点で、剣は時代遅れの武器であった。ユキカゼはそもそも明治の世にあって時代遅れのものに執着し、それにアイデンティティを、自分の全実存を仮託させる見苦しい存在だった。前近代的な共同体で一冬を過ごす『越冬編』では、ユキカゼのそんな矛盾はまだかろうじて暴露されなかった。しかし、ユキカゼはハルカと共に山から降りて盛岡に出て、本格的に明治の動乱を描く『決別編』が始まると、ユキカゼの不安定で時代遅れなアイデンティティがこれでもかと揺さぶられ傷つけられていく。ユキカゼ自身が己を信じられなくなっていく。いや、本当はとっくに信じられてなどいなかった事実に目を開かされていく。
しかし、剣に変わって近代化の象徴として戦いの主役に躍り出た銃火器という近代兵器も、明治政府による鞍馬の天狗の国討伐では、天狗の神通力の前に手も足も出なかったことは注目に値する。この描写によれば、天狗の神通力は《近代》すらも超越する──非歴史的な?──力であるということか。そもそも『天狗の国』シリーズは近代どころか現代の時系列から始まっており、現代社会における天狗の国、そして天狗の使う神通力の描写に分量を割いたのが第一作『みすずの国』である。
蛇の化けには神通力が通じないという設定も、アカハギ討伐の『決戦編』に臨むうえで重要だろう。
今回やり直して感じたのは、『決別編』のテーマは『みすずの国』とかなり似ているということ。「弱い自分を認めてあげる」こと。
自分の不甲斐なさに情けなくなって何度も泣きじゃくるユキカゼの姿は、神通力学の授業で落ちこぼれて1人で考え事をしていても「ごめんなさい」と口に出てしまう自分が情けなくなり涙を流すみすずを連想させる。というか、そもそも天狗の国シリーズ全体を通して、「情けない自分を許す」というのは何度も立ち現れる一貫したテーマだろう。
最後の彼の回想(夢)で気付いたが、五木視点に立てば、ほとんどハーレム状態であった。ハルカもユキカゼも、妻も娘も、タニシ売りの童も、餅を食う百姓娘たちも、餅を食う妹たちも……。
五木とはギャルゲ主人公の隠喩であり、『決別編』とはギャルゲ主人公が明治という時代のなかで〈国〉に夢を見て、夢の真相を知って、そして夢破れる物語であった。
五木の手紙を額面通り受け取って酒田へ赴くことを躊躇してユキカゼと話すハルカが「わたしはそんな冷たい女ではない!」と叫んだように、五木にしてもハルカにしてもそれ以外にしても、本作はかなりジェンダー論的にも掘り下げ甲斐がありそう。