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kazamiさんのAIRの長文感想

ユーザー
kazami
ゲーム
AIR
ブランド
Key
得点
99
参照数
0

一言コメント

『もし、自分にゲームを作れたなら、このような作品を作りたかった。詩や小説にも並ぶ“芸術作品”と呼ぶことのできる作品を』 今から十年前、そう願っていました。当時は私も若かった。ゲームクリエイターを目指す道もあったでしょう。しかし、それを選ばなかった。理由はいくつかありますが、この作品が私の作りたかった理想のゲームそのものであり、“私の夢は、違う人の手によって、もう叶えられてしまった”ので、目指すべき夢を失ってしまった、というのが大きかったのでしょう。 長い年月を経て、あえて今、筆を取ります。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

透き通った「鳥の詩」「夏影」の旋律と真夏の眩しさに包まれた画面は、今なお心を揺さぶるノスタルジーを惹き起こします。

萌えとか、燃えとか、エロとか、そういう次元ではなく、
これは純粋に“芸術作品”として鑑賞すべきものなのです。

美辞麗句を並べることに今さら意味はないので、私は違った切り口で語らせていただきたいと思います。

冒頭で触れたように、この「AIR」が発売された当時、私はこの作品に“芸術作品としてのゲームの完成形”を見ました。
その後に発売された「CLANNAD」をあえてプレイしていないのも、「AIR」でもうおなか一杯であったことがその理由です。

当時、この“芸術作品としてのゲームの完成形”を旗手として、“芸術作品としてのゲームの黎明の時代の到来”を疑っていませんでした。
ついに、ゲームが詩や小説と並ぶ芸術作品としての地位を得ることができる時代が来たのだ、と。

しかし、実際には、そんな時代は来ませんでした。

“所詮、ゲームはエンターテイメントでしかない”

この開き直りの元に量産されるヒット作たちの前に、“芸術作品”のフラグは根元からぽっきりと折られ、十年の歳月が過ぎ去りました。
言うなれば、“革命闘争に敗れた革命家”の心境でしょうか。(私は革命家ではありませんが。)

果たして、「AIR」とはなんだったのか。

後にも先にも、一度きり、“ゲーム芸術の黎明”という夢を見させてくれた、奇跡とでも呼ぶべきものであったのか。

それで、よいのだろうか。

後に続くものは、もう現れないのだろうか。

所詮、ゲームはエンターテイメントでしかないのか。

個人的な若き日の思い出とともに、そのような疑問ばかりが湧いてきてならないのです。


▼娯楽と芸術について(2010/9/5 追記)

いや、むしろ、感動し涙を流すことも娯楽の範疇であるならば。

感動し涙を流すと、気持ちが良い。それは一種の快感とも呼べるでしょう。

そうであるならば、感動系、泣きゲーと呼ばれるジャンルも、エンターテイメントの一形態に過ぎないのではないか。

こう考えると、最初に述べた、娯楽×芸術という二項対立は成立しない。
娯楽と芸術という二元論で語ること自体が、間違っているのかも知れませんね。
純文学もまた娯楽に過ぎず、純文学がライトノベルよりも高尚であるということもない。

そうすると、私が感じた“芸術”とは何だったのか。

文学とは何か、芸術とは何か。

その答えを出すことは、私にはまだ不可能ですね。



(2012/05/31 追記)

十年位ぶりに、AIRを紐解いてみようと思う。

失った青春の残影に恐怖しつつも、今ならば、当時は見えなかったものが見えるだろうと信じて。

まず、メッセージウインドウの文字数の少なさに驚かされる。
一行あたり22文字しかない。
フォントは大変大きく、30ptはあるだろうか。
自然、短いセンテンスをリズムよく刻んでいくことになる。
すなわち、詩のように。
以下引用。

「そう、あれは確かに夢だった。
 どこまでも、どこまでも高みへ。
 俺はその場所を目指していた。
 その先に何が待つのか。
 それを確かめるために、歩き続けている。
 陽光が揺らいだ。
 一羽の鳥がひるがえり、空を目指していた。
 その先はもう、まぶしくて見えない。
 今、目を閉じたなら、連れていってくれるだろうか。
 この翼のない肉体を地上に残して。
 俺は目を閉じてみた。」

これは詩だ。紛れもなく。

技巧を凝らした文章を読ませるシステマチックな作品ではない。
音楽と映像に詩を載せて体験させるリリカルな作品だ。
開始1分、そう感じた。

・インストール時の不具合

初回版をインストールする際、メモリ開放エラー、BGMが鳴らない等の不具合が発生した。
公式HP上で修正パッチが公開されており、再インストール後、修正パッチを適用したところ正常に動作した。
なお、インストール先のデフォルト指定はなぜか「C:\」直下になっている。

発売後の修正ファイル公開が半ば常態化してしまっている昨今であるが、このAIRでさえこのような不具合を持っていたというのは興味深い。

・視点は完全一人称

ぶっきらぼうで礼儀知らずな国崎のモノローグをメインに読むことになる。
発売当時、国崎の性格があまり好きではなかったことを思い出した。

だが、後半になると国崎の性格が変わってくる。
徐々に優しい言動をするようになる。
これが、長い旅路で擦り切れた国崎がヒロインたちとの交流により優しさを取り戻していく過程を描いているのだとすれば、確かにそれは成功している。

・画面は主人公目線で立ち絵を表示する恋愛アドベンチャー方式

ニヒルを気取った無愛想な主人公に付きまとう、明るく健気な美少女。
主人公から意地悪なことを言われても、決して怒ったりせず対応してくれる。
「ONE」の長森のことが真っ先に思い浮かぶ。
それは、“接待”的な旧来の恋愛アドベンチャー方式そのものだ。

ユーザは主人公と同一化し、可愛らしい美少女とイチャイチャする体験を味わう。
これは長らく恋愛アドベンチャーの最大目的であった。(現在も)

多方面から考察され尽くした話ではあるが、クライマックスにおいて、
このユーザ=主人公の図式にカウンターパンチを浴びせられることになる。
主人公への感情移入度が高ければ高いほど、無力感を味わわせられる。

思えば、「魔法少女まどか☆マギカ」が従来の萌えアニメに対するカウンターとして成功したように、
このAIRは従来の恋愛アドベンチャーに対するカウンターとして成功したのかもしれない。
外形としては完全に従来の方式を採用しながら、内容において真逆の効用を与えるという。

大きな違いとしては、AIRは『学園生活を描かない』ということ。

ほとんどの恋愛アドベンチャーは明るく楽しい学園生活をエンジョイする物語を描いている。
「Kanon」や「ONE」も例外ではない。
しかし、AIRにおいてはほとんど学園生活は描かれることはない。
旅人である主人公が旅先の田舎町で体験する物語を描くことに終始する。

恋愛アドベンチャーゲームから学園生活を取り除いたら、何が残るのか?
これも一つのカウンターと言えるのかもしれない。

・システム

主な設定は洒落たコンフィグ画面ではなく、右クリックのポップアップ方式。
四隅に小さなボタンのみが付いた極めてシンプルなメッセージウィンドウ。
セーブ&ロードは必要最小限の吉里吉里風システム。
オートモードさえ付いていない、極めてシンプルなシステム構成である。

・画面エフェクト

背景の美麗さは言わずもがな。
陽光の表現はスプライトを上から被せているだけ?
これも十分に綺麗であるが、現在であればより高度なやり方もあるように思える。

回想シーンも驚くほどシンプル。
背景なしの白・黒画面にメッセージウインドウのみ。
それがストンと腑に落ちる不思議。

それはクライマックスでの演出であっても同様。
画面エフェクトは「Fate」などとは比較にならないほど、シンプルそのものだ。
それでいて、説得力を持っている。

・制服のデザイン

黒を基調とした可愛らしい制服ではあるが、
当時もかなり違和感があった。今見てもかなり奇抜。特に胸元の十字架。
色々な信条の方がいるのであまり良いとは思わない。
ラストシーンとの関連で「神話」の象徴という見方もできなくもない。

・神尾家

ブラウン管テレビにちゃぶ台、黒電話。
完全に昭和の佇まいである。
ここでノスタルジーを喚起させるBGMが流れてくる。
古きよき田舎の郷愁。
これはAIRの持つ魅力の一つであろう。

・キャラクター造形

確かに、観鈴をはじめヒロインの行動には、年齢の割に幼い印象を受ける。
また、変な口ぐせや台詞回しもヘンテコな印象で、“変人”と言われても仕方ない。
しかし、中盤以降、徐々にヒロインたちが可愛らしく思えてくる。
佳乃は明るい元気っ子、美凪は母性本能溢れる寡黙っ子。
観鈴はちょっとおバカだけどお人好しで健気な優しい子。
要は“慣れ”である。

・日常描写

視点移動・時系列逆転等のレトリックは終盤を除きほとんどない。
時系列に沿って、朝、昼、晩の日常風景が描かれる。
季節は夏休み。
旅先の田舎町を主人公が散策し、観鈴の家や他の場所で昼食・夕食を食べる光景がメインになる。
率直に言えば、退屈である。
ただ、学園生活を描くことに終始する多くの恋愛アドベンチャーにも食傷気味という感覚からすれば、
背景の美麗さと音楽の流麗さもあって、田舎町の散策をメインとする進行はむしろ新鮮と言えなくもない。

つまり、“田舎トリップ系”の作品であると言えるだろう。
同様な田舎トリップ系の名作には「腐り姫」がある。

・学校への送り迎え

国崎が晴子から寝食の代価として言いつかった約束。
観鈴の学校への見送り。
どうしてそれが代価となり得るのか。
答えは中盤で判明した。
国崎が神尾家を出て行こうとするとき、見送りを不安がる観鈴。
冒頭から何度か描写があったように、おそらく観鈴は登校拒否一歩手前に近い状態なのだろう。
むろん、例の発作がそれに関係している。

登校拒否のヒロインなど、大多数の恋愛アドベンチャーでは前代未聞である。
「ONE」もそうであったように、“タブー”を扱っている。

ただ明るく可愛らしい、愛でる対象でしかないヒロインではなく、
それぞれの事情、いわば“闇の部分”を抱えた少女たち。
これはKey作品に共通している。
この要素は作品の魅力を支える柱の一つなのだろう。

・中盤

神尾家を出て行くか否かの選択後、個別ルートへ入る。

退屈な日常会話を続けながらも、その合間にシリアスな会話が混じるようになる。
これが大きなアクセントとして機能している。

次第に国崎の旅の目的――空の上の翼を持った少女の話が混じってくる。

彼は言動に似合わず、非常にセンチメンタリストだ。
彼のモノローグを通して語られる夕焼け空の情景描写と、遠い日になくしてしまった母親との幸せな記憶、旅を続ける目的。
思春期の懊悩を思わせるモノローグが多用される。

“セカイ系”という括りは私はあまり好きではないが、
確かにこれは、主人公の若き苦悩、心象風景をメインに据えた文章である。
技巧の緻密さはないが、若々しい感性を感じさせる文章である。

ちなみに、ギャグは寒い。
特に、麻枝氏が書いたのかどうかは分からないが、寒いオヤジギャグが何度も繰り返されるのは正直、キツかった。
ネタに困ったのは分かるが、それでもオヤジギャグは勘弁してほしいと思う。

・終盤

最後まで、『家族』というテーマを描ききった。

描かれる『家族』像は、いかにも理想的で幸福に満ちていて、見る人によっては白々しく映るだろう。
あまりにも綺麗過ぎるのだ。
だが、その日常が幸せであればあるほど、それを失った時の悲しみは増大する。
その意味で、綺麗過ぎるまでの幸せを描けるということは、その喪失による大いなる悲しみをも描けるということになる。

これは、残酷な闇を描くことにより希望の光を照らし出す、虚淵氏の物語手法とは真逆と言えるだろう。

この“幸福と悲哀の落差”を、残虐性を用いることなく実現する手法は、麻枝氏の真骨頂である。

手に汗握る活劇もなければ、伏線回収の妙も、ドラマティックな人間模様もない。
ただ、淡々と、変わりゆく日常を描いているだけだ。
それなのに、これだけの幸福と悲哀とを表現できる。
それは一つの才能だ。

――かけがえのない日常が、儚く消えゆくとき――

――すべてがこんなにも愛おしい――

分かっていても、涙腺が刺激される。琴線が叩かれる。

まず音楽の力。そして、淡々とした短いセンテンスの文章が、だからこそ心に響いてくる。


・美凪編

家出した美凪を実家に帰すのがグッドED、駆け落ちするのがバッドED。
当時はそれで納得していたが、今改めて考えれば、腑に落ちない面がある。

夢現編では勇気を出せなかった美凪を国崎が責めるシーンがある。
今は何が何でも家族の下にいることが幸せであるとは思わない。

どんなに辛くても家族を背負っていくのが現実であり、家庭から出ることは逃避でしかないというのは一面的な物言いだろう。
むしろ、虐待など不幸な家庭も多くある。
虐待されても逃げずに家庭に留まり続けることが正しいとは思わない。
主人公は彼女を連れ出してやるのが正解とも言える。

時間が解決してくれるのを待つしかないことだってたくさんあるだろう。
それはグッドかバッドかで言えばバッドな選択なのかもしれない。
しかし、それも一つの現実だ。

みちるとの別れのシーンは、分かっていても涙腺が刺激された。

分かっていても感動させられる。

これは、感動的な音楽と泣かせる台詞の相乗効果だ。


・佳乃編

心霊現象に取り付かれた少女とその姉の物語。

当時はほとんど読み流してしまったが、AIRの物語のテーマを示唆する意味で大きな役割を果たしている。

AIRのテーマは母子、それも、不幸な家庭の。

佳乃に取り付いた心霊(翼人の記憶の欠片)は、自分の子供を殺そうとする母親のそれ。
昨今の悲惨なニュースの数々が脳裏をよぎる。

当時の私には理解できなかったが、今なら理解できる。
この作品は、そのような社会問題に対する一つの答えであるということ。

佳乃ルートは一番、綺麗にまとまっている。夏らしい爽やかさを残す物語。
当時はあくまでオマケとしか思わなかったが、今ならこのシナリオの良さが分かる。


・SUMMER編

SUMMER編が一番好きだという人はかなりいる。

確かに、一番、エンターテイメントとして面白いのは事実だと思う。
萌え要素も高く、ライトノベルとして見た場合、一番面白いと思う。

この過去編の美しさを踏み台として、AIR編の説得力が増している。


・観鈴編

観鈴は孤独だった。
産みの親からは育児放棄され晴子に預けられ、例の発作のせいで学校では孤立していた。
晴子は観鈴を愛していたが、必要以上の干渉は自粛していた。

国崎も孤独だった。
産みの親は彼を寺に預け、失踪した。
育ての親と死別した後は、ずっと一人で旅を続けていた。

観鈴の部屋のCGを見た瞬間、記憶のイメージがフラッシュバックした。

あの、古臭い部屋で、暗い部屋の中で、悲劇が起きる。
私はトラウマを植え付けられる――。その陰惨なイメージが流れ込んできた。

海へ行く約束、薄暗い部屋、弱っていく観鈴、何もできない自分……。

観鈴の台詞一つ一つに、涙腺が刺激される。
言葉と音楽、物語だけで、泣かせられる。
そして、分かった。
樋上氏の原画は確かに萌えとは程遠いが、この絵でなきゃダメなのだ。
これで今流行の萌え絵だったら確実に雰囲気が壊れる。

外は燦々と光に満ちた夏空だというのに、
狭い薄暗い部屋に二人きり閉じ篭って、
陰鬱とした会話を繰り返し、
やがて終焉を迎える――。

このイメージの陰惨さは、鬱ゲーと言っても良い。
SUMMER編の間奏曲を入れた後、AIR編の救済がもたらされる。

前半の明るさと後半の暗さの対比。
置かれた状況が悲惨であれば悲惨であるほど、絶望的であれば絶望的であるほど、救済された瞬間のカタルシスが増幅される。
古典的であっても最も効果の高い構成と言える。

役者を揃え、舞台を整え、最高潮に盛り上がったところで、場面転換、過去からの因縁を明らかにし、その上で、ラストシーンを描く。
この構成は、虚淵作品を始め、他の名作にも通じる。

ここで、AIRの大きな特徴は、「助けようとする主人公も死ぬ」ことである。

通常の作品であれば、「主人公がヒロインを救う」ことでカタルシスを得る。
しかし、ここでは結局、主人公も死に、ヒロインも死ぬ。
AIR編ではこれでもかと無力感を味わわされる。
これは本当の意味の悲劇だ。
ただし、その死に意味を持たせている。主人公もヒロインも、決して無駄死にではない。

圧倒的な悲しみと、死への悼みと、少しの救済。
これが、AIRのラストである。


・AIR編

観鈴編のラストで、国崎はこう願った。

――観鈴と出会った頃に戻って、もう一度、観鈴のそばに――

そして、彼は時間を遡った。肉体を失う代わりに。
この願いは某作品にも通じる。

ここからのAIR編が圧巻。
画面の上下に黒帯が入り映画仕様となる。

これまでの物語を観鈴視点で辿り直す。
自然と観鈴を応援する気持ちが湧いてくる。

プレイヤーは、万感の思いを抱きながらも、あくまで傍観者として、ヒロインを見守るしかない。
この無力感と切なさは、他に類を見ない。


・ラスト

――晴子おばさんの子育て奮闘記。

AIRのテーマは家族、それも、母子。

確かに、“ままごと”感は拭えない。
鼻に付く“偽善”臭さに嫌悪感を示す人がいるのも理解できる。
家族は何よりも大事という保守的な家族観に、家族関係で苦労している人は反発を覚えるかもしれない。
自分の思い通りの生き方を選ばない子供に対し無理解な親を知っている。
私もどちらかと言えば“家族よりも大事なものはある”という考え方である。

それでも、感動した。

十年前、私があそこまで心底、感動した理由が分かった。

――私は、若かったのだ。

親と離れて暮らし、疎遠になりながらも、やはり、心のどこかで“暖かな家庭”への憧憬が燻っていた。
そこに、この作品は火を付けたのだ。

――ほんとうは、家族のぬくもりが、ほしいんだよね。

そう語りかけられたのだ。
若かったと思う。感受性も強かった。だから、あそこまで感銘を受けた。
神話でも何でもない。
ただ、自分の置かれた境遇に作品が訴えかけるテーマが共鳴したのだ。

歳を経て、それもまた幻想に過ぎないことが分かった。

親を支えるのが子供の役目だ、と決意したこともあった。
しかし、それにも挫折し、自分が生き延びるだけで精一杯な時期もあった。
親に助けられたこともあった。
役所に助けられたこともあった。
結局は、自分を助けられるのは自分しかいないのだと悟った。

そこまで一周してから、改めてAIRを見ると、確かに、“ままごと”に見える。

「家族は大事だよね」と語りかけられただけで感銘を受けた私も、
「でもそれが全てじゃないよね」と冷めた目で見ている今の私がいる。

――AIRとは、つまり、自分が“その時期”にいる時だけ、魂を揺さぶるほどの感動を呼び起こされる現象だったのだ。

しかし、それでこの作品の価値が貶められるものではない。

確かに、“ままごと”かもしれない。でも、それはきっと、幸福な幻想だ。

確かに、幻想かもしれない。でも、それはきっと、人を幸せにする。

――人を感動させ、涙を流させる。

私は、そう思える。
 

・なぜ十年前ほどの感動を得られなかったのか

私が大人になったから、と言ってしまえばそれまでだが、それも完全な答えではない。

当時は、作品の主張の全てを素直に受け入れていた。
だから全てを感じ取ることができた。

今は、保守的な家族観だの何だのという理屈が先に立ってしまう。

つまり、頭で理解しようとするせいで、心で感じることができなくなった。

これが実際の状況だと思う。
これは詩人としては致命的だ。詩人を辞めなければならない。

――頭で理解するのではなく、心で感じる。

今から十年後、私は、もう一度、それができるようになっているだろうか。

もしそうでなかったら、ただの一般人になってしまっているだろう。



('10 5/11 追記)

「AIR」で人生を狂わされた人、結構いそうですね。
私もその一人です。
シナリオ的にはありきたりなんですよね。『童話的なファンタジー』の要素が強いので合わない人は合わないでしょう。
それでも、演出と音楽だけは最高峰。
“詩”的な作品と言っても良いと思う。
『とにかくセンスの感じられる演出がすべてだ』という私にとっては金字塔ですね。
私は、まだ諦めていません。「AIR」を超える作品を探し求めることを。
台詞で表現すると、こうです。

「すごい! こんなに芸術的なゲームは初めてだ! これが僕が探し求めていたゲームなんだ!
他にはないのかな? もっとこの感動を味わわせて!
あれっ、これは違う! これも素晴らしいんだけど、でもちょっと違う!
どこかにないの? ねぇ、どこかにないの!? ねぇ、ないの!?
……もう、10年経っちゃったよ……でも、僕は諦めない。諦めたくないんだ!
お願いだよ、もう一度だけでいい。もう一度、あの感動を味わわせて……!」

――なるほど。これがペルセウス座流星群の夜に出会った少年との天文学的な偶然の再会を、
信じて待ち続ける七瀬優の心境なのですね。



 あの日、確かに感じていた
 あの日、確かに目の前にあった
 手を伸ばせば届く所にあった
 それは“えいえん”とか“芸術”とか呼ばれるものだ
 あの日、確かに俺は、それに触れることができていたんだ
 今はもう、どこかへ行ってしまった
 それからもう10年になる
 いまだに俺は、あの日、確かに目の前にあった“それ”を追い求め続けている
 たぶん、一生、求め続けるのだろう
 それが、あの日、俺にかけられた“呪い”なのだ
 この“呪い”を解く方法はただ一つ
 あの日、確かに目の前にあった“それ”と再び出会うこと
 今度こそ、掴んで離さないこと
 そうして初めて、俺はあの日の“呪い”から解き放たれることができるだろう



('10 5/13 追記)


詩・小説を書く
絵を描く
音楽を作る
これらは芸術と呼ばれるものです。
それを行う時、心を深くして“自分の内から湧き上がってくるもの”に耳を傾けます。
そして、その“自分の内から湧き上がってくるもの”を形にして完成させたものが芸術作品となる。
この“自分の内から湧き上がってくるもの”を、感性と呼ぶのかもしれません。

畢竟、芸術作品というものは、『感性の結晶』と呼べるのかもしれません。
つまり、私はAIRに『感性の結晶』を見たのではないか。

このAIRに込められていたものは感性。
とりわけ、一人の少女の死への悲しみ、肉親を失うことへの悲痛、
少女の幸せを願う、祈り。

思わず掌を合わせて祈りを捧げたくなるような気持ち。

……言葉にすることが憚れるのですが、これは……。

これは……ジーザスそのものですね。

観鈴の制服の胸に付いている十字架……。

……なんてことはない、文字通りの『神話』だったのですね。
もちろん、それを意識して作られたのかどうかは分かりませんが。
神話であれば、10年前の私が凄まじい衝撃を受けたのも頷けます。

いや、でも、今日、思い至ったこれはあくまで一面であって、
これがAIRの全てを規定しているとは思わないですし、思いたくもないですね。
(夏影や画面から伝わってくるノスタルジーはそれとは無関係ですし)

むしろ、神話に限らず、古来より作られてきた無数の物語、無数の悲劇において用いられてきた、普遍的なモチーフと呼べるものなのかもしれない。

10年前は、このような“穿った見方”などできず、ただただ作品から受ける衝撃にひれ伏すしかなかったのですが、私も少しは進歩したということなんでしょうかね(笑)


('10 7/2 追記)

――思い出しました。

私は、Keyに、スタジオジブリになって欲しかった。

アニメの価値を社会一般に認めさせたスタジオジブリ。
それと同じようにして、ゲームの価値を一般に認めさせて欲しかった。

……何故、アニメに出来て、ゲームに出来ないのだろう。

こんなにも、アニメ以上に、魂を揺さぶる、芸術的な作品があるというのに。
 
 

(2010/07/14 追記)

10年前、私が感じた“何か”。
“永遠”とか“芸術”とか呼ばれるもの。
確かに“それ”が、合理的にはあり得ないことだが、実在として目の前にあるように感じられた。
自分の命と引き換えにしても良いとさえ思えたし、自分はもうこれで死んでも良いとさえ思えた。
それはある意味、霊的体験と呼んでも良いかもしれない。

今考えるに、私は“自分の魂”を見たのではないだろうか。
「AIR」を作ったのは私ではないけれども、それは私の作りたかった理想のゲームであり、“私の魂”の全てがそこにあった。
しかも、私が将来的に実現しえると考えられる水準を遥かに超越した完成度で。
だから、もう私のやるべきことはない。もうこれで死んでも良い、と思えたのではないか。

私が、「AIR」に、“自分の魂”を見たのであれば、
新たに、自分の手で作品を作ることは、理に適っている。
自分の手で作品を作り、“自分の魂”をそこに籠めれば良いのだから。
ただ……、それでは駄目かも知れないと思えるのは、なぜだろうか。
そう、自分の作品に“自分の魂”の全てを籠めるということが、いかに難しいのか。
きっと、奇跡に近いようなものだろうから。

そのような奇跡に縋ってまで、“自分の魂”との再度の邂逅を求めるよりは、
「AIR」だけで満足していた方が賢明なのかも知れない。
未来永劫、この作品のみが“私の魂”である。
誰が何と言おうと、一片の瑕も付けられることは無い。
そう宣言し、あとは普通に生きていくべきなのかもしれない。

ただ、やはり、一度、魅入られたからには。
“呪い”をかけられてしまったからには、逃れることはできないのだろう。