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kazamiさんのForestの長文感想

ユーザー
kazami
ゲーム
Forest
ブランド
Liar-soft(ビジネスパートナー)
得点
99
参照数
0

一言コメント

まさに大人の為の童話。 グリム童話の白雪姫では最後に王妃は焼けた靴を履かされ踊り殺され、赤ずきんは狼に食い殺される。そのような“グロテスクな中身をメタファーに包んだ、いわば毒入りの砂糖菓子”といった残酷童話。いかにも文学に本気で傾倒した事のある人が好みそうな作品。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

――そして、文学とは何か? を問いかける意欲作。

これは、やばいです。
昔、初めて「銀色」をプレイした時と同じような戦慄を覚えました。
“見てはいけないものを見てしまった”あの感覚です。
“見てはいけないと感じながらも、先を読みたくて時間を忘れて没頭してしまう”あの感覚です。

むろん、万人に勧めることはできません。
音楽、声、CG、シナリオ、演出、どれもがハイクオリティですが、一般的なゲームの記号論すなわち、萌えや燃えなどからは全く逸脱していますので、人によっては地雷認定される可能性が高いです。

退廃の象徴としての新宿。そこに生きる破滅的な登場人物たち。
それと対照的に、純真無垢な児童文学の世界、そして、永遠の少女アリス。
新宿と児童文学、風俗嬢とアリス、昼の世界と夜の世界。
つまる所、大人と子供の対比。
人生というものは常に危ういギリギリのバランスで成り立っていて、そこから一歩足を踏み外せば、果てなき闇の世界、人生の破滅、というリアルな緊張感が伝わってきます。

私は、「AIR」を“芸術作品としてのゲームの完成形”と考えていますが、
本気で“芸術”を突き詰めようとすると、この作品のようなものが出来上がる、ということがよく分かりました。
絵画にせよ、小説にせよ、真に“芸術”なるものは、一般人からは理解されないものであるというようなことを、この作品に触れて改めて考えさせられました。

(2011/04/27 追記)

しかし、芸術的であるからこそ大ヒットした作品もあります。
「AIR」しかり、「まどか☆マギカ」しかり。

なぜ、彼らが大ヒットして、Forestが知る人ぞ知る存在に甘んじているのか。
なぜ、ゴッホの絵画は全く売れず、ピカソは売れたのか。
そこに、芸術なるものの大いなる秘密が隠されているような気がします。

たとえるならば、Forestは老舗料亭の会席料理。
ラーメン屋で出されても、ラーメンを食べにきた客たちは見向きもしない。
しかし、ひとたび場所を変え、瀟洒な料亭の座敷で食通たちの前に出されたならば、それは至高の高級料理となる。

そう、会席料理には料亭という入れ物が必要です。
つまり、難解な芸術を一般人にも理解できるように変換する『パッケージ』。

毒入りだと気付かせないための砂糖菓子のピンクを散りばめたラッピングーー。

もし、いつか、Forestのような作品が大ヒットする日が来たならば……。
その時代こそルネサンスと呼べるでしょう。

それはそう遠くはないと、確信している――。
 

製作陣に敬意を表したい。
 

――いや、むしろ、この作品は、感動系と呼ばれる作品、つまり、「AIR」への挑戦状なのかもしれない。

「人の死を描くことによって、感動を呼び起こす行為への、否定」

我ながら、この作品と出会えたことは、奇跡じみた幸運ですね。
心の底から面白い。
 
 
(以下、加筆)
 
 
「AIR」を始めとする感動系もしくは泣きゲーと呼ばれる作品に対しては、拒絶反応を示す向きもかなり多くあります。
そこには複数の要因があると思われますが、
“無理矢理にでも『読者を泣かせよう』という製作者の意図が透けて見えてしまうせいで、純粋に涙腺を緩めることができない”
という面があるのではないかと思います。
(映画で言えば、「世界の中心で愛をさけぶ」が賛否両論であることが顕著な例ですね。私は普通に泣けましたけれども)
むろん、製作者は普通に作品を作っているだけであり、そのような“押し付け”を意図しているわけでは必ずしもないでしょうが、そう感じてしまう向きも一部にあるということは考慮すべきだとは思います。

ただ、人の死を描くことでしか、人は“永遠”へと近づくことはできない、ということも真理ではないかと思います。
死は、あらゆる人に等しく訪れるものであり、どんなに深く愛した人であっても、必ず離別の時が訪れるということを意味しています。
人の死は、最も直接的に“万物流転”を証明し、“永遠”を否定する最大の根拠として明示されます。
それゆえに、古来より無数の名作と呼ばれる物語において人の死が描かれてきました。
その意味では、死を描くことそれ自体はむしろ物語としてはありきたりであるとも言えます。
ただし、人の死をも『記号化』してしまい、商業的なエンターテイメントに組み込むというようなことについては、よく考えるべきかもしれませんね。

『 ※ここでヒロイン死亡 (ここで読者を泣かせる) 』

などといった具合のやり方です。
もし、物語の登場人物に“意思”があり、もしこの世界が無限に繰り返すと仮定した場合において登場人物に“生命”がある可能性を想定したならば、
上記のようなシナリオライターによる登場人物の死亡の規定は、つまる所、“作者による登場人物の殺人”とも言えるのではないか。
このような考えを、本作の中で見受けることができます。
とても考えさせられますね。

(本作において宗教に言及されることの意味をそこに見出すこともできます)
 

 
 ※以下、完全にネタバレ注意※
 ※必ずプレイしてから読んでください※
  

 
 
 
 
 

 





 






















 ※以下、完全にネタバレ注意※
 ※必ずプレイしてから読んでください※
  
 
様々な解釈ができる作品です。
私の思い付きとしては、灰流の物語落ちです。
つまり、雨森の死と灰流の放浪は事実で、断章で語られる事件は事実。
その後の数十年間、灰流は気の狂うような生活の中で雨森のことを想って物語(詩)を書き続け、それを刈谷に託した後、力尽きた。エピローグは刈谷の手によって活字となったその物語、あるいは、可能性としての新しい世界であり、雨森の物語が新たに記されたことで灰流の罪は救済される。

つまり、この物語は……、一生をかけても償えない罪を犯した灰流が、数十年をかけて彼の中で雨森の欠片を拾い集め、失われてしまった彼女の世界、すなわち、彼女が作ろうとしていた物語を完成させることで罪を償うまでの軌跡。(物語を進める選択画面における「葉っぱ」は灰流の中の雨森の欠片。最後に芽吹くそれが雨森の欠片を集め終えたことを表している。そして、エピローグの前に「むかしむかし、あるところに――」という“物語の始まりを告げる常套句”が置かれていることは、エピローグの前と後とで、一つの物語が終わり、新たな物語(新しい世界)が始まったことを意味する。)

自分の世界に籠もりがちな雨森が現実と対峙するまでの成長を描いた物語という体裁の下で、
実は、雨森の死は事実であり、本編は灰流の頭の中の世界、という残酷な毒が仕込まれている。
人間はそう簡単に変わることができるものじゃない。
変わったのは、灰流の方。
「永遠なんてない」とうそぶいていた彼が、唯一、雨森への想いだけは断ち切れず、半生を死んだ彼女に捧げた。
エピローグはあまりに“理想的”で、現実感がないが、最期まで諦めなかった灰流への作者からのご褒美と言える。
(本来、雨森の死によって完結していたはずの物語が、灰流の想いによって作者が動かされて修正され、理想的な世界になった。そして、それは、灰流が嫌っていたはずの、極めてご都合主義的な“奇跡”に他ならない。)

もし、この世界が無限に繰り返すものであると仮定するならば、全ての想像できる事はいつか幾度目かの世界で現実となる。
という解釈の一つです。
我ながら残酷な解釈ですね。
 
 
――人の作る物語は、ただの妄想ではなく、そこには生命が宿る。

想像が現実を凌駕する。その最も明示的な例が、想像妊娠――。
 
 
 
※余談

登場人物の名前の由来に付いては諸説ありますが、思い付いたので少々。
雨森の名前の由来は、フランス映画の「アメリ」から来ているのかもしれないと。
「アメリ」は妄想癖のある女の子が紆余曲折を経て、現実と対峙するまでを描いた作品です。
あくまで思い付きまでに。

(以下、考察)

▼宮乃伽子の実在について

宮乃伽子実在説を否定する材料が、
『Ⅶ たからもの』での都知事の言葉の中にあります。

「あんたは宮乃伽子! 人形だ! 森が造った!」
「宮乃伽子なんて、はじめからいなかった」

(伽子は雨森が想像妊娠で産み落とした存在であると同時に、想像の世界の象徴たる“森”から分化した存在。自由意思あるキャラクターである以上、その意思が時に“森”から逸脱する場合もある。つまり、リアルの世界(過去)と想像の世界(森)との狭間を越える“鍵”となっているのが、伽子(アリス)という存在。
“伽子は死んで、アリスになる”という役割を、森から与えられており、それによって一度は死んだが、灰流が雨森の欠片を全て集め、新たな物語(新しい世界)が始まることによって、“本当の存在”を手に入れることができた。つまり、この物語は“森に囚われた伽子を取り戻す物語”であると見ることもできる。)

その後の伽子の言葉が、また感動的です。

「あなたは死よりも速いつもり? ならば、私は――詩よ。想う心よ」
「さぁ、時を越えるわ。巡り来る時の輪廻、永遠の彼方へ」

つまり、詩=想う心は、死を超越し、時を越える。
灰流が数十年をかけて詩を詠み続け、死んだはずの雨森を取り戻したことが連想されます。
 

▼どこまでが想像で、事実であるのか (2010/07/09 追記)

難解と言われて久しいこの作品は、『どこからどこまでを事実とし、想像の世界とするか』によって、解釈が違ってきますね。
思い付く主なパターンは以下の通りです。

1、エピローグ前までが想像で、エピローグが事実
 ⇒ 雨森が想像の世界から脱し、現実と対峙する物語

2、雨森の死と灰流の放浪は事実で、他は想像。エピローグも想像。
 ⇒ 灰流が自分の頭の中で雨森の欠片を集め、新しい世界に辿り着く物語

3、全て事実。 魔法(リドル)が存在するファンタジー世界
 ⇒ 雨森たちが森に勝利し、理想的な世界を手に入れる物語

いや、これらは“同じ物体を別の角度から見ている”だけかも。


▼森と死について (2010/07/12 追記)

本当、ゲームを起動し文章を読むたびに、新しい発見がある。
これほどまでの“奥深さ”を持った作品は他に知りませんね。

『終末の国のアリス』で、彷徨を続けている灰流の言葉。
「夢は死を生まない! 死が夢を生むんだ!」

夢=物語=森 とするならば。
森は、人が死ぬことによって生まれる。
飛び降り自殺した雨森。
想像妊娠の後、想像堕胎された存在である伽子。
『Ⅶ たからもの』冒頭での伽子のモノローグで、「魔女アマモリはオリジナルだ。この森を生んだ人だ」と言っています。

『はじまりの物語』での、『おしまいの村』と『パドゥア』をこれに当てはめれば、死んだ人が流れ着く場所が、おしまいの村で、それにより物語を生み出すのがパドゥア。パドゥアから生まれた種が芽吹いた時、それが『森』=物語となる。


▼詩人ということ (2010/08/28 追記)

灰流は自称・詩人です。
そして、飛び降り自殺した雨森を取り戻すために彼が取った行動は、『詩を詠む』ということ。

新宿を徘徊し、ふと頭の中に浮かび上がった“インスピレーション”、それを“雨森の欠片”と呼んで、詩に書き付ける。

客観的には、それは創作行為でしかないはず。
でも、彼の中では、詩は『死をも超え、時をも越える』ものです。

某小説において、あるいは、詩集において、
『詩人は感応力を持ち、詩を詠むことにより、この世にいない者を召喚する』
詩とは、召喚の呪文のようなものだ、という考え方もあります。

灰流が詩を詠むことで、死んだはずの雨森を呼び戻したことが連想されます。
 


▼テーブルトークRPGとの関連について (2010/09/4 追記)

この作品における登場人物たちの言動はメタ的で、物語からの逸脱をも辞さない様子が特徴的です。
物語の製作者の意図を考えたり、ゲームをプレイしているプレイヤーの存在に言及したりもしています。
これは、『テーブルトークRPG』における、GM(ゲームマスター)とプレイヤーの関係に通じているように思います。

星空めてお氏を始め、ライアーソフトのスタッフの方々は、『遊演体』というTRPG(テーブルトークRPG)・PbW(プレイバイウェブ)の会社の出身の方たちが多いと聞きます。
私は、TRPGに参加したことはありませんが、TRPGのネット版であるPbWには少し触れた事があります。

TRPGとは、テレビゲームのRPGの登場以前から存在したゲームであり、紙と鉛筆とサイコロを使用し、参加者たちの会話によってロールプレイング(役割演技)を楽しむ、というものです。
その会話自体は、いわゆる『なりきりチャット』を想像していただければ良いと思われます。
ゲームを進める上で、世界の設定を考えたり、登場人物たちの行動の結果を判定したり、基盤となるシナリオを用意しておく、物語の“語り部”が必要になります。
それがGM(ゲームマスター)です。
プレイヤーたちはGMから与えられた情報を元に、それぞれのキャラクターになりきって、会話と行動を選択して行きます。

ここで、時にプレイヤーの行動がGMの意図したものとは違った方向に進んでいく場合もあります。
これに対し、GMはプレイヤーたちに軌道修正させるか、そのまま続行させるか、選択を迫られることになります。

たとえば、中世ヨーロッパ風の世界観で、ダンジョンの中を探検する物語で、モンスターとの戦闘中であるのにもかかわらず、「俺はここでカレーを食うぜ!」などという行動を選択するプレイヤーがいたら。

物語が滅茶苦茶になる危険がありますが、しかし、一方で、そのようなユニークな行動が、予め定められたシナリオを進めるしかないテレビゲームとは違った“生身の人間らしさ”があり、それがTRPGの醍醐味でもあるでしょう。

つまり、TRPGはゲームであると同時に、参加者たちが共同で物語を創作する行為でもある。

「Forest」における登場人物たちの言動と、それに対するGMである所の製作者との関係は、いかにもTRPG然としているように思いますね。
 

とにかく、一般的にはエンターテイメントとしては“謎解きのカタルシス”が求められるのに対し、これだけの謎が読者に委ねられる事に対して、嫌がる向きもあるでしょうね。
でも、“あえて謎を残しておく”というのも、よくある小説の手法です。
全ての謎に答えが与えられることは必ずしも義務ではない。

これだけ様々な解釈の余地がある物語というのは、むしろ、マイナスではなく、評価すべきところだろうと私は思いますね。
実際、私はこうして、プレイ終了後も解釈云々で楽しませてもらっています。
 
 
※以下、ジョージ・マクドナルド「リリス」に言及します。















※以下、ジョージ・マクドナルド「リリス」に言及します。



◇ジョージマクドナルド「リリス」との関連性の考察 2013/01/11

ジョージ・マクドナルドは、英児童文学のルーツとも呼ばれ、
かの「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルに助言を与えていたそうです。
それはまるで、灰流と雨森の関係を彷彿とさせます。

英児童文学に造詣の深い星空めてお氏が、このジョージ・マクドナルドをご存じなかったとは考え難いでしょう。

ジョージ・マクドナルドの著作「リリス」では、Forestとの関連性を多く見出すことができます。

邪悪な不死の女王リリス。
暴虐の限りを尽くす彼女は死ぬことも、生まれ変わることも許されていなかった。

彼女に翻弄される主人公と、彼女を改心させようとするアダムとイヴとマーラ。

##「リリス」より引用##

「彼女は永久に死ななければならなかった。
死せる生命である彼女には、自らを滅ぼす力はなかった。
彼女の右手は存在する“無”を握り締めていた。」
「なにかが彼女から去った。それが去って初めて、
彼女は邪悪な生涯のどの瞬間にもそれと一緒にいたことを実感した。
生命の源がとうとう退いたのだ。」
「なんじは死に至らん。死を死して、のちに生を受けん。」

##引用終わり##

“森”にとらわれ、不死のアリスの役目を負わされた伽子。
彼女は死ぬことも、生まれ変わることも許されず、“森”の影響下にあった。

「リリス」の女王にとりついていた巨大な“影”。
それが彼女をあそこまで残虐に走らせた。

その“影”の正体は、思うに、憎悪、もしくは、呪いの概念。
すなわち、“森”は、呪いの概念ではなかったでしょうか。

ただし、“森”に取り込まれた黛が、明らかな「生まれ変わり」を果たしていることから、
“森”は、「リリス」における死の寝台=生まれ変わりの場所という解釈もできるかもしれません。

過去の考察では、“森”=夢=物語であり、
『はじまりの物語』での、『おしまいの村』と『パドゥア』において、死んだ人が流れ着く場所が、おしまいの村で、
それにより物語を生み出すのがパドゥア。パドゥアから生まれた種が芽吹いた時、それが『森』=物語となる。
このような考察をしました。

やはり、“森”=物語であり、夢を見る場所=「リリス」における死の寝台=生まれ変わりの場所という解釈が相応しいような気がします。


##「リリス」より引用##

「心がもしほんとうに生きているなら、そこから生きたものを考え出すことは変ではない。
生きているものはすべて、はじめはひとつの思いに過ぎない。」

##引用終わり##

灰流が詩を読むことで死んだはずの雨森を取り戻したこと、
そして、伽子にほんものの命を与えたことが、連想されます。


##「リリス」より引用##

「自分が夢を見ていたことを知りたければ、目覚めさえすればいい。
自分の行く道がどこにも通じていないことを知りたいなら。
そんな終わり方をするくらいなら、わたしはいつまでも彷徨の旅を続けていた方がいい。」

「私たちの生命は夢ではない。しかしそれはやがて、夢と一つになるだろう。」

##引用終わり##

他のメンバー全員がリタイアした後も、
数十年間、一人孤独にリドル=夢を見続けていた灰流が連想されます。


##「リリス」より引用##

「わしはここで眠り、そして目覚めたのだ。
わしは死んでいる。だからこそ、生き生きとしていられる。」

##引用終わり##


つまり、「生まれ変わり」。
あるいは、「昇天」と言っても良いかもしれない。

「Forest」本編は夢であり、エピローグは現実に戻ったという、解釈をするべきなのか。
あるいは、やはり雨森の死は事実であり、エピローグは“新しい世界”と解釈すべきなのかは、分かりません。

ただ、「生まれ変わり」がテーマであるということは確実に言えます。

その意味では、エピローグは想像に過ぎないという私の予想は外れていました。

ここで重要なことは、
「誰が死を迎え、新たな生を受け、生まれ変わったのか」
ということです。

劇中の描写を見れば明らかなように、それは、伽子。

不死の呪いを背負わされ、生まれ変わることが叶わなかった伽子が、
ラストシーンで、母である雨森の胸に抱かれ、新たな生を受けています。

つまり、この物語は、想像妊娠、想像堕胎によって、
生まれることも、死ぬことも、生まれ変わることも許されなかった伽子が、
死を受け入れ、新たな生命を受けるまでを描いている。

そして、エピローグにおいて、
雨森、灰流たちは、それぞれの「生まれ変わり」を果たしました。

――これは、「生まれ変わり」の物語なのだ。

「リリス」において描かれた「生まれ変わり」の概念に、
ケルト神話における「死と再生」の信仰を結び付け、
英児童文学、特に「不思議の国のアリス」の不滅性を下敷きにし、
さらに、破滅的な生き方をする現代の若者たちの「生まれ変わり」に繋げた。

これが、おそらく、「Forest」という物語のプロットであった。

凡人のなせる技ではない。まさに天才の術と言うほかないですね。
「リリス」読了後、私は星空めてお氏への尊敬の念を新たにしました。
 
 
 




◇リプレイ考察 2013/07/07

▼宮乃伽子の実在性▼

伽子は、遠い日、雨森が想像妊娠で宿した、想像上の子供だ。

宮乃伽子という名前、姿、家庭環境は、おそらく、灰流が考えたものだろうと思う。
“森”によって、黒いアリスを演じる役目を負わされていた。
そして、“伽子は死んで、アリスが生まれる”という筋書きが用意されていた。

――宮乃伽子は、実在しない。

その明確な根拠は、以下の記述にある。

【傘びらき丸航海記】での伽子の言葉。

「宮乃伽子がそう言った後、宮乃伽子の両親(という役目)のふたりは  うろたえて何か口走った」
【たからもの】での都知事の言葉。
「あんたは宮乃伽子! 人形だ! 森が造った!」
「宮乃伽子なんて、はじめからいなかった」

遠い日、雨森が想像妊娠で孕んだ娘、伽子。
彼女は、死ぬこともできず、生まれ変わることもできなかった。

だからこそ、【終末の国のアリス】のラストで、感動するのだ。

「生まれ出でた喜びと、その圧倒的な孤独に伽子はうちふるえる」

「かわいそうな伽子。森の子。私の娘」

ほんとうの命を手に入れた伽子が、
母である雨森の胸に抱かれる光景が描かれる。


▼オリジナルと生きた物語▼

灰流と雨森は、森を創った「オリジナル」だという。

今回の探訪で初めて気付いた。あえて「オリジナル」と呼ぶ意味を。

物語は、読み手の意思を組み込み、変わっていく。
それが“生きた物語”ということ。
これが作者の示した物語論。
ならば、「オリジナル」の意味も理解できる。

“森”は、灰流と雨森が創った。
しかし、それは“生きた物語”であり、変化していく。
オリジナルの物語は、解釈され、改変され、当初の筋書きとは大きく変わっていく。
そのダイナミズムは、作者自身すらも止めることはできない。
それが、「オリジナル」と呼ぶ理由なのだと思う。

【ザ・ゲーム】で、ソロモンが言った。
「あのかたはオリジナル!
 この森の造り主、言ノ葉の姫君!」

アリスが応えた。
「だから、なんだというのですか!
 もはや森は、いにしえとは姿を変えて、
 造り主のつくりたもうたままではない!」

また、ソロモンはこう言った。
「伝説にいわく――すべての「物語」のはじまりは、
 おさな子と賢者の語らいより発した――」

雨森は易々と“森”のルールを逸脱する。
それは、雨森が「オリジナル」だから。

「そんなルール、誰が決めたの。あたしは知らない。
 はじまりの子、オリジナルのあたしが!」

雨森と灰流が、彼女たちの物語、彼女たちの世界――“森”を創った。
そして、“森”は生きた物語――すなわち、意志を宿した。

雨森は言った。
「森は、あたしたちの物語「じゃない」の?
 じゃあ、誰が「物語」を書いてるの?
 まさか……「物語」そのものが、「意思」を?」

アリスは答えた。
「そうよ、意思はあるわ。
 すべてに意味が込められている。
 だからルールは守ってちょうだい」

雨森は応えた。
「うぬぼれないでっ。あたしがオリジナルよ!」

アリスは激昂した。
「そうよ、創ったわけじゃない。でも使いこなせるわ」

アリスは、持てる力を振るい、最悪のモンスターを召喚し、雨森へと向けて放った。

このやり取りは、TRPGの原作者とゲームマスターの関係に見える。
原作者はすべての権利を持つ。
しかし、ゲームマスターはその場所において、ルールを設定する権限を持つ。
そのどちらも、無下にはできないものだと思う。

【たからもの】で、伽子は言った。
「私はアリス。リドルの姫。
 リドルを仕掛けるゲームマスター」

この時の雨森をあまり責めないで欲しいと思う。

彼女にとっては、この殺伐とした世界で、縮こまるようにして生きてきた彼女にとっては、
彼女が創った物語は、唯一の、かけがえのない、宝物。
自分が、何者にも気兼ねすることなく、自分らしくいられる場所だったのだろうから。
その唯一の居場所、宝物を、知らないうちに、他人の手によって、作り変えられてしまったのだから。

「オリジナル」の意味。“生きた物語”ということ。
オリジナルの物語は、読み手の意思を組み込み、変化していく。

変わってしまった物語を語るのは誰?
灰流と雨森の物語を、改変し、あえて、語るものは?

それは、おそらく――作者。

ここからは想像になるが――。
おそらく、作者は、この物語を一度、書き上げたのではないだろうか。
物語の創造を通じて心通わせ、そして、破綻する男女の物語を。
それは、初め、リアリティに溢れ、
切ない悲劇で終わったのではないだろうか。
すなわち、伽子の死、そして、雨森の死によって。

しかし、作者は思い悩んだ。
このままの結末でいいのか――? と。

もう一度、作者は物語を書き直し始めた。
作者とアリスだけは、それを“おぼえていた”。
一度、終わってしまった物語だから。
終わってしまった物語を、作者の権限で、書き直したから。

そして、もう一度、書き上がった物語は――。
あまりにも綺麗な予定調和だった。

しかし、それこそが、灰流の望みであったし、
伽子もそう願った。
作者は、こう書き残した。

「城之崎灰流は――
 果たして、どんな顔をしたか――
 微笑んでいたならいいな――」

“物語の書き換え”を裏付けることとして、
上述の【アリスと会話している存在について】で述べたように、
この物語は、灰流と伽子、あるいは、作者とアリスが語り合った物語という体裁を取っていることが挙げられる。

つまり、雨森と灰流が創った物語、影横たわる世界を、
灰流と伽子が、書き換えたということ。

それは、おそらく、数十年の彷徨の中で書き上げられたのだと思う。
伽子は黒いアリスとなり、雨森たちを陥れようと挑戦した。
雨森たちの物語を壊してしまおうと。
彼女にとって、雨森は、灰流を奪う恋敵だから。

【傘びらき丸航海記】で、ダイナはこう言った。
「かわいそうなママ。
 求めても求めても充たされないなら、
 いっそ壊してしまったほうがいいの?」

そして、伽子は想像上の子供である以上、
伽子を想像し、彼女とともに物語を書き換えたのは、
客観的には、灰流一人であったと言える。


▼運命、あるいは、神▼

雨森は、最後まで、“完全な世界”にこだわった。

【ザ・ゲーム】で、刈谷は言った。
「私たちは、私たちの役割を果たす。
 でも、「役割」って、なんだろう?
 それは「与えられる」ものか?
 ならば「与える立場」はどこの誰だ?
 それとも自分で「見いだす」ものか?」

天職という言葉がある。
天から与えられた職だ。
我々の職は、天から与えられるものであり、
我々の人生は、神が定めたものなのだろうか。

【たからもの】で、灰流は言った。
「そいつを想像したやつも!
 そのまた外にいるやつも!
 いつまでも! 幸せに! 暮らすがいい!」

【終末の国のアリス】で、灰流は言った。
「俺たちの「世界」は、「外」の意思でコントロールされているんだ。いや「意図」と言ったほうがいいだろう」
「「外」の「外」にも世界はあるさ」

灰流たちの外側とは、明らかに、この作品を読んでいる我々のことだ。
では、我々の“外側”とは?

すなわち――運命のことではないか。
我々は、神の創った物語の上で、予め定められた筋書きに沿って、踊らされているに過ぎないのではないのか。

「予定調和」という言葉がある。
原義は哲学の原子論によるものだそうだが、
“神がすべてを定めた”という意味で、あながち間違っていないと思う。

物語において、予定調和ほどつまらぬものはない。

しかし、最後に、灰流は予定調和を受け入れた。
むしろ、予定調和を利用して、雨森を生き返らせた。

予定調和を実現する存在を“神”と呼ぶならば、
“神の意思”を信じることで、完全な結末、すなわち、“奇跡”を求めた。

そこに、灰流と雨森の家がクリスチャンであったことの理由を見ることができる。

おそらく、灰流は自らの実家の信仰に反発し、その教義とは別の思想を求めて、生きてきたことだろう。

その彼が、最後の最後に、自分たちの外側にあるはずの“神の意思”を根拠にして、“奇跡”を求めた。

作中の描写では、物語論の内に巧妙に隠されている。
物語の登場人物が作者の存在を語るという、メタフィクションとして理解される。

しかし、それを“外の外”、つまり、我々読み手のさらに外側の世界にまで言及していることに着目すると、
これは、“運命”の存在を示唆していると読み取ることができる。
そうなると、話は物語論に留まらず、運命論にまで発展していく。
死んだ雨森を想って、灰流は、“これでは不完全な結末だ”と叫んだ。

それは純粋な嘆きと言える。
同じ立場に立たされたなら、誰もがそう思うだろう。

そして、“奇跡”は起きた。
雨森は生き返った。
いや、灰流と伽子とともに、完全な世界へと旅立った。
灰流と雨森と伽子、刈谷、黛、九月たちは、ともに完全な世界へと旅立ち、そして、生まれ変わった。

「むかしむかし、あるところに」

彼らは、新たな生を受け、新たな世界で、新しい物語が始まる。

最後の世界樹、パドゥアが芽吹いた――。


▼ハンプティダンプティ、あるいは、世界の卵▼

黒いアリスのキーアイテムであり、
灰流が最期まで大事に抱えていた「クッキーの缶」に描かれていた絵が、アリスとナイトとハンプティダンプティ。
これを、雨森は「あたしと、あなたと、伽子ちゃん?」と言った。

おそらく、伽子がアリスで、灰流がナイト、雨森が新しい世界の卵。
雨森がタワーから飛び降りる際の言葉、「あたし、まだ新鮮かな」は、
“新鮮な卵”を意味しているように思える。

タワーから飛び降りた雨森が、塀から落ちて砕けたハンプティダンプティ=落ちた卵を暗喩としていることはすぐに分かる。

「アマモリは、なぜ飛び降りた? 「卵」だったからさ!
 砕け散って産み落とした、「世界」を!」

【終末の国のアリス】で、灰流はそう言った。
そして、灰流は数十年をかけてその欠片を全て集め、ついに雨森を取り戻した。

これは、“塀から落ちて砕けたハンプティダンプティは誰にも元に戻せない=覆水盆に返らず”に対する、反論になっているように思える。

・落ちて砕けた卵は元には戻せない

・砕けた欠片を全て集めれば元に戻せるじゃないか

ハンプティダンプティは元に戻せないことの象徴とされているが、元に戻す方法はある。
不可能を可能にできる。奇跡は起こせる、という主張が、大きな柱になっているように思える。

世界に絶望し、新しい世界を夢見て、タワーから飛び降りた雨森。
雨森の語った永遠、完全な世界を否定し、死なせてしまった灰流。
失った時は取り戻せない。
しかし、もし、不可能を可能にする方法があるなら。
塀から落ちて砕けてしまったハンプティダンプティを元に戻せる方法があるのなら。
死をも超え、時をも越える、詩、想う心をもって、失われた存在へ届かせよう。
たとえ何十年かかろうと、自らが朽ち果てようとも。


▼リドルと夢とリアル▼

リドルは、夢だ。
“森”の世界も、夢だ。

【傘びらき丸航海記】で、雨森は言った。
「リドルは夢なのだろうか?
 たぶん、そうなのだろう。
 ただ、この夢は命がけだ」
「この世界は夢でできてる。
 あたしたちの夢で。
 クマさんの真っ黒くて大きな体は、
 リアルのクマさんの夢が作り出している」

刈谷は言った。
「私たちが、こうしてリドルの中で経験する突拍子もない出来事は、
 リアルの世界にも影響を及ぼすらしいとわかっている」

“森”の世界が夢であるならば、
この物語のほとんどは夢の中の話であり、
現実の世界は【エピローグ】だけということになる。

しかし、リドルはリアルにも影響を及ぼすという。
夢の世界で死ねば、リアルでも死ぬことになる。
それでは、夢とリアルの境界線が、曖昧になってしまう。

【傘びらき丸航海記】で、灰流は言った。
「この夢を生み出しているのが俺なのか、
 アマモリか、あるいは他の誰かか、
 そいつはイマイチ明確じゃないが――
 「誰かのイメージ」か、でなければ、「公約数的なイメージ」かによって、森の形象は制約を受けている」

――ここで、私の説を提示しておきたい。

この物語は、徹頭徹尾、放浪生活を続ける灰流の頭の中の世界。

雨森の死は事実であり、老いた灰流も、最後に死んだ。
けれども、灰流は最後に、新しい世界を創った。
それが、あまりに理想的な【エピローグ】。

すなわち、この物語は、雨森を失った灰流が、
数十年をかけて、自分の中で、“ゴール”を見付けるまでの軌跡。

【エピローグ】の前までがリドルであり、【エピローグ】のみが現実であるという説は、私は採用しない。
あの【エピローグ】は、作者の用意した物語、すなわち、“運命”を受け入れなかった灰流が、最後に創った“新しい世界”だと思われるから。

“新しい世界”を事実とするなら、“それ以前の世界”は想像となる。
しかし、“灰流が、新しい世界を創った”ことが事実であるなら、その行動に至るまでに、“それ以前の世界”が存在したことは事実であり、
“新しい世界”の創造が、雨森が死んだという事実自体を“なかったことにする”ことはできないと考える。

つまり、新しい並行世界へと移動したからといって、それ以前の並行世界が消滅するわけではなく、二つの並行世界は同等に存続している、ということ。

それは、【ゲスト】で触れたように、
“作者による物語の改変”が行われるたび、登場人物たちは改変前の世界での体験を覚えている、という現象に裏付けされると思う。
物語の改変により改変前の世界が消滅するのであれば、改変前の世界での体験を覚えている、などということは起こりえない。

したがって、雨森は、新しい世界の創造により、いわば“生まれ変わった”のであり、 “はじめから死んでなどいなかった”とは考えない。

さらに、【終末の国のアリス】では、九月が死んだという事実が語られる。
“砕け散った”と表現される雨森とは違い、九月は“死んだ”と明示されている。
それなのに、【エピローグ】では元気に生きている九月が描かれる。

リドルの中での死は現実での死を意味する。
それがリドルのルール。

【終末の国のアリス】でもリドルが続いていたのだ、という説をとっても、
リドルのルール上、現実で九月が死んだという事実は覆らない。
そして、【エピローグ】では死んだはずの九月が生き返っている。
これは明らかに矛盾している。

おそらく、この物語は、“夢であり、現実でもある”のだ。
どこまでが夢なのかを論じることは、おそらくナンセンスなのだと思う。

夢と現実、リドルとリアルとは渾然一体であり、双方に影響を及ぼしあい、明確に区別することはできない。

むしろ、“リアルも、物語に過ぎない”ということが、この物語のテーマだと思う。


▼永遠、生まれ変わり、そして、世界の外へ▼

灰流は、永遠と無限を否定した。
雨森は、永遠を信じていた。
“世界の外”を夢見て、タワーから飛び降りた。

――閉じた物語の世界からの脱出。

これは、この物語の大きなテーマだと思う。

――ジョージ・マクドナルドは、英児童文学の祖とも言われる人物で、
「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルに助言をしていたという。
それはまるで、遠き日の灰流と雨森のよう。

彼の著作「リリス」は、キリスト教的世界観に基づきながら、
「生まれ変わり」を大きなテーマに据えている。
そして、この物語との関連性を多く見出すことができる。

「心がもしほんとうに生きているなら、そこから生きたものを考え出すことは変ではない。
 生きているものはすべて、はじめはひとつの思いに過ぎない。」
「私たちの生命は夢ではない。しかしそれはやがて、夢と一つになるだろう。」
「なんじは死に至らん。死を死して、のちに生を受けん。」
「自分が夢を見ていたことを知りたければ、目覚めさえすればいい。
 自分の行く道がどこにも通じていないことを知りたいなら。
 そんな終わり方をするくらいなら、わたしはいつまでも彷徨の旅を続けていた方がいい。」

【傘びらき丸航海記】において、
“森”に取り込まれ、“世界樹”へと変貌した黛は、過去と未来を垣間見て、“理想のいま”を手に入れた。
生まれ変わった彼女は、とても穏やかで、以前の彼女とは見違えるようだった。

「それは、黛さんの夢だった。おそらくは世界樹の中で無数にかいま見た過去と未来の時間から、選び取った――
 そして果実として結晶させた、彼女なりの理想の「いま」が、夢のエネルギーとしてあふれ出し、ラピュタを飛ばしている」

これは、「リリス」における“死の寝台”と符合するように思える。

――ただし、この作品のそれは、“物語”というキーワードに決定的な違いがある。
【たからもの】で、黛は言った。
「ボクが見た夢の中で、たったひとつだけ、結末が分からない夢があったんだ。
 あれはきっと世界の外へ通じていたんだ」

「行きたいのね? 世界の外へ」
刈谷は尋ねた。
「はい。立ち止まっているつもりは、ありません」
黛は答えた。

――“世界の外”。

それは、天国? そうかもしれない。
ただし、この作品で語られるのは、そうではない。
そこは、“物語の外側”だ。
作者の意図、作者の書いた筋書きから逸脱した、真に自由な世界だ。

この物語は、徹頭徹尾、語り手と聞き手、また、作者と物語とキャラクターの関係性によって語られている。

彼らは、定められた運命、すなわち、作者の書いた筋書きをも乗り越え、
真に自由な世界へと旅立っていった。

そこは、ほんとうの世界。
彼らが、ほんとうの命を手に入れることができる世界。

それは、“生まれ変わり”とは異なる概念だ。
むしろ、“解脱”の概念に近い。

無限に繰りかえされる“生まれ変わり”は、
その世界で生きる者たちにとって、“閉ざされた世界”だ。

無限の繰り返しの果てには、すべてが“過去”であり、
物語は“思い出している”ことにしかなりえず、
そこに“創造”は存在しない。

この“閉ざされた世界”からの脱却。
定められた運命からの解放。

雨森は言った。
「あたしたちの「外」に、世界があるなら――
 あたしの「中」にも、世界はありますか?」
「そして、あたしは「永遠」に触れた――
 でも先生、あなたは拒んだ。永遠を否定した。」

遠き日、“世界樹パドゥアの種”を飲み込んだ雨森。
自身の中に“完全な世界”があると信じ、タワーから飛び降りた。

彼女が触れた“永遠”とは、何だったのだろう。

おそらく――「いつまでも、幸せにくらしました。」
それのことではないだろうか。

灰流は、あの時、雨森を愛し、永遠を信じてあげれば良かったのではないか。

「この世が無限で! 永遠は実在して!
 しかも、そいつに届くんなら、
 俺は、やり残したことができるさ!」
「もうすぐ届く! この世界の「外」へ!」

タワーから飛び降りた雨森。
彼女を取り戻すために灰流がとった行動は、詩を詠むこと。

新宿の街を徘徊し、脳裏に浮かんだインスピレーション。
それを“アマモリのかけら”と呼んで、紙に書き付ける。
それは、客観的に見れば、創作行為に過ぎない。
しかし、灰流にとっては、大切な雨森の残した一部だった。

児童文学「クマのプーさん」で、
主人公のロビンとクマのプーたちが、北極探検に出かける。
その道中、プーが、川に落ちた友達を、棒切れ(ポール)で助ける。
ロビンは「プーがノースポール(北極)を発見した」と宣言した。

それは、客観的に見れば、子供らしい行為に過ぎない。
しかし、彼らにとっては、本当に、そこは北極であり、
彼らは、北極到達を成功させたのだ。

――雨森を助けようとして、灰流は詩を詠み続け、それを“アマモリのかけら”と呼んだ。

それは、彼にとっては、本当に、“アマモリのかけら”であり、
新しい世界、完全な世界の卵だったのだ。
かけらを集めることで、新しい世界が生まれる。

――そこが、彼が決めたゴールだった。

客観的には、単なる死に他ならない。
しかし、彼にとっては、それは、新しい世界の入り口だった。
なぜなら、人生とは、自分の決めたルールで戦う、“自分自身の物語”だから。

老いた灰流は、死んだ。
しかし、新しい世界を創った。
彼のいた場所が、新しい世界への入り口となった。

「俺は語る。「世界」を創る。恐れはしない。忘れられても」

そこは、かつて雨森が夢見た、完全な世界だった。
灰流と雨森の娘、伽子は、ほんものの命を手に入れた。


▼物語とともに生きるということ、リアルという名の物語▼

「この物語は、自分の世界に篭りがちな雨森が、その世界の外へと出て、現実と立ち向かうまでを描いている。一人の少女の成長物語だ。」という解釈もできる。

けれど、私は、それを採用しない。

「いつまでも夢ばかり見ているんじゃない。
 夢の世界から外へ出て、
 現実に立ち向かわなければならないんだ」
「夢の世界を捨てて、リアルに帰れ」

これが、最後のメッセージだとするなら、
あまりにも、物語というものの価値を貶めている。
それは、常識を振りかざした、物語の否定に他ならない。

――この物語は、物語と寄り添うものだと思う。

自分が生み出した物語の価値を信じ、
物語とともに生きていく。

ラストシーンで、雨森たちが“世界の外”へと旅立つ時、
物語のキャラクターたちが、彼らのそばに寄り添っていた。

彼らは、決して、“物語の世界を捨てた”わけではない。
“現実という名の自分の物語”を、語り始めただけだ。

彼らのそばには、常にあの頃と同じように、
物語のキャラクターたちが寄り添っていることだろう。

かつて大切にしていたものを捨て去ることが、成長であるとは、私は思わない。
子供の頃に大切にしていたクマのぬいぐるみを捨てれば、大人になれるとは、私は思わない。

むしろ、何十年経っても、死ぬ寸前にも、そばに寄り添う“物語”があれば、
それほど、幸せなことはないと思う。

そもそも、物語の世界に閉じこもり、部屋から一歩も外へと出ようとしなかったのはなぜか。
それは、“物語の世界と外の世界とを区別している”ことに原因がある。

物語の世界は、自分が心から安心して自由に生き生きとしていられる世界。
現実の世界は、常に自分に牙を剥いてくる恐ろしい世界。
その区別があるからこそ、自分の部屋に閉じこもるのだ。

――ならば、物語の世界と現実の世界が地続きになったら、どうだ?

ラストで、物語の登場人物たちが、“物語の世界の外”へと出る光景が描かれる。
それは、つまり、“物語の世界と、現実の世界が、地続きになった”ということ。

雨森は、自分の物語の世界では最強だった。
もし、現実の世界が、物語の世界と地続きなのであれば、
彼女は現実の世界でも最強になれる。
それこそが、彼女の自信になるのだ。

「物語なんて、些細な部分に過ぎない。
 よくできた、時にはでき過ぎた――リアルさ」
【終末の国のアリス】での、灰流の言葉。
この言葉は、より強調して演出されている。

――物語はリアルであり、リアルは物語である。

想像力を働かせて、物語を創るのと同じように、
“現実という名の自分の物語”を、語ればいい。

そこに、夢、現実、の区別はない。
これが、この作品の本当のメッセージだと思う。

――リアルという名の物語。


――想像力さえあれば、世界は驚きに満ちている。

道端の石ころは動物界の秘宝となり、
路肩に植えられた木々は立ち並び談笑する貴婦人となる。

かつて、誰しも持っていたはずの力だ。

それを失うことが大人になることだとすれば、
それは成長ではなく劣化だろう。

私は、その想像力を、いつまでも、失くさずにいたい――。


(2016年7月17日追記)

【考察】「恋愛」と「アイデンティティ」の相克~『Forest』と『狭き門』


星空めてお氏と大石竜子氏に敬意を表する。


※以下、『狭き門』のネタバレを含みます。必ず読了してから読んでください。




























※以下、『狭き門』のネタバレを含みます。必ず読了してから読んでください。



1.『狭き門』について

先日、ジッドの『狭き門』を読んだ。
全体として恋愛小説であるが、それだけに留まらない、文学的な深さを感じさせる傑作であった。
その中核には、苛烈なまでの信仰心と、青年期の過ぎ去った後に、ふと、自らの青春を後悔を湛えて顧みるような、静謐さがあった。

――幸福とは何か。

安定した職につき、結婚し、子供を作り、子育ての慌ただしさの中で、人並みの人生を送ること。

これが、広く世間一般に信じられている、「幸福」の形である。それは社会通念であり、多くの人々は、それが「幸福へと至る唯一の道」であると考えている。
ゆえに、母親は、成人した子供がいつまでも結婚しないと、「早く結婚しろ」と口煩く言い続けることになる。それは、結婚こそが「幸福へと至る唯一の道」であると考えており、子供の幸福を願うからこその行動と言えるだろう。

結婚こそが「幸福へと至る唯一の道」であるとするならば、この書における、アリサの目指したものは、幸福とは呼べないものであったと言えるであろう。
婚約を拒否し、家庭を築くことを拒否し、恋人と離れた場所で暮らし、ただ信仰のみを胸に抱いて瞑想の人生を終える――。
それは、まさに、生涯未婚のまま、修道院で生涯を過ごすという、カトリックの修道女のような姿である。敬虔な聖女の姿と言っても良いであろう。

アリサの部屋でのやり取りにより、アリサとジェロームの間には、信仰上の対立があったことは明らかである。
ジェロームはパスカルを信奉する、いわゆるプロテスタントであり、アリサは初めは彼に従っていたが、後に袂を分かち、おそらくカトリックの方向へと向かったのだと推測できる。その転換の時期を境として、二人の間には隙間風が差し込むようになり、あの決定的なアリサの部屋でのやり取りに繋がっていった。
アリサは自らの信仰と彼への愛との間で激しく葛藤し、どちらか一つを選択することを強要されていった。
そして、結局、どちらも選ぶことができず、死によって幕を引くことにしたのだと見ることができる。
このプロットは、ある意味で、宗教改革を舞台とした、『ロミオとジュリエット』とも言えるのかもしれない。

「わたしからすべてを取りあげた嫉妬深い神さま」

カトリックの修道士・修道女は、生涯独身を貫くそうである。(仏教においても同様な制度があることが連想されるであろう。)
よって、もし、アリサがカトリックの修道女のような姿を目指していたのであれば、当然、結婚は望めないことになる。
つまり、アリサが信仰において、カトリックの方向へと転換したことが、二人の結婚における最大の壁となったということである。

アリサとジェロームが信仰上の対立をしていた以上、彼らが結婚して家庭を築くには、アリサの方が自らの信仰を捨てねばならなかった。
アリサはそれを理解していた。ゆえに、自らの信仰を捨てて彼との幸福な家庭を築くことへの激しい渇望を覚えながらも、信仰を捨て去ることはできず、最後は彼の前から姿を消すことを選んだ。

畢竟、アイデンティティの問題なのである。

アリサは、自らのアイデンティティを守るために、深く愛した恋人との幸福な未来を拒否するしかなかったのである。
その行動は、我々にも十分、理解できるものであるだろう。

「わたしたちは幸福になるために生まれてきたんじゃないわ」
「幸福よりほかに魂は何を望むんだ?」
「清らかさ……」

このアイデンティティの問題は、前半のジュリエットの結婚のエピソードにおいて端的に示されている。
ジュリエットはジェロームに好意を寄せていたが、アリサはジェロームと愛し合っているにもかかわらず、妹に恋人を譲ろうとしていることを知り、違う人との縁談を受けることを決意する。
ジュリエットは結婚後、幸福そうに暮らしているように見えたが、好きだったピアノも読書もやめてしまっていた。
それは、夫が音楽や読書を好まない人間であることを汲んだからであった。
さらに、彼女は夫の事業に興味を示すように振舞っていたのだった。

夫に仕えるために、それまでの自分を支えていたアイデンティティを捨て去り、家庭を守ることを選んだ一人の女性の姿が描かれている。

「いまジュリエットが幸福と見なしているものは、かつて彼女が幸福の源泉として夢見ていたものとは、あまりにもかけ離れているから!
……そうよ!「幸福」というのは、魂との結びつきがあまりにも深いものなの。」

ここからは、女性の自立の問題やジェンダーの問題を読み取ることもできるであろう。
その意味では、旧来の結婚観に抗い続けた、アリサの姿は、夫からの自立を目指す、新しい女性像を描いているものだと解釈することもできるであろう。

――「結婚」を取るか、「アイデンティティ」を取るか。

この命題は、我々とも無関係ではない。
「結婚は人生の墓場」という言葉がある。
もし、結婚し、子供を作り、子育ての慌ただしさの中で、人並みの人生を送ることこそが、「幸福へと至る唯一の道」であり、
もし、その道へと進むためには、それまで必死に守り抜いてきた、自らの「アイデンティティ」を捨て去らなければならないのだとしたら。
果たして、その行為は、「真の幸福」と呼べるものであるのだろうか――。
この書は、そのことを我々に突き付けているように思われてならないのである。


2.『Forest』について

「ロビンくんは、ひとりじゃない。森には、きっとロビンくんの魂がいるんだ。それがリアルの世界の男の子と引き合って、ロビンくんに「なる」んだ」(「傘びらき丸航海記」雨森)

「傘びらき丸航海記」では、クマのプーに殺されたロビンの元型が“森”に存在すると語られる。これは、ギリシャ哲学におけるイデア論、すなわち、物事の真の実在すなわちイデアたちはこの世ではない場所に存在し、この現実世界はイデアの模倣に過ぎないという説に似ている。
では、“森”はイデアの世界であるのだろうか。
ハイデガー『芸術作品の根源』には、次のような内容が記されている。

芸術とは、作品の中で“真実”を創造し事実とすることである。
ゆえに芸術の本質は詩作である。
存在に名を付けることで、初めて存在を事象とする。
それは設計であり、保存することで、作品の内に“真実”を飛び立たせ、事実となる。
それは“真実”が語る言葉であり、語り得ないものを生み出すことである。
“真実”には、作品になろうとする性質がある。

「森は、俺たちに語ってほしいのかもな。誰も知らない、新たな物語を……」(「風に乗ってきた招き」灰流)

「生命など、たかが状態ではないか。世界は言葉だ。世界は思念(こころ)だ。ほかはみな些末な枝葉の茂りに過ぎない」

「生命とは、ただの状態の要素なり。世界とは、状態を語り尽くさんとして、なお語りえぬ、限界なきところなり。語りえぬ言葉で世界を語り……やがて、達するは……」(「ザ・ゲーム」アリス)

「やがて達するは、永遠なり」「あるいはまた、真理なり」(「ザ・ゲーム」黒の乗り手)

この説を採用するならば、“森”は芸術作品の中で創造されようとする"真実”であることになる。
もし、“真実”を“イデア”と言い換えることができるとすれば、両者は一点を除けば、同様のものと言えるだろう。
すなわち、“真実”は、この世にはないどこかにあるのか、それとも、芸術作品の中に創造されるのか、という点である。
前者を採用すれば、芸術作品は“真実”の模倣に過ぎず、後者を採用するなら、芸術作品は“真実”そのものを内包していると言える。

“森”は、芸術作品に内包される“真実”であったのだろうか。
語ってほしかったのは、“森”。
彷徨っていたのは、“物語”。
つまり、“森”とは、紡ぎ手のいなくなった“物語”ということになる。

それは誰の作る物語か。
タワーから身を投げて死んだ、雨森である。
雨森が死んだことで、物語は未完に終わった。
そして、紡ぎ手のいなくなった物語は、結末を求めて、さまよっている。
それが、“森”であると推測される。

ただし、その物語には灰流という共同執筆者がいた。
“はじまりの物語”は、雨森と灰流の語らいから生まれた。

「伝説にいわく――すべての「物語」のはじまりは、おさな子と賢者の語らいより発した――」(「ザ・ゲーム」ソロモン)

「森は、あたしたちの物語「じゃない」の? それとも――「そうだった」けれど、「いまは違う」の? じゃあ、誰が「物語」を書いてるの? それとも……まさか……「物語」そのものが、「意思」を?」(「ザ・ゲーム」雨森)

意思を持った物語。紡ぎ手のいなくなった物語。結末を求めて彷徨う物語。
そして、ハイデガーによれば、“真実”には、作品になろうとする性質がある。
芸術作品により“真実”は明らかにされ、現実のものとして、この世に生み出される。
すなわち、芸術作品はただの空想の模写ではなく、“真実”を事実とするものである。

「生まれ出でた喜びとその圧倒的な孤独に、伽子はうちふるえる」(「終末の国のアリス」)

「かわいそうな伽子。森の子。私の娘。来て――あなたはあたしと生きましょう」(「終末の国のアリス」雨森)

――作品として完結することで、現実に生み出されようとする“真実”。

それが、“森”であり、伽子という存在だったのだと考えることができる。

 *

「名前なんか重要じゃないんだ。むしろ、ない方がいい」

最初のリドルで、灰流はそう言った。

「はじまりの物語」で、魔女アマモリは名前探しの旅に出る。
しかし、その物語は、トルンガとペッコリアの物語に取って代わられ、
また、悲惨な事件の結果、中断を余儀なくされ、その続きが紡がれることはなかった。
物語のクライマックス「終末の国のアリス」では、灰流が雨森に名前を告げ、名前を取り戻した雨森は、元の姿を取り戻す場面が描かれる。

――名前を取り戻す。

上述のハイデガー『芸術作品の根源』の記述によれば、芸術の本質は詩作である。
存在に名を付けることで、初めて存在を事象とする。
それは設計であり、保存することで、作品の内に“真実”を飛び立たせ、事実となる。
それは“真実”が語る言葉であり、語り得ないものを生み出すことである。
存在に名前を付けることで、“真実”を実在する存在として生み出す。

死んだ(砕け散った)雨森は名前を与えられたことで、この世に実在する存在として戻ってきたと解釈することもできるだろう。

さらに、想像妊娠で宿された想像上の存在である伽子は名前を与えられたことで、実在する存在として本当の生命を与えられたと解釈することもできる。

「私は名前をなくしてしまった。今の私は、誰でもないわ。でも……ねえ先生、先生なら知ってる? 私は誰なの? 名前があるの? 教えて、先生……」(「たからもの」伽子)

「……俺の知ってる名前は、ひとつだ。宮乃伽子」(「たからもの」灰流)

ここでは、伽子に対し、名前が与えられている。
名前を与えられたのは、雨森と伽子の二人であった。
つまり、名前を与えられ、"ほんとうの存在"を獲得したのは、雨森と伽子の二人であったと言える。

もう一度、本作のクライマックス、「終末の国のアリス」の流れを確認したい。
断章で語られる痛ましい事件。タワーから飛び降りて死んだ(砕け散った)雨森。
数十年間に渡り、詩を詠み続けた灰流は、ついに雨森を取り戻す。
そして、雨森が想像妊娠した存在であるはずの伽子は、“ほんとうの存在”になる。
灰流が行った行為は、ハイデガーの芸術論を踏まえると、次のように解釈することができる。

芸術とは、作品の中で真実を創造し事実とすることである。
詩を作り、名を名付けることにより、それを“ほんとうの存在”すなわち、事実とする。
雨森という存在の"真実"を芸術作品の中で創造することにより、それを事実とした。
すなわち、現実世界には存在しない、“ほんとうの雨森という存在”を、詩によって“つかまえる”ことにより、"真実"を創造し、現実世界での事実としたのである。
ここでは、詩作という創作活動が、そのまま、世界を創造することを意味するのである。

「俺は語る。「世界」を創る。恐れはしない。忘れられても。」


3.「恋愛」と「アイデンティティ」の相克

以上の考察で、『Forest』については、概ね語り尽くしたように感じていた。

しかし、先日、『狭き門』を読んで、致命的な見落としに気付かされ、解釈を根底からやり直す必要に迫られた。

――畢竟、アイデンティティの問題なのである。

『Forest』で繰り返し描かれていたのは、「恋人に対する報われない献身」あるいは、「恋人への依存の末路」であった。

妻子ある大学教授に道ならぬ恋をし、懸命に教授とその家族に尽くそうとしながらも、結局、破滅を迎える、黛。

女癖の悪いレストランのオーナーの彼氏に振り回され、出世の道さえも故意に阻まれていた、刈谷。

彼女たちは、彼氏との恋愛に身も心も捧げたために、自らのアイデンティティをも失い、破滅へと至った。
それは、後述するが、雨森も同様であった。

彼女たちの共通点は、「恋愛によって、彼氏に依存し、自らのアイデンティティを失い、破滅へと至る」という点であった。
『狭き門』では、ジュリエットは音楽と文学に理解のない男性との結婚を機に、それまでの自分を支えていた自らのアイデンティティを捨て去ることを代償として、外見上は幸福そうに見える家庭を築いていた。
そして、それを間近で見ていた姉のアリサは、その状態を「幸福」とは見なさなかった。結婚による自らの信仰の放棄、すなわち、アイデンティティの喪失を拒否し、愛する彼氏との別れを選択した。

「いまジュリエットが幸福と見なしているものは、かつて彼女が幸福の源泉として夢見ていたものとは、あまりにもかけ離れているから!
……そうよ!「幸福」というのは、魂との結びつきがあまりにも深いものなの。」

この決断に対し、読者には賛否両論があろうが、少なくとも、「男性に依存しない、自立した女性」が描かれていることは事実であると思われる。
もし、アリサの結末が、孤独な死ではなく、どこかの修道院で居場所を見つけて生き続ける姿であったならば、批判の声はより少なかったことであろう。
(「愛か、さもなくば、死か」という二者択一こそが、文学的には美しく見えたとしても、現実的には間違いであろうし、そこには、アイデンティティの保持という観点が抜け落ちているのである。)

この、孤独な死を迎えたアリサの結末を、より望ましい形に書き換えたものが、『Forest』のエピローグであると言っても良いように思われる。

雨森におけるアイデンティティの問題は、「はじまりの物語」における「名前探しの旅」にも明らかであり、クライマックスの「終末の国のアリス」での、雨森と伽子に対する名付けのシーンを見ても明らかである。

ここで、『Forest』の雨森は、『狭き門』のアリサに当てはまると言えるようであるが、両者の違いは、前者がアイデンティティを守り抜くために彼氏と別れ、死を選んだ格好になっているのに対し、後者は、アイデンティティを守ることができず、むしろ、彼氏の影響によって、死を選んだように見える点である。
その意味において、雨森は、ジュリエットであり、エピローグにおいて、アリサへと生まれ変わったと解釈することもできるだろう。

もし、雨森が名前を取り戻した=アイデンティティを確立したのが、「終末の国のアリス」において灰流に名前を教えてもらった瞬間であり、すなわち、ビルから飛び降りて死んだ(砕け散った)後であるならば、彼女がビルから飛び降りた理由は、自らのアイデンティティを守るためではなく、別の理由からであったと推測できる。

そして、おそらく、それは、現実世界への「絶望」であったのであろう。

「俺は「永遠」も「無限」も信じないが、絶望するのは俺の勝手で――
その絶望に誰かを巻き込んで、ビルのてっぺんから突き落とすようなこと、したくはないんだ。」(「終末の国のアリス」灰流)

「そして、あたしは「永遠」に触れた――
でも先生、あなたは拒んだ。永遠を否定した。
無限という地獄――そう先生は言った。脱出したい。この世界を超えるんだ。
あたし、その気になっちゃった。」(「たからもの」雨森)

雨森は、灰流の思想に影響されて、「この世界を脱出する」=死んで新しい世界へ行くことを目指し、ビルから飛び降りたのだと告白している。
ここでは、「現実世界での幸福」=永遠を求めていたのは、雨森であり、「現実世界での幸福」の否定=永遠を否定していたのは、灰流であったが、
雨森は灰流に影響され、自らの求めていた「現実世界での幸福」を放棄し、ビルから飛び降りることになった、という構図である。
それは、『狭き門』でのアリサとジェロームの考え方が入れ替わった格好になるであろう。なお、作中で死を迎えるのがアリサではなく、ジェロームの方であったならば、より符合するであろう。(ただし、アリサとは違い、雨森が死を選んだのは、自らのアイデンティティを守るためではなく、むしろ、灰流の影響を受けたからであった。)

「俺なんか真っ先に死ぬべきなんだ。(中略)
この俺みたいなちんぴらのごろつきが、ただ食って寝てやって生きているだけでも、なにがしかの影響力は作用してしまう。恐ろしいことだ。
城之崎灰流が世界に在れば 城之崎灰流に世界は染まる いやおうなしの呪いの宿命 (中略)
みっともなくてもいいから、無色透明になれないかなあと思う。」(「傘びらき丸航海記」灰流)

この、灰流の虚無主義的な考え方が、半ば彼の危惧していたように、雨森に対して影響した結果、最悪の破滅を招くことになったと見ることもできる。
それを裏付けるものとして、前述の灰流の言葉、「その絶望に誰かを巻き込んで、ビルのてっぺんから突き落とすようなこと、したくはないんだ。」へと、繋がることになる。

雨森と灰流の間に、価値観の相違があったことは明らかである。
雨森は「永遠」を肯定し、現実世界での幸福(ハッピーエンド)を求めていた。
灰流は「永遠」を否定し、現実世界での幸福(ハッピーエンド)を否定した。

(なお、欧州の古典文学においては、「永遠」=「神」のことを指す場合が多いということは、裏の意味として留意する必要はあろうかと思われる。この場合、永遠を否定する=神を否定する、ということになる。
この解釈を適用するならば、彼女たちの間の対立事項は、「神の実在をめぐる信仰の問題」ということになり、それはまさに、『狭き門』と符合することになるであろう。ただし、この解釈については深入りしないこととする。)

この、灰流に影響されて、「永遠」を肯定するというアイデンティティを放棄した雨森の末路、言い換えれば、灰流への依存による雨森の破滅は、「終末の国のアリス」で名前を取り戻すことにより、解決されたと見ることができる。

エピローグでは、一人の自立した女性として、颯爽と歩く雨森の姿が描かれている。
そこでは、もはや灰流の影響の跡は見られない。
彼女はもう灰流への依存を止めていた。そして、言葉をかわすこともなく彼とすれ違うことができた。

――それが、彼女の自立の形であった。

灰流はそれを見送るしかない。
どれほど彼女を愛していようとも、自らの影響力が彼女を縛ることはあってはならないということを知っているからである。

これまでの解釈では、エピローグで二人がすれ違うことに違和感があった。
愛し合っているのであれば、一緒に暮らせばいいのに、と単純にそう感じていた。
しかし、『狭き門』を読んだ後、この結末の意味を理解できたように思えた。

愛する人との生活よりも、自らのアイデンティティを守り抜くことを選択した、アリサのように、
雨森もまた、灰流と一緒になることよりも、自らのアイデンティティを貫くことを選んだのであろう。
そこには、「彼氏への依存」から脱却した、一人の自立した女性の姿が描かれていた。
 
 



※以下、「腐り姫」に言及します。
※必ずプレイしてから読んでください。



































※以下、「腐り姫」に言及します。
※必ずプレイしてから読んでください。


上記の、『死をも超え、時をも越える、詩=想う心をもって、失われた存在へ届かせよう』というテーマ。

『想う心は、死をも超え、時をも越える』
この考え方は、「腐り姫」にも見受けられます。