誰も狂ってなどいない。
「太宰治の「人間失格」を読む人間には二種類しかいない。
この書物を読んで自分には関係ないという人間と、ここには俺がいる!と叫ぶ人間と。」
うろ覚えだが有名な言葉だったように思う。
だがこのことは多かれ少なかれどの書物、あらゆる物語にも当てはまるのではないか。
もちろんこの「CROSS†CHANNEL」にも。
「人間失格」を持ち出して唐突に思われる読者もおられるかもしれない。
しかし、こと主人公に関しては人間不信な点、それが極度のはにかみに由来するという点、結果人に対して道化を演じてしまう点など類似点が多い。
だとすれば、こうした問いを立てることは無意味ではあるまい。
この「CROSS†CHANNEL」に対して、美少女ゲーム版「人間失格」にとって
自分はどっちの人間だろう。
ひとつ言えることは過剰なまでに饒舌なこの作品はプレイヤーをも饒舌にさせるということだ。
「他者へメッセージを送ることを題名にした作品」について「他者にメッセージを発したい衝動」にプレイヤーは駆られる。実際それはこのサイトの批評投稿数を見れば分かる。
淡い絵柄、終始落ち着いた音楽、演出。
やり終えたときはそうでなくとも、じわじわと効いてくる。
自分もまたこの作品について語りたいと思うプレイヤーの一人だ。
だがそれは嫌悪感に駆られた拒絶の意志ゆえのものだろうか。それとも共感?
自分はどっちの人間だろう。
嫌悪感を抱くとしたらそれはこの作品世界が狂気に彩られているから。
「群青色」という言葉に象徴されるように、本作に登場するキャラクターは皆、「異常者」「社会不適格者」「適応係数基準値オーバー」の烙印をおされている。(七香は例外)
自分の秩序が侵されたとたん自傷行為に走るのはセイジョウじゃない。
相思相愛になったとたんストーカーまがいになるのはフツウじゃない。
潔癖が過ぎてノイローゼになってボーガン持ち出すなんてナンセンス。
他人の痛みを全く感じずに平気で傷つけられるなんてリカイできない。
全くその通り。だがホントにそうか。
ルールを人に押し付けてしまうのは良くあること。
好きになった相手に寄りかかって空回りは良くあること。
他人の悪意を想像して不安に駆られること自体は珍しくはない。
他人の心など推測しかできない。それを彼女は深刻に考え過ぎたのだ。
たぶん群青色の深淵に足をつっこむことはそれほど難しいことじゃない。
程度の問題。とっぴな行動として現れるか現れないか。
美少女ゲーム的にグロテスクなまでに強調された個性でもってヒロインたちはその境界線を軽々と越えていく。
つまりはこういうことだ。
0と1の間には一つしか違いがない。だが0を何倍しても1には届かない。
では0と1は近い数字?それとも遠い数字?
実際に0から1に飛び越えたことのある人ならば即座に答えを出すだろう。
だがそうでない人は想像するしかない。
想像しようとさえしないというのもひとつの選択。
想像したけれどわからないというのも正しい結末。
結果に注目すれば別世界に住む異形のキャラたちも、そこに至る動機に思いをはせれば感情移入、少なくとも理解はできる。
(なにしろテキストで懇切丁寧に説明してくれているのだから!)
共感と拒絶。プレイヤーにはどちらの道も開かれている。
そしてそれは作中で繰り返し述べられてきたコミュニケーションの要諦ではないか。
もしもあなたがこの物語に共感したとすれば、おめでとう。あなたにとってこの物語は人生の財産として胸のうちに残るだろう。その代わり、幾分かは自分も「狂っている」のかもしれないと認めざるを得ないが。
もしあなたがこの物語を拒絶すれば、確かにあなたは自分を「正常」だと主張できる。
だがそれは、それでもこの物語を支持する結果になるだろう。
太一の下した最終結論とは結局、人は触れ合えないし分かり合えないというものだったのだから。
どちらを選んでも希望と絶望。
巧妙な詐術。
巧妙なのはテーマの選び方だけではない。
この作品の構成自体が美少女ゲームというメディアを相対化し解体するものとなっている。
またたとえ話をしよう。
家が美少女ゲームで、そこで暖をとるのが感動すること=プレイする目的だとする。
作者:田中ロミオ(山田一)の前作「家族計画」が最高の出力のヒーターを備え最も断熱効果の高い設計の家をつくることを意図したものならば、「CROSS†CHANNEL」は最小のヒーターで家そのものを燃やすことで暖まることを狙った作品なのだ。
どいうことか。
このことを説明するためには「CROSS†CHANNEL」のストーリをいくつかのパートに分け、そのときのプレイ体験をざっと素描してみる必要がある。
物語が進むにつれプレイヤーの抱いていた前提が覆されていく過程を。
物語が進むにつれプレイヤーと主人公黒須太一の視点が一致していくさまを。
最初のパートは、スタートから最初の一週間。
この段階ではプレイヤーは群青学園のこともループする世界のことも知らされていない。
一見してツンデレキャラらしい冬子
ツンデレパート2かつ後輩な霧
無邪気で年下で頭の回る美希
年上委員長属性のみみ先輩
万能型不思議系の曜子
こうした記号的美少女と戯れつつも時折挿入される意味不明の台詞や用語を「伏線だな」と思いながら読み流す。
いつもの美少女ゲームだ。
ただひとつ気になるのは主人公が異様にハイテンション、セクハラマシンガントークなので物語に集中できないことか。
この段階では太一は感情移入するうえで明らかにノイズになっている。
最後はみんな仲良くなってめでたしめでたし。
次のパートは世界が説明もなくループしてから、みみ先輩、冬子、霧の三人を攻略するまでの期間。
ここで人類は太一たちを除いて滅亡しており、主人公たちが通う「群青学園」は社会不適格認定者の隔離施設であることが明らかになる。ヒロインたちも徐々にその「群青色」をあらわにし始める。
正気を保ったまま壊れていくみみ先輩。
デレになったとたん病的にべたべたしたがる冬子。
さびたナイフのような敵意から一転して従属的になる霧。
極限状態ということからみみ先輩の反応はまあいいとしても
あとの二人のツンデレ(作中では反転強気属性と表記)具合には引きませんでしたか。
(この段階では彼女たちの内面、背景は詳しく説明されていない)
最初の一周はまともに見えたのに。
ちょって待て。ここで少し想像力の翼を広げてみる。
それってほかのゲームのツンデレキャラにも言えるんじゃね。
ショコラの花鳥玲愛や君望の涼宮茜シナリオのその後を考えたことがあるか。
あるいは本編には描かれなかった暗部があったんではないかと想像したことがあったか。
霧や冬子に負けず劣らず強烈な個性を持つ彼女たちである。
適応係数高そうだ。
「遠くから見れば喜劇、近くで見れば悲劇」ということわざもある。
物語は進みほかのヒロインの闇も明らかに。
委員長キャラと自滅する潔癖症って紙一重だったのか。
世話焼きな幼馴染も限度が過ぎればいたい女だよなぁ。
知ってはいたさ。恋愛シミュレーションと言ったって恋愛の上澄みだけをすくって並べているんだって。
分かってはいたさ。実際こんな女はいないって。
でも僕が萌えて泣いていたのはこんなにグロテスクなものだったんだ。
通常の美少女ゲームとは「CROSS†CHANNEL」の一週目に過ぎない。
実際には描かれない彼女たちの過剰な個性が暴走した二週目以降の世界が存在しうる。
この認識をプレイヤーが持つとき、美少女ゲームをやること、キャラに萌えることは別の意味を持ってくる。
少なくとも
彼女の容姿にほれている。40年後はしわくちゃになっちゃうのは分かっている。この感情が一時的表層的なものかもしれないって分かってる。でもそれでも結婚したい!というくらいの覚悟が必要だろう。
太一のセクハラトークも理由のあるものだということが明らかになり以前よりノイズじゃなくなる。
キャラを相対化しつつも物語は続く。
次のパートは「CROSSPOINT」からヒロインの送還を決意するまで。
ここで世界はループしていること、その唯一の例外が祠であることが明らかになる。
これまで起きた出来事を記したノートを祠置いておくということがここで利いてくる。
ここで問題となっているのは美少女ゲームの主人公とその分身ということになっているプレイヤー視点の乖離。
このことについては東浩紀が「動物化するポストモダン」で指摘している。
美少女ゲームではプレイヤーの分身たる主人公はいわゆるナンパな男に設定されることが少なく、ヒロインとの交流は「運命」や「奇跡」「純愛」などと表現されることも少なくない。
にもかかわらずプレイヤーは一人のヒロインを攻略し終え、一通り感動の余韻に浸った後コンプリート目指して次なるヒロインの攻略にかかる。
そこでは再びプレイヤーは主人公の「一度きりで」「運命の」恋を目撃、体験する。
よって美少女ゲームユーザーたるもの「二重人格的」「偽善者の」精神を身につけなくてはならない。
シナリオごとの主人公に本気で感情移入しつつも、ほかのシナリオプレイ時にはそのときのことは横においておけるような。
このジレンマを克服するために作者は美少女ゲームのなかの主人公に美少女ゲームをさせる。
上述のジレンマはプレイヤーと主人公のもつ情報量の差、パラレルワールドについて知っているか否かによって起きている。
ならば物語の主人公にも並行する物語について知らせてやればよい。
太一は私たちがヒロインのあるプレイのときはこっちの、別のときはあっちの個別ルートに入ろうと意識して行動するように、自覚的に週ごとに付き合う彼女を変えていくだろうし、私たちが攻略サイトをみて効率的なプレイを目指すように、祠のノートを見て最適の行動を模索する。
ここに至って主人公とプレイヤーの視点はかつてないほど交差(「CROSSING」)する。
感情移入度上昇。
主人公の漁色的な設定もこれしかないと思えてくる。
人が世界から消え(美少女ゲーム世界の隠喩=攻略キャラと数名の友人以外は世界にいてもいなくても同じ)、無限に繰り返される(今を生きる!必要なし。セーブ&ロードの世界)ことを知ってなお美少女ゲームのプロットを進める=女の尻を追いかける(あくまでプレイヤーに嫌悪感をもたれないように自然に)には凡百いる無個性主人公には荷が重いだろう。
「ALICE SOFT」のランスのようにとんでもなく器の大きい人物か、あるいは太一のようにその場の快楽に流されるだめな人間でなくてはいけない。太一は自分がだめなことを自覚している醒めたピエロではあるが=美少女ゲームユーザーの自画像(?)。
ゆえにここまでの太一の行動指針、ヒロインのご都合主義な反応(レイプされて慕うみたいな)に嫌悪感を抱いたとすればそれこそ作者の思う壺だろう。
これがあなたの望んだ世界ではないですか。これがあなたの普段(のプレイ中)やっていることではないですか。
「WHITE ALBUM」の失敗以降、美少女ゲームの欺瞞を正面から話題にするのはタブーになった観があるから「偽善者め」という一言のために作者はこんなまわりくどい手を使った。
ああそうさ。キャラに感情移入して泣いたといっても、操を立ててプレイを中断したのは「家族計画」の茉莉だけだったしそれも一週間ほどで破ったしね。
自分は主人公を自分自身だと思う側の人間みたいだ。
キャラもプレイヤーも解体して物語は疾走する。
次なる段階は太一がヒロイン、親友たちを元の世界に送還するパート。
作品全体が美少女ゲームのメタファーであることを念頭に置けば、このプロットの意味も自明だろう。
美少女ゲームにおいて攻略を終えたヒロインは次なるヒロインのシナリオでは舞台から消える。少なくともただの背景になる。
あるいは、ひとつの作品のシナリオがどんなにすばらしくても、その「現実の」人間関係に持ってはいけない。
ゲームのプログラムを終了したら彼女とつながるにはその場で「回想」するしかない。
「思い出」だけもらってバイバイさよなら。
彼女はハードディスクという違う世界で彼女の役割を演じ続ける。
あるいは、私たちの人間関係が変質しつつあることを投影しているのかもしれない。
人の移動、転職が増え、ネットを通じた交流が当たり前になり、「降りようと思えば降りられる、その気になればそれっきりにできる」関係が増えた。
地域や家族がリアリティを持っていて、ひとつの会社に骨を埋めるのが当たり前の時代には考えられない変化だろう。
「思い出さえあればそれでいい」
この言葉に頷かない感動系美少女ゲームユーザーがいようか。
この言葉に反応する孤独な現代人も多かろう。
長い長い物語の、プレイヤーの結末。
太一はひとり世界に取り残され、幻想の中の母親の記憶からなくしていた心を取り戻す。
太一が送るメッセージは電波に乗って世界へ。
この終わりの意味するものは何か。
多分ここに冒頭でふれた「CROSS†CHANNEL」がプレイヤーに語りを誘発する作品である理由が書かれているのだと思う。
ある作品の全てのシナリオを終えた美少女ゲームは、ひとり取り残された太一のようなものだ。
もうどこにもいけないし、だれもいない。
もう一度プレイしなおしても、それは既に知っている展開をなぞる「追想」にすぎない。
次第に飽きてくる。
太一がそうだったように。
そこで変化がおきる。
コンプリート後の閉塞状況を打ち破り物語と睦みあい続けるには方法はひとつしかない。
考察、創作等で物語を自分で再構成し誰かにその感動を話すこと。
答えは初めから自分の中にあった。
パソコンというメディアはその性質上、テレビなどに比べると多人数同時にひとつのディスプレイに向かうということに向いていない。
美少女ゲームとは孤独な作業になりがちだ。
さらに現視研に入っているなどという状況にない限り、身近な人に話して聞かせることのできる話題でもない。
話して聞かせるとしたら別世界にいる顔の見えない他人
というケースが多いのではなかろうか。私のように。
自分のために他人が必要であると認めること。
「家族計画」で語られていたことと同じテーマ。
もう少し、一般的な状況に当てはめて言えば、今は別世界にいて交流もない知り合いの中にもあなたのメッセージを待っている人がきっといるから寂しいなら勇気を出して連絡を取ってごらんよということになるだろうか。
思えばあの謎めいたエピローグも語りを誘うためのフックであったのかもしれない。
あの最後のセミの声はなんだったんだ。
そう問いかけることは物語に対してラブレターを送ることに等しい。
どんなに望んでも完全にひとつにはなれない。
ただ思いを馳せているとき君に近づいているのを感じる。
ゆえに作者はあえて最後の最後にノイズを混ぜた。
「Key」などは良くやる方法だ。
美少女ゲームという場に全てのカードが出揃いつつあるとき、それらを使って一度きりのロイアルストレートフラッシュを放った。それが本作品である。
作品中では誰も狂ってなどいない。
狂ったのは、作品前後の私たちの美少女ゲームへの認識であり
もし彼女たちが狂っているとしたら、それは現在の美少女ゲームのあり方そのものが狂っているからだろう。
太一につられて、別世界にいるまだ見ぬあなたに送ります。
メッセージ、どうか届きますように。
(ちゃんと無線ランにしてますよ)