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gorira431さんのCROSS†CHANNELの長文感想

ユーザー
gorira431
ゲーム
CROSS†CHANNEL
ブランド
FlyingShine
得点
96
参照数
1473

一言コメント

エロゲ黎明期の傑作

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

初見だとわからない部分が、時が立つにつれて見えてくる作品。この作品から受け取るメッセージは非常に多いと思うが、それを言葉にするのは難しい。


例えば、この作品に流れる一種の退廃的な空気はメッセージの一つに当たるだろう。そして、この点は評価するにあたって、好き嫌いが分かれるということも自明であると思う。要するに、この空気に親しみを覚えた人はこのゲームからより多くのメッセージを受け取り、逆に合わなかった人はメッセージを受け取る前にこのゲームの舞台から降りた、ということになる。 
 

この空気は、要するに、自我をその都度使い分ける社会に対するアンチテーゼを多分に含んでいる。例えば、人を褒めるときに、個人の中に自我を押し殺して社会を生きるための立ち回りを優先し、偽の自我を作り出しては演じる社会のことであり、例えば、その裏で、仲間と楽しく会話しながら、ある人に対して悪口を浴びせる社会のことである。社会とは一言にいうもののの、このように自我が複雑に混ざり合って形成されていることは忘れてはならないだろう。表向きには楽々とした空気を放っているものの、その実は、繋がりなんてありはしない、虚飾の関係がごろついているのみだ。利害や理性、感情、趣味、嗜好、そんな打算的な関係を、理解しているにも関わらず、本当に素晴らしい関係だと割り切ることで成り立っているのだ。
 

本当に信頼関係を築いている、と言うのは簡単だが、人は元来裏切りやすいもので、恋愛関係や金銭トラブルなどで容易に破綻する。どれだけその関係が強固であると当人が信じていても、側からみれば単なるたわ言でしかなく、結果的に残るのは裏切られたという事実である。
 

勿論、これは人間の負の側面にクローズアップした局地的な話でもあり、本当に信頼し合っている関係は存在するだろうし、その点を否定する気は毛頭ない。要するに、このゲームの着眼点は、その部分を排除した人間の負の部分にある。
 

自我の使い分けは是か非か。こんなことをこのゲームは訊ねているように思える。先ほども述べたように、この世界は、時に自分に嘘をついて自我を隠すことが必要だが、それは簡単に割り切ってできることだろうか。それを何度も何度も繰り返して行くうちに、ひょっとして自我の根元が揺らぎはしないだろうか。自信を持って、自分の発言を、自らの信念の言葉として肯定できるだろうか。
 

平気であっけらかんに本音を言ってしまう人。多分、どんな人でも一度はお目にかかったことがあると思う。そして、そんな時は、決まってその人が白い目で見られたに違いない。あるいは、ぎこちな雰囲気になったのかもしれない。その発言は皆の思うところに合致しているのに、社会という人の群れが邪魔をして、その発言は結局間違ったものとみなされる。これは社会的通念であると同時に、少し再考してみると、ある意味で理解しがたい通念であることもまた認識されるところであると思う。
 

なぜ本当のことを言ってはダメなのだろうか。自分に正直に生きて、何がダメなのだろうか。この問に対する明確な答えは、おそらく社会が存在するから、という鮸膠も無いものになるだろう。個人と個人ならまだ良い。でも、何千、何億と膨らんだ群衆の中では、自らの信念を貫くことは容易ではない上に、不都合が途方もなく多い。例えば、目上の人にはペコペコしないといけないとか、不細工な人をバカにしてはダメだとか、とにかく生きる上での制約がその辺の石ころ見たく、そこら中に散らばっている。
 

ここで考えるのは、それでもなお自分の信念を貫くことは果たして間違いか、ということだ。このことに答えはない。これに対して、社会があるから、と答えることもできるが、裏を返せば、社会が間違っているという逆説的な答えもまた一つの解となり得るだろう。
 

Cross Channelの世界は、このことに関して漠然とした答えを与えてくれているように思う。それは、諦めることだ。太一は最終的に皆を送還して、一人空っぽの世界に取り残される。それは、自我を完遂したことであると同時に、社会を抜け出したあるいは社会から取り残されたことを意味する。結局、自らを貫くことと社会との共存は不可能であり、自らを維持するためにも、社会、つまり人とのつながりを放棄せざるを得なかったのだ。
 

太一が送還に至るまでのプロセスを考慮すると、太一の諦めの理由が垣間見える。それは、太一にとって、送還までのプロセスが、自我とはかけ離れたものだったことを意味している。つまり、太一は、真の自我を隠して上辺の関係を求めた、ということだ。ただし、それは物語の結末から分かる通り上手くいかず失敗に終わる。
 

太一に流れる系譜の一つは、おそらく理解はしてもらえないという感情だろう。結局、太一はその感情を最後まで捨てきれなかった。その是非はひとまず置くとして、個人的にこの決断がこのゲームに要諦に思える。世の中を大別すれば、自分を理解してもらえると考える人と、そうは思わない人の二つに二分されるだろうが、太一は明らかに後者に当たる。
 

このゲームの良い点として、その考えをかなり肯定的に描いているところがあげられる。説教くさく、人と人は分かり合えるだとか、俺が全て受け止めるだとか、復讐は何も産まないだとか、語るゲームもあるが、本作はそんな考えをうるせーと一蹴している。これは、完全に見方の相違で、そんな肯定的に融和を訴えるキャラクターは概して人生に対して肯定的な見方を持っている。対して、太一は、そもそも子供の頃から虐待され続けた挙句、何十人も人を殺し、その罪も償わずに、曜子ちゃん以外にもその秘密を明かさないまま、生き続けてきたのである。その業を持ってして、人生を肯定視できるはずもない。
 

自分は太一の最後の選択はとても美しいものに思える。太一の選択を完全なる諦めと捉えることもできるだろうが、それは言うなれば肯定的諦めに近い。その諦めの出発点は、結局自分の心を癒せる者など誰もいない、という部分にあると思う。他者に救いを求めて救われることはできるかもしれないが、太一の場合、それができなかった。ただし、太一自体初めから救いを願ってはいなかったようにも思える。私見ではあるが、太一は、理解者一人を求めていたのではないだろうか。
 

その意味で、ラストの送還は決別を意味するとも言えるが、それだけの意味を持つとも言い難い。そのもう一つの意味は、期待ではないかと思う。
 

太一は他者から救われることはないと思ってはいたが、それでもなお、他者に対する期待を諦観の感情の横に、なお有していたのではないだろうか。心の奥底から他者を諦めることができず、その結果が送還という全く逆方向の決断へと繋がったとは考えられないだろうか。つまり、太一は、他者を諦めながらもそこに見える希望の灯火を見失いたくもなかったのである。


勝手に人に期待する、なんてことは往往にしてありがちなことだと思う。あの子と両思いだったらいいなとか、この服やすくしてくれないかなとか、トイレに行きたいんだけどなとか、良く言う察してくれ的なことに相違ない。おそらく、太一もまたそのような感情を常日頃から自我の奥底に眠らせるようにして、過ごしていたのだろう。感情が泡だてば、それだけ表層に上がる機会も多くなる。ましてや人がいなくなって、たった7人が永遠に同じ時間を過ごす世界である。期待をしない方が不自然とすら思える。
 

諦めと期待。相反するような要素だが、太一の胸の奥底では、この二つが蠢いてそして消えなかったのだろう。
 

ここに来て、なぜ太一が皆を送還したかをもう一度考えると、一つの答えが浮かぶ。それは、自分は一人でいるしかない、という決意である。自らは他者に理解を勝手に求め、その都度自爆し、他者に絶望する。しかし、その理解を求める行為をやめることは自我が許さない。太一はそのループから抜け出したかった。そう考えるととてもこの物語がしっくり来る。何もバットエンドではない。
 

自分は、この決断が先述の通り本当に美しく感じる。とても退廃的で厭世的で、それこそ甘美な気もする。一人で勝手に納得して勝手に自分の殻に閉じこもっているだけと捉える人もいるかもしれないが、それでは太一の心を完全に理解できる人はいるのか、という問題にぶち当たる。そこにズレがある。太一は何も殻に閉じこもりたかったわけではない。色々と試行錯誤した結果、自分という存在を諦めたのだ。殻から出ようと必死にもがいて、もがいて、もがいた結果、彼はそのもがきに意味を見出せなくなったと言っても良いかもしれない。
 

人は分かり合えるか否か。本作の答えはノーである。厳密にいえば、わかり合おうとすることは可能だが、わかり合うことは永遠にできないのである。ここで、二つの選択肢が生まれる。それは、それでもなおわかり合おうと努力するのか、諦めるのかのどちらかである。本作は、明らかに後者の選択が描かれている。真の意味でわかり合うことができないのに、一体お互いが歩み寄ることにいかほどの価値を見出せるだろうか。その行為は、単なる馴れ合いで、心を満たす触れ合いに発展することは全くない。そして、そのことを理解しながら、それでもなお馴れ合うことに希望を見出せるのだろうか。
 

「人はわかり合える」、「諦めるな」などと言うのは簡単だが、その言葉は何も語っていないことを忘れてはいけない。その言葉は、言われた当人の苦しみ、怒り、痛み、悲しみ、その他諸々の感情を完全に捨て去っている。つまり、諦めることに至るまでのプロセスが必ずあり、そのことを踏まえて、あるいはその当人と同等の体験をしてもなお、諦めるなと口にできるのか、という相手の問を全く考慮に入れていないのであり、それはただの感情の押し付けに過ぎない。


そこまで考えれば、太一の送還という行為は、自己満足なんかではなく、そうせざるを得なかったやむない行為だということも自然と理解されるだろう。太一には偽りの言葉も偽りの関係も綺麗事も必要なく、真の理解だけが必要だったのだ。
 

ラストの一方的な太一のラジオ放送。これは太一の出した最後の結論と考えられる。分かり合えないなら初めからわかり合おうとせずに、期待もしないで一方的な関係に満足する。他者は近くにいるゆえに触れ合えるからこそ、求めずにはいられない。だから、遠くにおいて、こちらからしか干渉できないようにして、自己を訴える。ただし、この行為は、太一の他者を求める心が依然として残存してることも意味している。結局のところ、自分を伝えるためにラジオ放送するのであって、諦め切れていない側面がそこには根強く感じられる。
 

人の心はどれだけ上辺を繕った所で、本心を、真の自我をごまかすことはできない。太一の場合、どれだけ自らを理解してくれないことを悟った所で、その理解を求めないわけにはいかないのだ。太一は決して人間的ではないわけではなく、人間の心に虐待の過去をが重なり合ったため、その本来の人間性が表に出て出てくるのが実質的に不可能になったと考えるのが妥当だろう。
 

まとめに入ると、本作の捉え方は多岐に渡ると思うが、私見としては、とても流麗な物語だと考えた。みんな上手くいくように空回りしたり、時にそれが弾けてトチ狂った行動をしたり、結局みんなを突き放す行動をとったり、一見すれば円満な物語ではないが、太一にとって、その結果こそが一番円満な結論だと言うことは先に述べた通りだ。その結論は、究極的に個人主義に突き当たる。要するに、皆の幸せよりも個人の見解を優先させたのだ。そして、この結論は全く否定できない。どれだけ周りがその結論は否定した所で、本人がそれを受け入れているのだから、否定の入り込む余地がないのだ。太一はみんなと生きていくべきだった、殻に閉じこもるべきではなかった、もっと模索できたはず、など色々と言うことはできる。でも、そんなことを言うのになんの意味もないし、ただの外野の綺麗事だろう。その意味で、円満な結論よりも、個人の、一見不幸にも見える結論を優先した本作が、とても流麗に感じた。その流麗さは、沙耶の唄にも少し通じるところがあるように思う。
 

かなりまとまりはなかったが、 Cross Channelについて思ったことは以上である。付記として言いたいのは、本作のBGMおよびEDの出来は傑出している。特に、「silence」、「deep inside」、「fragile」の3曲は本作の退廃的な空気を見事に演出していた。EDの「crossing」も本作を的確に表現している名曲で、歌詞やメロディーをなぞる度にいたたまれない気持ちになる。
自分にとってこのゲームを超える面白さを持つ作品はあるいは生まれるかもしれないが、このゲームを超えて自分の胸を打つゲームはおそらく出ないように思う。それくらい偉大な作品で、個人的な金字塔です。本当に素晴らしい作品でした。