ErogameScape -エロゲー批評空間-

goriemonさんのリアライズの長文感想

ユーザー
goriemon
ゲーム
リアライズ
ブランド
PLAYM
得点
90
参照数
0

一言コメント

………ゲームであることを半分放棄しているw。極めて正統な電脳ノベルの美意識が貫かれたこの作品は、まがりなりにも純文学テイストの大衆文学の様を呈している印象。最も前衛的な倫ルートは、一種のシュルレアリスム?しかしかなり悪名高いソフトらしいのでw、まあテキトーに擁護してみます。ADV作品で90点以上は私の中で別格ですが、確かにいろいろ酷いので最低点。(後半の目印と大きな空白行以降がネタバレ感想。書いてる途中で挫折、ま未完というのも良いかも)

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

プレイヤーを突き放してひたすら突っ走り、妥協が無い作品。
この作品の極めて重大な欠点は「正気とは思えないほど不親切 <攻略情報必須> 」なこと。
また『沙耶の唄』等と比べて定価が高く、6800円ぐらいが妥当な感じ(まあどこでも激安品扱いですが)


■■私が定義している意味で読書好きな人向け (これが最も重要かも)■■
「心情や背後のテーマ」を自発的に読みこみ思索する行為は、私が定義する「読書」の一要件で、その行為が習慣化している人を私は読書好きと呼んでいます。その「読書」の必要性の有無が、私が思う「文学的かそうでないかの決定的差異」の一つと考えています。その「文学的」なものの中で明確・顕著な例は「物語が付随したテーマ主体作品」(所謂テーマ小説的)であり、『REALIZE』もほぼそれに属します。つまり「読書」をせねば何も返ってこないという質朴で読み手を突き放した一面と、作品全体を通してテーマを訴える特徴を持っています。
実はこの特質は、ADVゲームや多くの少年向文庫と真逆なのです。それらは一般に「テーマが付随した物語主体作品」で、非常に受動的な姿勢を読み手に要求するからです。過大な設定・スリル・過剰な愛嬌をふりまくヒロイン・展開トリック・叙述トリックを強調した大味な娯楽性は、アニメ的で奉仕的と言えるでしょう。また物語主体なので、作者の主張も結末に集中する特徴が有ります。だからアニメ・ゲーム・ライトノベル漬けで、私が言う「読書好き」でない人には「ひたすら退屈で結末も無い作品」で終わってしまう可能性が高いのです。


■■私が求めていた理想に近い作品■■
「数年前に報道番組で紹介された」という情報で興味を持ち『加奈』を通販で購入(恥ずかしくて店頭では買えない)して以来私は、18禁ゲームの持つ意欲的で開拓精神の強いアングラ臭(自由な表現・演出、前衛的、実験的傾向)に注目し、作者のポリシーが反映した電脳ノベルを探し求めました。
『REALIZE』は
☆18禁ゲーム最大の難点"オタク臭さ"が皆無 ☆多くの奇抜な試み
☆「読書」が必要な割に、一般に不格好なテーマ小説よりも話を巧く纏め上げたシナリオ
という特長を持つ堅実で素朴なデジタルノベルで、完成度を除けば私の理想ほぼそのものと言えるでしょう。それを別格の最低点として表しています。

<個人的にはほぼパーフェクトと思える概観>
表情・体躯・骨格のいずれも程好くデフォルメかつ写実的で風貌豊かな人物画。激情の劫火を封じ込めたアグレッシヴなOP動画。
美麗な背景。ダイナミズムの際立つカメラアングルとパース。臨場感を増す効果音。和製フュージョン風の多彩なBGM。

<作風と調和したエクセレントな写実的文章>
作家タイプのソリッドで堅実な文体と鋭利な表現。豊富な人間観察力でリアリティを追求した、生きている会話。特筆すべきは、各場面の簡潔で詳細な状況/情景描写。仕草や表情の叙述に比重を置き、内面を読み手に示唆する事で深みを増したスリムな内面描写。それらの正統な小説的文章が適度な分量でバランスを保ち、妙にリズムが良い。

<文章枠サイズを逆手に取った表示の妙技>
クセも特殊な表現も無いのになぜか鋭い切れ味をもつ、文章枠大に合った読み易いルポ調短文。開始~屋上の場面が終わるまでの間だけで、その不思議さに唸ってしまいました。このトリックの核心はおそらく「一度の表示文章が1行~6行で変動する」という事実。前後の文章を適切なセットで区切りページをめくる事で、躍動的なリズムを生み出しているんですね。ある時は連続で1ページ一言にしてスピード感を出す。一度の表示量で緩急を自在に操る、このこだわりは本物です。おそらく読書の習慣がある人ほど、この「電脳媒体ならでは」の特長に気づくと思います。好感を抱いたのは、原著で出くわす超長文を関係詞や,で一度切る私のリズムと類似しているからでしょう。(90年代以前の訳書は、雰囲気の正確さより文構造を律義に優先した指示代名詞だらけの強引な一和文が多く、思想書など原著の方が明快だったり)

<私が好む空想小説とは>
娯楽活劇巨編に人気が集まる風潮に反し、この作品は、日常に混在する僅かな非現実要素で物語が動き出す、素朴な大衆小説的作風。しかもその異常現象の役割は娯楽性ではなく「人間の内面を描く隠喩」と作者が暗示している。私が求めていたのはまさにコレですね。『沙耶の唄』は過激な描写に依存しがちだったので、やはり私はこちらを数段上に置きます。
この作品はYam氏の御指摘通り、全能的八重や非日常ショックによる冒頭など『エディプスの恋人』を想起させます(七瀬+『彼女』=八重、七瀬-テレパス=亮)。また、人間観察や異能者仲間の諍いなども七瀬シリーズ的で、アニマを思わせる春秋のエンド等も、心理学に精通した筒井的といえば筒井的。とはいえ類似は表面だけで、都会的エッセンスで味付けし、社会学/人間科学的観点でまとめあげた全く新鮮なジュブナイルに仕立ててあるので、読み甲斐がありました。余談ですが、世間では曖昧になったジュブナイルとライトノベルの境界を、私は未だに区別しています。後者はまるで蔑称のようで使いたくない。リアライズは、小松左京や筒井康隆のような大御所の大衆作家は読んだ経験がある人なら、落ち着いて楽しめる斬新なジュブナイルだと思います。終盤はベタで古く青臭いですが、私はいかにも昔風の伝統的小説として楽しみました。現代的概観と交錯する前時代オマージュ的レトロ感が、一時期昭和の大衆小説を漁った私の琴線を刺激するのかも。基本に忠実で地に足の着いたライターなんですよねぇ…。これは売ってもほとんど金にならないので、中身以外捨てて『Forest』とともに持っておこうかとw


■■デジタルノベルを追求した終着の一つ ――― "日本映画的"色彩■■
TYPE-MOONは、メディアアート的な演出を駆使しますが、絵や物語から受ける印象はアニメ寄りでした。一方、素朴なノベル的格式を保ち、臨場感を追求したヴィジュアル、徹底してナチュラルな日常と心情描写で構築したらどうなるのか?
私の感覚ではこの作品を「著名ジュヴナイル小説の類を実写映画化したような雰囲気」と捉えました。過剰な視覚効果による演出が一切無いのに映画的と感じた点は、非常に感激した特徴の一つです。
では「なぜそう感じたのか?」次のような理由が考えられます。
場面描写において、一般の小説では文章のみが頼りです。一方、ADVゲームでは背景も表情豊かな人物画もあるので、文章の貢献は小さいか不要な事も多いでしょう。しかし、この作品は優れたヴィジュアルを用意しながらも、細やかな描写を怠らない。ここに濃密な臨場感を生む要因があると思われます。間延びしない文章による淡々としたリズムも、小説的でありながら邦画的な躍動感を生んでいる要因なのでしょうか。TYPE-MOONの野心的な方向性も素晴らしいですが、「ノベルの底力」を誇示する、この愚直な程の正統さも同様に素晴らしい。私の中で電脳ノベルの筆頭候補に挙がる一つと言ってよいと思います。


■■欠点■■
◎とにかく不親切 ◎難しすぎて攻略情報必須 ◎選択肢が不完全でエゴグラムも無意味 ◎誤字脱字 ●一部の文章が切れ切れ過ぎ ●好みの問題だが「~のように、ような」と直喩の頻度が高い ●新聞の風刺画並みの強調で骨格が奇妙な絵在り ●蛍の髪型がダサい(笑) ●SAVEDATAには番号すら無く、日時刻印で判断しなくてはならない


■■その他■■
○今思えば、Fate/Stay nightでの武内氏の狙いはこういう絵だったのかも。しかし顔がリアル風でないと微妙な感じ。
○設定に色々ツッコミどころがあるがw、余計な説明で自滅するよりは一切を省き、登場人物もよく理解してない不可思議な力とする事で煙に巻いています。あくまでもプロクシは人間を描くために存在しているので、設定に注目し過ぎても無意味ですが。
○終了後に作者の個人サイト?でネタバレ裏話を読みました。PS2で内容を大幅に追加・親切に改良して発売し、後付設定やエンド変更があったようです。ゲーム的方向に修正され、倫エンドも変更されたようで、私にはPC版が合っていると思います。(しかし携帯で遊べるPS2版には興味有)



リアライズはどういう作品なのかを理解するためのメモ

たまたま現在プレイ中で2周以上した人 or 既に終了しているが意味不明な作品だったなあと思う人向け。
本来の意図通りに作品がプレイされないなら「作者も購入者も不本意」だと思うのです。
ヘンテコな叙述トリックは事前に知っておく方がそれを意識して読めるのではないか、
というのは私の経験上の独断なのでネタバレ自己責任で。
















■リアライズはどういう作品なのか ――― 無謀な数々の実験的手法■
私がイライラせずプレイできたのは、最初から攻略情報に頼り、作者の意図や解説等なにかの抜粋txtを知人に送ってもらったおかげ

<視点のギミック> (※ゲームとしては斬新でも小説ではおそらく×。ヒント無しでは理解困難)
リアライズは【亮を含めた】エゴ所有者達の精神にパールホワイトを侵入・寄生させ、その生き様を観察している【芝浦八重の視点で終始語られる】選択式ノベル。3人称と思われる場面描写は、実は覗き見ている八重によるルポルタージュ。八重単独シーンでは1人称「私は」で「八重は」と書かれていない点に注意。八重と他の人物が一緒の場面でも基本はルポ記述だが、エンドや各クライマックスは例外(この時は八重の意識の重点が自身に向いている)。八重が「街中に散らばったエゴで人々をあちこち観察」と明言している一文が在るが、最強のエゴパワーを有する日戸暁の内面までは、唯一窺い知る事ができない。一般人だが蛍だけがやたらと観察されているw

<各エンディングの純小説的なカタストロフ>
物語の視点も理由の一つなんですが、ページをめくるように「まるっきり小説そのもの」の終わり方をするので、演出で盛り上げるアニメ・ゲームの明解なラストにどっぷり浸かった感性では、正直全く理解不能、人によっては怒りすら感じるかもしれません(苦笑)。文体といい、結末のセンスはなんとなく『誰彼』の作者に類似するバックグラウンドを感じさせますね。

<エゴグラム、従来のタイプと異なる一部の選択肢>
「攻略情報に頼るのが無難です」。非常に不完全な出来で、これで91点以上不可。知人の話だと、元々作者が従来の逆パターンばかりやりたがる傾向(この作品自体、全て普通と真逆)があるそうです。つまり「間違った選択によるBADENDルートは全てムダなので省く」「しかし間違いは強調したい」という理由で例えば「蛍にエゴを使う」「ディアブロによる虐殺放置」等のニ択選択肢(教育的選択肢)ができたのではないかとのこと(そも不要なら削除するはず)。八重の運命は実は決まっているので、彼女の視点で語られるこの物語は必然的にほぼ一本道ですが、ここでも従来と逆に「いかに正しいルートに乗るか」という方法を採っています。三択選択肢とSPECIAL内中央のエゴグラムで、行動理念の一貫性によるルート分岐を表現しようとしたらしいですが、ほぼ失敗でしょう。
亮以外の人物の行動を決定する場面もある以上、この作品は松浦亮を操作するADVゲームではなく、あくまでも選択肢によって結末が変わる「選択式ノベル」です。まあ私は選択肢をなるべく減らして、ノベルとしての美しさをできるだけ保って欲しかったですが。そうすれば、さらに3、4点付きました。

あまりに奇妙な作品はプレイヤーに理解されず不評で終わるのだから、ゲーム内で懇切な説明とヒントを提示し、作者の奇抜な意図を伝えるべきだったと思います。ヒント等は余分で美観を損ねるという美意識が作者にあるのなら、説明書の方に書くとか。商業的なニーズからも隔たりが大きく、かなりムチャな作品という印象です。つまりこの作品自体が相当大きな作者のエゴだったり(笑)。その無謀な徹底ぶりも評価していますが。


以降は<激しくネタバレ>の感想なので注意 見るならプレイ終了した人のみにして下さい


























■不満点追記■
●修二のエゴが飽和して限界に近づく様子を、具体的・段階的に描写するべきではないか。
Fateのアンリマユ内部みたいな不気味な怨念、発作に苦しむ様子など何か絵が必要だと思う。
●「八重の苦しみや悲しみが俺にはよく解る、なぜならエゴが融合したから」この文章の単なる繰り返しはまずい。
八重が光の中で祈っている様子が見える等の絵で具体的シーンを作り、後は回想させて使いまわすとか。
頭の中でシミュレートしてみたが、これらを適宜挿入するとかなり説得力が増し、読み手の感情の入り方が大きく変わると思いました(特に苦しみを八重に委ねず戦う修二)。これは必須だったというか譲れないというレベルの大きな不満。


■REALIZE(動詞)■
「悟る」
竹内聡子は八重を菩薩と呼ぶ。特に観世音菩薩(観音)に重ねているのだろう。観世音とは「世の中を自在に観察できる者」の意味。大乗仏教では、全ての生命に楽を与え苦を除くこと(大慈大悲)で救済しようとする心が「悟り」の根源にある。例えば千手観音は象徴的な容姿で、人々を救済する千手・その各掌に世界を見渡す千眼を持つ。全開のパールホワイトの形状はまるで千手観音のよう。
「実現する」
八重がパールホワイトで人々の幸せを実現しようとする。つまり上記の大慈大悲。
「自覚する」
社会の有り様とエゴについて描いた作品全体がメッセージであり、作者なりの結論を幾つかの場面で匂わせているが、基本的には読み手に任せている。


■象徴的・暗示的な情景描写■
私の抱くイメージ(花火は言うまでもないので略)
屋上 ――― 高みから世界を見渡す八重、非日常への扉、天に近い場所、光に満ちた場所、始まりと終わりの場所
暮色 ――― (燃えるような夕焼け、終末、浄化の炎)(溶けこむオレンジ色の夕暮れ、温かい団欒、家庭の明かり、充実していた亮の過去)
(夜の藍(修羅の刻)が滲み始めた闘争の赤、号火、爆発を待ち侘びて燻る炎、春秋、現在の亮) など

彩り豊かな黄昏は、特に様々な心象を暗示し、文学的色彩をかなり深めていると思います。
ところでたまに文学的=リリカルな美と考える人がいるんですが、村上春樹でも読んでみるといいでしょうw


■エンディング解釈■
トゥルーエンド ――― TVで見た昭和映画のようなレトロな雰囲気w 炎上した頃は花火が終わってるようなので、最後の着信シーンは時間が前後していると思います。あのメールは、西沢を春秋達に任せ屋上の扉を開けるまでに打ったのでしょうか。八重の阻止と引き換えに、亮の意識も最後は完全に飛んでますが「自己をしっかり保てば、エゴは無限に回復する」の言葉通り、亮も、修二も、沙耶も、長い時間をかけていずれ復活したかもしれません。(そう願いたい…そんな絵が作者のサイトにありました)

倫エンド ――― 唐突に終わるのは、八重の視点がそこで消失するから。ということはつまり、八重は倫の力を得た亮のエゴに……。亮の攻撃→TVスイッチOFF的な演出で終われば、プレイヤーが物語の視点に気付き、大きなカタルシスがあったかもしれませんが、頑なまでにノベルを貫いています。最も好きなエンド……かな。

※バッドエンド?
八重ノーマルエンド ――― 亮が籠絡されたので、花火の観客も夢に閉じ込められてしまったはず。しな垂れる八重が妖しい。
中断エンド(春秋、邦博含む) ――― トゥルーを見た後だと全てバッドな気がします。八重は信念の曖昧な亮に連絡せず囮に利用しただけで、むしろ春秋や邦博の生き方を眺めていた感じ。止める者も気付く者も無いまま、八重はパールホワイトで……?


■不思議少女 倫の秀逸なエンディング■
知人からのtxtによると、倫は最初「蛍と亮の二人から生まれたエゴ」という設定で、スタッフ間で衝突した結果、不思議な少女という曖昧な描写で落ち着いたとか。それを意識して読むと、なるほど確かにと思う箇所が多いです。鬱屈した亮の心を癒す、絵をきっかけに亮と蛍の仲を修繕、喫茶店内の軽快動作等。無意識と現実の不合理が表現された倫のエンドは、不可思議な彼女と絵と心象風景があいまってアヴァンギャルドな魅力を醸し出していると感じました。冒頭に述べたように、私も知人もこのエンドが最も優れていると思っています。無意識の存在が現実に亮を助け「それはやはり実存であった」と主張するだけでなく、エゴ中心で進行した作品世界のピースが、このエンドで意図的に欠けることで強い現実感を生み出すように思うのです(無意識が主観を超越してしまう、つまり理性の絶対性を批判)。花火会場で倫がふといなくなるシーンがあれば、さらにミステリアスで完璧(倫にとって無意識と現実が完全に双方向になり一層鮮烈に)。


■謎:八重、こにくちゃん■
こにくちゃんの歌は、八重と戦って次々と倒れていくエゴ達の歌に思えましたが。倫と蛍はこにくちゃんを身に着けていたので、亮達が身代わりになってくれた、ということなのでしょうか?また、八重本来の人格は残っていると亮は言いますが、実際には人々を幸せにしたいという妄念に近い願いと記憶だけが残っていたのではないかという気がします。作者はPS2版ではっきり幽霊として描いたと言っていますが、亮が八重に電話をするシーンはどうなったんでしょう(笑) まあ、細かい設定は全て省略しているのがこの作品の特徴で、人間を操作するエゴの力はほぼ万能なので、読み手の方でいくらでも辻褄は合わせられるんですが。春秋から見た亮・亮から見た八重のエゴが輝いて見えるのは、まっすぐな思いで成り立っているように見えるということなのかもしれない。八重は邦愽が狙っていることを知っていながら、計画の為にやられたのでしょうか。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

以降はもっと個人的な感想 (だらだら書き流していたら、なんだかまるで解説集みたいになってしまったので)


◆完全な隠喩ではない◆
プロクシ、コネクト(LAN、共有)といった言葉から、ネットワーク知識が多少有る程度の私でも、この物語が何を暗に含むのかは容易に分かりました。わざわざ八重に宣言させるのは、そういった言葉に馴染みの無い人の為でしょう。ただしネットワークで精神破壊など起きないので、物語を二通りに読む必要がある。
私が抱いた表面的な印象は「成人向けFate/Stay night、Hollow ataraxia」でした。ああいった伝奇ファンタジーは少年向けな感じなので。また、八重のエゴ能力は聖杯や夢の4日間のようでもある。この作者は一般社会の安全に対するスタンスが、私の倫理的方向性と結構似通っている気がしました。大隅-三沢の対談や亮-小田のシーンでも、一般社会にとって脅威である異能者が侵略的に能力行使することはタブー・外道であるような描写が為されています。高橋氏がFateを書けば、桜と士郎が心中する話になるんじゃないかと思うと少し面白いw 純粋に作品解釈した場合、プロクシ能力者世界になんらかの法秩序を生み出そうとする、修二や大隅の主張には賛成です。エゴの力は間接的に生命の安全を脅かす能力だからです。ただしFateと同じく、異能者間の闘争は黙認するというのが私のスタンスです。私が過敏に反応するのは唯一「ルールの異なる社会A、B間において、社会Aが社会Aのルールの押し付けによって社会Bの生命・財産の安全を蹂躙する時」のみ、です。七瀬第二作だと逆に異能者が排除されるんですが…。


◆エゴの濁流◆
<あまりにも愉快で愉快で辛辣なメタファー、プロクシ(エゴ)>
この作品の本質はじつに8割以上、メタファーとしてのプロクシ描写にあると私は思います。様々なキャラの様々な一面と同様の部分を、私は少しずつ持っている。それが可笑しくてたまらないのです。しいていえば、春秋+三沢が最も近いでしょうか。これらの人物の性格を知っていれば、私が自身をどう思っているのかはお判りでしょう。

<この世はエゴ=主観でできている>
自我の概念には様々な分類があるが、総体的に乱暴にくくれば、エゴとは「主観(価値観とそれに基づく行動原理)」のこと。外界の刺激を自己流に解釈し入力する・内心の衝動を自己流の行動として出力する、各人独特のフィルター。「これは炭素だ、あれは鳥だ、彼は私の兄だ」等、自然科学や論理相互関係による客観性は別として、人間の精神活動は概ね主観と言ってよいでしょう。抑制された主観がひしめき合う世界、それが人間社会。

<合理化・情報化 → 意識中心社会 → 記号化した人格・希薄化した身体>
現代人が理想の幸福と信じ追求してきた、万事が簡便で敏速な合理化社会。それが自動機械産業の次に「コミュニケーションの迅速化、グローバル化」によるIT"革命(世界観も急変)"をもたらした。大流行した新潮新書『バカの壁』では、情報化社会を意識中心社会・脳化社会と呼んでいます。人格が不変シンボル化し「個人すら一情報と化した」社会です。

<脳化社会がもたらした欲望(イド)の開放とエゴの顕在化>
ネットワークは、連絡や親交の手段としてだけでなく、商い・自己主張・討論の場やデータベースなど様々な形として普及しました。後者の場合「ダイレクトでスピーディな方が合理的」ゆえ、人格は機械化or一側面が尖鋭/肥大化し洗練されたシンボルとして情報化されます。売買や討論にその人の趣味や日記は必要無く「感情の不要部もオミットされる」のです。最終的に、多様な形で情報化した人格が流動するヴァーチャル社会が成立しました。しかし特に、金銭・物品、イデオロギー等に直結した場所では、潜在していたイドが浮上して、エゴの衝突はもはや日常的です。エゴとは価値観と行動理念そのものだからです。超自我(抑制機構)も大抵不要としてオミットされるので、こうなるのは必然でしょう(特に高額商品の評価サイトは、大きな代価のぶん利用者の率直な感情が飛び交うw)。超自我が解除されたエゴを竹内は「餓鬼!物質主義者ども!強欲者ども!」と言っている。

<脳化社会の権化、確信的申し子:私の場合>
私の場合、親交手段は99%ケータイかメールです。特に完全なメール依存症の男女がいて、少しウンザリ。だからネット利用の99%は、売買か巨大データベースとしてです。新聞、辞書、学術文献サーバ、価格比較、通販、商品評価、オークション……。このサイトも私にとっては、感想サイトよりも商品評価統計サイトに近い。映画批評空間も頻繁に利用。私は書籍や映画の感想を必ずノートに書き留める人間なので、ゲームもそうしてるわけです。そのとき、私は統計内の「一情報」としての意味を意識します。「明確な嗜好傾向が有る人間の評価サンプル」という自発的シンボル化です。その為に「正確には、どうでもいい・興味無し」をわざわざ「気に入らない」にして尖鋭化する事も多い。本当に個人的に嫌いな物もあるがw、高評価サンプル数との埋もれ具合で相対バランスを考える(なるべく私=特殊・例外を強調)。仮に独立した一サイトとしての意見だと、閲覧人数や絶対性による影響力が大き過ぎる懸念があり、あまり率直には書かないでしょう。


◆REALIZE◆
<社会脳と性差>
集団生活内の共通性など社会活動の複雑さが、霊長類の脳のサイズに関係するという考えを社会脳仮説と言います(脳化社会と混同注意)。つまり人間の社会性が社会脳を発達させ、共通言語や文化を生み出してきたと。脳の性差に関する医学的見地では「男:思考の偏重性、攻撃性、虚栄心、無謀さ、過敏な優劣感」が特徴で「女は全く逆:思考の均衡、友好性、調和」の傾向が強いようです。社会行動的観点では「男:自身の絶対的基準化・他者の自己同一化など、自己中心的価値観を持つ傾向」や「女:現実的(有限的)時間感覚」等様々に扱われているようです。Yam氏が引用している「文明の女性化」という筒井の一文も、女性の現実的、即物的、利己的な一側面で社会を表した一例です。脳化社会は、複雑ゆえに潜在していた人間行動の傾向を簡略にモデリングし、顕露させたと言えます。

<私見:もう一つの背景>
ネットを情報検索機械としてのみ使用する私が、偶に他人の意見の衝突を傍観した時に感じとる私見に過ぎないのですが。ネット社会のエゴ増大のもう一つ重大な要因は「現実社会での抑圧」ではないかと。外国人の日本観に「和・平等意識」がありますが、実は日本人の国民性の本質は「嫉妬・虚栄・卑屈」で、それがネガティヴな平等意識を生んだのではと思ってしまう事があるのです。『バカの壁』風に言えば「共同体的悪平等」による閉塞感です。例えば未だ崩壊しない年功序列とか。ネットは、性別、年齢、学歴差別など現実のしがらみから開放され、全ての人間が対等になれる動物的弱肉強食世界。私は現実世界で下らない権威主義の中心に日々居るせいで、ネット内でまで疲れる真似をしたいとはとても思わない。しかし日々が不満の人間には夢の世界なのかもしれません。『REALIZE』ではこういった点もさりげなく描かれています(春秋・ゼンvsOLのシーン等)。

<絶望的な隔絶、バカの壁の誤解と真実> ※以降、ごっちゃですが主観=エゴです
(小田と亮のシーン、春秋vs沙耶のシーン)
『バカの壁』という言葉は「個人の能力差・異なる背景」ばかりイメージしがちですが「無関心・敵対心」ともう一つ(本では扱われていないが)「他人に対する理由無き反感(前述の2背景)」がある。それが人間の相互理解をますます歪め、絶望的に不可能にしています。バカの壁が招く危険のうち最も対処が必要なケースは「一方が他方の存在を殲滅しようとする時」のみです。特に生命の殲滅は許されない。邦愽の八重殺害は2001.9.11と同じです。それ以外、エゴはむしろ原則として自然状態であるべきだと思います(日戸を支持)。

なぜなら「相互理解の放棄」は「多様な価値観の尊重」と表裏一体だからです。
人間は限られた時間の中で、常に取捨選択をしているものです。『バカの壁』を脆くしたければ「懐疑主義」は幾分効果的かもしれません。私もなるべく「自分を完全には信用していない自分」を信じていますが。というよりあの本の主張は結局「懐疑主義のすすめ」だったのではないかとも思います。他人の言葉を鵜呑みにする、つまり絶対性があると思い込む人間が多過ぎるということ。例えば、私のいう「読書好き」でこの作品が楽しめない人も当然大勢いるはずなのです。

<価値観は死なず>
価値観というものに「絶対的な優劣を確定することは不可能」なので、最終的に「異なる価値観の拮抗」に到ります。もし絶対的価値観があるとすれば、それは"むやみに生命を殺戮してはならない"等の本能的な共通認識でしょう。(とはいえテロに走る原理主義者は自分の価値観が絶対なので聞く耳持ちませんが)
逆に言えば、主観の骨格の一つ「論理」に欠陥が存在しない限り、他者のエゴ完全打破は一切不可能だと思います。せいぜい優位に立ったように見せて、敗走・離脱させるだけです(笑)。当然、私のエゴも全て論理重装エゴに過ぎず、他人の価値観を完全否定する能力など無い。他人の価値観を打破するには、基本的に相手の同意・納得が必要ということです。

<エゴ強度の個人差、洗脳の危険=確立していないエゴの強制変更>
これも『REALIZE』ではしばしば登場しました。洗脳は本心では反発される強要とは違う。反復、多数、勢い等によって価値観をある程度歪めることが出来る。簡単に扇動される群衆は、例えば市場の需要調査などにおいては数による脅威になってしまいます。
しかしそれが各人のエゴ強度に依存する点が最も厄介。劇中では『ミラージュ』なんていかにもな技がありましたw。問題は、エゴの相互理解のつもりが触れただけで洗脳になってしまう場合があること。

<相互理解に伴う弊害=「集団によるエゴ」の増大>
相互理解は、エゴの融合と言える。しかし安易なコネクトは弊害を伴う。
快適な相互依存、馴れ合いの安心感、バカの壁の増大。集団催眠、一神教原理主義化、価値観の閉塞化・均一化。春秋「存在してる価値無いよ」
私の場合、たまたま他人のエゴを傍観している時、役に立ちそうな部分はこっそり戴いている。(私のスタンスはどこまでいっても所詮、ワイアード=巨大データベース)

<ベクトル>
私には、エゴはベクトルのようなものに思えます。各々異なる始点、方向、長さを持ち、それは、個人の背景、価値観、許容範囲のようなもの。だから、ほぼ全てのエゴには敵対するエゴが必ずあると思っていた方がいい。親切のつもりが相手の異常に強い自尊心で撥ねつけられたとか、ネットアイドルのブログや写真を見たある人は応援、一方ある人は「くだらんゴミ晒すな」と罵倒する等(岸のタクシー嫌いのシーン)。また「アッチを立てればコッチが立たず」や「エゴバトルが更なる火種を生む」という状況は、劇中で最も多かった場面でしょう。春秋も「衝突を無くすなんて無理」と考えていたように、これはむしろこの世界の本質・成立した文化のようになってしまっている。

<暗黙の風潮>
八重も亮もエゴバトルからリアルのトラブルに発展しました。私が思うに比較的平穏なエゴ衝突の場でも、リアルとの接点は潰しておく方が安全でしょう。それ以前に、本来エゴ世界が一般ルール世界を侵略すべきではない。芸能人が口を滑らせ、魑魅魍魎が押し寄せブログ炎上はよくある話ですが(騒ぎに便乗して暴れたいだけの劇中メッシュキャップみたいな人間)。多数のエゴが高速激突して通常の何倍も速く何らかの結論、有用な情報が導き出せるプロクシ社会。使い様によっては夢の世界ですが、こういう利用法では制限が必要になってしまうでしょう。また価値観に優劣など存在しないという強い認識も必要。識別可能なエゴが公に激しく衝突するのも賢くない。メールなど非公開討論の方が賢い(そもそもネット討論出来る暇がある人は羨ましいw)。ただ、春秋、日戸、沙耶にしろ修二を冷笑したように、エゴ社会の一成員が改善を求めるなどそれこそ……。

<誰かにとってのエゴということ>
私は、自嘲的に自分を「脳化社会の権化」と書きました。まあ私のエゴ放出場は各批評空間ぐらいなので、春秋ほど「エゴゲーム」にはなってないですが。それでもネット社会は私にとって「巨大なデータベースであり、他人すら一情報に過ぎない」と。しかし私は一方でリアルな交友は大事にしている。数字で言えば99%と述べたほどに。私は結局、素性不明ネット人格との交流には殆ど価値を見出せないタイプの人間ということなのでしょう。表情、声音、温もり、匂い、色々な要素無くしては、私には記号情報以上のものとして映らない。信用していないと言ってもいい。なにしろ素性不明エゴの溜まり場は普通、どれほど平穏を装っていても小さな火種で公開闘技場に一変し、様々なパーティによるエゴゲームが始まってしまうものですから。ネット利用が日平均20分程度という一因を除いても、他人を情報としてのみ利用する私は、相当な規模のエゴでしょう。しかし一方でリアルを絶対的に愛する保守的で古風な現代人とも言えてしまう。

<シンボル化された人格と戯れ、箱庭世界で夢を見て朽ち果てる幸せ>
ある意味『マトリックス』的なオタク痛烈批判作品とも捉えられる。

<「それは貴方のエゴです」という言葉>
はね返ってくる言葉なので、竹内をつつく西沢のシーンみたいなケースが多い。

<万物流転>
沙耶と赤ん坊、蛍と老犬、エゴは少しずつ混じり合うという亮の言葉などからおおよそ想像するに、緩やかに温め合い混じり合いながら流れるのが作者の理想なのではないかと思いました。これは日常生活ではきっと望ましい理想。逆に流れを完全停止させるのが八重の理想でした。
しかし世界は生きているからこそ流転する。地球環境、経済……エゴ。私はその流れには局所的な緩急が存在すると思う。ネットワーク世界に作者の理想を適用すると猛スピードで安全運転せねばならず、それは幻想に過ぎない。かといって既に高速激突が特徴の文化まで強制減速させると損失が大きい。「流れ速い。キケン」の立札と金網の設置、完全な住み分けと相互不干渉では……ん……。

<麻生春秋はかく語りき「菩薩は死んだ」>
あっさり他人に思考をリライト、フォーマット、コネクト、コントロールされるトボケた羊の群れは、
リアライズし、柔軟で強固なエゴを武装した方がよろしい。あとはそういう世界としてせいぜい利用し尽くすだけ。

「この世界の全ては、楽しんだ者勝ちなのだから」というのは春秋らしい。亮と組んでもあっさり一般人にエゴを使ってしまうシーンといい、最後まで良く描けているなと思いました。重みのあるセリフが詰まっている。「エゴはコントロールすべきもので、コントロールされるべきではない」など。三沢由紀恵もコントロールされているタイプではないでしょうか。私は元々ネット利用が控えめですが、それは束縛したのであってコントロールしたとは言えない。といってもおそらく私にもやはり無理でしょう(笑)


この感想は今までで最大のエゴ地雷。
最後に「高橋龍也 麻枝准 対談」で検索して出てくるそれっぽいページで、私が知人に貰ったテキストの一部と同じものが読める……かも?