作者の試みや、読み手に伝えたかった(と思われる)話は理解できなくはないし、この作品が持つポテンシャルや魅力もある。けれども、話の中身は酷評せざるを得ないし、作品とそこから窺われる作者(竜騎士07)の思想は、ただの独りよがりで身勝手な甘ったれな発想でしかないし、「読者や作品の受け手への配慮というもの」を蔑ろにする姿勢も唾棄すべきものである。。
うみねこ全体のシナリオの「最期」を飾る本作それ自体に点数をつけるなら、50点(正直余り人に勧めたくはないレベル)と付けざるを得ない。Ep8発売時、不安を抱えつつも期待を胸に意気揚々とプレイした結果待っていたのは、ミステリーでもファンタジーでもない「ファンジター」であり、私が感じたのは怒りと腹立たしさと一抹の虚しさ、そして一周回って生じた笑いであった。年明けに周りの人間と爆笑しつつ展開を逐一ネタにしたことは今でもいい思い出である。なので、そういった意味ではもっと高い点数をつけても良いのだが、シナリオの内容だけをみればこの作品には50点としかつけようがない。
しかしながら、一言感想でも書いたように、私にもこの作品において好きな要素や好きな部分はある。この作品について、あれこれ言うことは楽しいし他人の意見を聞くことも楽しい。だが、それでも本作の内容には苦言を呈さざるを得ないし、これも一言感想で書いたが、竜騎士07氏も本作自体も「読み手への配慮」というものがないことは否定できないし、作品から滲み出る竜騎士07氏の思想(氏の考える「愛」)はただの独りよがり、身勝手、甘ったれのワガママな言い分でしかない。
さて本来は最初に、「うみねこはミステリーか?」という点を論じる必要があるかもしれないが、ここでは省いている。その理由は簡単で、この問題に触れることは、何を持ってミステリーとするか(定義・要件)とか、うみねこはそれを満たしているかという問題に立ち入ることを意味し煩雑だからだ。私自身としては、とある新本格の大家に倣い、(本格)ミステリーとは雰囲気であると考えているし、それくらいが風通しもいいし、共通の土台としやすいとは思っている。
ただし全ての人が上記の考えに賛同するとは限らないし、ある特定の立場から見てうみねこがミステリーとしてフェアかアンフェアかといった問題は容易に答えは出ない。ならばいっそのこと、その問題は棚上げして、一旦竜騎士氏の伝えたかったことをなるべく整合的・内在的に理解して考えてみるのも一つの手では、という次第である。
もっとも、最終的な私の結論としては、うみねこを極力整合的に理解しようとしても、(1)そもそも竜騎士氏の創り上げた作品内ルールが本当に一貫性あるものとして機能していたかは怪しいし、(2)竜騎士氏独自のミステリーの構築も不十分な上、(3)作品の展開や結論の持っていき方が恣意的である、というのが私の答えだ。
ただ以上の言明は、私が竜騎士氏のミステリー理解に対して、思う所がないことを意味しない。竜騎士氏がいわゆる本格ミステリーだけでなく、(例えば元ネタのほうのノックス十戒とかの)ミステリーというジャンル一般に対して大いなる誤解をしていることは間違いない。有名な竜騎士氏の「煽り文句」は、今日のミステリーの多様性も、多くの作家たちのアプローチや苦心も知らないゆえの産物であると考えている。だから氏がインタビュー等で語ったミステリー論などは疑問符なしには読めなかった。
さて、そろそろ本題に入ろう。竜騎士07氏は、「プレイヤーに期待を抱かせ盛り上げるのはとてつもなく上手だが、伏線回収や話を綺麗にたたむのは苦手」というのが、自分の中での評価だ。ひぐらしの「皆殺し編まで」と「祭囃子編が出てから」を想起すれば、この点はうみねこにおいてもいい意味でも悪い意味でも貫徹していると思う。時に悪ノリとすら見える、本人の勢いというものが長所にも短所にもなっているため、某作などで竜騎士担当のルートだけ異様に評価が割れるとかいうのは、宜なるかなという。そうしたノリというのは、彼の文体や会話・話の進め方だけでなく、ユーザー(読み手)に対しての姿勢にもある程度現れている。竜騎士氏は自らの主張やメッセージを、読み手に対して彼が思ったままに叩きつけてくるタイプの作家である、と言えば分かりやすいだろうか。つまり、その結果として読書が理解してくれるような説明をするとか、読書の需要にもある程度応えるとか、伝え方を工夫する、十分にねられた物語の中に主張を落とし込むという点が欠けている。
うみねこについて言えば、魔女幻想・メタ世界での推理(※一般的な本格ミステリーで想像されるようなものではなく、むしろ言ったものがち・屁理屈・こじつけ・空理空論なんでもござれな)バトル・赤字や青字といった要素は、ユーザーの考察を促し、この作品をいい意味でも悪い意味でも深読みさせ、面白く感じさせた要因であることは間違いない。というより、初期のベアトリーチェ対戦人の推理対決(対決というよりは戦人側の屁理屈・駄々こねに対し、ベアトリーチェが寛容すぎただけなのだが)での戦人の推理と言う名の屁理屈は、傍か見ればアホか?と思えるほどだが、そういう屁理屈合戦を描いているときの竜騎士氏の作品は本当に面白い。普通なら、魔女とか悪魔が皆を殺したなんて言い出す奴が一番怪しいんだけど、あたかも本当に魔女や悪魔が皆を殺している描写を延々と本当に起きているかのように見せられると、魔女幻想の存在=本当のことではないという言明が効果的に見える、魔女幻想を主張している者=犯人側というのが鮮やかに示される、というのも、中々面白い。
しかしながら、こういったことは盛り上がっているときは有効でも、作品それ自体が完結する際、上手くたためなければ逆効果を生む、という面も有している。うみねこの完結編にあたるEP8がいかにやらかしたか、いかに期待を裏切ったかをわざわざ逐一詳細に書くのは、既に多くの方が言及していることもあり、改めて述べる必要はないだろう。
ただそれでも、①たとえどんなに表面的なものであれ、一応これはミステリーやら推理は可能か不可能かだのとか言っておいたのに、一番肝心要な部分での「答え」を出さない姿勢、②(EP5以降の)本気とネタかの判別に困るノックス十戒万能論、これまで散々出てきた赤字連打(結局赤字も信用できるかできないかもわからないけど)によって「一応この作品は推理可能です」という姿勢を出しておきながら、肝心のミステリー的な部分で個々の謎やトリック・犯行方法の答え(ここで言っていることはWho done it やWhy done itよりは個々の犯行のHow done itに比重があります )をぶん投げ脇に追いやった点、③Why done itが大事とか、心を察しろとか、愛がなければ見えないとか言ってるけど、そういう張本人(竜騎士氏と作中でこういったことを言う戦人ら)が独りよがりなのが目に付き、色々な意味でユーザーや相手のことを分かっていない・理解がない(竜騎士風に言えば、ユーザーへの愛がない)点が、あの当時から今にまで燻るユーザーの不満であったのではないだろうか。
Ep1~Ep4までこの作品で問われていたのは、六軒島の真相、具体的には「犯人は誰か(Who)」と「犯行方法(How)」の主に二つだった。もっとも後者については、Ep7で一応の答えらしきものは出されている。ただし作者もといウィルのドヤ顔が透けて見えて腹が立つポエムでの「答え合わせ」のため、ユーザー側のおそらくこうであろうという想像でしか決着がつけられないというかなり問題のあるやり方である。
それに対して「犯人は誰か」の部分。具体的には「誰が」そして「なぜ」は、EP8時点で明確なあるいは確定的な答えは出されていなかった。この場合「明確な」とか「確定的な」という言葉が意味するのは、「作中に登場する使用人紗音がベアトリーチェである、とはっきりと言及され断言されること」だ。
結局の所、Ep8ではWho done it もWhy done it もHow done it?は明確に示されることはなかった。もちろん、プレイヤーがおそらくこうであろうという形で考えることはできたし、作者側からの仄めかしはあった。しかし、プレイヤーが求めていたのは、作者からの「犯人は紗音で、動機は~である、それぞれのEPでの犯行方法は~である」という形での明確な答え合わせだった。
特に、紗音がなぜあのような惨劇を引き起こしたのかという部分、すなわち肝心要な動機の部分について、「分からないなら想像しろ、何分からない? じゃあお前には愛がない」と読み取れるようなシナリオを書いたことが問題だ(重要なのは、実際にそう書いたかではなく、そのように受け取られかねないような書き方であったことだ)。ひぐらしからうみねこに至るこれまでの流れで竜騎士氏が散々やってきたのは、いわゆる信用できない語り手や地の文への叙述トリックを迂遠な形(=もはや後出しに近い)で仕掛けてくることだったため、火に油を注ぐ結果となってしまった。
というのも竜騎士氏の文章はいわゆる論理的・ロジカルなものというよりは、勢い任せ・ノリ重視・エモーショナルなものであるためだ。文章力や構成という点を措いても、竜騎士氏の作品はノイズが多すぎるため、地の文等を手掛かりに推理するのは大変なのだ。しばしばミステリーは無味乾燥だ人間が書けていないと言われてきた。この種の指摘は、本当にそうであったのかも含め色々と問題はある。しかし、キャラクター描写に過度に偏りミステリー作品としての要素をないがしろにされる場合があることを思うと、ミステリーにおいて「人間を書かないこと」には、小説的表現と推理要素の均衡をとることで、読み手にとっても余計なノイズに惑わされず考えることができるという利点もあったのだと思う。
仮に最初から、ミステリー大好きなヤスの手による衒いの少ない(魔法陣が殺人現場に描かれたり、碑文に則った殺人であるかのように、という要素は付加されていたとしても、魔法バトルやら上位世界やらは出てこない)ミステリーだとしたら、受ける印象は違っていただろう。
あなた(竜騎士)のことが信用できないから(しばしばある竜騎士ノイズ、地の文そのものの信頼性が薄い状況で仕掛けられる叙述トリック)、確固たる答えが求められていた。しかし出てきたのは、「ファンジター」(by ウィル)であった。
赤字や黄金の真実やらを措いても、前半戦人が探偵と言えるかを考えても、後半のEPで後出しのノックス十戒を見ても、うみねこは元々、読む側からするとルールもよく分からず、何を信用すればいいかわからない。赤字そのものを疑わないとしても、Ep6でのヱリカの複唱要求に対する戦人の一連の「認める」回答とかグレーなところが多い。赤字もノックスもその使い方・使われ方の基準が不明で、相互の関係も分からないというのは、どうなのだろう。
ところで、うみねこという作品を最大限好意的に見れば、「この作品はそもそもミステリーや謎を解く話ではなく、『真実とは人それぞれの見方によって変わりうる』ということを竜騎士07氏なりの迂遠な文法で描いた話」として理解することは十分可能だろう。しかしこれに対しては、それなら最初からその話をすべきだったのでは、という疑問が出る。これまでミステリーについて竜騎士氏本人が色々語っていた(そして色々と燃えるようなことを言ってしまった)ため、最後に出てきた竜騎士氏のメッセージをユーザーが普通に受け取ることは難しいし、端的に言えば矛盾しているし釈明もなされていない。
おまけに、一般的にミステリーで要求されるような観点から見た場合でも、問題がある。すなわち、うみねこにおいては最初から最後まで何が正しいか不明なまま終わったため、作中で解答らしきものとして提示された「紗音犯人説」すら実は誤りであり、真の黒幕は魔法ENDでユーザーと縁寿を洗脳してお涙頂戴を狙った、自称記憶喪失の右代宮戦人(八条十八)、あるいはもしかしたらそれに加えて実は生き残っていた紗音が八条幾子なのかもしれない、という推理も成り立ち得る。特に真面目にこの作品を考察していたユーザーは、知的強姦者古戸ヱリカやベルンカステルの方にシンパシーを抱いてしまい、魔法ENDなど鼻で笑ってしまったのだろう。
そうするとそんな魔法ENDをつくった八条十八の言葉など信用できない。むしろ作中の現実世界で「うみねこのなく頃に」という物語を書いていた人物が真の黒幕に思えてくるし、ゲロカス妄想(魔法END)か絵羽犯人説に固執する手品ENDの二択しかなく、次男一家犯人説の話に触れないというのも、上記の説をもっともらしくさせてしまう。
何を言いたいのかと言うと、多重解決ものとかメタミステリ系とかを除き、一般的な作品なら一つの真相を提示するということは、それ以外の真相が成り立たないことも、ある程度証明しなくてはならないのでは、と私などは思うのだ。勿論、この立場が狭量である面は否定できないし、古今の名作にも別解が成り立つのでは的な話はあるので、うみねこのやり方がダメだとまでは言わない。しかしここまで述べてきたように、ユーザーへの誘導の仕方は不味いやり方だった。作者の恣意性すら感じさせてしまったし、ユーザーの考えた真相の方が面白そうという事態も醸し出してしまった。
現在は、Ep8の漫画版で「黒幕」つまり紗音の心情に踏み込んだ真相の説明がなされているため、竜騎士氏による真相の提示は後出しとは言えなされた。しかし色々な意味で中途半端な結果になってしまった。最初から提示しておけばという面もあるが、より重大なのは作中における真相らしきものを提示したのに拘らず、他の仮説を否定できる根拠というものが十分に示されていないのだ。
具体的にはEp8や魔法ENDで語られたことと相反する描写がある。例えば金蔵と戦人が似ているという描写。金蔵が黄金とビーチェを手に入れるために悪逆をなし・近親相姦すらなした可能性の示唆。そんな金蔵と似ていることが示唆されていて、最後はベアトリーチェと結ばれる戦人。Ep5ではミステリー小説の件でヱリカを嗜め、縁寿からもヤスからも読書家(記憶が正しければ年間300冊という凄まじさ)と証言されている戦人。それ以前に殺伐とした状況があったであろうにも拘らず、EP8ラストの仲良きキャッキャウフフしている戦人とベアトリーチェ~入水シーンまでのとてつもない気色悪さ。入水したにもかかわらず生きている右代宮戦人。「都合の良い記憶喪失」に見える記憶喪失。「リハビリ」として右代宮戦人の親族が存命中にも拘わらず六軒島事件を元にしたミステリーを書きまくること。そもそも今までの「うみねこのなく頃に」は、あの世界では八条十八=右代宮戦人が書いてきた、という胡散臭さ……。
普通の作品なら、ここまでグロテスクで、露骨に違和感ある描写があれば、戦人黒幕説に向かうだろう。しかしうみねこでの「猫箱の底」とはそうではない。戦人犯人説の権化たる黒戦人が黄金郷に乗り込んでくるという漫画の描写は、竜騎士による戦人黒幕説の否定だろう。漫画Ep8では、縁寿が戦人に「なんでいつの間にかお前の考えが180度変わってるんだよ」と言ったり、戦人がヱリカに完膚なきまでにフルボッコにされて「でも俺は縁寿のために云々」と泣き言をいったとき、即座にヱリカが「お前そういう泣き言は縁寿に言え」と煽る下りがある(以上は、この文章の書き手による意訳である)。このことを踏まえると、竜騎士氏はユーザーの意見を意識はしている。しかし結局、魔法ENDに行く結末は変わらない。
なぜ上記のような一見矛盾する描写があったのか。それは簡単で、「竜騎士氏がちゃんと構成や自分の書いたものとのすり合わせをしっかりしていないだろうから」だ。作者本人が「猫箱の底」=紗音犯人説=それ以外にはないとした以上、上記の読み手が違和感を感じる描写は全て「竜騎士氏の未熟に起因するノイズ」と成り果てる。漫画版Ep8は評価が高く、私自身それを否定するつもりはない。しかし竜騎士氏が漫画版Ep8を猫箱の底と言いいながら、上記の道筋と相反する描写が大量に放置されたままである状態を見ると、竜騎士氏は構成力という面では余りよろしくない書き手と言わざるを得ない。それと、一度気に入ると同じ言葉を飽きるほど使うのも宜しくない。猫箱という言葉はさすがにくどすぎた。
さて紗音がいかなる動機で犯行に至ったか、そしていかなる方法で犯行をなしたかは、漫画版のEp6~Ep8を読むことで補完されている。ここで明かされた「紗音の心理の書き方」というのは竜騎士07という作家の明確な長所に思える。それは主に「異常な人物の動機・行動原理」を描くこと、つまり「狂人の論理」だ。
本題の前に、似たような例から。Ep6で明かされる古戸ヱリカが真実に固執する理由として、過去に恋人の浮気を問い詰めてもはぐらかされ愛してるなら黙って信じろよと言われたから、というシーンがある。変人で変態だけど能力の高い探偵のカリカチュアたる古戸ヱリカがなぜ真実に固執するのか。その理由が過去の恋愛の失敗だ。しかもそれは、浮気をしていることを否定している恋人を自身の能力をフル活用して論破したのに、恋人に愛してるなら黙って信じろと言われた、というものだ。少々想像も入るが、当然このときのヱリカの目的は、恋人に浮気を認めてもらいやり直す(また愛して欲しい)というものだろう。
しかしそれが上手くいかず、挙げ句に自分の導き出した真実を相手が認めてくれないという顛末に至る。ゆえに彼女は、絶対に保障される真実を求める。ヱリカの場合、異常な行動原理ともとれる探偵行為と真実への固執に、実は自分の能力を使ったこと・恋人とやり直したいという、ある程度多くの人が共感できる悲劇がある、というのがミソだ。これがもたらす読み手への効果が極めて大きなものであることは言うまでもない。多くの人は、こうしたことが多くあって、古戸ヱリカは今に至るのだろうと想像する。そして、自信を真実に堪える者と語るヱリカが、未だかつてのゲームでの傷に囚われ苛まれるベルンカステルを少し見下したというシーンにつながる。
同じEp6でのロジックエラーを起こした戦人が閉じ込められる寸前に、ラムダが無表情で語りかけるシーンも、この系統に入る。人物への印象を反転させる、これを竜騎士氏はきちんと描いている。もっともここまでなら、アレな奴が実は……系だ。しかし紗音の場合は、ヱリカとは真逆だ。譲治との愛に生きる少々ドジなところもあるが心優しい芯の強い紗音が、殺人を犯した動機というのは普通の人ならばたとえその境遇に同情できたとしても、そこから連続殺人事件を起こすことに繋げるには理解できないものだった。
紗音の動機とその帰結というのは、つまるところ「傍から見れば・客観的に見れば視野の狭い、極端な思考プロセスの人間だけれど、張本人にとっては世界そのものが自分を追い詰めにかかってきて、それに抗ってみるけれど、もはやどうしようもない。その結果運命の袋小路に追い詰められた人間が、極端な行動に出た」というものだ。ひぐらしの鷹野三四や詩音もそういうタイプだ。
竜騎士氏はこういう、「極端な状況に始めから追いやられていた人間が、極端な論理と思考プロセスで、極端な行動を取るに至るまでの書き方」が非常に上手い。冷静な目で見れば、彼女らには他にもっと選択肢があったと思うし、特に紗音は六軒島という狭い世界で生きているので、使用人としてでなくもっと別の場所で生活するとか、それこそ休みの日に戦人のところへ遊びに一度でも行っていればとか、本当にそういう簡単なことで別の運命にいたった可能性が高い。
しかしそういった点を置いておけば、追い詰められた彼女らが常人には理解できない論理や発想で狂っていく過程をここまで描けるのは、竜騎士氏の紛れもない長所だ。ひぐらしにしろ、うみねこにせよ、彼女らの思考過程を見せつけられたユーザーは、彼女らの犯行動機に対して、すべてを自分の頭の中で完結させ狂人の論理で犯行を行う点でドン引きする一方、その動機に対して納得はできないけど、この犯人はそうなるに至るだけの事情があって、そういう発想をして犯行に至ったのだなと辛うじて理解できる。
もっとも大多数の人が思うように、あるいは作中でヱリカかベルンカステル辺りが金で口裏を合わせるなんて三流と嘲笑していたように、ヤスの発想は悪い意味で浮世離れしている。ヤスは、現実の人間が小説の人物のように動くとは限らないということを理解できていなかった節がある。ヤスがどういう思考をしているかは、小冊子「ラムダデルタ卿による回想記」とか「我らの告白」あたりからも窺えるが、やはり現実の人間を見ずに己の作り上げた観念の世界で生きているタイプだ。そういう意味では、全てを己の頭の中で計画するいわゆる「神」タイプの犯人のヤスに対して、実際のあの日に何が起こったか・ヤスの計画がどう破綻したのかを考えるのは興味深い。
それはともかく、ヤスの思考過程をここまで描けるのは竜騎士氏の長所だ。それはもっと評価されてしかるべきだ。だが同時に、ことを厄介にしているのが、恐らく竜騎士氏自身がヤスの思考回路つまり「愛がなければ視えない」を素面で言っていることだ。つまり「そういうお前が相手のことを考えてないじゃないか」という問題だ。ここで言う相手とは、ヤスに殺された相手だけでなく、自分を思い出して欲しいと問いかけられる戦人だけでもなく、最終的には竜騎士氏から「愛がなければ視えない」と言われたユーザーも指す。
ヤスで言えば、いかに作中で感動的な装飾をしたところでその動機やEp4での三択問題、正解しなければ爆弾でふっとばすけど死ねば黄金郷で皆幸せだから大丈夫、は理不尽極まりない。愛を唄うヤスは、実は相手に対する思いやりが欠けている。一方的な愛しかない。うみねこという作品には、愛という言葉が多く出てくるが、それはあくまでも一方的な愛だ。
その点では、心を大事にしろ愛がなければ視えないという八条十八も、相手のことを考えていないという点で、作中で批判された山羊やウィッチハンターと変わらない。戦人のため、縁寿のため、ベアトリーチェのため、ヤスのため、と登場人物らは言うが、相手側がどう受け取るかは全く考えていない。むしろたとえどんなに可能性は低くとも、自分の愛は伝わるはずであろうという感情で動く。その行動の果てにどんな結果があるとしても。作中に出てくる「作家」たちというのは、どいつもこいつも愛がどうのこうのと言うが、その傍迷惑な愛を受け取る側のことを考慮せず、無関係な第三者や彼らからすれば余り重要ではない関係者のことはもっと考えていない。にもかかわらず、そんなグロテスクな行いを、愛とか白い魔法とかで修飾している。
そして作中人物に感じたこの気色悪さは、自分の考えたメッセージは読者にも伝わるはずであろうと考えた竜騎士07氏に重なる。相手への思いやりというものは作品にも作者にも欠けていたように思える。竜騎士氏には、読者は自分の言うことを分かってくれるはずだ、伝わるはずだ、という考えがあったのだと思う。だがそれは、相手に配慮するという視点が欠けた危ういものであった。うみねこのなく頃にという作品は、竜騎士氏が自らのエゴを外部に向けてありのまま曝け出し、私を認めて(愛して)と訴えるものであった。それに対して、多くのユーザーは付き合いきれずお前のやっていることは独りよがりだと、愛想を尽かした。そのしわ寄せは、竜騎士氏が独自に構築せんとした「ミステリー」にも及んだ。作者の一方的な都合で何もかも好きなようにする様を、読者は逐一甘受し受け入れねばならない。竜騎士氏によれば、それが「愛」とのことだ。そこでは読み手の側が、「愛」の一方通行性に異を唱えることは許されない。竜騎士氏にとって、読者とは作者の側が何をしても常に慈愛の笑みを貼り付けてそれを擁護し讃え受け入れる存在である。一度、読者が作者の「愛」を拒んだり、不満そうな表情を見せれば、きっとこう言われるだろう。「愛」がない、と。
そう、竜騎士氏は読者に「甘えたい」のだ。読者は甘える対象なのだ。定義も内容もよく分からない言葉でミステリーとかファンタジーとかアンチミステリーとか言い出しても、作者が自分で作ったルールが(赤字とか、うみねこ内でのノックス十戒とか)がかなり恣意的に使われたり、作者自身がルールを破っても、真相がよく分からないままであっても、ちゃんと説明しないことがあっても、それは理解しない察しない読者が悪いのだ。「愛」のない読者が悪いのだ。……これをワガママ、身勝手、甘ったれと言わず何と例えればよいのであろう。
しかしながら上記のような見方は、竜騎士氏に対して余りに酷かもしれない。アンフェアな域に達しているかもしれない。結局の所、私の一方的な暴言に等しいかもしれない。なので、以下では竜騎士氏の試みについて、現在でも積極的に評価し、論じる価値があるであろう面を述べたい。
まず指摘すべきは、ミステリで動機を重視した点だろう。ミステリで何を重視するかは勿論様々だ。だが時折、ミステリ作品の動機説明で、いわゆるテンプレサイコパス系動機やテンプレ狂人の論理が出てくると辟易するタイプの私としては、狂人の論理をベタなネタで終わらせず、濃厚に書ききった竜騎士氏には敬意を評したい。いわゆる狂人の論理を正面から取り上げ、読み手が理解はできなくとも、思わず唸ってしまうレベルのものを描けるのは、竜騎士氏の紛れもない長所だ。勿論、私はうみねこ等において随所に示された竜騎士氏の恋愛観や人間との関わり方、ひいてはヤスの考えには同意できないが。
そしてもう一つ興味深いのが、竜騎士氏が後半何度も強調していた「真実」の多面性だ。例えば、「右代宮家は金で諍いやゴタゴタが色々あったこと」と「でも皆が互いのことが好きで絆の深い愛のある一族だった」ことが両立し得る
ということだ。物事や人間には多面的であり一面的に何かを決めつけてはならないということだ。
しかし、私が興味深いと思うのは、竜騎士氏が縁寿に代弁させる形で見出した「自らの信じる真実」というものの、とてつもないほどの後ろ向きっぷりだ。そこでは、自らに辛い思いをさせる世間的な真実というものに対し、自分の信じるものを「真実」とする。良く言えば癒やし、悪く言えば逃避の手段として真実が使われる。客観的な真実ではなく、当事者やその場に相応しい主観的な真実を、という発想は近年のミステリでもよく見られるが、竜騎士氏がこれを正面から取り上げていたことにはもっと注目されてもいいのではないだろうか。ただし、うみねこのなく頃ににおいては、「自らの信じる真実」はあくまでも消極的なものに過ぎないということには留保が必要だが。
というのも、実はこれが厄介な問題なのである。特に竜騎士氏の作品に照らすと、そこでいう真実とは「周りが何を言おうが愛があればそれでいいのさ」と自分の信じたいものだけを盲目的に信じるナイーブな感性を擁護するものである。結局、周りから自らを守ろうとして殻に閉じこもる防衛手段を提示したに過ぎないのでは、という疑いも強い。そこには、たとえ残酷で受け入れがたいものであっても真実に堪えるという視点がない。作中半ば、古戸ヱリカにより提示された真実に堪えるという発想は、作品内では最終的に抜け落ちてしまったようにも思える。
無論、真実に堪えるというのは人間にとってはとても辛いものであることは想像に難くない。それが酷だからこそ、最終的に魔法END的なやさしい「白き魔法」が結論だったのだろう、ということも理解できる。しかしながら正直に告白すると、私はそれに今でも納得はしていない。そもそも作品世界では、「たった一つの真実」と「真実に堪える」がほぼ一纏めにされた上で、始めから価値秩序において「黄金の真実」や「白き魔法」の劣位に置かれている。葛藤も対立もないまま出された結論に一体何の価値があろう?
うみねこのなく頃にという作品は、いわゆる(法的)証拠もほとんど存在しなければ、作品内(そしてそこから窺える作者の)価値観では探偵という存在が肯定的に捉えられているとは言い難い。それは承知している。だが一度、自らミステリを名乗り、推理は可能であると作中でも宣言し、一応ノックス十戒やらヴァン・ダイン二十原則やらまで持ち出してたのだから、理性に照らして真実を求め、求めた真実に堪えるという道にも光をあててほしかった。始めから勝負が決まっている戦いではなく、真実に対する二つの異なる立場の対立と相克・止揚こそが見たかった。
以上は一読者の無い物ねだりであって、世迷い言である。しかし、ここまで1万字超えの文章を費やして管を巻いてしまうほど、今も昔も私はうみねこのなく頃にという作品に入れ込み、可能性を見ているのだろう。