前作よりも登場人物の背景や歴史風習を深堀。 知ることの無遠慮さと傲慢さ、覗き見るために必要な「礼節」を説いている。登場人物らの掛け合いも見事。「雪子の国」が好きな人はぜひプレイしてほしい。
前作が「異なる価値観への理解とその概要」程度に留まっていたのに比べ、登場人物らの背景を掘り下げてセンシティブな題材に切り込んでいるのには驚き。実在の地名を交え展開されるストーリーにはリアリティを感じますね、山中の限界集落はあんなもんですよホント。
文太郎と萌佳のやり取りも深みを増して、教育とは何ぞや、教師とは何ぞやと言った文太郎の自問に繋がるところは単なる教師→生徒の関係性を越えて相互的な成長が感じられて良かったです。
〇前提とする知識
作中で知識を理解するための知識を知る必要がある、と諭すシーンがあったのですが、これは本作を読んでいる人間にもあてはまると私は思うのです。
萌佳はフィールドワークを通じて屋敷の空気を感じ、座敷牢を見ておぞましさを感じたのでしょう、そしてそれが作り上げられるまでの妬みや辛み、悲しみ、どうしようもなさを多少は理解したのでしょう。当事者である先生の存在も理解への大きな助けであったことは言うまでもなく。
決して憑き物筋に関わることを擁護するわけでは無いのですが、座敷牢まで行かなくとも、軽度の精神疾患者を自宅で看護することは私宅監置という法律で定められていました。常時自由にさせておくわけにもいきませんので鍵のかかる個室が必要ですが、そこまで裕福な家庭ばかりでもなく、必然、座敷牢に類するものになった場合もあるそうです。
先生が20歳の頃であればまだその法律は廃止されていないはずですので、その時代であればそこまでおかしな処置では無いのですよね。
もちろん病院にかからなかったことや、法律廃止後に然るべき処置をしなかったことはダメです。それを是としたのは山間部故の閉鎖性によるものでしょうかね、精神病院にいれるというのはムラ社会からすると世間体が悪い。
と、唐突に訳知り顔で脇にそれた解説をしているのですが、別に知識を押し付けたいのではなく、見え方が少し変わるのではないかなということが言いたいのです。
実際、萌佳のようにこれらを見聞きした人間と知識でしか学べない人間では理解度に大きな隔たりが出るでしょう。知らないなら知らないままで良いのかもしれません、しかし萌佳のように知りたい人間が断片だけ搔い摘めばそこに誤解が生まれる懸念があるのは作中で言及されている通りです。
私も憑き物筋を見たことはありませんし、実用されている座敷牢も見たことがありません。せいぜい高校生の時分に「あの部落の女と付き合うのは許さん」と言われたぐらいでしょうか。
だから表面的な理解にとどまっているのですが、もっと触れてみたい気持ちがありますね、まぁそれこそが覗き見ることの傲慢さと無遠慮さの最たるものかもしれませんが。
そこの塩梅を調節するのが「礼節」なのかなと勝手に思っています。
〇距離
憑き物筋が多く見られ残留しているのは山陰、隠岐、四国、九州の一部と解説がありました。該当県の人口を足しても750万人しかいません、大体埼玉県の人口ぐらいですね。
出身ということを含めればもう少し増えるとは思いますけど、まぁたかが知れているでしょう。
ぶっちゃけ他人事だと思いませんか?
「お前、来年度から隠岐勤務ね」って言われたら「は?」ってなりません?「え、島流し?後醍醐天皇かよ」って。
そもそも隠岐ってどこだよ、かもしれませんね。
普通、そんな離れた土地に当事者意識を持つ人はいないと思いますし、持つ方が異常だと思います。
物語の中、教科書の中、テレビの中の出来事、フィクションですね。
仮に好奇心を持ったよそ者が知りたいと飛び込んでみたとしても、やはり違うのです。
そこで生まれ育って因習含め恩恵も受けて育った人間には、好きや嫌い、役割やしがらみ、そんないろんな感情と経験を内包したリアルがあるのですから。
それはほとんどのよそ者には受け止めきれないと思うのです。そもそもの話、伴侶と言うなら別ですが、好奇心を軸にした人間に受け止めてもらいたいものでしょうか、相手にとって重荷になるのに。私的にはそうは思えない、だから知っていて欲しい、楽しいこと、悲しいこと、辛いこと、いろんなことを含めて、そこであったことを。
そんな本質的に理解できないマイノリティの暗部を覗き見るのですから、やはりここにも距離感を図るべく「礼節」が必要なのだと思うのです。
〇憑き物筋は無くなったのか
科学的根拠のない憑き物筋、犬やら狐のそれですね。本当のところはわかりませんがおおむね姿を消しているのでしょう。
しかし、萌佳が「人が信じやすいものを信じて、信じたいものを信じていくだけなら、憑きもの筋って無くならないと思うわ」と言っているように、本質的なところでは無くなっていないと私も思うのです。
憑き物やら部落やらハンセン病やらは槍玉にあがりやすく表舞台の差別から消えていきましたが、人種差別は未だ健在ですし、国籍や宗教、障害、学歴やらは相手のルーツや能力水準を図る判断基準として健在です。
生活様式や食物が違えば付き合うのに苦労するかもしれません、ペットのウサギ食べられたら嫌ですよね。
障害が子供に遺伝したら大変ですよね。
知的水準の違う相手との会話はしんどいかもしれませんね。
なるほど、合理性と理由があります。
憑き物筋などのオカルトやハンセン病などの医療知識が未熟な時代の差別とは違うかもしれません。
でも、憑き物筋にも当時の文化的理由があったことは作中で語られている通りです、ああしなければ守れなかったものも沢山あった。
良いとか悪いとか、それが後世でどう判断されるかは関係なく、ただそういう事実と歴史があった。だから宮本先生も貨幣制度に関する本ではデータの羅列に止めているのではないかなと思うのです。
先に語った現代の差別のようなものも時代が変われば変遷していくのかもしれません。何かしらのそういう精神的なものは残り続ける、ただ昔よりは知識の伝播速度や量など対応できる手段も増えてくるはずです。
そのために蓄えられた知識があって、人間による熱のある教育があって、そうして「礼節」を教えられるんじゃないかな。