ストーリー自体はボーイミーツガールの恋愛が軸。内包するテーマは天狗と人間、田舎と都会、その他様々な価値観の違いなのかなと感じる。特にリアルとフィクションの対比には目を見張るものがある。前作と雰囲気は変わるが違った魅力を見せてくれた、素晴らしい物語だった。
ここまでの国シリーズで一番好きな作品。
ストーリー自体はメインが恋愛、ボーイミーツガールの王道展開、その中ですれ違う価値観と触れ合う人々の気持ち、魅力的な登場人物と会話。失い、変革する世界とスピードに戸惑うところはありましたが、繋ぎ合わせられていく絆と出来上がった場所がとても愛しくなるお話でした。
※考察のような、妄想のような感想が多分に含まれます。苦手な方はご注意を><
〇世界観と国の意味、変革について
みすず、キリンで感じられた牧歌的な雰囲気は消え、天狗というものの神秘性は地に落ち。
なにより凄いのは、過去作から積み上げられたノスタルジックでファンタジックな世界観を壊すことに躊躇しないこと。
私の勝手な感想ですが、みすずから続くこの世界観は本当に素晴らしい。どこか懐かしさを内包する天狗の国、常識的に考えて現代社会準拠の中で自治を確立できるはずが無いのですが、天狗と神通力によりそれを維持しています。異世界のようで、現代社会とのつながりもしっかりとある、絶妙なアンバランスさが本当に琴線に触れたのです。
それを、容赦なく潰した。冒頭で見せられた、ブルドーザーで整地される愛宕の様子はもう本当に悲しくて、美鈴に鬼と呟く雪子にシンクロした瞬間でした。電気もエンジンも無かったあの土地に唸りを上げる重機はこの上ない破壊の象徴で、よくぞここまで打ちのめしてくれるものだと膝を打ってしまうほど。
しかし、天狗の国の未来をの無いありようを見るにこの結末は仕方ないのでしょう。むしろこの不条理と非日常があるからこそ、在りし日の日常、故郷の価値が輝いているとも感じられました。
また前作からの登場人物の存在も大きいですね。ぶち壊しておしまい、というわけではなく、受け継がれていくものもあるんだよというのは確かな希望です。特に美鈴が大成してヒマワリとの絆が続いていることが明かされた時はなんだか暖かい気持ちになりました。キリンの国では出番がなかったですからね、もう出てこないと思っていただけに嬉しい。
ホオズキは登場して嬉しいと思う反面、力と言葉を失っていたのはなんとも言えない気分になりました。超常的存在に見えた化けも時間の経過には叶わないのだなぁと少し切なく。ハルカも多分消えたのでしょうね。
ちなみに愛宕が滅びたことは「雪子の国」にフォーカスするためには必要なことであったと感じています。
「国」とは一般的に民衆と領土を主とする集合体ですが、本質的には「場所」であり、そこに住まうという行為自体が国であると私は考えています。個人に注目するならば「居場所」と呼んでもいいかもしれません。
そもそも動物は生存のため広範囲を移動することが本能であり地域への定住はそれに反するのですが、あえてそれを選ぶのは本能に逆らう「何か」、例えば作物、家族など理由があるのです。
雪子の国は当初は愛宕でした。滅びたのちは愛宕の復興が目指すべき国の形ですね、在りし日の故郷を少しでも蘇らせたいという想い。それは実現不可能になりましたから、流れた先で自分の居場所を見つけた、手に入れたというのが本作の「雪子の国」であると同時に「ハルタの国」。
その過程で彼女の選んだ理由は、物質的にはハルタをはじめとした代々屋敷の面々が主なのでしょう。対して精神的には諦観、愛宕復興への諦めです。もちろんハルタへの恋愛感情だったりホオズキへの愛情もあると思いますが、まず現状認識としての第一歩はそこなのだと感じました。
〇登場人物と会話について
ほとんど無駄な人物がおらず、キャラクター性に違和感がないということが印象的でした。
シナリオに重きを置く作品の場合、ストーリーを動かすための言動を喋らされているな、などと感じることがたまにあるのです、例えばそのキャラの言葉というよりもシナリオの言葉、ライターの代弁のような。しかし本作はそういうことがない。登場人物の言動はそのキャラが喋って、誰かと対話していることが如実に伝わってくるのです。月並みな表現ですが「キャラが立っている」という感じでしょうか。
リュウは寡黙ですが、寡黙さに全く違和感がない。日本語が不自由だとかそんな解説があるわけでもないのに自然で、それが彼の優しさを何より表現しているのです。
虹子のお喋りはヒマワリを彷彿とさせるものですが、同一というわけではなく、幼い年齢を踏まえているのか「ませている」という印象を感じさせてくれました。
自分を有能、美少女と語る雪子は、自己の能力への自信と同時に抑えきれない不安をにじませていました。いろんなものを失って、流れ着いた先ですから無理もないのですが。むしろ関係性が進展してから求めてほしい、褒めてほしいと積極的な彼女は本当に可愛らしかったですし、嫉妬する姿もいじらしい、そして頼られたときの笑顔ったらもう最高。
そしてハルタ。
彼は歪なほどに実直で誠実。普段はうまく立ち回っているのに、譲れない局面になると前しか見えなくなるというか。デートをキャンセルしてユリの看病に向かったり、ホオズキを見つけるために単身戻ったりとまったく合理的じゃないですし、ユリに好きかどうか聞かれているのに「わからない」の返しはマジかよ…と思いました、すべての行動がこんな感じなのですよね。
ユリはこれを「悲しいほうに流れていく」と評していましたが、雑に括るなら自己犠牲です、生まれてくることができなかった妹に対する感情がその根源。
だから異世界でそれが解決し、東京で3年間を過ごしたのちの家族会議では妹や母親に流されることなく雪子のもとに行く決断ができたんだなと。
また、たまにリアルな人間味を垣間見せる瞬間が気に入っています。
家族会議の最中に母親がヒステリックになる場面などがそれで、不快といえば不快なんですがまぁそうなるのも仕方ないよなぁと。むしろ人間らしくて好感が持てます。
あと父親とのやり取りも好きです、議論が平行線ということをわかっていながらもなんとか納得を探ろうとしている一幕。知識不足を認めたらすぐに謝るし、自分が凡人であると認めている、なんともできた人間だなぁと思いました。どちらが正解ということはない議論でしたが、どちらかといえばハルタの意見に賛同したいところ。
ただこの議論、どちらも高学歴なんですよね。多分、東〇大学と地方の国立大との比較だと思うのですが、高卒と大卒の議論だったらどうなのでしょう。もしくは高卒と中卒だったら?
私が親なら高校までは出てほしい、大学は好きにすればいいという考え方ですがそこは人によって違うでしょう、大卒が「当たり前」の考えであれば高卒などあり得ないでしょうし。
この価値観、常識のズレは学校のみならず、天狗と人間や都会や田舎の対比などでも良く描写されており、国シリーズの大事なテーマなのだと私は思います。
〇舞台と価値観、リアルとフィクションについて
山陰の地方都市、ということでした。具体的な地域は地図を見ればすぐわかりますし、画像もほぼそのままなのでぼかす気は無いのでしょう。
私はこの街に仕事で数年住んだことがありますが、史跡も多くいいところでした。とはいえ旧城下町ですので歴史はあっても最先端のものは無いですし野山を駆け回るような野性味ある土地柄でもないです。なぜこの土地なのかは正直わかりませんが、個人的に思うところが二つあるので言及します。
まず、都会との距離感と価値観の違い。
動物は移動を本能とすると先述しましたが、その理由付けには好奇心が必要です。物質的に満たされない田舎と比べれば都会は実に対照的で、好奇心をくすぐることでしょう。
この時点で田舎の人間にとって都会は一つのフィクションなのですが、都会の人間にとってもそれは同じこと。
朝の情報番組で良くお台場や赤坂サカスからの中継をやったりしますよね、あれは関東から離れればフィクションです。あんなところに行くことはなく、下手したら海外ぐらいの距離感かもしれません。
逆に東京で生まれ育ったシティボーイにとっては田舎暮らしがフィクションでしょう。テレビで眺めてSNSで見ても、そこでずっと過ごす自分のイメージはわかないと思います。
どちらのフィクションにもその中でリアルに過ごしている人がいるんですけれど、なかなか実感がないと言いますか……ただ、その感情があんまりに透けて見えると反感を持たれるんですよね。
作中で地元のヤンキーが「東京、東京モン」って呼んできたじゃないですか、ステレオタイプな田舎ヤンキーの罵倒といってしまえばそれまでなんですけど、リアルを東京に残したままの相手に対する呼称としてはなかなか的を射ていると思うのです。
他にも猪飼の「ずいぶん失礼な奴じゃ、ハルタくんは。ここが現実の人間もようけおるのに」という言葉はドストレートでスゲェ…としか言えませんでした。猪飼の言葉はいちいち鋭いんじゃ。
まぁそんな中でフィクションの登場人物の心に触れて、彼らをリアルの人間と認識して、その場所でアイデンティティを確立していく感じですね、ある意味「国作り」かもしれません。
ちなみにこれを語るのにちょうどいい存在が祐太郎、そしてトシです。
祐太郎の「暖かな場所が許せず冷たい場所に帰ってきた」という離婚理由は、つまり天狗の国を彼にとってのリアルにしてしまったということです。結婚するのならそれを改めるか、共に天狗の国に移動するかなどの決断が必要でしたがそれは無理だったのでしょう。
トシは天狗の彼女を深く愛する覚悟が無く、自分のリアルを彼女に捧げ、変える覚悟が無かった。
どちらも完全な対比というわけではありませんが、ハルタと比べてみるとなかなか興味深い設定でした。
次に海です、日本海、北の海。
なぜかはわかりませんが、ライターは海、特に北方面にある海にこだわりがあるように思えます。
北に海、南に山という環境が具象するもの……閉塞感でしょうか、特に山陰は曇天が多いこともあるかもしれません。冬は風と共に雪も吹き付けますからなにかと不便。山間の深い根雪とは性質が違い、外界との隔離をするほどの強さを持ち合わせてはおらず、一過性の暴力程度ですが。
また海というものは貿易の観点から見れば玄関に当たります、しかし一般人にとってはそうではない。押し寄せる波はすなわち反発であり、拒絶です。もちろん釣りとか海の幸とかいいこともたくさんあるんですけどね。
なんだか頑固親父みたいですね、機嫌が悪ければ雷降らせて、いつもむっつり口を閉じて。たまにご機嫌でお菓子買ってくれたり。実際私には「母なる海」なんて意識はなく、こちらのほうがしっくりきます。
ただ、こういうのは何が良い悪いというものではないと思うのです、山間部出身の友人が「山が見えないところに行きたかった、海が見たいんだ」と昔言っていました。そんないいもんじゃないよ、と思いましたがそれは私のルーツに海がそう刻まれているからです。彼にとっては山が拒絶の象徴なのでしょう。また太平洋、瀬戸内、東シナ、海によって表情も違うので一概にまとめられるものでもありませんしね。
大事なことは、良いも悪いもひっくるめて、それがそこに住む人にとっての現実だということです。それを経験することで、フィクションはリアルに変わるのですから。
それが凝縮されているシーンが、陶芸の師匠がユリを評したこの言葉。
「器はうまくても仕方がない」「あれは余所で生まれた。ここの器はつくれん」
陶芸に限らず踊りや歌などでも、練習してきたよそ者がやるものと、本来の人種や住人がやるものとでは明確な違いが出ると思います。上手い下手ではないのです、むしろよそ者のほうがうまくやるかもしれません。でも、それは本物ではない。本物を越えたとしても別物でしかない。それを踏まえて違うものを生み出そうというなら別ですが、実直に本家を模倣するのならば相応の年月がいるのです。
これはキリンの国でアンが言った「僕、ここが嫌いだ」の言葉に重なるところもあるかもしれません。
好きや嫌い、役割やしがらみ、そんないろんな感情と経験を内包してこそリアルがある。だからこそ、いいものってわけじゃないんですよね、師匠がユリを都会に帰そうとするのもうなずけるものです。
〇天狗と人間、帰化について
帰化というシステムは天狗を人間として扱うということであり、神を人間に落とす枠組みともいえるものです。
天狗の存在意義である神通力を封じ込め、人間となるようにロードローラーで馴らし、均一化を図る。交配により、自分のルーツが天狗だというアイデンティティも無くなるのでしょう。神通力が弱くなっている、という描写から神秘性の消失の理由すべてを読み解くことはできませんが、みすずの国でヒマワリが言っていた「自分を信じることが神通力の基本」ということを踏まえると、アイデンティティの消失はそこに根差す力の消失にもつながると思うのです。
そうしていけば、天狗という存在があったことすら忘れられるのでしょう。最初は隔離、制限や差別もあるのでしょうがいつかは同一化を果たすのだと思います。例えば原生人類、ホモサピエンスはネアンデルタール人の遺伝子を数%保持していますが、これは異なる種の同一化の顕著な例ですし、そこまで昔でなくとも縄文人と弥生人、アイヌ、沖縄人など例はたくさんあります。
これは私の妄想なのですが、人間も個体によりTK細胞が活性化するという器質から想像するに天狗と人間のルーツはある程度共通するのではないでしょうか。能力値が高い個体を有するグループが集って「天狗の国」を作り、優良な血を濃く保つことによって神通力を向維持向上していったのではないかなと。
つまるところ、究極的にはどちらも人間というか同じ種であり、隔てるものは文化と枠組みだけなんですよね。住んできた場所、育まれた価値観が彼らのルーツであり、アイデンティティになっている。
だからこれを無くす人間の政策は理に適ってはいるんですよね、もちろん一筋縄でいくものではないと思いますし、そうなってしまうのもなんだか面白くないですが。
これを強く感じたのが、天狗の子が言った「私たちも早く立派な人間になろうと思うのよ」という言葉。
思想の押し付け、飲み込まれていくルーツ、なんとも暴力的で、無慈悲で、合理的。
教育は良くも悪くも一種の洗脳で、価値観の根底に根ざすものです。それを外圧によってコントロールされるというのは最上級の侵略なのです。我々の歴史でも何度となくあったことですし効率的な手法だと思いますが、こうして見せられると悲しくなりますね…。
〇微妙に思えたところ
終わり方。
EDの後、クーデターか何かを予見させる形で終わりました。この手法は次回への繋ぎとしてよくある手法ですし、実際効果はあります。次回どうしようかな、と思っている人に効果があるでしょう。
しかし、本作はシリーズ3作目です。初めての有料タイトルとはいえ、ここまでプレイした人ならどんな終わり方でもライターへの期待は変わらないと思うのです。
むしろ綺麗に終えたキリンの国や、先の展開を書かず冒頭で終わらせたみすずの国のイメージが強いだけに本作のそれは違和感が残りました。
あえてこの展開を入れたかった、ということであればそれはそれでいいのですが、少し思った次第でした。