ErogameScape -エロゲー批評空間-

FastactionさんのCHAOS;CHILDの長文感想

ユーザー
Fastaction
ゲーム
CHAOS;CHILD
ブランド
MAGES.(5pb.)
得点
94
参照数
180

一言コメント

「自己定義の否定の許容と人間的成長」「都合の良い妄想(現実逃避)からの脱却による現実直視」これら2つのテーマを主軸にサイコホラー、ミステリ、能力バトルが繰り広げられる傑作ADV。特にテーマはシステムさえも利用して深く掘り下げられ、上質な物語との融合を見事に果たしており、他作品と一線を画す大きな魅力となっている。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

 本作は一言感想にも挙げた通りサイコホラー、ミステリ、能力バトル、そして2つのテーマで構成されている。その中でもOver Sky Endまでプレイすればこれらのうちテーマが非常に重要であると分かるが、そこに至るまでの物語を彩る他要素も中々に秀逸なのでまずはそれらから見ていこう。



 要素としては分かれているが、これらは独立しているのではなく繋がっている。ひとまずはサイコホラーを挙げよう。物語は6年前の連続猟奇殺人事件通称「ニュージェネレーションの狂気」との日付という類似点を見つけた拓留が渋谷で起きる事件を探るところから始まる。第1章のニュージェネレーションの狂気の再来第三の事件、後に回転DEADと呼ばれる事件の現場に警察よりも先に潜入するシーンにおいて開始早々プレイヤーへの恐怖心を煽る。現場へと進む足音のSE、控えめながらも効果的なBGMと共に現場へ赴くが、鍵がかかっているはずのドアがなぜか急に内側から開いたり、ベッドの上で被害者の首を捩じ切る機構の不可解さだったり、第一、第二の事件で被害者に死をもたらしたノックが事件が終わってもどうしてか鳴り響いた。第2章のAH東京総合病院の調査では再び鍵のかかっていた扉がまるで誘うように開いたり、精神病棟5階の奥の部屋の血で力士シールの模様を描く女の子が世莉架には見えずなぜか拓留にだけ見える。以上のように物語序盤はとにかく「分からない」ことでプレイヤーに恐怖を与える。ホラーにおいて最も怖い要素というのは「理解できない」ものだ。様々なホラーゲームをプレイする中で経験的に理解したものだが、これらのホラー作品には致命的な弱点がある。それは分かってしまえば怖くないのだ。たいていホラー要素の強い作品というのは最初が面白く、徐々に失速する場合が多いのだが、本作はバッサリと大胆にホラー要素を中盤で切り捨て、次なる要素である能力モノとミステリへと本格的に舵を切った。最も重要なテーマへと導くために必要な事件に拓留をどっぷりと浸らせるため、そしてプレイヤーを序盤から引き込ませるためのサイコホラー要素のおいしいところだけを抜き取る手法が物語構成的に上手くハマっており、序盤のプレイングのモチベーション維持に大きく貢献した。『素晴らしき日々』などにも見られる手法だが、数々のホラー作品のある種の失敗を踏まえた「いいとこどり」はテーマが重要な作品=終盤まで読まないと本質を捉えられない作品の序盤のストーリー展開の一つの正解なのかもしれない。
 



 さて、次はミステリと能力モノに関してだが、これは佐久間の思考誘導と世莉架の思考盗撮、そして雛絵の真偽判別がかなり効果的に事件をかき乱していた。雛絵の真偽判別が何度も嘘発見器のように働いていてプレイヤーは雛絵への情報依存度が高くなる。しかしそれを見計らったかのように思考関係の能力者が本格的に拓留たちに牙を剥き、拓留たちの妹の唯衣までニュージェネの再来の被害者になる。真偽を見抜く力があっても、思考が誘導され、事実とは異なる物事を真実であると思い込んでいればその力を欺けるというのは結構関心した。世莉架の思考誘導についても世莉架自身の目的を果たすための拓留の心情の確認やOver Sky End第11章「彼の戦い」での拓留と世莉架の戦いで拓留がやろうとしてることに対し、世莉架が即座に理解し、心からの叫びを上げるシーンは上手いと思った。
 また、ミステリ部分との関係で言えば世莉架が佐久間に自分の目的、存在意義を「拓留を生存させること」だと思考誘導させることで自身の本来の存在意義を隠した。真実を知るために思考誘導の犯人である佐久間との戦いに辛勝した後、拓留を昏倒させ、舞台を去ろうとする世莉架に拓留が根性でディソードを投擲して世莉架のディソードにぶつかった瞬間に思考誘導により隠蔽された事実が発覚する。思考誘導された警察たちによって佐久間が自身の保身のため、未成年では異例の実名指名手配を受けながらも(後に世莉架が拓留をそうするようにしたと分かるが)雛絵が唯衣の惨殺の際の伊藤を見抜けなかった失敗の教訓を活かした世莉架の謎の答えを得るために、自身の社会身分の安全と命さえ賭けてニュージェネレーションの狂気の再来の思考誘導の犯人であり、義理の父親でもある佐久間を殺した。その先に待ち受けていたのが拓留が「拓留にやりたいことを与え、それを叶えさせる」という存在意義を背負った世莉架を誕生させたという真実だった。その瞬間から、全身が総毛立ち、心音が聞こえるほど興奮した。直前まで鳴り響いてたBGMが途切れ、無音の状態になる。そこで響く拓留の

「父さんにあれだけのことをされたにも狂わずにすんだ僕が……たった一つの『真実』のせいで、おかしくなってしまいそうだった」

という独白から始まる徐々に大きくなる叫びが強烈に脳内にこびりついている。

<拓留「全部、茶番だったのかよ」
世莉架「………」
拓留「それで………このままお前が『真犯人』として名乗り出て終わりってわけ?
いや、違うか。それじゃあ、僕が解決したことにならないもんな。その実感が、持てないもんな」
世莉架「……やめろ」
拓留「そうか、父さんがあくまで『真犯人役』か。僕が父さんを殺して……自分の手で終わらせたと思ったところね、僕を気絶させてらそれから──」
世莉架「違う……」
拓留「それから、お前は……ああ、世間に流す情報の"調整"をしたのか。もしかしてらさっきスマホをいじってたのはそれ?警察に連絡でもしたのか?」
世莉架「違う!」
拓留「だよな。6年前の『ニュージェネ事件』で一度あの人は公開処刑になってるもんな。警察に捕まえさせて、大勢の前に引きずり出さないといけないもんな。
で?僕が危機におちいった時に、父さ──佐久間が『真犯人』だったっていう証拠が出てきて、僕は一転、英雄になる?
そういうことか?なあ、尾上……?」

まるで、僕たちの心の全てが、涙になって溢れ落ちていくかのようだった。

拓留「有村の知り合いだった柿田が死んだのも、ネット記者の渡部が死んだのも、南沢千里に見せかけられた杯田が死んだのも、伊藤が操られて唯衣を殺したのも───乃々が死んだのも!全部!僕のせいなのかよ!」
世莉架「違う!私がやったことだ!」
拓留「そうだ、お前がやった!僕が、お前にやらせたんだ!」
世莉架「違うって言ってるだろ?!」
拓留「久野里さんの言った通りだ。僕のまわりで、事件に関する出来事が起きすぎている。当然だよな!僕が解決するために仕組まれた事件なんだから!」>

このシーンはミステリにおける犯人告発の中でも間違いなくトップクラスに衝撃だった。ミステリというのは通常、証拠というのが必ず現場に残される。現実には現在進行形で迷宮入りしている事件も多数存在するが、創作物であるため、必ず犯人は探偵、刑事役に手がかりを与えるのは物語の進行上入るお約束、言い方を変えるとご都合主義だ。ミステリでは必ず入れなければならないこのご都合主義を逆手にとり、主人公である拓留が解決させるために全て世莉架がわざと残したものであった。そしてその世莉架は拓留の理想であるニュージェネ事件で警察を上回った西條拓巳さながらの逆転劇を拓留で再現するために事件を起こした。なぜなら世莉架は拓留に「やりたいことを与え、それを叶えさせる」存在だから。つまりは拓留の無意識な願望がニュージェネレーションの狂気の再現を引き起こして、妹も、姉も、父親も殺すことになった。物語開始時点から事件を追い、推理して様々な苦難を経て待ち受けた真実が「自分が事実上のすべての原因である」というものは拓留役、世莉架役の声優の熱演、及びこの結論に至るまでの演出も相まって悲しくも非常にドラマチックで驚愕をもたらした。探偵役である主人公こそが犯人であるミステリというのは主人公が多重人格か、あるいは犯行に関する情報を意図的すぎるほどに排除した状態でないと成立しないと思っていた。これらの作品というのはその怪しすぎる描写により、早期に主人公が犯人候補となり、ある程度展開が読めてくる。しかし本作は思考誘導をはじめとする複雑に絡み合った状況を作り出しておきながら世莉架の存在意義である「拓留にやりたいことを与え、それを叶えさせる」という1本の大きな骨に様々な要素を肉付けすることにより、Over Sky End最終章の後半になるまで一切拓留が本当の犯人であることを考慮に入れなかった。というよりも入れられなかったと言った方が正しいだろうか。通常ミステリは最初に上がる犯人候補はシロで、操作を進めると上がってくる2人目の容疑者が真犯人であるという物語構造を取る作品が多い。本作を読み進める中でニュージェネ事件ではまず杯田理子が最初に犯人候補として捜査されたが、結局はシロだった。そして杯田理子の容疑が晴れた直後に思考誘導の実例が目の前に提示され、思考誘導の能力者が真犯人であると予想を立てていた。作中で何度も真犯人は思考誘導能力者=佐久間であると強調されていたのに加えて残る謎は雛絵が疑問視した世莉架の存在意義と拓留が渋谷地震の時に何を願ったかだけだった。故に佐久間を倒した後で無意識にこれ以上犯人に関する深掘りはないだろうと思った直後にこのどんでん返しだ。ミステリで自分が犯人と思った人間とは違う人間が犯人だったというのは珍しくないが、犯人の正体に驚愕し、主人公が自分で本当の真犯人である自分の告発をするシーンで鳥肌が立つほど興奮したのは本当に珍しい体験をさせてもらった。後に語るテーマの部分ではTrueであるSilent Sky Endも重要であるが、ストーリーに関して言えばこのシーンがあるため、私にとってはOver Sky Endが本作で最も面白いルートである。あの緊迫感と衝撃から得られるカタルシスは忘れられない…




 最後に、『Chaos;Child』を語る上で外せない要素がテーマだ。結論から述べると「自己定義の否定の許容と人間的成長」「都合の良い妄想(現実逃避)からの脱却による現実直視」この2本が本作を構成する最重要の要素だ。というよりも本作はこの二つを語るために作られた作品と言って良いだろう。2つのテーマは複雑に絡みあっており、分けて話すのが難しいので前者のテーマの要素を①、後者のテーマの要素を②という記号を使い、テーマを念頭に物語をストーリー順に振り返っていこう。

 主人公、宮代拓留は情強を自負しており、日々様々な雑学や自身の住まう渋谷の情報をリアルタイムで追求している。物語の第1章のタイトルが「情報強者は事件を追う」と銘打たれていることや渋谷の情報を取り扱う「渋谷にうず」、「ニコニヤニュース」、そして「@ちゃんねる」のページを頻繁に閲覧していることからもそれを伺えるだろう。極め付けは物語の一番初めの拓留の心理描写が「例えば、今の中高生に、『シュレディンガーの猫って知ってる?』と訊いたとする。」という問いから始まる痛烈な情弱批判だ。長々と講釈を垂れ流した後、結論としてそんなことを知っている高校生は僕ぐらいのものだろうと締めくくっている。これらや他の描写から拓留が情強に強く拘っており、自分が情強であり、情弱とは違うのだと自己定義している。①A


 その情強たる自分が自分の両親は渋谷地震の際に事故や災害に巻き込まれたのではなく、誰かに殺されて死んだということを地震から6年ほど経って知ったことに情強としてのプライドが傷つき、また、それを隠していて家族の約束を破っていた乃々たちに憤り、家を出てトレーラーハウスに住んでいる。元から笑顔が極端に少ない人間だったが、この出来事から半年間経っても笑うことが出来なくなった。①B


 情強活動の一環として行っていた新聞部の活動で事件を選択肢の代わりとなっている妄想トリガーを発動ながら追っていく。これは特定のシーンにおいて、青いサークルと赤いサークルが現れて、前者を選びながら進めるとポジティブな妄想に、後者を選びながら進めるとネガティブな妄想をするといったものだ。さらに物語の途中からはギガロマニアクスの要素も追加されていく。これは事実上の前作『Chaos;Head』でも登場する能力であり、この能力者は自身の特定の妄想を自身以外の人間の脳を介して現実化させるというものだ。中でも拓留は能力を一つしか使えない紛い物のギガロマニアクスではなく、様々な自身の脳内の妄想をそのまま現実にぶつけることができる本物のギガロマニアクスだとされている。妄想トリガーとギガロマニアクス。両者に共通するのは「現実を歪めるほどの妄想」という点だ。Over Sky Endクリア後はこの妄想トリガーのポジティブ、ネガティブによって物語が分岐し、拓留の様々な可能性を見た後に、Trueルートへ突入する。ギガロマニアクスに関しては言わずもがな、拓留はこれにより、尾上世莉架を現実化させ、開かないはずの扉を開けた。2つの「現実を歪める妄想」により、拓留の物語は進んでいくのだ。②A


 物語と拓留は第8章「侵食していく事件の錯綜」で大きな転換点を迎える。ニュージェネ狂気の再来は南沢千里が犯人であると見せかけられていたが、それに騙された拓留は思考誘導を受けた伊藤による唯衣の殺害を止めることが出来なかった。もはや人の死体ではなく、肉片と化した唯衣の最期を撮らないでくれという拓留の願いも虚しくニュージェネの被害者として大々的に唯衣のことが報道されてしまう。その後、事件について何かないかニュージェネの再来関連の@ちゃんねるを除いた時の反応で拓留の変化が垣間見える。

<拓留「っざけんなよ、こいつら!」
僕は、新聞部の大事な備品であるPCのモニターを、あやうく叩き壊してしまいそうになった…(中略)…何が非実在青少女だ!?唯衣はっ……唯衣は、あんなむごい目にあって死んだんだぞ!?なのに興味本位の傍観者どもが、集団でセカンドレイプまがいのことしやがって!ふざけんな!…(中略)…あんな、自称情強のたまり場、覗くんじゃなかった。連中は、実際は、金で雇われたプロに巧みに誘導され、踊らされているだけだというのに。
拓留(いや、それは以前の僕も同じだったのか)
今回の、連続猟奇殺人事件……少なくとも『回転DEAD』の前までは、僕も傍観者として、事件の謎を楽しんでいた。それが、だんだんと事件の当事者になっていくにつれ、ネット上の情報の無責任さや無神経さ、それとは逆に現実世界で起こる出来事の重さを、身をもって感じさせられた。因果応報……かつて情報強者を勝手に自認していた自分への戒めなんじゃないかとさえ。今は思う。>

このシーンにおいて重要な点は2つだ。まず1つ目が拓留が情報ソースとして入り浸っていた@ちゃんねる、及びその住人に対して激情を露わにして非難、否定していることだ。直前までの唯衣の葬儀のシーンが描かれたが、その時の拓留たちの悲壮な描写と情強を自称する人間たちによる安全な場所からの高みの見物による被害者を馬鹿にするお祭り騒ぎが対照的に描かれてる。2つ目は自身が情強であるという自認を捨てたという点だ。拓留が軽蔑する情弱とまではいかずとも、拓留がかつてこうありたいと強く思った存在である情強ではないと受け入れた点だろう。拓留がニュージェネ狂気の再来を追ううちに、だんだんと被害者が自分に近しくなってきた。最初の2人は完全に他人だが、3人目の被害者の柿田は同じ学校の生徒で8章時点では新聞部員ではないが、新聞部の活動を共にする雛絵の友人。4人目の被害者の渡部は自分たちと対談予定で拓留は何回も渡部の記事を見ていた。5人目の被害者の杯田は拓留たちと何回か接触し交戦した。そしてついに6人目の被害者は自分の妹となった。情強を名乗っていた頃の拓留の頭の中には被害者の尊厳を守るべきという考えや、被害者の家族の心情など無く、ひたすら無神経に事件を追った。被害者と事件についての動画を不特定多数の人間が見ることができるニコニヤに上げたことなど最たる例だろう。しかし、徐々に自分と近い人間が惨く殺されることで『現実世界で起こる出来事の重さ』を認識し、他者(特に被害者)の尊重という考えが情強の自認をやめた拓留の中に芽生えている。これにより『Chaos;Child』では

情強だと自認している人間=無責任、無神経に他者を扱う人間。
非情強、情強だと自認しない人間=他者を思いやることができる人間

という構図が完成する。
実は物語の最初の方で既にこの構図は示されている。それは渋谷地震発生時の拓留と当時の同級生とのやりとりだ。前提として拓留はこの時から自身が情強、拓留以外のクラスメイトを情弱として認識している
第2章『事件が彼らを嘯く』では

<僕から言わせれば、クラスのみんなはものを知らない子どもだった…(中略)…クラスのみんなを、見返してやりたかった。情弱を、あっと言わせたかった。>

といった具合に自身も周囲の人間について情強、情弱という枠組みで捉えていた。そんな中で渋谷地震が発生した。その時の拓留と情弱のクラスメイトについての描写はとても対照的だ。拓留はAH東京総合病院が避難所として機能しているという情報を得て世莉架を背負いながら進んだ。その時拓留は

<生きているのか死んでいるのかわからない、倒れている人の数を僕は何故かぼんやりと数え始めた。が、5秒経たないうちに10人を軽く超えてしまい、意味のないことだとようやく理解してそれをやめた。>(第1章『情報強者は事件を追う』より)

といった様に見知らぬ被害者を数でしか認識できず、そのことについて考えるのを無駄だと切り捨てた。一方でクラスメイトの情弱たちは半身が瓦礫に埋もれてしまい、瀕死の状態となっている他人を助けようと一致団結していた。その中の一人が拓留に助けを求めるが、拓留はそれを拒否し、避難所へ向かっていった。この時、拓留は世莉架を助けるためだと言い訳していたが、この時の世莉架はまだ単なるイマジナリーフレンドである。つまり、拓留にとってこの時優先すべき事項は
実在しない自分の妄想>他人の命であった。
先ほど
情強だと自認している人間=無責任、無神経に他者を扱う人間。
非情強、情強だと自認しない人間=他者を思いやれる人間
という構図を挙げたが、拓留が情弱と見下していたクラスメイトは他者を思いやれることに加えて他者を救おうとすることができる人間とも言える。一方で拓留は被害者のことを考えるのは無意味だとクラスメイトとはまるで正反対のスタンスをとっていた。しかし、唯衣の死を大きなきっかけとして情強を騙る人間から離れていく拓留は他人を思いやれる人間になっており、他者を救おうとできる人間になりつつあることを示している①C


 唯衣の事件の後、犯人を突き止めるため拓留は一層事件を深追いするが、ニュージェネ最後の日である11月4日に乃々が真犯人の片割れである世莉架によって殺され、佐久間の思考誘導によって証拠を偽造し、拓留が事件の犯人として仕立て上げられる。指名手配されながらも、世莉架の残した謎の真実を求め、決戦の地である劇場へ足を踏み入れた。そこで待ち受けていた佐久間の思考誘導により、拓留を狂わせるため「ウッドバーン・ヘロン」の感覚遮断実験の悪用による無感覚の檻に閉じ込められた。ヘロンの行ったできる限りの感覚を遮断するものでさえ被験者は2、3日で解放を訴えたが、佐久間が拓留に施したものはそれよりも数段凶悪で本当に感覚を奪うものだ。これに拓留は発狂しそうになったが、自我の崩壊寸前で暗闇に世莉架が浮かび上がった。思考誘導に囚われて感覚時間でいくら経ったか分からないが、その間に得ることが出来なかった感覚を取り戻すかのように拓留は世莉架に話しかけ続けた。この状況は渋谷地震で発生因子の光が漏れ出す直前までと酷似している。イマジナリーフレンドである世莉架と一人芝居をしているのだ。ここで改めて尾上世莉架とは何者かを確認しよう。
 世莉架は渋谷地震が起きるまで拓留のイマジナリーフレンドに過ぎない存在で、渋谷地震の際のギガロマニアクス発生因子拡散の際に拓留の願望によって生み出された存在だ。つまり世莉架は拓留の妄想の産物ということだ。物心ついた時からネグレクトを受け、家族の愛情を注がれなかった拓留の願望を背負っている存在とも言える。それはSilent Sky Endの終わりで明らかになる世莉架の名前の由来からも分かる。『尾上世莉架』という名前は拓留の両親である宮代実雄、宮代恵理子の名前のローマ字書きのアナグラムなのだ(SANEO+ERIKO→SERIKA ONOE)。このことに関して拓留は本当の親に求めるようなことをイマジナリーフレンドの世莉架に求めていたのだろうと語る。それに対して久野里は親の役割を世莉架に求めたのなら年上に設定するはずだと反論する。しかし拓留にとって世莉架は年下でなくてはならなかった。なぜならそんなふうに親を求める自分を認めたくなかった。拓留が守るべき、年下でなくてはならなかったと語る。要は世莉架=拓留の妄想、もっと言えば『拓留にとって都合の良いことを押し付けられた存在』と言うことだ。その世莉架自身、あるいは世莉架の発言は拓留の都合の良い妄想の誘惑であり、世莉架に(都合の良い妄想)や(妄想の囁き)という注釈のついたアレゴリーとして読むこともできる。②B
 

 そして、拓留は今回も感覚が欲しいと切望した時にまた世莉架を想像(創造?)した。まさに世莉架は拓留の都合よくできた存在といえるだろう。しかしこれまでと明確に異なる点が一つある。それは拓留が世莉架のことを拓留自身の都合の良い妄想であると自覚している点だ。

<こいつは、拷問のような時間の中で僕が妄想し新たに生み出してしまった、ただの──…(中略)…気がついた途端、自分がどうしようもなく情けなくなった。…(中略)…僕は、向こうの尾上を……殺したんだぞ?…(中略)…それなのに僕は、渋谷地震と同じように、また世莉架の存在を望んでしまった。そしてまた、彼女に頼ってしまった。この暗い空間に、ひとりでいることが耐えられなくて……都合よく世莉架を生み出してしまった。僕は駄目だ。最悪な人間だ。>

佐久間の思考誘導で世莉架に殺されそうになったら世莉架を殺し、別の思考誘導で無感覚空間に閉じ込められると今度は世莉架を頼る。その振る舞いに拓留は自分自身を恥じ、拓留のエゴを具現化した『けなげな少女』という設定を演じさせられている世莉架に「……ごめん……ごめんな……本当に、ごめん」と謝ったりもした。その後拓留は今、本当にやりたいことは何かと問われると乃々たちと過ごした家族の日々と部室での日常を思い出していた。その安寧は佐久間によって破壊されたが、これ以上滅茶苦茶にさせる訳にはいかない。そう固く決心した拓留に対し、世莉架は情強らしく佐久間が今拓留にしようとしている実験で何が起きようとしているのか、佐久間は何を求めているのかを知りたくないのかと問うた。しかし、拓留はそんなことにもはや興味はない。なぜなら拓留はもう情強ではないのだから(①C参照)。佐久間を倒す準備が整った時、世莉架が驚くべき発言をする。

<世莉架「私のかたきは、とっちゃダメだよ」
拓留「え……」
世莉架「のんちゃんたちのかたきは、とらなきゃダメ。でも、私のかたきは、ダメ。当たり前でしょ?」
拓留「それは……」
世莉架「いいから。とにかくその瞬間、タクが想っていいのは、のんちゃんたちだけ。ね?>

②Bでも述べたが、世莉架は拓留にとって都合の良いことを押し付けられた存在だ。当然、拓留が(意識的にせよ無意識的にせよ)望むやりとりばかりするはずだ。例えば作中冒頭から見せたちょっとおバカだけど知らないことには興味津々という性格は拓留の情強であるという自認を強めるためのものだし、年下というのも拓留が庇護し、世莉架もそれを受け入れることで満足を得るためである。実際無感覚空間でのイマジナリーフレンド世莉架との会話には(それも僕が言わせたものだ)という表現や(世莉架が正論を突きつけてくる。いや、僕がそうさせている。)という世莉架の発言を拓留が言わせたものであるという注釈が非常に多くついている。故に妄想世莉架が拓留の意にそぐわない発言をして拓留が驚くというのは本来あり得ないはずだ。この時の拓留はまだ世莉架が佐久間によって殺されたと勘違いしているので、この時の拓留が知っていることしか知らない妄想世莉架も自分が死んでいるものだと思っている。「のんちゃんたちのかたきは、とらなきゃダメ。でも、私のかたきは、ダメ。当たり前でしょ?」という発言から世莉架とそれ以外で区別している。死んだ人間を顧みるなというメッセージではないのは乃々も死んでいることから明らかだ。ここで世莉架とそれ以外を区別する境界線は何か。それは妄想の人形か、現実を生きた人間かということだ。拓留はネグレクトを受ける一方でクラスメイトは親に愛情を注がれるという惨めな環境に耐えきれず世莉架を生み出した。当時は「何もされていない」という理不尽にショックを受け、現実から逃避した拓留だが、世莉架だけはそこから拓留が成長したのを知っている。不条理な暴力により家族の唯衣を、そして乃々を奪われ、あまつさえ指名手配により社会的地位を奪われた。そんな「何もされない」理不尽よりも遥かにに厳しい「奪われる」理不尽にあった拓留は昔のように現実逃避してもおかしくない。しかし今はどうか。

<世莉架「無謀なことに賭ける覚悟は…おっけい?」
拓留「おっけい」
世莉架「賭け金が自分の命だっていう現実は、おっけい?」
拓留「おっけい」
世莉架「馬鹿な決断に言い訳しない意志は、おっけい?」
拓留「おっけい!」>

このやりとりからも分かる通り失ってから初めて気がついた大切な日常を守るため、自分の命さえ賭けて厳しすぎる現実を強い意志で真っ正面から受け止めてこれ以上失われないように守ろうとしているではないか。もう昔のように辛いことがあっても逃げたりはしない。妄想に浸り、現実から逃避した拓留を支える役割はもう終わった。故にもう自分(妄想)のことは顧みず、乃々たち(現実)を想えと言ったのだ。後は激励をかけて都合の良い妄想は消えるのみ。

<そんな僕の決意を見てとると、世莉架は安心したように笑った。笑顔を浮かべたまま、役目を終えたように、徐々にその姿が薄らいでいく。…(中略)…
世莉架「じゃあ、行って!舞台へ上がって、タク!!」…(中略)…暗黒の『妄想』の中から、『現実』に脱出してきた>

拓留にもはや妄想世莉架は不要。長い時間はかかったが、都合の良い妄想に頼らなくとも、彼女に支えられた記憶と激励を心に刻み、辛く厳しい現実に立ち向かえる様になったのだから。②C


 佐久間を倒した後、本来の目的である世莉架の真実を確かめるために劇場から去ろうとする世莉架へディソードを投げつけた。その瞬間、乃々ルートでも見られる思考盗撮の逆流が起きた。そこで世莉架は佐久間に思考誘導を自分にかけさせ、拓留が世莉架を作った目的が拓留の生存であると拓留たちに誤認させたことが明らかになる。そして世莉架がひた隠しにしてきた本来の生きる目的、世莉架の存在意義とも言えるそれが「拓留にやりたいことを与え、それを叶える」ことであったと発覚する。そしてニュージェネレーションの狂気の再来そのものが拓留の「やりたいこと」である犯人と目された拓留が最終的には冤罪を晴らし、拓留が事件を解決に導くという筋書きを実現させるためのゲームであったことが判明した。全ての原因は拓留。唯衣を殺したのも、乃々を殺したのも、直接は世莉架たち、だがその全ては拓留が世莉架に願ったせい。それを悟った時、狂いそうになりながらも拓留は自身の「やりたいこと」ではなく、「すべきこと」を悟った。

<世莉架「お前が本当にやりたいことは、お前が今考えているようなことじゃない。前代未聞の事件を解決した英雄として、この世界に認められることだ」
拓留「そんなこと、僕は望んでいない」
世莉架「望んでいる!私だからわかる!いや、私にしか理解(わ)からないんだ!」
必死になって叫ぶ世莉架の言葉は、おそらく、僕の心の奥底にある感情を読み取っているのだろう。それは否定しない。確かに、彼女に全てを委ねれば、僕は英雄になれる。逆に、このまま進んでしまえば、待っているのは破滅だけだ。そのことを考えると、やっぱり怖い。恐ろしい。
でも───。
それでも、僕は。>

ここから注目したいのが世莉架は元々拓留の境遇の悲惨さを紛らわせるためのイマジナリーフレンドに過ぎなかったが、ニュージェネレーションの狂気の再来を起こした世莉架は拓留の願望、つまり「やりたいこと」を叶える存在だ。これは妄想の時よりもはるかに拓留にとって都合の良い存在とも言える。なにしろこの時の拓留は何もしなくともかつて憧れた情強の中の情強である西條拓巳のように警察を含めた数多の情弱を出し抜き、英雄になれるのだから。②Cでも見たように、拓留はもう妄想に自分の都合を押し付けるのは止めた。その拓留でも世莉架の言う通り、心の奥底では無意識的に世莉架に全てを委ねたいと思っているのだろう。世莉架の言う通りにしなければ拓留は終身刑か死刑の大犯罪者、言う通りにすれば絶大な名誉が得られるだろう。②Bで示した様にアレゴリーとして見ると世莉架と世莉架の台詞の「私」は「妄想」という言葉で置き換えることができる。その妄想が今囁いているのだ。私の言うとおりすれば望む名声が手に入る、しかし私の言う通りにしなければ全てを失うと。それでも拓留はその甘言に耳を貸さない。破滅への恐怖を抱えながらも自分がニュージェネレーションの狂気の犯人であると名乗り出るために世莉架を打ち倒そうとボロボロの体で世莉架に立ち向かう。なぜ、そうまでして茨の道を突き進もうとするのか。心の奥底で思っている本当の望みは世莉架の思考盗撮で読み取れる通り、世莉架に全てを任せて受刑という破滅を回避してさらに警察の捜査を上回ったという名誉を得ることだ。だが、拓留は犯人として名乗り出ようとしている。本当に望んでいることと実際の行動が一致していないのだ。

これは拓留が妄想に自分の都合を委ねることから脱却したことが原因である。②Cで見たように拓留は完全に現実を直視するようになれた。ここで留意すべきなのが自由と責任の関係である。通常、人間は何か行動を起こす時に(特に他人が関わる場合に)責任が生じる。人は責任があるが故に全て自由に「やりたいこと」ができずに制限されたり、逆に別の行いをする義務が生まれる。代表的なのが刑罰だろう。人は自由が保障されているが、人を傷つける自由までは保障されない。その制限を破ると刑罰により罰金や禁錮、懲役等の義務が待ち受ける。一方で妄想とは完全に個人の自由だ。自由に自分の快楽を追求することも、自由に他人と交流することも、自由に他人を殺そうと許される。②Aでも述べた通り、本作は至る所で妄想トリガーによって拓留の自由な妄想が繰り広げられる。時に拓留とヒロインが良い関係になり、時に拓留の周りの人間が殺される自由な妄想に浸っていた。つまり妄想に生きる人間に責任は一切介入しない。思えばOver Sky End中盤までの拓留は責任から逃れようとするシーンがいくつか見受けられた。拓留が新聞部の部長であるのに慣れた人間以外とは話したくないという理由で部長が参加しなければならない部長会議に自分は欠席して部員の伊藤を行かせたり、渡部との対談が決まった時も大多数の生徒の前で対談したくないとの理由でしきりに舞台から降りようとしていた。つまりこの時の拓留には「責任」の意識がまだ希薄であったことが分かる。しかしOver Sky Endルート第8章以降と世莉架ルートとも言えるSilent Sky Endにはそれまでたくさん繰り広げられた妄想トリガーが発動しなくなる。そして妄想から現実へと帰還した拓留が世莉架を倒す直前、なぜ拓留は本心では世莉架に全てを託して楽になりたいと思っているのに自分から犯人として名乗り出ようとするのかが判明する。

<僕は死に向かって進んでいるんじゃないのか?
……でも、もういい。
ここで終わりにしなくちゃいけない。
『宮代拓留の人形』を解放しなくちゃいけない。>

「しなくちゃいけない」。この言葉は責任、義務を表し、自由と真っ向から対立する表現だ。この言葉が犯人として逮捕されようとする理由に2回も使われているのは拓留に責任の意識が芽生えている証拠だ。責任や義務というのは妄想に浸り、自由を謳歌していた頃の拓留には人生を左右するほどの行動原理にはなりえなかった。しかし現実を直視し、世莉架の真実を知った拓留は己の安泰よりも世莉架の解放を優先した。いや、するようになれた。現実の直視が責任感の萌芽を促したのだ。②D


 また、「世莉架を解放しなければならない」という行動原理にはもう一つ拓留の成長を垣間見る切り口が存在する。①Cでは

情強だと自認している人間=無責任、無神経に他者を扱う人間。
非情強、情強だと自認しない人間=他者を思いやることができる人間

と示した上で、唯衣の死を大きなきっかけとして自身の自己定義であった情強を騙る人間から離れていく拓留は他人を思いやれるようになっており、他者を救おうとできる人間になりつつあること示唆していると述べたが、拓留の自己定義であった情強であるという自認が完全に否定されるシーンが世莉架との戦いの直前に見ることができる。

<世莉架「どうして、犯人として名乗り出ようとする?……いや、どうして、それが許せるんだ。その"情報"に踊らされているのは、下に集まっている連中──情弱だぞ」
拓留「…………」
世莉架「"情報強者"のお前が最も嫌う……情弱だ。自分たちがニセの情報に誘導されていることに、気づきもしない。疑いもしない」
…(中略)…
拓留「……僕は、情弱だ」
世莉架「え……?」
拓留「小さい頃からいつも隣にいた『幼馴染』のことさえ……なんにも知らなかった」
世莉架「……っ」>

このように自分が情弱であると吐露している。①A①Cでも述べたように拓留は小学生の時から自身が情強であると強く認識していた。作中でも頻繁に自身が情強であると何度も言い聞かせるが、ニュージェネレーションの狂気の再来に当事者として関わる中で徐々に自分の認識の甘さ、どうでも良いことはたくさん知っている癖に肝心なことは知らないということを痛烈に実感していくと共に自らのアイデンティティが揺れ動いた。そして最後、世莉架を生み出した理由、世莉架の存在意義を思い出した拓留はついに自分自身が最も見下していた人間、つまり情弱であると認めた。ここで拓留の自己定義は完全に崩壊した。アイデンティティ、自己同一性…様々な名前で呼ばれるが自分を肯定し、自身が何者であるかという証明を失った人間はどうなるのか。自我の崩壊を招くのか?無気力な人間になるのか?いいや、『Chaos;Child』ではむしろ自己定義の否定を許容することを肯定的に描いている。忘れていないだろうか①Cでの拓留と他者への思いやりの関係を。拓留は情強だと自認している人間から自分を情強だと自認していない人間になった。その過程で情強が軽々しく扱う事件事故の被害者家族の心情や被害者の尊重を覚えた。では「情弱だと自認している人間」拓留はどうだろうか?

情強だと自認している人間=無責任、無神経に他者を扱う人間。
非情強、情強だと自認しない人間=他者を思いやることができる人間

という構図が『Chaos;Child』では挙げられるが、自身の情報に対する自認と他者の関わりに相関があるとするならば「情弱だと自認している人間」は他者への思いやり以上の何かができるはずだ。ここでもう一度拓留がなぜ犯人として名乗り出ようとしているのか振り返ろう。

<ここで終わりにしなくちゃいけない。
『宮代拓留の人形』を解放しなくちゃいけない。>

そう。拓留は世莉架を解放するために自分が破滅への道を歩んでいると知りながら進んでいるのだ。仮に世莉架に全てを託して拓留が名声を得てしまったらまた際限なく世莉架は拓留の心からの願いを聞き届け、それを叶えようとするだろう。一生拓留の「やりたいこと」に束縛されて生きる人生を送ることになる。それを拓留自身が許さない。「情弱を自認する人間」である拓留はかつて拓留が見下した小学生時代のクラスメイトのように「他者を救おうとすることができる人間」になったのだ。①D


 拓留の強い決心に言葉で止めても無駄だと悟った世莉架は己の存在意義に従い、拓留を無理やり気絶させてでも止めようとする。この時、拓留の方からも宣戦布告されたが、この時の以下の台詞は非常に象徴的だ。

<拓留「……来いよ」
僕は、舞台上から世莉架に呼びかけた。
あの暗黒の檻の中で、"彼女"からもらった言葉を、返す。
拓留「舞台に上がれ、尾上世莉架」>

あの暗黒の檻の中で、"彼女"からもらった言葉とは②Dでも引用した
「じゃあ、行って!舞台へ上がって、タク!!」
という世莉架の台詞だ。
イマジナリーフレンド世莉架の「じゃあ行って!」と拓留の「来いよ」が対比されており、両者とも「舞台」へ上がることを命令している。ここで「舞台」とは何を示しているか考えよう。決戦の場であるシアターキューブは演劇の劇場であることが分かっている。演劇とは舞台にいる「現実」の役者が台詞や身振り手振り、その他舞台装置などで「妄想」を繰り広げるものだ。例えば「十二夜」であれば劇の序盤で船が難破するシーンがある。この時役者は嵐の中で必死に船にしがみつくものの、耐えきれず海へ放り出されるが実際の舞台は嵐の海でもないし役者には潮や雨の水などに濡れてもいない。しかし役者たちも観客も今、舞台上の船にいる役者は嵐に遭って海へ投げ捨てられたと認識する。このように舞台とは「現実」に生きる人間が共通の「妄想」である演劇を披露する場=妄想と現実の間にある境界線、あるいは狭間とも言える。②Dではその舞台へイマジナリーフレンド世莉架がもう都合の良い妄想から脱却した拓留が現実に帰還する際に「じゃあ、行って!舞台へ上がって、タク!!」と激励した。先ほどの舞台=妄想と現実の間にある境界線という式を念頭に置くと妄想の存在であるイマジナリーフレンド世莉架が同じく妄想にいた拓留を「舞台」を通して現実へ帰還させたという構図になる。分かりやすく式にすると拓留の存在が妄想→舞台→現実へ移動したことになる。一方で現実世界では拓留が自らの妄想を具現化した世莉架に対して「……来いよ。舞台に上がれ、尾上世莉架」と言い放ち、戦いの狼煙を上げた。これは現実に向き合った拓留が妄想の産物である世莉架に対して「舞台」を通してそんな都合の良いものは要らないという宣言だ。「"彼女"からもらった言葉を、返す。」という地の分からも分かる通り、今度は拓留が妄想世莉架にしてもらったように世莉架の意識を舞台を通して妄想から現実へと向けさせようとしているのだ。②E


 ①Dにおいて拓留は自己定義の否定を受け入れて新たに出来た目的のために自身の命すら賭けて新しい自分を貫くことができた。しかし、拓留と正反対の意見を世莉架は持っていた。世莉架との戦いの後、世莉架を拓留の「やりたいこと」の束縛から解放するだけではなく、聞きたくもない雑多な思考、殺人、そして妄想から生まれたということさえ知らない普通の人間へ世莉架を再構成するために拓留のギガロマニアクスを代償に全能力を使うシーンで世莉架は魂の叫びを上げる。

<拓留「……殺すわけじゃない。分かってるだろ」
世莉架「どうせなら、殺してよっ!」
…(中略)…
世莉架「私から、"目的"を奪わないで!生まれてから、いろんな人の心を読んできた!みんな悩んで、迷ってる!それでも生きてるのが信じられない!なんで笑ったりできるのっ?それが何のためか、自分で分かってないのに!私は!そっちに──普通になんか、なりたくないよぅ……!」
…(中略)…
世莉架「……やめて……お願い……お願いだから……ずっと私にタクを助けさせてよぉっ……!」>

世莉架は自己の存在意義に従うことこそが最も優先すべきことであると考えている。世の中には多くの人間がいるが、自分の目的、明確な自己定義がある人間はさほど多くはない。それは世莉架が多くの人間の思考を盗撮してきて分かったことだ。それに比べて世莉架ほど自身の存在意義が明確な人間も珍しいだろう。「どうせなら、殺してよっ!」「みんな悩んで、迷ってる!それでも生きてるのが信じられない!」という叫びから自己定義の存在しない人間は生きていることさえ不思議で、自らの意義を失うことは死ぬよりも辛いものであると考えている。実際、乃々ルートである『錯綜する光と影に惑う思いは』において拓留が心の底から求めているものが世莉架のもたらすものよりも千里と共に歩む未来であることを理解した世莉架は自ら消えていった。拓留及び千里との攻防は世莉架の思考盗撮で全て見切り、拓留自身も死ぬと直感した攻撃をあえて止め、拓留のディソードの一撃をくらい、千里に拓留を託した。世莉架はどこまでも自分の存在意義に忠実でそれを果たすことこそが至上の命題である。世莉架の意見は意見の一つとして一部の人間には受け入れられるように見えるが、実は致命的に誤った認識をしている部分がある。それは「なんで笑ったりできるのっ?」の部分だ。(触覚の過敏な反応などを除いて)笑うというのは一般的には嬉しい、楽しい、おもしろいなど幸福な状態にあると言える。世莉架に言わせれば自己定義が存在せず、それに従って生きることができない人間は笑うことさえできない。しかし作中、世莉架が「拓留にやりたいことを与え、それを叶える」という目的を遂行するために行動する中で笑ったことはあっただろうか?答えは否である。これはSilent Sky Endで再構成が完了した後の世莉架もそうだったのだろうと推測している。

<だって、今の『私』は幸せなんだから。
きっと、昔の『私』はイヤな子で、幸せじゃなかった。でも、そのことを全部忘れてしまって……。忘れたから、やっと幸せになれた。そう……今の『私』は、幸せなんだ。>

それに加えて情強だと自負していた頃の拓留も①Bで示した通り、昔からほとんど笑わない少年であり、作中冒頭から数えて半年間は笑えていない。ここから言えるのは自己定義に従うことだけが幸福ではないということだろう。むしろ一番初めの自己定義に背いて生きている人の方が多いだろう。例えば子供の頃の将来の夢だ。これも自己定義、生きる目的の一つだと言える。これらがとても明確な子供でそれになるために生きるというのは珍しいだろうが、多かれ少なかれ何か夢はあっただろう。しかし当初の夢を全うすることができた人は珍しいのではないか?そもそも夢の内容が成長するにつれて変わった人も多いのではないか?自己定義の例に夢を挙げたが、自己定義とは変わりやすいもので、世莉架のように子供の頃からそれのためだけに生きている人間の方が珍しいのだ。しかしこの世で肉体を得るよりも前から単一の存在意義に縛られた世莉架はそもそも自己定義を変えるという発送がないのだ。目的は失ったら、それで終わり。その誤認はとても根深い。凝り固まった考えは自分だけでは矯正が難しい。誰かに導いてもらわなければならない。一つの自己定義に拘泥し、それ故に笑うことができない人生を送るよりも、全てを忘れて、どこにでもいる普通の少女として暮らしていく方が良い。物心ついた時から強く抱いてた情強であるという自己定義を捨て去ることが出来た拓留はそう思い、生まれる前から自分のために生きてくれた世莉架の献身にこれからの人生を代償に報いたのだった。拓留の「やりたいこと」のために「これまで」の人生を捧げてきた世莉架に対して、拓留は世莉架を普通の少女にするために「これから」の人生を捧げたのだ。奇しくもそれは相手(拓留なら世莉架、世莉架なら拓留)のために自らの人生を捧げるという行為であった。①F


 数ヶ月後、今度は普通の少女となった世莉架の視点から物語は再開し、自身の記憶の謎とカオスチャイルド症候群について拓留、澪に付いていくことで解を求める。Silent Sky Endに入るまでカオスチャイルド症候群はPTSDであるとプレイヤーに提示されていた。しかし、実態は全く異なる。世莉架が碧朋学園で見た生徒は全員、若年なのに老人の見た目をしていたのだ。しかもそれに気づく患者はおらず自分は若い学生であると疑いもせずにカオスチャイルド症候群の症状の情報まで捻じ曲げられている。その異常について端的に説明されたシーンが以下である

<世莉架「なんていうか、その……自分たちに都合のいい夢の中で生きてるみたいっていうか……」
澪「ほお。核心をついてるじゃないか」
…(中略)…
澪「違う次元にいる者たちは、それぞれ、自分たちにだけしか理解できない世界にいる。お前が言った通り『都合のいい夢の中』──つまり『妄想』の中にいるんだ。」
澪「研究者の間では"妄想シンクロ"と呼ばれている現象でな。……宮代も言っていただろう?カオスチャイルド症候群者は、妄想で、視覚や聴覚、触覚さえも作り上げている」>

本作のメインキャラクターは大多数がカオスチャイルド症候群だ。ではなぜ彼らがそうなったのかは拓留がこう推測している。

<拓留「カオスチャイルド症候群になった人たちは、渋谷地震の時、地獄のような光景を体験して……みんな、「嘘」だと思ったんだ。こんなものが現実であるはずがない。自分がここにいるなんな何かの間違いだってね。それがあの『白い光』と反応して……その中でも、特に強いショックとストレスを抱えて人たちが、能力者になったんだ。妄想に逃げ込むだけじゃ足りなくて……辛い現実そのものを捻じ曲げようとしたんだね……そのために能力を手に入れた。…(中略)…しかも、僕は……そんな能力者の中でも一番の臆病者だった。現実がつらくてつらくて。それで、ずっと僕の隣にいた───」>

カオスチャイルド症候群の患者は全員、渋谷地震による被災者で過酷な現実を受け入れられずに共通の妄想へと逃げ込んだ。そんな中で拓留だけが唯一回復した理由は当然、あのシアターキューブの「舞台」で妄想から脱却したからだ。加えて拓留と澪たちがやろうとしているカオスチャイルド症候群者の強制帰還は①Dでも示した通りの成長を表しているだろう。
そして症候群者は正常な、だからこそ厳しい世界へと全員帰還した。拓留が自らの責務を終え、刑務所へと移送される日。拓留の前には世莉架がいた。和久井のギガロマニアクス、そしてあのシアターキューブでの劇…世莉架は何度も自分の記憶を揺さぶられたが、どこまで記憶が戻っているのか定かではない。しかし再構成された世莉架にとっても拓留はかけがえのない存在であることが示されている。和久井による襲撃により世莉架の頭の中の封印を解かれそうになった時、拓留がギガロマニアクスを失ってなお立ち向かい、世莉架を守った後、一人「こっち」の世界へと帰る時に見られる。

<世莉架「私──あんたみたいなヤツ、大っ嫌い」
思えば、すごいことを言っちゃった。相手の目の前で『嫌い』とか言うなんて……そうそうあるもんじゃない。──『真に伝えたいことは、別れの後に気づくものだ』これって、何の映画のセリフだっけ?誰と見た映画だっけ?>

拓留はニュージェネレーションの狂気の再来の全ての犯人として逮捕された。計7人を殺した重犯罪者として一生牢屋の中で過ごすことになるだろう。世莉架が会おうとしても、会えるものではない。拓留にとっても、これからの人生が苦痛に満ちたものであることは想像に難くない。2人に共通して事件の前とは決定的に異なる点がある。①B①Fでは二人とも心から笑うことが出来なかった。しかしSilent Sky Endにまで辿り着いた世莉架には拓留がくれたかけがえのない日常がある。拓留は世莉架にできる唯一の償いである拓留及び殺人の記憶消去を果たすことが出来て、大切な友人を含む全てのカオスチャイルド症候群者を救うことが出来た。これがお互いの今生の別れになることは両者ともに理解している。おそらくはこの別れは人生の中でも特に辛いものになるだろう。それでももはや彼らは妄想に逃避することなどない。

<尾上「──ううん。知らない人」
そして、その涙は、音もなくこぼれて落ちた。彼女は──笑っていた。たぶん親友なんだろう、仲良く並んだ隣の女の子に悟られないよう──涙をぬぐって、笑っていた。
拓留「…………」
踵を返した彼女が、僕から離れるように歩き出した。止まっていた時間が動き出し、僕の顔にも笑みが浮かんだ。
拓留「うん……僕もキミなんて知らない……」>

最後のシーン、もはや妄想に頼ることなく、辛い現実を直視した情弱、拓留。妄想の存在から一人の独立した人間となり、拓留のためではなく自身のために生きることを決めた少女、世莉架。二人は泣きながらも笑えるようになれたのだから。①G+②F