ErogameScape -エロゲー批評空間-

9791さんのnarcissuの長文感想

ユーザー
9791
ゲーム
narcissu
ブランド
ステージ☆なな
得点
90
参照数
2693

一言コメント

生きても死んでも、死は死。前向きだろうが、後ろ向きだろうが、足掻こうが、諦めようが、死は死。・・・結果は同じ。生きることは、最終的には死に繋がる故に。そんなキャラクターの死の行程を描いて、プレイヤーの生を作品が追認する詩情的文章。・・・・・・これがゲームと言えるか否かはともかく、心は・・・殴りつけられたように痛む。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

 この物語「Narcissu」は“誰も救わなかった”し“誰も救いを望まなかった”。



 生も死も自由に与えられない世界は、15cmしか開かない窓によって、外界と区切られる。その世界は彼女には優しくなく、そして、仮初めに与えられる外界は、彼女にとっては、死への道標に過ぎない。

 だから・・・彼女は「生涯の伴侶は、目を閉じた世界だと覚悟している」・・・これを「前向きではない」と批判するならしてみればいい。私はそう肯定しても、こんな諦めに私は“戻りたくもない”し、できれば同じ経験はしたくない。だから、私はこれに対して目を背ける。

 ・・・意外性も何もない。



 看護する人間は、患者の死を考えない。正確には、与えようとは考えない。死こそが安らぎであっても、彼らには患者が生きることを止めない限り、それを助ける義務がある。そのため、ナイチンゲールであっても、はたして、死に臨む人間達の心は理解し得たかどうか?・・・ナイチンゲールにとっては「患者を看護する」ことは、その存在意義の前提だ。死への案内をすることではない。よって、この方でさえ、生と死の概念は観念的にしか言っていない。

 死にたいと叫ぶ患者もいただろう、生きたいと懇願する患者もいただろう、だが、おそらく、生きる目的を考えようともせず・・・ただ、諦めているだけの人間を・・・生きる目的が、死への旅路と重なってしまったセツミを救えたかどうか?

 看護する人間にとって、患者に与えたいイメージというのは、“生きること”。それは観念ではなく、実行の結果としてある。実行を重んじる彼女にとって、自分が経験したこともない死に言及する必要性すらなく、その看護を実行する術のみを現実化していったのは、そのため。もし、彼女がセツミに出会っていたならば、たぶん、セツミと一緒に過ごしていたはず。ずっと目を離さなかったはず。要は、生きる気概が湧くまで観察し続けただろう。

 ・・・でも、そんな人はこの物語には出てこない。



 もう、気付いていると思う。この物語中で、個人名が出てくるのは、セツミしかいない。そのセツミは遂に主人公の名を訊かなかった。「Narcissu」の花言葉は「自己愛」・・・彼女の心は主人公と触れあっても重なることなく、主人公もそれを望まない。彼女にとって自分以外は個人識別が必要なく、最後は自分を識別するための“他者”がいさえすれば良かったからだ。

 実際、物語上でもそうだ。彼女のモノローグは最後まで自分のことしか語らない。一度として、主人公のことを思ったか?・・・彼女は主人公を「年下」と言い、「あなた」としか呼ばない。彼女の基準は常に自分であり、それ以外の呼び方をしなかったし、させなかった。一方、主人公の方は、このように彼女を評する。


 “7階でも家でもない、自らの意志で避けた彼女。”
 “2005年度、推定自殺者3万5千人の一人。”

 “血液型O、名前はセツミ、22才、女性…”
 “ビニールの認識腕輪は白。”


 彼は、彼女個人を識別した。彼が想うのは彼女だけだ。写真は、客観的にしかモノを写さない。それが、被写体となったセツミと、撮影者であった主人公との差。最後まで主観のみで旅を終えた彼女と、客観視した彼の差でもある。

 遺ったのは二枚の写真。だが、主人公は物語の最後をこう締めている。

 “俺達の証し…” ・・・と。



 そう、これは二人の“生きていた”という証しとして遺っている。セツミだけの証しとしてだけではない。主人公とセツミの証しとして・・・だ。なぜなら、作者本人がOHPで述べているように、彼もまた死ぬことが定められている。彼は足掻くだろうか?・・・私はそうは思わない。もし、7階に誰か来るならば、セツミが彼にそうしたようにルールを伝えることだけを、最後の“義務”として、2回目と3回目の外界との接触に至るだろう。これだけの事件を起こした以上、彼の次の脱出は出来るかどうか。

 彼はもう覚悟してしまったのだ。彼女が「生涯の伴侶は、目を閉じた世界だと覚悟」したように、「自分の生涯が出した結果は、この“証し”だけ」・・・だと。

 セツミが10年近い年月をかけて生んだ覚悟は、15日の旅で主人公に移り、彼女の“諦め”は受け継がれた。元々、主人公には曖昧な生きる目的しかなく、ようやく得た目的は“死への旅路”の案内を努めること、何と皮肉か。



 “読み手へ無限のイメージ”・・・私がそれを答えるならば。

 「Narcissu」が描く旅路は、“彼女が望む帰結としての死”と“彼が悟る残滓としての生”。



 この物語は「生きること=死への過程」にならざるを得ないし、それしか描いていない。生きても死んでも、死は死。前向きだろうが、後ろ向きだろうが、足掻こうが、諦めようが、死は死。・・・結果は同じ。生きることは、最終的には死に繋がる。・・・そこに論理があるものか。そんな物語にドラマがあるものか。あるのは、私たちがどう感じるか?・・・の問いのみ。

 ・・・その感じたままがあるからこそ、私たちが“生きているという証し”になる。



 キャラクターの死を描く故に、プレイヤーの生を作品が追認する詩情的文章。



 これがゲームと言えるか否かはともかく、心は・・・殴りつけられたように痛む。