登場人物を通して『境界例』を、文章的に「膨大に」、心情的に「綺麗に」、構成的に「面白く」・・・描いた物語。だが、その膨大な設定に埋もれた人物設定は、性情として嫌悪、感情として拒否するならば、これほど嫌悪される物語はない。この物語に陰影を与える一種の「気持ち悪さ」は、言い換えれば、『境界例』という潜在的な不安を看破しているとも言えるし、膨大な世界観設定で、それを上手く隠し切っている物語とも言える。・・・物語に共感できるか否かが鍵。
(注意:以下の文章は、物語の批判的要素を含みます。それに対して、許容できる方のみ、お読みください。)
「境界例(=境界性人格障害《Borderline Personality Disorder》)」というコトバがある。
“精神の特異な方向性と広範囲の人格障害”を指す言葉であり、ある精神病医は、その代表的人物として、米国某大統領や日本某総理大臣を挙げたりしている。エロゲーで言えば、最も代表的人物として、「Air(Key)」の霧島佳乃、「ラムネ(ねこねこソフト)」の近衛七海あたりが的確だろうか。ただ、境界例というコトバ自体は、一つの臨床単位を示す言葉であり、「手首自傷症候群(Wrist Cutting Syndrome)」も「依存性人格障害」も、その周辺症状の一つに過ぎない。
人格障害と言っても、別に病気でもなく、特に珍しいものでもない。いわゆる精神の方向性の特異さを示す用語であり、日本における「境界例(Borderline Case)」の潜在数は、250~350万人。およそ総人口の3%に達し、米国精神医学会(APA)が定めた「精神障害の診断と統計の手引き(DSM-4)」による区分によれば、米国成人人口の15%が、この境界例に属するとの調査結果が出されている。(Jul.2004, Journal of Clinical Psychiatry)これは、境界例が「一見して周囲と適応しているように見える」特徴をもつからであり、一般に自覚症状がない、自覚していても直し方がわからない、という現代社会の病巣になっていることを示している。正確には「病」というより、精神症・神経症・うつ病等の「予備軍」と捉えるのが正しい見方だろうが、実際には、精神の方向性に過ぎないので、病例と言えるかどうかは、微妙である。(それは、精神の方向性を「狂っている」と断ずることは、その人間の性格そのものを否定することにつながるから。)
代表的な症例として、自暴自棄・他者依存・自己愛・二分化思考(二極化)・他者攻撃志向・引きこもり・見捨てられ感の顕著・過食拒食症等が、その症例である。その意味では、誰でもなっている可能性があり、しかも、自覚していていない症例であると言える。
「Fate/stay night」の物語を語る際、この「境界例」というコトバを覚えていて欲しい。ファウスト(講談社)が掲げた“新伝綺”ムーブメントの作家陣は、皆そうなのだが、彼らが描いている人物像は、全てこの「境界例」に位置する人々である。どちらかと言えば、「Kanon(Key)」以降に描かれたシリアスを基調とするエロゲーは、この境界例を描いた人物が多い。(「CROSS†CHANNEL《FlyingShine》」や「沙耶の唄《Nitro+》みたいにその“境界”をオーバーしている作品もあるが。)それは、精神の歪み、人間関係の狂いを描くに、それが一番効果的だったからであり、感情が極端に上下する、心の不安定さ、急激に変化しやすい感情を、ゲームキャラクターとして誇大化して描くと、それは「境界例」の代表的症状を示してしまうのだろう。
そして、この「Fate/stay night」は、その境界例を、文章的に「膨大に」、心情的に「綺麗に」、構成的に「面白く」・・・描いた物語である。ゆえにこの物語は人の心を打つし、その人物像に性情として嫌悪、感情として拒否するならば、逆に嫌悪される物語であると言える。この物語に陰影を与える一種の「気持ち悪さ」は、言い換えれば、境界例という潜在的な不安を看破しているとも言えるし、それはおかしくも何にもない。その方が“まとも”な感じ方なのだ。
つまり、この物語を「面白い」という人間の方が“まとも”ではない。・・・コミュニティの外からの感覚・・・“一般人”から見れば・・・の話だが。
「Fate/stay night」は、膨大な世界設定に基づいた物語である。“奈須きのこ的世界観”と言って良いのかどうか分からないが、前作「月姫」・「空の境界」と同じ設定、同じ世界に属する物語を描いている。現実近似世界である「きのこ世界」は、魔術が科学と同様に(一般人に隠蔽されてはいるが)存在し、科学が質量保存の法則(Law of Conservation of Mass)・エネルギー保存の法則(Law of the Conservation of Energy)より導き出された「質量・エネルギー等価原理」 から逃れられないように、魔術もまた大源(マナ)・小源(オド)といった魔力を行使した結果において、等価交換の原則からは逃れられない。ただし、実現不可能なのに効力を発揮する例外があり、この神秘を「魔法」と呼称する。以上が、この世界観の基本原理であり、作者が自ら定めた世界の定義である。
さて、この物語上の設定は、別に問題はない。等価交換の原則そのものは目新しいものではなく、現実世界と魔術が混在した世界を描く物語も、少なくはない。魔術を体系化して描くことが目新しいという人がいるのであれば・・・伝奇的舞台をスタイリッシュに描くことが素晴らしいという人がいるのであれば・・・それはさすがに、先人に失礼な話だ。この物語より優れた設定を持つ物語は、ハヤカワ文庫どころか、欧州系の児童文学からいくらでも見つけられる。奈須きのこ氏の価値は、あくまで、現代社会の病巣、前述した「境界例」とエロゲーのキャラクターに、“奈須きのこ的世界観”の人外を絡ませて、物語を紡いだところにある。
それは、結局のところ、「自分と他人との境界があいまい」でありながら「自分のすべてを受け入れてもらいたいと望んでいる」境界例としてのコミュニティ・・・ネット上という顔の見えない世界、自己愛が強化される世界・・・のサブカルチャー層の評価を受けるに至る。それは、この物語が、同人の場から始まり、ネット上の高評価を得て、商業化まで至る過程が、何よりの証明だ。なぜならば、そこに描かれる境界例たちは、境界例でありながら、強者であり、人外であり、異能であった。自分か強くなれない“我々”は、それを見て自己を投影し、自己を満たせられる。それは自分が強いと錯覚できるからであり、なぜ、少年漫画がバトル主体のモノが多いのかを示す理由もここにある。
奈須きのこ氏は、自らの世界観を設定するにおいて、膨大な世界設定を用意し、それを物語上で延々と説明する。それは、プレーヤーが自己を投影するに、世界を自分のものと錯覚させるに十分なものだったと言える。ファンサイトを廻ってみると、「月姫」世界がまるで“現実の如く”論評され、説明されていることに驚く。元々、設定資料集からして、製作者側の英霊設定が、あたかも“本来の”英霊であるように書かれているので、仕方がないことなのだろう。現実と虚構を曖昧にしたと考えれば、確かに、ゲームクリエイターとしての奈須きのこ氏の目論見は、見事に成功している。
シナリオ的な矛盾は、幾らか指摘されている。それは、作者が自ら定めた世界の定義、今回の場合は、
「聖杯に選ばれた七人の魔術師(マスター)に、聖杯が選んだ七騎の使い魔(サーヴァント)を与える。・・・マスターはこの七つの役割(クラス)を被った使い魔一人と契約し、自らが聖杯に相応しい事を証明しなければならない。」
(---Type-Moon Official Homepage)
・・・という最初の前提が、そもそも、物語上では、重視されない。(実際、七人じゃないし。マスターもサーヴァントも。)また、英霊が「実在していたか否かとは無関係」ならば、それは人の想像によって、確立されると言うことである。では、「男性」として、伝説化しているはずのセイバーは、何故、本来の姿である「女性」として、英霊として存在するのか?(佐々木小次郎が本人ではなく、佐々木小次郎の伝説を実際にできる剣士がそれに“あてはめられた”ことが意味するように、そのまま、伝説が英霊に大きく影響するのであれば、別にセイバーは男でもおかしくは無い。)・・・とか。だが、これは後述するが、その矛盾点は、この物語には、説明する必要性が無い。この物語で、世界観云々を論じることは、本来、無意味であり、この物語上では、世界観はキャラクターの肉付けにしかなっていない。
この作品は、世界設定が膨大であり、「Fate/stay night」に至っては、その説明が半分ぐらいありそうな気がするほどだ。ただし、膨大であることと、世界設定が緻密であることは違う。この物語の語り口は、設定を流しているだけであり、単に文章を“まとめていない”。「月姫」でも見られていたその傾向は、「Fate」ではさらに顕著になっている。「月姫」はあくまで、“人外と異能の物語”だが、「Fate」は英霊と魔術師とはいえ、一応、“人間同士の物語”である。それに対して、ここまでの説明は要らない。この文章を「半分程度は削れる筈」と評した人がいるが、これは正しい意見であり、「あまりに冗長でとても長時間プレイできない」のも当たり前だ。何しろ、文章を推敲する際に、文章を削るのではなく、むしろ継ぎ足したと思われる場所もあるぐらいだ。“緻密な”世界観とは、物語を構成するのに意味ある設定を言う。この場合、膨大な設定とその描写は、単にキャラクターへの肉付けに行われていて、しかも、それは過剰になっている。
だが、これは意図的らしい。「D D D J the E.」(講談社『ファウスト』Vol.3)での作者の書き方を見ていると、そのように思える。相変わらず、主人公の心情描写が“丁寧”過ぎるのは、ご愛嬌だが、この物語は、短編であるためか、実にすっきりとして描いている。何しろ、“敵”が何であったかは、「一言で」説明されてしまうぐらいだ。これは、「Fate」で聖杯というモノ、アンリ・マユという“敵”を延々を記述したのに比べれば、はるかに高レベルな描き方である。意図的と思ってしまうのは、きのこ氏はこのような「短く」文章を砥ぐことができる能力がありながら、これをしなかったことにある。
理由は明確だろう。月姫支持者がそれを望んでいると見たからだ。現実と虚構を峻別できなかった物語は、その境界を曖昧にするために、設定を積み重ねなければならなかった。あまりに「月姫」の世界観は神格化され過ぎた。その世界観がここまでの支持を受けたことは「ゲームクリエイター」としての、きのこ氏にとっては幸福だろう。だが、「小説家」としての、きのこ氏には、これはあまり良いことではないと思う。キャラクターの“心情を言葉にして表す”技量においては、この人に匹敵できる者は業界内にはいそうにない。このスキルに比べれば、世界観設定はとるに足らないことは明白だ。新しく作り直せばよい背景描写に対して、作り出せるキャラクターの魅力は、世界観をどう弄くったところで生み出せるものではないからだ。だが、今のType-Moon評価は、これの否定、背景描写の偏重に行っているようで心配ではある。「D D D J the E.」の世界観が、「月姫」と同じかどうかは知らないが、きのこ氏の創造性は、月姫世界に拘泥すれば、行き詰まる可能性がある。「小説家」としての飛躍を望むのであれば、現Type-Moon支持者は、月姫世界からの決別を、そろそろ考える必要があるのかもしれない。
私は、きのこ氏の本質は、世界観設定ではなく、心情描写の機微にあると思っている。台詞を印象的に作るのがうまく、その台詞を言わせるために、キャラクターの背景、物語の舞台を造っていっているような気がするほど、その描写は巧みだ。「Fate」の台詞一つ一つを見ても、このキャラクターだから映えるコトバの嵐だ。
「答えは得た。大丈夫だよ遠坂。オレも、これから頑張っていくから」
(---アーチャー・十六日目:Route of Unlimited blade works)
「えへへ。キス、しちゃった」
(---凛・十六日目:Route of Unlimited blade works)
「―――やっと気づいた。シロウは、私の鞘だったのですね」
(---セイバー・十四日目:Route of Fate)
以上、登場人物が“素直に”心情を吐露してしまったコトバを挙げたが、これらの台詞は、「自己存在の消滅を望んだ」アーチャーだから、「聖杯戦争を殺し合いと断じた」凛だから、「王であり女性であることを否定してきた」セイバーだから、その台詞が生きる。
物語は、キャラクターだけのためにあり、舞台はヒロインを際立たせ、主人公を『最強』に仕立て上げる。
だから、作者は「例外」を設けたのであり、世界設定を破綻させても、“Unlimited blade works”を創造した。世界観設定を“主人公を縛る理の区切り”と表現したとき、それを突破するには、例外事項の積み重ねしかない。
それは、この物語はキャラクターのためにあり、魔術も世界観も背景設定も、キャラクターが活躍できる“舞台の装置”でしかないためだ。タイガー道場で、藤ねぇは、「Fate/stay night」を、主人公である「衛宮士郎のための物語」と総括している。この物語で、Type-Moonが描きたかったのは、“魔術師の戦い・・・聖杯戦争”などではないし、“奈須きのこ的世界観”の膨大な説明でもない。
正義の味方を目指した『自棄』的『境界例』である士郎が、自己を肯定し、自分の生きる意義を見つけるまでの物語であり、そのために、作者は、彼と同じ『境界例』を彼に影響するようにおいた。『二分化思考』のセイバー、『他者攻撃志向』の凛、『他者依存』の桜、『自棄』のアーチャー、『自己愛』の慎二・・・等は、この典型的な例だ。この物語を読んで、その万能を誇示する姿勢に、嫌悪を抱くならば、それは、読んでいる読者が“まとも”だからに他ならない。
心に危うさを持つからこそ、この物語は共感できる。
それは、病理的な闇。『境界例』又はそれに類する人々が溢れる時代の鬼子。
病理的な闇からの解放とは、死。Fateルートがセイバーの死で閉じるように、「聖杯戦争=殺し合い」と規定し、罪と罰を等価に位置づけるならば、その罰は、(英霊も含めて)全ての人間が償うべきだろう。ならば、士郎が「自分を見捨てた罪」、凛が「魔術師であることに拘泥して桜を見捨てた罪」、桜が「自らの力に溺れた罪」、セイバーが「自分が紡いだ歴史を否定した罪」・・・etc.・・・それぞれのキャラクターは、その罪に応じて罰を受けるべきであり、だから、私は、桜のノーマルエンドが最も納得した。このエンドは、すべての登場人物がそれに相応しき罰を受ける。生を望む者は死を与えられ、戦いを望む者は戦うことなく敗れ、望みは叶うことなく、勝利者は生き残れず、愛した者は奪われる。どう考えても、BADENDでしかないこのエンドが、“ノーマルエンド”として、一つの物語の終着点として遇されているのは、製作陣も、この罪と罰を等価に考えていた一つの証拠になるだろう。
凛と桜だけが生き残って、時を繋いで行く未来。桜にとって最も重い罰は、一人で生きること。だが、それは『他者依存』の境界例である桜が唯一、自分の力だけで、乗り越えていった道でもある。
このエンドは、全ての人間が不幸になる結末。「聖杯戦争=殺し合い」であれば、当然のこと。敵も味方も救いたいと言いながら、自分の“敵”に対して立ち向かった矛盾には、それ相応の罰がいる。それを主人公すら例外にしなかった点は評価できるし、「戦争」を描いたとすれば、この結末は、最も世界観と設定にあった結末なのだ。
Type-Moonの成功は、その時代の不安定さの象徴であり、これを「伝奇小説の系譜」に擬した「空の境界」解説は、所詮、“大人たちの意見”でしかない。この物語は、モラトリアムを継続する“我々”を等身大に描いた物語であり、それを伝奇的に味付けした物語である。少年少女たちのライトノベルから正統に発展した“キャラクター小説”でしかなく、これを世界設定の緻密さで評価することは、あまりにこの作品の面白さを違えているように感じられる。それは、つまり・・・・・・この物語が・・・、
ただ、ひたすらに“夢を求める少年”の成長物語だから。
その純粋さと、真っ直ぐさを愛でる物語だから・・・と思う。
そして、世界を解明するのではなく、キャラクターが紡ぐ、本音のぶつけ合いと、『少年』が、自己と他者への想いを明確に区分していく過程、彼に巡り会うことで、自分の価値を『少年』に見出していくヒロインたちの物語でもある。
だから、その真っ直ぐさ、「月姫」が含んでいた、物語の陰惨さを払拭したことにより、この物語は、文化的に異端である“我々”・・・“まともではない”階層が、文化的表層へ進出するために・・・自己を確立するために・・・掲げた旗となった。
・・・この物語は、そんな、大人になりきれない『境界例』が“自分の理想を語った”『少年』の物語なのだ。