数ある作品の中でも、ファンの評価が分かれた作品であり・・・エロゲー主流のジャンルが“異色”と言われてしまうのも妙な話だが、選択式純愛系ADVのアリス異色作。その内容は、アリスがそのゲームに込めていた「思想」が、ADVという枠で露出し、公けにされている物語となっている。
数あるアリス作品の中でも、ファンの評価が分かれた作品であり、異色作。それは、私が何を言うより、先に発売された「DARCROWS」・「PERSIOM」二作よりも、先に廉価版が発売された事実が、その影響の大きさを物語る。内容は、選択式純愛系ADV。・・・エロゲー主流のジャンルが“異色”と言われてしまうのも妙な話だが、事実だから仕方がない。それだけ、アリスらしくない作品であり、また、アリス購買層がエロゲーマーの中でも如何に“ゲーム性に特化した集団”か・・・の証左かもしれない。
システムは、2000年という発売時期にしては、驚異的な不親切さを誇る。何しろ、既読スキップは無い、オートモードは無い、バックログは無い・・・で、基本的なADVとしての不備が目立つ。最大の問題となった「陵辱ON/OFF」機能は、インストール初期状態で“陵辱OFF”であるため、CGコンプリートすら阻害する。このあたりは、ADVを作る経験が圧倒的に不足していることを、アリスが露呈した部分だろう。
純愛系ADVであるためか、独自性の高いアリスサウンドは完全に影を潜める。正直、ここまで“普通”のBGMを作るのが苦手なサウンド製作チームも珍しい。アリス作品で初めて主題歌を投入した作品であるが、苦手なモンは苦手だったっぽい。
アリスは“混沌”を得意にする。
シナリオでも、キャラクターでも良いのだが、アリスは自分で物語の設定を混沌に置き、それを“キャラクターに突破させる過程”を描くことが、尋常でなく上手い。これは、別にランスシリーズを例にとらなくても、「闘神都市2」・「夢幻泡影」・「Ambivalenz」・「ぷろすちゅ★でんとGood」等、RPG・ADV・SLGの区別無く可能にしていることだ。ヒロイック・ファンタジーを覆し、狂人を狂わし、強姦を肯定しながら、恋愛を嘲笑し、それでも、最終的に「愛のカタチ」をそれぞれ描きっている。
周囲から見れば不幸でしかなくても、当事者は幸せ・・・なら、別にイイじゃん。
そのようなことを普通に描くのが、アリスの味であり、そんな幸福を描けるから、不幸を描くことに容赦しない。・・・恋に躊躇えばヒロインだろうが容赦なく切り捨てられる。・・・前向きに生きる悪女が生き残る。・・・陵辱作品に、ヒロインが不幸になることはよく描かれる描写だ。
だが、ほぼ全ての登場人物・男女区別なく不幸になるシーンが描かれる「大悪司」は、“不幸を描くことに容赦しない”からこそ、EDのヒロインたちの幸せが生きる。“ヒロインが陵辱された上にぽ~んと窓から投げ捨てられる”・・・こんな描写を私が知る限り、三回も書いているとり氏を筆頭に、アリスのライター陣は、それを描くことができる人が圧倒的に多い。(ってゆーか、TADA氏・とり氏・イマーム氏・・・って古参メンバーは元より、最近のHIRO氏や上田庄吾氏といった人もそんな感じ。アリスの企業としての“幸福”は、世代間の切磋琢磨が適切に行われているメーカーであることだろう。)その最大の具現者がランスの奴隷なのに、メインヒロインであるシィル・プラインということになる。(別に、大悪司での殺ちゃんとか元子、妻みぐいの香苗さんとかでも良いのだけど)
「物語のHシーンに必然性を与える。」本作品は、正統派純愛ADVとなったことで、その“アリスの強み”を、アリスが自ら捨てた物語である。
・・・・・・・・・表面上は。
舞台は・・・A.D.2050/海洋都市Andlude。
舞台自体にあまり意味はない。純愛系ではありふれた物語を、Andludeと呼ばれる世界で焼きなおしているに過ぎない。キャラクターも他の恋愛ADVでよく見られる典型的なモノだ。星の数ほど作られているのだから、別に似てもいいのだろうが、さすがに芝居っ気のある雪之と喋らない琴里は、とある特定キャラを連想してしまう。主人公の造形も、そもそも、個性的主人公しかいないようなメーカーなので、できるだけ個性を消そうとはしたのだが失敗・・・結局、体力派の“好漢”になっている。そのため、プレーヤーが主人公と同一化するのは、少し難しくなってしまった。
ヒロインの個別シナリオも、如月姉妹を除くと、ありきたりの設定と、先が読める展開になってしまっている。ただ、物語のまとめ方はさすがにアリスである。「現実」を多用するテキストからも読めるように、決して、幻想的な展開に逃げない。ヒロインたちに現実を直視させ、ぬるま湯たる現状から、自力での脱出を説く。
結衣は「姉との決別」、雪之は「心の露出」、美夕は「死の認識」、優美は「生の認識」、琴里は「人としての存在」、涼は「恋をする自分の容認」・・・実は、涼が一番乙女チックな主題だったりする。
この物語上で主人公は、無力である。彼は、彼女たちの背中を押すことはできるが、それを突破できるかどうかの選択はヒロインにあるからだ。琴里EDが二種類あって、琴里が「人として」生きることを望むか、「人外」として去ることを望むか、その選択に主人公(≒プレーヤー)の行動が何の意味をもたらさないのはそのためである。(ゲーム上では前者は2回目のED。)このような現実直視のシナリオは、どちらかといえば、純愛系ADVでは、反主流派に属する。主人公の行動が、ヒロインの決断に何の意味を与えないことほど、プレーヤーを無力させるものはない。それでも、主人公が、ヒロインを見守らない限り、その結末は見れない。“正統派”を称しながら、現在の純愛系ADVへのアンチテーゼ、紙芝居ADVで既存のADVに対するアリス流の反論、“自分で決断をしないヒロインたち”を容認する世情への問題提起に仕上げている。
こう考えると、ゲームで問題になった“唐突な陵辱BADEND”の意味も見えてくる。どうしても薄くなるHシーンの補完の意味もあるだろうが、“不幸を描くことに容赦しない”アリスの姿勢が、純愛を描くこととぶつかり合い、その歪みとして出てきたのが、あのENDだろう。確かに、物語上で関連性がまったく無い、結衣・美夕・優美の三人の陵辱シーンは必要性があるとは思えない。だが、そもそも、陵辱される前のヒロインの行動を考えると、変な気がするかもしれないが、その原因は「主人公の前から立ち去った」ヒロインたちの行動の誤りにある。・・・何度も言う。アリスというメーカーは、“不幸を描くことに容赦しない”。メインヒロインであろうが、後ろ向きな行動、素直に行動しないヒロインは、その罰を最も凄惨な形で受ける羽目になる。この場合、ヒロインが現状から逃避し、主人公が後ろ向きな決断をすることによって、BADENDに至る。前向きに行動しない限り、「幸せを掴めない」ということを、最も、冷酷なカタチで突きつけたのが、あのENDと言えるだろう。現在の純愛系ADVへのアンチテーゼという側面はこんなところにもある。
さて、こんな物語でも、最も秀逸・・・と言うか、殆どレベルが違うのが、優美シナリオ。「SeeIn青」で描かれる世界観設定、アリスの恋愛への考え方・・・“不幸を描くことに容赦しない”・・・“幻想的な展開に逃げない”・・・“既存のADVに対するアリス流の反論”・・・そして、“周囲から見れば不幸でしかなくても、当事者は幸せ”・・・これら、全てが集約されている。
優美は人間ではない。美夕のコピーとして作られた生態アンドロイドであり、両親の死を容認できない美夕を「護る者」であり、家族として、姉妹として、「形作られた」者である。そんな彼女が恋をする。主人公に“本来の目的と違う”愛情を持ち、ともに居たいと思ってしまう。だが、彼女は作られた者であるゆえに、その記憶容量に限界があった。彼女の“存在”を維持するためには、彼女の記憶をリセットするしかない。だが、それは、今までの彼女の記憶、感情、何より主人公への愛情を失うことに他ならない。
このシナリオは、如月姉妹のもう一人、美夕シナリオと対になっている。如月姉妹のシナリオは、テーマ的にも対になっていて、そのEDも対になっている。
・・・自分の記憶に「居る」ことを望み、自分と共に「在る」ことを望むか?
・・・自分の記憶が「在る」ことを望み、他者と共に「居る」ことを望むか?
人間の存在証明とは何か。幾つかの物語で語られるこのテーマは、その答えが人によって違うだけに重く、そして物悲しい。如月姉妹の場合、美夕は前者・・・「優美の存在」を望み、優美は、後者・・・「優美の記憶」をとった。これは、その存在証明を美夕が存在自体に意味を求め、優美は記憶・人格に意味を求めたことを示している。
・・・優美はEDで死ぬ。継続した自分を求めた彼女は、自分の子と自分を愛してくれた主人公に、清冽な記憶を残して死ぬ。それは、一つの永遠、一つの人間の存在の昇華に他ならない。不幸があるから幸福がある。優美は“死という選択を取ったことで、一つの生命を生み出す”。現実は冷徹で、彼女は助からないが、それでも彼女の記憶は、彼女が残した人々に永遠に残るのだ。それは、人間の存在証明としては、素晴らしい結果ではないだろうか。
「SeeIn青」において描かれるのは、ヒロインたちの決断と、その収束された現実。“アリスの強み”を、アリスは、自ら捨てたのではない。この作品こそ、アリスがそのゲームに込めていた「思想」が、ADVという枠で露出し、公けにされている物語なのだ。