「kanon(κανων, canon)」とは、追復曲。複数の声が、同じ旋律を異なる時点から、各自開始して演奏する様式。異なる音、異なる旋律を持ちながら、最後は一つへ調和する。描きたかったのは、そんな“愛”という一つの結末へ向かって、奇跡へ収束していく五つの物語。・・・恋をすることで、“幸せ”な風は辿り着く。
恋をすることで、“幸せ”な風は辿り着く。
Key作品は、恐らく1999-2000期の既存メーカーでは、最も“売れること”に拘った作品だろう。「Kanon(1999)」「Air(2000)」は、物語を意図的に欠損させ、結末を殆ど語らないスタイルを貫く。物語が“完成すること”が最も評価されるはずの業界において、“あえて語らない”というのは、随分と挑戦的な手法であり、さらに、この作品は、エロゲーで本来描かれるべき“恋愛”の生臭さを“奇跡”というキーワードで覆い隠してしまった。この二つの物語において、セックスの有無が、物語に影響を与えることはない。「Kanon」においては、セックスを回避しても物語は紡がれる。「エロゲーでありながら、セックスの意義が殆ど無い」・・・という希有な方向性は、既に「ONE(1998,Tactics)」で同スタッフによって示唆されていたのだが、最終的には「Kanon」によって作品自体のカラーになってしまう。
後に、多くの純愛系エロゲーに見られることになる“泣きゲー”と呼ばれるジャンルは、この時成立する。
ただ、「エロゲーでありながら、セックスの意義が殆ど無い」という・・・Keyの方向性は、エロゲーメーカー自身の自己否定であったと言える。「Kanon」でセックスを“物語上に含めるか否か”が、プレイヤーに委ねられているのが、その証拠だろう。よって、Keyは、「Kanon」からセックスを奪う代わりに何かをプレイヤーにアピールする必要に迫られた。“売るためのセールスポイント”と言えば、露骨だが、ここでKeyが目を付けたのは、Leafによってムーヴメントが勃発していた・・・当時、まだ一般的とも言えなかった“萌え”という「セックスアピール“以外”を目的とする購買層」であったのは、先見の明と言って良い。その結果、Keyヒロインは、特異な口調と特異な性格、非常に精神年齢が幼いキャラ造形が行われ、樋上いたる絵師のグラフィックと相まって、爆発的な愛好者を生むに至ったのである。「Kanon」発表時のいたる絵師は、当時の水準から考えても、そう美麗な絵と言えるモノではない。セックスシーンは非常に禁欲的、それでも、この作品が業界のトップに立ち得たのは、Leafが創り出した“萌えゲープレイヤー”を、Keyがさらに掘り起こし、“萌え”という用語を一般語まで引き上げたからなのである。
あゆは言葉に詰まった時「うぐぅ」と言う。舞は「はちみつくまさん」と無表情で言い流す。「Kanon」が描いたヒロインは、本来の人間性から見れば、異質である。あの年齢層の女性で、実際に同じようなことしたら、多分、私は引く。「Kanon」をその点で見た場合、まともな女性は誰一人としていないし、最初から、そうなるべくキャラ造形されている。前に言ったように、「現実における“人間像”と“事象”を、現実上の“心理”に当てはめられなければ、“萌え”は生まれない」・・・のであれば、彼女たちは、その“人間像”を徹底的にデフォルメされた人物像を与えられている。“絶対的肯定存在(絶対的な母性存在)”として描かれた(「了承」を口癖に設定された)秋子さんや(家族として主人公に認知されている)名雪、“相対的排他存在(外界から拒絶される存在)”として描かれた(香里から存在を否定された)栞や(家族として肯定されながら人間として否定される)真琴、(祐一がいない世界を否定し続けているうちに、その目的のために行動を縛られてしまった)舞は、その好例とカテゴリできるだろう。
人間には欲がある。それは、食欲でも性欲でも物欲でも良いが、彼女たちは、そういった欲のうち、性欲を完全にスポイルされた存在・・・性的に全く無知な・・・無垢な存在として描かれた。無垢な人は、自分たちの行動に疑問を持たない。彼女たちに与えられた役割は、その人間像に与えられた表面的なモノであり、そして、表面的なモノであるのにも関わらず、それ“しか”与えられていない故に、彼女たちのアイデンティティにならざるを得なかった。物語上の本編において、ヒロインの個別ルートに入った際、他のヒロインが全く無視されてしまう・・・特に、水瀬家を物語上の軸にしていない舞と栞が、他シナリオに絡んでこないのは、真琴や名雪の物語に、外界から拒絶される存在である舞と栞が介入できる訳が無いからなのである。
「奇跡の価値」を問うたこの作品は、一見、かなり軽く「奇跡」を描いた。
だが、ここで描かれた「奇跡」とは、実際は、あゆの存在との等価交換であり、「他のヒロインを救うこと=あゆの存在消失」を意味している。少なくとも、奇跡を使う担い手は、あゆ一人であり、彼女の選択によって、奇跡は発現する。主人公にできるのは、あくまで、ヒロインたちと歩み、生きることだけだ。主人公を「最も問題の無い」キャラクターとしたのは、「問題のある」ヒロインたちと生きるために、その困難の原因すべてをヒロインたちに押し付けるためだったと言える。そうしなければ、“一つしかない”奇跡で“二人同時”に救えない。観念性の高い作品であるため、その「奇跡」の「ご都合主義」が際立つのだが、栞・名雪シナリオの外的不幸の問題を差し引いても、「奇跡」に意味を与え、「あゆの存在消失」を前提に物語を紡いでることから考えて、“意味の無い「ご都合主義」”な部分は、どこにもない。
「Kanon」の奇跡は、月宮あゆが、引き起こす。
誰でもない、祐一のために奇跡を具現させる。
「起こらないから奇跡って言うんですよ」・・・との、栞の言葉が最も象徴する、「奇跡」は、実はヒロインのために行われるモノではない。一種の超常的存在であるあゆが、自分が最も愛した人のために具現し、祐一のこれからの幸せを願う。あゆのそんな切ない気持ちの発露なのである。
だから、彼女は、総てのシナリオに露出し、総ての経過を見ていく。
“絶対的肯定存在”というのは、たとえ、自分自身の幸せ・・・自分自身の存在すら無くしたとしても、自分の想い人の行動を肯定し、それを許しうる存在を言う。そして、こう考えた時、もう一人、祐一の総ての行動を肯定できるヒロインがいることに気付く。・・・水瀬名雪である。
パッケージ(通常版・Standard Edition)を見ても“あゆと同格にされているヒロイン”が名雪であるのは、彼女が水瀬家の同居人であるアドバンテージであると言っても良いが、キャラ造形を見てみれば、相対的に排他されている真琴・舞・栞と、彼女が全く違う立場にいることが分かるだろう。あゆは奇跡の担い手であるのに対して、名雪は、自分が祐一に選ばれようが選ばれまいが、“祐一を見守るという役割”が与えられている。秋子さんから等しく母性愛を受ける者同士・・・感覚としては家族的な愛情を持って、祐一を捉えている。それは、別な視点で見れば、祐一に対する姉的・妹的と言うべき母性愛、又は友愛と同価値だったと言っていいだろう。何しろ、名雪は祐一が彼女を気にする半分も、祐一を異性とは捉えていないのだから。・・・いや、異性としては捉えているのかもしれないが、無垢存在である故に、性的な感情がないとも言えるだろうか。真琴に関しても、あゆに関しても、姉的スタンスで受け容れられる彼女には、社会から排他される他ヒロインのような性格的欠損がない。だが、私達は、なぜ、恋をするのか考えてみよう。恋愛とは相互扶助であり、それはお互いの心を補うカタチで構成される。こちらが思っていても返して貰えない恋・・・それを人は「片思い」と言う筈だ。ならば、恋とは「求める」感情である筈。それは渇望と同義では無いだろうか?
・・・飢えない心は恋をしない。
・・・欠けていない心は愛を求めない。
だから、名雪が本当の意味で恋をし、愛を自覚するには、秋子さんを喪わせねばならなかった。
「Kanon」において、祐一に選ばれなかったヒロインは、あまり幸福とは言えない状況に陥る。あゆは奇跡を発現させて消え去り、真琴は人間性を失わざるを得ない。舞は想い出に囚われまま過ごさねばならず、栞は姉から否定され続ける。だが、“祐一を見守るという役割”を与えられた名雪は、他のシナリオに至っても、全くその立場は変わらない。それは、何度も言うように、他ヒロインが社会から否定された存在なのに対して、彼女が祐一を肯定する存在であり、それ以上に、彼女自身が秋子さんに肯定されている存在だからなのである。それでは、友愛の延長線上で身体を重ねようが、愛へ昇華はしない。
・・・なぜなら、“既に肯定している存在を二重に肯定など出来ない”から。
家族愛と、恋愛の帰結としての“愛”は違う。
名雪にとって、祐一という存在が、秋子さんと等価値では、そもそも、恋愛にならないのである。だから、名雪は秋子さんが喪われることで、祐一が、唯一無二の存在であることを自覚する。
「Kanon」の物語において、ヒロイン達をまるで助けることが出来ない祐一が、名雪シナリオだけは、名雪を絶望の淵から救うことが出来る。・・・いや、祐一だけしか救えない。だからこそ、このシナリオだけは、あゆの奇跡は“ヒロインではない”秋子さんへ発現するのだ。
絶望的な喪失感に苛まなければ、恋を自覚しない。
名雪は家族を。舞は友人を。栞は余命を。真琴は記憶を。
・・・そして、あゆは、死に至ろうとしている自分自身を。
「Kanon」が、奇跡をキーワードにし、それが故に「ご都合主義」と揶揄される。だが、その発現への条件から、ヒロイン達への恋までの道程を考えた時、それが如何に困難な条件であるかどうかが分かるだろう。少し狙い過ぎなキャラであっても、その物語上の主題と、それが描いた奇跡は、決して、現在の物語に劣ってはいない。むしろ、「家族愛と、恋愛の帰結としての“愛”の相違」を描くことが、以降のKey作品には出来ずに、“家族愛”の部分だけが、一人歩きしだした印象すらある。
Keyは、この物語において、ヒロインから人間臭さを喪わせ、性格的にピュアな存在として描き出した。それでも、私達がこの物語に感動したのは、現実における一つの“人間像”を最大限に増幅されたヒロイン達が、その苦難という現実の“事象”で苦しむ様を、悲劇とそれを回復する奇跡という・・・理解しやすい“心情”で構築したからなのだ。
奇跡に憧れる私達の願いと、祐一が奇跡を願う想いがシンクロした時、この物語は、最も心を揺さぶる。・・・この物語はファンタジーなのだ。フィクションだから、奇跡は起こる。・・・一人の少女の存在を犠牲にして・・・あゆの存在がこの物語に深い陰影を与え、故にプレイヤーは、奇跡が起こった時、喜びと同時に、あゆの犠牲を悼む。
・・・「奇跡の価値は」
理由の無い奇跡は無く、奇跡はそれ相応の対価を求める。
・・・「Kanon」の真価は、“奇跡”を“絶望”の対価として与えたことであり、例え“初めから起こることが定められていても”・・・“与えることが定められた”奇跡ではないこと。だから、この作品はBADENDすら、その意義が生じる。絶望の淵でそれでも前に進まなければ、奇跡は発現しない。
「Kanon(κανων)」とは、追復曲。複数の声が、同じ旋律を異なる時点から、各自開始して演奏する様式。異なる音、異なる旋律を持ちながら、最後は一つへ調和する。「Kanon」が描きたかったのは、そんな“愛”という一つの結末へ向かって、奇跡へ収束していく五つの物語・・・社会から排他されても、肯定してくれた人を喪っても、恋を自覚して乗り越えていく姿ではないだろうか。
「Kanon」は、恋への賛歌。
・・・それは“奇跡”という歌い手と、“悲恋”という奏で手によって、美しく響いた作品である。
(一部「こなたよりかなたまで」感想で使用した文章を使用しています。)