エロゲのエロとシナリオの関係においては、だいたい三つの位階を設けることが出来る。一つは「単純に物語にエロシーンがくっついてる」だけの作品で、大半のエロゲシナリオがこれに該当し、エロの配置は良くも悪くもユーザーがそこに意味や劣情を見出すものとなり、今作では幼馴染の姫兎が該当する。二つは「物語がエロの傾向に結びついてるもの」で、ジャンル抜きゲや、エロ導入に拘ったイチャラブエロゲがそれに値し、兄姉近親相姦を懐かしく巧みにSM物語に接続する暁乃や、未知なる感情と性癖に悪戦絶頂する鏑城もこの中に入るだろう。そうして最後の三つは「人間とエロの関係それ自体について」挑もうとする勇者であり、さらに、この作品の瀬利ルートは第二位階の「誘惑エロヒロイン」という昨今性徴目覚ましいジャンルを見事にエロゲながらも、その論理的な帰結としてのエロに病んで愛はパンツを駆け巡るを走り切ってしまう小池百合子シナリオの傑作だ。
・総CG枚数(差分無し)52枚 総回想数枠25回
・キャラ別CG(エロCG)&回想数 SD枚数
瀬莉 11枚(9) 7回 3枚
暁乃 11枚(8) 6回 3枚
姫兎 11枚(8) 6回 3枚
結奏 11枚(8) 6回 2枚
その他 8枚
(備考:特になし)
・クリック数
簡単な説明:クリック数つーのは、既読スキップオン+テキスト速度ノーウェイト環境下で計った、ゲーム開始時から作品を終えるまで各シナリオ毎のクリックの合計回数のこと。以下そのメリットについて。
(1)初回プレイ時の「共通」+「個別」のシナリオの総容量が分かる
(2)2周目以降の、共通シナリオを除いた個別シナリオの総容量が分かる。
(ゆえに、一周目のヒロインルートはクリ数が多く、二周目以降はたぶん半減するが、一周目の「個別ルート」が他よりも長いというわけではないので注意)
(3)エロテキストのクリ数と。それを含んだ全シナリオのクリ数を比較すれば、両者の割合もある程度はわかる。
(4)テキスト速度の環境さえ同じなら、プレイ時間と違ってユーザーによる計測誤差は少ない。
といった四点が指標として役に立つとバッチャが言っていたような気がしないでもない。
(5)BCは主人公とヒロインが恋人になる前までのクリック数で、ACは恋人になったあとのクリック数ね。
「その恋人になった「まえ/あと」ってどう定義するの?というのはなかなかにむずかしい話であるが、大抵のエロゲには告白CGなるものがありますからそこを基準にします
そういうCGがなかったり、なんかズルズルだらしない感じでずっこんばっこんなシナリオの場合は、まぁ僕がテキトーに判断しますが、その場合は「?AC6992」みたいに?をつけまつ。
そういや「誰とも付き合わないシナリオ」っていうのもあらわな。そう言う場合は特にACとかBCとかは書きません。
・各ヒロインシナリオのクリック数
1周目 瀬莉 「14714」BC10486 AC4228
2周目 暁乃 「6051」 BC2084 AC3967
3周目 姫兎 「53241 BC1669 AC3655
4周目 結奏 「63861」BC2867 AC3699
(備考:特になし)
・各キャラのHシーンのクリック数
(あとでやりま…まぁ結構長いです)
)
☆作品の大まかな評価。
簡単な説明:これはもうそのまんまですな。一応Z~SSSまでの評価基準が存在するらしいのですが、大抵はC~Aの間に収まっているようです。
「C」がだいたい「やってもやらなくても別にいいんじゃね」。「B」が「やればけっこう面白いんじゃね」。Aが「やってないヤツは人生つまないんじゃね」。
といったかんじになっております。あと「全体評価」っていうのは、その項目における「作品全体」から感じる何となく駄目だとかイイとかそういう評価です。
あと、これは当たり前すぎて却って説明しにくいものですけど、僕の定義による「シナリオ評価」ってヤツは「感動させなきゃダメ」とか「深いテーマが無きゃダメ」とか、
そういうヤツではなくて、基本的には「その作品が目指していると思われるものが、どれくらい達成されているか?」というような「完成度」評価に近いものかも知れません。
ですから、原理的には抜きゲであろうと萌えゲであろうとシナリオゲであろうとも、その作品が目指しているものが完成されていると判断すれば、シナリオ評価は高くなるって話です。
・シナリオ評価
瀬莉 A
暁乃 A-
姫兎 B
結奏 B+
全体評価 A-
共通ルート A
・イチャラブ評価
瀬莉 A-
暁乃 A-
姫兎 B
結奏 A-
全体評価 A-
・エロ評価
瀬莉 A-
暁乃 A
姫兎 B+
結奏 B+
全体評価 A-
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(0)「失礼ですね。発情なんかしていません。劣情していただけです」
さて「あぶのまーるらばーず」ではあるが、この「あぶのまーる」について語るのは案外難しい。というよりも、そのような「難しさ」をスキップして「あぶのまーる」について、一般的に言われているような語りをするのは、
まぁ僕もエロ助歴は長いので、上手くできるかどうかはさておくとすれば、そんなに難しい話ではないし、そういう「のーまるなあぶのまーる語り」をするのに適した作品、、、一般的に言えば「変態性癖ヌキゲ」ならば僕もそうしていただろう。
が、この作品は、立派に「変態性癖ヌキゲ」として通用するところもあれば、そういう文脈では語り切れない部分もあるので、まずはやや作品から外れて語りになってしまうが、フィクションにおける「あぶのまーる語り」について語ってみよう。
さて「あぶのまーる」というのは、語義的に言えば「のーまる」ではないことを指し、今回の文脈でいえば「のーまるではない性癖」の事を指しているわけだが、それ自体の大まかな意味範囲をとらえるのは、さほど難しくはない。
簡単に言ってしまえば「のまーるな性癖」というのは、それこそ普通の萌えゲのエッチシーンで出てくるような性行為に興奮する人間を指し、あぶのまーるな性癖と言うのは、それ以外のエロゲで出てくるエッチシーンの事である。
もちろん、これは「実際に萌えゲで演じられる性行為が現実において普通(ノーマル)である」という事は意味しない。そうではなくて、あくまで「虚構のポルノ」と割り切ったうえでの「そのエロ」が「普通」だという規範の事である。
実際にフェラチオやパイズリといった性行為が「ノーマル」であるかどうかは、それはまぁ三次元のセックス愛好家の諸氏の議論を待ちたいところではあるが、こうした性行為が虚構エロにおいては「普通」だという認識は合意が取れると思う。
そこから先の、じゃあ「アナルセックス」は普通なのか?みたいな話は、まぁ色々と議論は紛糾できると思うし、そこから「普通なモノ」と「普通ではないモノ」との線引きは難しいという議論も出来るだろうが、
これは後者において「普通ではないモノを決めるのは難しい」というのは正しくても、そこから「普通である」を疑うのはやや無理筋である。アナルセックスが普通であるかないかは議論が分かれても、セックスが普通の性行為なのは論を待たない。
以上は常識的な議論のように思われるし、実のところ以下の議論も理屈的にはこの程度の常識論が続く予定であるが、一つだけ違いはある。以下に語る常識論は理屈としてはそれなりに説得力はあると思うが、通常は語られない理屈と言うか、
そのような理屈を何故通常はスキップして、別のある種の「屁理屈」を用いるのかという事を説明する理屈だからであり、一応は作品に結び付けておくと、このような屁理屈の理屈をこの作品は最高のコメディとして仕立てているとは言えるのだから。
こういう話は、何から話を始めたら良いのか実に難しいものであるが、例えば、あなたがある種の「あぶのまーるな性癖」…まぁ「射精管理」という性癖を持っていたとしよう。因みに自分としてはこの性癖はゴメン被るとはいっておくが。
そして、あなたがそうした性癖エロ作品を買って、まぁそれなりに堪能したとしよう。その場合、あなたはそれについて、どのような表現でそれを語ろうとするのか?…という問いは些か一般的ではない(普通の人はそんなに語らないものだから)ので、
ここは立場を逆にして「あなたは、そのあぶのまーる性癖作品に対する他人の語りをどのように見るのか?」というように設問を変えてみよう。その他人に対する信頼度は、まぁ「自分と同じ性癖を持っていそう」くらいに設定する。
そして、その語りはまぁ僕は射精管理については専門外だから適当な表現で済まないが「もうこれは最高の射精管理作品だ。俺も10日間射精管理されて100日後にはちんちんぶっ壊れるまで逸脱したね!」というような類だとしよう。
もちろん、常識人で「変態紳士」たるあなたは、そうしたオタ友人とのやりとりでは「おおっ、それは凄い作品なんだろうな。俺もやってみるわ」とは言うだろうし、その発言も、まぁ7~9割程度は本心ではあるだろう。
が、1~3割くらいは「そんなの誇張だろう?」というような、疑いというよりも「っぷ、また馬鹿げた誇張を言いやがって」というような「誇張を前提としたコミュニケーション」を惰性的にしているはずである。
もちろん、こういうコミュニケーションと言うのは、別にエロゲオタやエロ関係クラスタだけではなくて、ある種の「ネタ含み」のコミュニケーションと言うのは、どんな場所においても発生しているものなので、それ自体は良いも悪いもない。
ただ、この「ネタ含み」というのは、実のところ「マジ」以上に重要なものであり、ネタを冗談と言い換えれば、冗談を必要とするコミュニケーションにおける冗談と言うのは冗談で済む問題ではなく、それは必要不可欠なものであり、
逆に言えば、そのような「ネタ含みがなぜ必要とされるのか?」という事を考察することによって「あぶのまーる語り」というか「エロ語り」における一般的なありようを分析することが出来るだろう。
まず、一般的にフィクションに限定する限り、よほどのモノではない限り、フィクション的なエロと言うのはその界隈に慣れたものであるなら、それはその枠内において「のーまる」ではある。
例え「アナルセックス」が「一般的」には「あぶのまーる」だとしても、それはエロゲにおいては「エロゲのなかでは、あぶのまーるなプレイの一種」という「のーまる」なマクロ認識がなされるという意味だ。
だから、ここで少々言葉の意味範囲が混雑し始める。
僕らは「あぶのまーる」と「のーまる」という「一般的な規範」を確かに持っているわけだが、人の社会には色々な共同体や規範性が存在するわけで、エロゲという共同体におけるアナルセックスは「ややノーマル」程度ということになる。
しかし、このような認識はたとえ多くの人が持っていたとしても、そのような、しいて言えば「客観的な批評言説」というのは、まぁこれは別にエロゲだけではなくて他の共同体でもそうだと思うが、特に記述はれないだろう。
別にそのような読者を軽蔑するとか批判するというわけでも無くて、たとえばこのレビューを読んでいる読者の大半は、こうした事実認識的な事を知りたいのではなく、単にこの作品が面白いかどうかという事を知りたいわけで、
因みにそういう読者の為に補足しておくと、僕がいまここで言っているようなことが「思わぬかたち」で出てくるところが面白いとは不意打ち気味にネタバレをかましておくとして、この論でいえば、
「あぶのまーるとされる、そのジャンル的にはのーまるなエロ作品」を語るときにおいても、それが事実として「どのような意味であぶのまーるなのか?」はコミュニケーションにおいて問われることは稀で、
単に「そのあぶのまーるとされる、のーまるなジャンル作品が、良い悪いかエロいかエロくないか」ということを中心にしてコミュニケーションは行われるわけだ。これも当たり前のことではあり、良い悪いという話ではない。
むろん、これは「コミュニケーション」だけの問題に起因するものではない。これは「エロ」だけのもんだいではなく、理論的にはありとあらゆる美的(虚構)体験にも通じる話だとは思うが、
あらゆる虚構体験とそれを物語る批評なり感想なり、はたまた「実況」もそこに含めれることはできるのだが、それらは、どれだけ連続性が必要なのかと言う議論はさておくとして、まぁ事実としては「別のもの」である。
例えば、ある作品なりで感動したりシコっている「あなた」と、それについて語っている「あなた」は、まぁ別人だとは言わないものの、それらは別の体験に属しているという事は妥当な表現ではあるだろう。
むろん、これは「慣習的なコミュニケーション」においては、両者の一致が前提されているわけだが、こんなのは理論的に小学生でも反論できる戯言ではある。
たとえば、僕がこの「あぶのまーるらばーず」をレビューすると宣言し、自分の本心を伝える為にプレイ中のニヤケ顔をゆうつべでうpしたところで、そんなものはレビュー以前に「気持ちが悪いだけ」で意味はないだろうし、
たとえ科学技術が発達して、僕が作品をプレイしているときの脳内感覚を他人にコピーすることが出来たとしても、これをもってして「自分の感情を100%純粋に伝えることが出来た」と言ったら、やっぱりその子はアホの子ではある。
感想やら批評と言うものは、あくまでそれらの「体験を取捨選択して再構成」することに価値があるというか、そうではないと意味もないとは言える。
例えば、こんなことは現実的に不可能であろうが、先のようなあなたのプレイ体験をそのまま純粋に100%同じ時間を持って体験できる技術が生まれたとしても、
そんなものは誰もが「時間がもったいない」のでやろうとせずに、何百文字に纏めろになるわけだし、それ以上に彼は、現実に対して酷く勘違いめいた思い違いをしているというのは、
この作品の以下のレビューで明らかになることだろうと伏線を張っておくとして、やはり一番エロにおいては重要なのは、セックスなりオナニーの時の快感経験と、それを描いているときの経験は異なっているという事実だろう。
最近はあまり言われなくなったことではあるが、こういう文脈においてオナニー文章と言うのは現実的にあり得ない。確かにそれが言わんとしているような「ひどく自分勝手な文章」というのは存在するわけだが、
セックスやオナニーの時の快感と、それを記述する行為における快感(というのがあるとすれば)は同じではなく、後者は常に反省的な意識によって「気持ちよかった」と書くことしかできない。
ここから発展していく更なる問題としては「賢者モード問題」と言うのもある。賢者モードというのは、興奮時における自分と、それを発散した自分の感情の変化を一般的には意味しているわけだが、
これは感情の問題と言うよりも、さらに厄介である意味ではもっと生物学的な問題であり、これは空腹時において食べ物の価値が上がり、満腹時においてはその価値が下がるといったような、単なる時間的な評価変化だというのが厄介だ。
些か単純なモデルであるが、これは「賢者モード」における自分が「本当」で「発情モード」の自分が「本当ではない」といったような真偽の問題ではないからだ。空腹時に自分が本物で、満腹時の自分が偽物ではないのと同じように。
なるほど、満腹時の自分は、空腹時の自分に対して「客観的で冷静に捉える」ことはできるだろうし、そのような認識の積み重ねが、本人または人間社会にとってまぁ大半は有益な方向に働くという意味では「長期的には正しい」が、
そういった言葉の正しい意味での「ブルジュワ的な倫理観」を規定とした正しい生活は、だいたい「その場での欲望の充実」を目指すエロを生み出してしまうわけで、空腹時の人間に満腹時のお説教をしたところでは無駄ではある。
しかしもちろん「エロだけが正しい」ということを意味しているわけではなく、満腹時つまり賢者モードにおける短期的なエロの価値は、せいぜいのところ客観的な価値しかないのも事実なのであって、これを調停するのは困難ではある。
纏めると、まずコミュニケーションというものが、他者を前提とする以上、そこには何らかの文脈や要求が存在するので、多くの場合、それ自体の事実性や問題性を追求する議論よりも、
そうした文脈における価値を巡るやりとりに偏りがちになることに加えて、そもそも「エロ」という経験享楽の伝達そのものにおいて、やや難しい表現になるが「人間が時間的な価値分裂」を常に起こしている以上、
そのエロが「どういうものなのか?」を巡る議論それ自体にはある種の困難が発生する。そうして、その「エロ」の一般的な価値そのものを考えれば、そんなことにウツツを抜かすよりは、
「そのエロがどのような効能を持っているのか?」を世間的な文脈をもっとして語った方が良いという話になるので、エロ語りと言うのは、常にある種の「ネタ含み」の社交コミュニケーションを発生させやすくなるし、
これは「エロ」と「シナリオ」を同時に語るのが困難な説明としても通じることになるだろう。
上記の分析は、別にそのようなコミュニケーションを揶揄する目的では行っているものではないし、こうしたコミュは多くの場合「限定された意味において」は健全でしかない。
僕だってエロゲについて、ざっくばらんに日常的なトークをする時は「んで、エロかった?」くらいの事は言ったりするような、上のようなコミュニケーションを行うことはままありえて、その理由は単純だ。、
そうした、まぁ例えば秋葉の路上で立ち話をしているときに「んで、エロかった?」以上の込み入った話をするのは難しいし、相手も自分も特にそれ以上は求めていないからであるし、
大半のコミュニケーションというのは、これは別に否定的な意味合いではなく、単なる事実として申し上げるが、大半のコミュニケーションはそのような「底の浅い」ものであって、それは人間が何時も深淵ではありえない以上当然である。
故に、この「あぶのまーるらばーず」という作品のジャンル名が「愛さえあればなんでもアリ」というのは、一般規範的に置いても「あぶのまーる」の「のーまる」なありようを、端的に言い表している言葉だと言える。
もちろん、別にこんなのは「深い意味合い」があるということではなくて、現実のいい加減な妥当さをそのまま言い表している意味合いであり、これをもっと身も蓋もない形でいえば、
「他人に迷惑を掛けなければ変態であっても構わない」という事であって、こうしたことを一切自覚している我ら「変態紳士」だから「あぶのまーる」が「のーまる」でしかないことを知りつつ「あぶのまーる」な振りをし続けるわけだが…
そんなインポテンツな変態紳士の前に、たったひとりの純粋な変態少女が舞い降りた。その名を「朝比奈 瀬莉」ちゃんといい、2017年最高の清楚サイコパスエロゲヒロインであり、彼女の罪はヨタの罪であった。
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(1)「だって、愛しい殿方が男性器を剥き出しにして倒れていたら、その愛おしい部分を記録したくなるのは女の本能ですよ?」
さて、0の枕話を読んだ皆さんは引き継きこんにちは(首都圏の人間には一生理解不可能な言葉)。枕話なんて下らねえはよ作品の話をせんかいと言う人には早速ながら共通ルートも含む作品世界がすげぇ良いので体験版やれと百合子が命令しますわ!
まぁこの作品については、0の枕話なり、一言コメントの意味深な語りといい、どこか「普通ではないエロゲ」という印象を持ってしまった方もいるかもしれないが、フォルムつまり「形態」としては、この作品は王道的な日常ゲなのであって、
まずはそこらへんをざっくり説明するところから、話は始めよう。日常ゲだけに、実は「メインプロット」と言えるモノは非常に薄い作品ではあるんだが、だからといってそれは「退屈な日常ゲ」を意味しないのがミソである。
試しに、OHPのストーリー紹介のページを見てみると、
http://tortesoft.nexton-net.jp/abunoma/story.html
いちおう作品の分量としては、この紹介部分が値するのは、共通ルートの前半部分といったところでしかなく、残りの共通ルートについてはここでは語られていないことになるわけだが「プロット」紹介としては、実はこれ以上は語りようがない。
「無事に喫茶店を開店できるのか?」という下りは、別に文句をつけるわけはないが、なんらかの喫茶店「開店トラブルイベント」を解決するようなプロットを連想するかもしれないが、体験版の時点でわかるように、
そうした「新人ウェイトレス描写」はあるとはいっても「開店までの長い道のり」が一本のプロットになるわけではなく、開店は特にプロットを要するまでもなく、普通に行われてしまう。その後の色んなミニトラブルは語られるとしても。
それ以降の個別ルートに入るまでの「学園祭イベント」までは、特に「なんらかの目標や中心となるプロット」は存在しないので、上のストーリー紹介で「無事に開店できるのか?」を主軸に置いたのは、それ以外特にないのだから仕方がないのだ。
これは、ここ最近の萌えゲの作りとしては、それなりに結構異例な事である。ここ最近の萌えゲは、僕にはこれがちょっと気に食わないわけだが「シナリオ重視」というか「プロット重視」ではある。
プロット重視ということを、説明するのはちょっと難しくて、これは別に「ストーリーの先が気になるような作りをする」というよりも、どちらかというと「プロットという箱を作って、その中でヒロインを描く」といった感じのものだ。
モデル論的に言えば、例えばこれはありがちな話ではあるけど、先の「学園祭うんぬん」というのが典型的で、これを「プロット重視的」に描く場合には、学園祭には様々な問題があって、それを解決することでヒロインたちの絆が云々になる。
この場合には、別に「どのように学園祭の難問をクリアするのか?」というシナリオ上の困難の解決が読者の興味を引くわけではなく、別にそんなものは予め全て解決策が予想通りであっても構わないわけで、
重要なのは「学園祭の難問を解決する」という「ハコ」を用意することで、その「ハコ」という「限定された物語空間と時間」の中で、ヒロインたちのやり取りを描くことが作者の眼目であり読者の楽しみとなっていく。
因みに「学園祭云々」というような、物語展開があったからといって、それが必ずしも「プロットハコ」として使われるわけではない。この作品のように「単に学園祭をやって楽しかったね」程度の日常ゲ的な使い方もできるわけだが、
そうなってくると、日常ゲというのは、いったいどのような機能性があるのかと言う話になってくるわけで、これからこの作品の日常ゲとしての魅力を思う存分語ってみよう。
まずは感覚的な物言いから始めさせてもらうと、これは共通ルートだけではなくて、以降の個別ルートについても概ね言えることではあるのだが、まずは比喩的に表現すれば、暖炉が整った大きな家のように暖かい日常が作中に流れており、
それに比べると最近の駄目な萌えゲは、スキマ風が入りまくる安普請の家賃2マン程度のアパートで一生懸命ごちうさ命!を必死で繰り返して、なんとか「暖かさ」を無理にだそうとしているような感はある。
そうして、この比喩を更に続けるならば、しかしこの「あぶのまーるらばーず」は、べつだん「優しい人たち」や「暖かい人たち」を集中的に描いているわけではなく、テーマ論的には酷く冷たいと言っても差し支えないところすらあり、
なにか「暖かい作中人物」や「暖かい世界」を描いているから、このように作品全体が暖かく感じるという話ではない。ここらへんを、最近の萌えゲは「なにか勘違い」している節もあり、せっかくだからシェイクスピアでも引用すれば、
>必要があるかどうかなどということをいわないでくれ。
乞食でも何かつまらない、無駄なものを持っている
体になくてはならないものしか体に与えないならば
人間は獣とかわらないみじめなものになる。おまえは立派な奥様だ。
体を温かくしているのが結構なことなら、
お前が着ているその結構な衣装は結構なのじゃなくて、お前の体を
温かくさえもしていないじゃないか。(リア王より。吉田健一訳)
という事になるわけで、これをこの作品世界でいうならば、幼馴染の「姫兎」と立ち絵すら存在しない「姫兎の女友達」の何気ない描写が素晴らしい。
もちろん、この女友達は、殆どメインプロットにも姫兎のルートにも関わってくるわけでも無く、必要があるか無いかでいったら「プロット的な役割」はゼロに等しいし、
僕が素晴らしいという描写も単に、姫兎の恋愛を彼女たちが「冗談半分で応援して、冗談半分で揶揄っているような」何気ない昼休みの風景である。いいぞー、姫兎!もっとやれ!お弁当を主人公の口の中に放り込むんだ!みたいな。
これは、主人公の「男友達」の描写においてもそうである。
当然のことながら、こちらも立ち絵は存在しないし、男友達といっても普段はエロビデオの話をするか、大抵はモテモテ主人公を恨んでいるくらいのことしかいわないし、唯一まともな友達っぽい「三田」くんも、
基本的には「主人公と友達でいれば、主人公のねえさんに好かれるからよくね?」という理由を平気で口にするような、まぁ割とどうでも良い友人ではあり、こちらも物語には大して深くかかわってこないばかりか、
べつだんこうした「友情描写が泣ける」といったこともないのが、ぼくにとっては非常に心地よい作品世界の塩梅なのである。何もかにもにプロット的な理由がある作品世界なんて非常にみみっちい現実の緊縮社会そのものではないか。
それはプロット的な意味合いとは別に、この作品世界はこれがこうなって、あれがこうなるだろうと言うような、作品の意味を予想または限定させるような機能性が非常によわく、それが作品全体に大きな奥行きを与えている。
むろんプロット的な意味は常に意識されるというか、常にこの作品では「主人公の周りに何かトラブルが起こっている」と言う意味では「退屈はさせない」作りにはなっているものの、
そのトラブルが作品全体において「どのような意味を持っているのか?」ということは明確にならず、単にそれはいつもの瀬莉ちゃんの腹黒ストーキングかもしれず、
ついには主人公の童貞が奪われるかもしれず、いつもは「おなかが減った」しかいわない鏑城さんがついに真の感情に目覚めたかもしれず、共通ルート上では「どう転んでもおかしくない」世界の可能性と豊かさを堪能させてくれる。
この作品の感想でわりと目についたのが「ハーレムルートがない」不満であり、その理由として「共通ルート上で全員と関係を持っているんだし」を挙げている人は多いのだが、僕はそういう問題ではなくて、
それだけ、この作品の共通ルートの「どう転んでも、つまりはハーレムルートに転んでもおかしくない」ような共通ルートのドタバタな日々が楽しすぎたからではないかと思っている。
まぁ感覚的な物言いはこれくらいにして、理屈でいえば、この作品の日常ゲーの基本となっているのは「生活リズム的な背景絵パターン」を土台固定にして「それ以外は全部変えていく」という手法である。
別にこれは「カッチリとした固定」にする必要は無くて、概ねそのようなパターンが繰り返されていればOKと言うレベルの話であるが、ざっとその背景絵の午前中を記述すれば、
>「(朝)(1)主人公の二回の部屋→(2)他の(ヒロインたちの)部屋との通り→(3)厨房→(4)リビング→(5)通学路→(6)学校の通路→(7)教室
となり、これはわりとそのまま分かりやすく午後は、その反対を順繰りに回っていくわけだ。教室→学校通路→通学路→リビング→厨房、といったように。
こうした背景絵の変化やそれに準じた描写は、一部の「フィクションは効率的な描写が全てだ」という、もうそこまで言うんだったらお前らはフィクション何て無駄なんだから読まなきゃいいじゃん一派にとっては、
「無駄なもの」とされて、このような「水増し」描写を指摘するのが、エロゲレビューにおいてシナリオを論じることだという水虫めいた糞意見が未だに残っているのが、そういう人はさっきのリア王を100回でも暗唱するように。
もちろん、全てのエロゲが先のような描写を心掛けないといけない理由はないし、上のような描写が「無駄になる」可能性それ自体も僕は否定しないわけだが、ある種の反復を無駄無駄と決めつける無駄口を叩く暇があったら、
そのような自分が「無駄ではないものを」見過ごしていないかということを、ほんの少しは反省する余裕くらいは持った方が良いと思われる。
この作品はそういう意味で実にわかりやすい手法を用いており、それが「生活リズムは変わらないし、生活においてやっていることもあまりかわらないが、プロットの展開によって見える世界は大きく変わる」という描写だ。
例えば、この作品の主人公は料理人であり、この設定はメインプロットにおいても結構な意味を持っていて、とても説得力があるとは言えるが、その説得力を生み出しているのは、何か「特定の素晴らしい描写」ではなくて、
この作品においては、共通ルートでも、主人公は朝と夕方から夜にかけては「厨房にいる」という、殆ど固定パターン描写と言っていい反復の事実が、そのリアリティを確かなものにしている。
もちろん、その「厨房」において、主人公のやっていることや考えていることは、各ルートによっては違うし、場合によっては厨房においてエッチすらしてしまうわけだが、その差異と同一性の意識が、
その作品の「世界」というか、もっと正確に言うなら「場所」に「人間的な深い意味」とは違った「人間がそこにいる意味と、そこにいることの意味が特にない赤の他人めいた場所」が生み出す奥深さを意識することになる。
これをもっと具体的な理屈でいえば、その物語において効率的に「その物語に必要な場面の背景立ち絵」だけを、時間や空間の連続性を無視してチョイスした場合には、僕らは背景の立ち絵なんて特に意識はしないだろう。
せいぜい、その背景は「物語における空間と時間」を指し示す記号でしかなく、重要なのはその場所において「その場限りに登場人物が何をするか?」という事でしかなく、そこで背景絵を綺麗にしたところで効果はゼロに等しい。
しかし、その背景絵というか「場所」が、その作品の中で「物語的に重要}という意味ではなくて、その作品の登場人物たちが空間・時間の中でさっきの厨房のように「生活している」場所だという事が意識されている場合にはどうだろうか。
そのような場所には、物語的な意味とは別のレベルで、この場所には「こういう人が生きていて、こういうものがあった」という、それ自体は別に奥深いものでも何でもない「生活情報記憶」みたいなものが生まれていって、
その生活情報記憶は時として物語と融合し、時として物語とは全く融合しないこの両方が、ある種の奥深さを生み出すことになる。
融合する場合には、この作品においては先のように「主人公が毎日同じ時間に厨房にいる」という描写が彼の職業倫理を強調し、融合しない場合には厨房でのセックスが、その場違い感とエロ背徳感を生み出すことになるだろう。
もちろん、そういうのは結構細かい話で、この作品はそういう「日常ゲー」の機能性を、どんな素人にも分かりやすく伝えることには成功している。一番わかりやすいのはやっぱり共通ルートの「ヒロインたちの変態さ」が明らかになって、
しかもヒロインたちと同居しているのがバレて、まぁ学校も家も大変なことになっているあたりのコメディ描写だろう。僕は、こういう話をみていると、必ず「どらえもん、のび太とパラレル西遊記」という傑作アニメを思い出す。
詳しい説明はWIKIでも参照して欲しいが、まぁ簡単に説明するなら、のび太たちがタイムマシンで西遊記の世界から現代に帰ってくると、そこは実は「鬼たちが支配している世界に変わっている」というプロットなのであるが、
この「変ってしまった世界に、徐々に気づき始めていくのび太たち」というような「いつも見慣れていた風景が、風景自体はさして変わらないのに、そこにいる人間が変わってしまっている」というような描写が僕はとても好きなのだ。
この作品の場合は、別にそういうSF的な展開があるわけではなくて、単に「今まで隠されていて目につかなったものが、とある展開によって、突如として目に見えるようになった」というものであり、
今までは単に「クラスの美少女アイドル」と思われていた美人さんが、単なるにおいフェチの変態女だった!と言うだけならまだしも、そこから「単なるボケ気味な幼馴染」だと思われていた女の子が、
実はきちんと性に目覚めていてパジャマの下は濡れ濡れだというのも、エロゲ的な妄想としてはまだ許容範囲だとしても、そこからさきに「頼りにしていた生徒会長のおねえさん」に色々と助けを求めようとすると、
実は縛り系のハードマゾだという事が発覚して、主人公に対して「たのむ。わたしをしばってくれぇぇぇ」とハアハア迫られてしまっては、もうこれは最高のホラーコメディとして楽しむ他がないだろう。
そうした「色情魔と化してしまったヒロインたち」から逃げおおせた主人公が遥か見るのは、そんな主人公のドタバタとは関係なく今日も立派に黄昏る太陽であったが、もちろん主人公としてはそんな夕暮れを見ても、
「血に染まった地獄のような夕暮れ」にしか見えないという、実に伝統的な光景に遭遇する。それを地獄に堕ちる一歩手前の景色とみるか、それとも希望の太陽が昇る朝焼けとみるかは、すべての人類における永遠の謎であるのだから。
そうして、日常エロゲの良いところは、そうした「物語的ムード」がある意味では「客観的な時間の流れ」によって中和されたり無効化されたりといったように、自分または登場人物の心理とは無関係に世界は動いているというもので、
いくら主人公が黄昏の夕暮れを地獄のウスタソースのように幻視したとしても、主人公は料理人なので家に帰って厨房のタルタルソースをせねばならず、家に帰ってみればそれはそれで「色情魔と化してしまったヒロインたち」も、
相変わらずマイペースに「おなか減った」を言い続ける鏑城ちゃんは別として、きちんと仕事はしていたりするわけだ。まぁわが愛しのマイエンジェルの瀬利ちゃんはそれでもきちんと主人公に一服盛ろうとマヨネーズを搾り取るわけだが。。
実際、この作品を「そういうドタバタイベントをブツ切りにつなげていく」ような語りでやってしまった場合、この作品は単なる「騒がしいだけのバカゲー」という評価で終わっていたと思われる。
この作品の以上のようなコメディがコメディとして楽しめるのは、それは上記に語られるような「コメディチック」な変態ヒロインがどうこう話を、それをあくまで日常ゲという生活リズム反復に上に置いているからだろう。
例えば、これ自体のネタはまぁ普通なのであるが、こうしたヒロインたちが初めて喫茶店の仕事をするというイベントがあり、瀬莉ちゃんは主人公の厨房に忍び込もうとする他はそつなくこなし、
姫兎ちゃんは掃除をしたことが一度もなくぞうきんを絞ることすらできず、鏑城ちゃんはそもそも掃除をすることに何のメリットがあるか心底わからないと言った、ある種の四コマ漫画オチ話になるわけだが、
これを「そのイベントだけを切り抜いて」ちゃんちゃん♪として終わらせるのと、そうした「コメディイベント」から続く時間も描写して、今日は初めての仕事だったから疲れたーと、大して何もやっていないような姫兎ちゃんが語るのでは、
それはヒロインに対する認識が変わってくるわけだ。前者においては、ヒロインはただ「コメディ」的な存在になるだけではあるが、後者においてはその「なにもやっていないのに今日は疲れたー」という、まぁこれ自体もギャグ話ではあるが、
しかし実際に世の中には「大した仕事もやっていないのに疲れたー」という人間はゴマンといるわけだし、事実そういう人間の大半は本当に疲れていることを考えると、そこには僅かながらの人間的な共感が生じることになる。
とはいっても、この共通ルートには、ヒロインたちは割と好き放題に動き回って、主人公もそれに振り回されながら主人公の方も怒るときは割と自分勝手に怒ったりしているので「共感が必要だ」みたいな人情描写としては殆どなく、
>「いい加減にして」
我ながら低くて恐ろしい声だった。怒鳴りつけてやりたい。
「うまいいい訳だと思って言っているなら、卑劣で間抜けだよ。本気で言っているなら、最低だ」
言葉があふれてくる。怒りの勢いが言葉に流れ込んで、怒鳴ってしまいそうだ。
「でも……日向君、これは憶えていてください。私はあなたのことを本当に愛しているんです」
「ですから、私の全てを使って手に入れたいだけなんです」
だからって、なにをやっても許されるなんて思ってほしくない。
そういってしまえばいいのに、僕は言葉を飲み込んだ。
月明かりに照らされた彼女は、美して、真剣で、そして、脆く、儚い。
こんなにどうしようもなく、ろくでもない女の子なのに。
本当の意味で反省しているのかさえ判らないのに。
「そのためなら最低と言われても構わないんです」
「……」
言葉が出ない。圧倒されている
なんで僕のためにそこまでするんだろう?そんじゃそこらにいる程度の僕のために。
学校での優等生をかなぐり捨てて、人の信頼も行為も踏みにじって馬鹿になって。
すごい。最低だ。理解できない。でも何かが……心に響いてる。
(色々と台詞を中略しました)
このように主人公とヒロイン達は、これはもう身も蓋もないような他者として作品空間にぽんっと置かれることだってあるので、人間的な共感というのは「理解できない瞬間だってあり得る」といった疎外も組み込んだ雑じりあいになる。
別に小ネタ程度の演出なので、特筆するほどのものではないが、この作品には「煩悩ただもれシステム」というものがあり、ヒロインの煩悩が別ウインドウで表示されるという、基本的には「コメディシーン」専用のシステムであるが、
ただ、これはこれで別の方向から作品内容を語っていると言ってもいい。この作品で重要なのは「ヒロインの隠された内面を主人公が発見していく」ではなく「自分にも他人にもわからない欲望の動機」そのものなのだと。
こうした疎外は物語空間や時間を何ら阻害せずに、それは正しく共通ルートの「まだ赤の他人」でしかないヒロインの、これ以上踏み込んでいいのかは戸惑ってしまうような横顔をちらりと見せるだけで、その数時間後には太陽が昇り共通ルートの一日がまた始まる。
そうはいったところで、共通ルートを延々と続ける事はできないので、例の学園祭イベントによって物語は個別ルートへと分岐していくのだから、そんな学園祭イベントに「区切り」以上の意味は無いとは言えるのだが、
こうした「個別ルート入り学園祭」という学園エロゲの偉大なるマンネリ伝統が良いところは、それこそ現実の「お祭り」がそうであるように、お祭り自体には大して意味もなくて、またお祭り自体には何ら恋愛に繋がる要素は無かったとしても、
その「お祭りが終わった瞬間」には、そこには何かがあるというか、正確に言えばキャンプファイヤーや年越しの瞬間がそうであるように、実はそこにはもう何も残っていなかったりするのだ。今までの楽しいだけの時間と空間が全て燃え尽きてから、
>「そうじゃないと思う。僕がやさしいとしたら、それが僕が優しくしていられるこの場所のおかげなんだ」
違う時間、違う国、もっと余裕がなくてすさんだ場所。
そんなところに生まれたら、こんな風にはしてられなかったかもしれない。
「私はどこに生まれても、こんなふうな自分だったような気がします」
「みんな」といる、そこからは「なんでもできる」可能性は静かに閉ざされていき、べつにその時点では特に誰だって好きになっていないのに、学園祭の終りに誰と時間を共にするのかでその後の人生がすべて決まってしまうような日常の神隠し。
実は、エロゲにおいて共通ルートがどういう意味を持っているのかと言うのは、案外難しい問題で、興味がある方は僕の「桜ひとひら」のレビューを読んでもらうと、その事について僕なりの見解を知ることが出来ると思うが、
まぁ詰まらない一般論を予め断っておけば、そんなものは作品ごとによって共通ルートの機能性は違うし、場合によっては別に共通ルートなんてものは必要は無いとさえいえる。なので、この作品におけるそれを端的に述べておけば、
製作者たちがどこまでそれを考えていたかはさておくとして、この日常ゲー的な共通ルートのありようは、複数ライターかつ複数にあぶのーまるなヒロインたちのルートを描くうえで、絶好のどこでもドアの「居間」を用意しているとは言っておこう。
そう「どこでもドア本体」ではない。エロゲの個別ルート分岐はなんだって「どこでもドア」だけれども、この作品のそれが置かれている居間は、いつだってそれを思い出すことが出来て、決して帰ることが出来ない今が息づき、未来の可能性を呼吸する。
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(2)「えへへー、かわいいでしょ~~、うさぎはラビッドだから~ぴょんぴょんだよ~」
いちおう、この作品のタイトルは「あぶのまーるらばーず」で、作品の販促としても、一応はヒロインの変態的な性癖を売りにしているようなところはあるわけだが、まぁまずは表面的な意味から言っても、
ヒロインそれ自体が特殊な性癖を持っているというのは、瀬莉ちゃん暁乃ねぇちゃんくらいで、他の鏑城と姫兎ちゃんには「あぶのまーる」なプレイは多少はあっても、彼女たち自身がそのような性癖を持っているとはいえない。
これは別にこの作品だけに当てはまるものではなく、こうした「特殊性癖ヒロインゲー」というのは、何か特定の「あぶのまーる性癖」を売りにしているというよりも、ある種の「えっちやヒロインの傾向」を売りにしていると言える。
例えば、性に対して羞恥心が強いヒロインに対して、必ずしも誰もが「羞恥プレイ」をやりたいとは思っているわけではないし、性にオープンなヒロインとわいせつ物陳列罪エッチをしたいと思っている人はたぶん少数派だろう。
そうして、そういう対象は、かつての「萌え記号論」の楽観論を裏腹に、実際にそうしたジャンルを消費しているオタクなら直ちにわかることではあるが、意外に言語化しにくいというか、その言語化された言葉はたいてい複数のニュアンスを持ってる。
>担当させて頂いた姫兎ちゃんはうさぎモチーフの、大変おっぱいがけしからんエッチな子になっております。幼なじみおっぱいけしからんです。
話し方も独特ですっごく可愛いので、難しいこと何も考えずにおっぱい堪能できるようになっております、おっぱい。
ライター氏のコメントであり、まずこのような企画はライター氏にどれだけ負担が掛かるかどうかは知らないものの、ライター氏がツイッターで変な宣伝RTをするよりは、公式OHPでこういう形で発表した方が良いとは思うし、
今作でいえば、どのライター氏のコメントも作品内容をきちんと伝えていて、これはこれで良い宣伝になっているとは思う…と儀礼的なアリバイは尽くしたので、さっそくライター氏の言葉が好き勝手に弄らせて行きたい。
まず、こういうライター氏の言葉を邪悪にアレコレと弄るためには、大半の作品では共通ルートと個別ルートの担当ライターが別である、という事をよぉく前提しておくと、これが非常に面白いことになってくる。
両方のライターが同じだったら、まぁ基本的にはそのシナリオやヒロインに対する解釈はそのライターさんが握っているので、作品に対する良し悪しはさておくとしても、そのヒロインはどういうものかと言うコメントには揺るぎが無い。
しかし、両者が異なっている場合、まぁ実際の制作過程としてどのようなやりとりがあったかは、それは内部の人間しか知らないことなので「共通ルートを書いた方が先で」みたいな話は出来ないとしても、
読者としては「うーん、共通ルートと個別ルートのヒロインはなんか違うなぁ」とかは思ってしまい、そこでライター氏が実際にどんなことを考えていたのかと言うと、僕みたいな邪悪な人間からすると非常に面白いネタにはなるのだ。
とはいえ、先に結論から言っておくと、この姫兎と言うヒロインのキャラクター把握や描写に、何か問題があるということでこのシナリオを批判したいわけではない。
批判点があるとしたら、それはどちらかと言うとシナリオの展開の方で、ヒロイン描写としては特に悪いと言いたいところはなく、個別と共通のギャップが酷くてどうこうみたいな批判は成立しないとは思っている。
まぁそうであっても、共通ルートの姫兎ちゃんの方が100倍はシコれたわけで、個別ルートの姫兎ちゃんはそれに比べると「単なるかわいいヒロイン」くらいにはなっているとも言えるわけだが、
これも別に回し蹴りを喰らわせようとしているわけではなく、シナリオ評価と言うよりも、基本的には僕の性癖に起因するものであって、そこで共通を書いている丸谷さんと個別のみくりさんの「性癖」センサーを見ていこうと思う。
まぁこれは性癖センサーなのか、それともプロットがそれを要請したものなのか?という話はあるわけだが、まず一言でいえば、共通の姫兎ちゃんはより「ロリ」っぽく個別の姫兎ちゃんはより「ママ」っぽいのだが、
ここで先にも言ったような「あんがい萌え記号論は成立しない」という問題が出てきて、ロリっぽいと言っても巨乳じゃねーか!みたいな話になってきて、じゃあそこでプニロリだとか神学論争をするよりも論理を尽くした方が解りは速く、
具体的なサンプルを挙げるならば、共通ルートの姫兎ちゃんのコアな部分はこういうところである。
>「ああ、みみのゆびがおーじょしゃまのなかに、ぐちゅぐちゅはいってっちゃうのぉ。ぐちゅぐちゅなのぉ」
>「ああん。ひーくんのおっきくてすごいすごすぎるぅよぉ みみもぉ~みみもぉ~」
>「だってだってぇ、ひーくんがみみをどんどんイケナクするんだもん!いけないこになっちゃうぅ」
こういう対象に対しては、あくまで僕の語感から言わせてもらうならば「幼馴染」という言葉をちょいエロ方向にシフトさせるような解釈で言葉を転がすと個人的にはわりとしっくりきて、
それをさらに「おさななじみ」と平仮名にすれば、より姫兎ちゃんのうさぎぴょんぴょんなヴィジュアルと、その世界に純粋に甘えきった幼稚園児のふわふわえっち感覚が表現できるように思えてくる。
まずポイントとしては「幼さ」というもので、だからこれを「ロり」と言ってもいいのだが、ロリというとそれは物質的な小ささを志向するようなところがあり、そこは精神的な未熟さを感じさせる「幼さ」の方がより近く、
そうした「幼いエッチ感情」を象徴するものとして「王子さまチンコと王女さまマンコ」という隠語があって、そうした「ちんこ」とか「まんこ」に直接卑語らずに、敢えて子供パジャマ越しに間接オナニーに興じるような、
即物的なエロをちっとも知らずに、自分の子供の頃の恋心が何も汚れないまま性欲にそのまま接続してしまっている発情の構造。丸谷さんはこういうメルヘンチックに隠されているエロチックを描き出すのが大変にうまい。
だから、こういう(共通ルートの)姫兎ちゃんの性的魅力は、もちろん「おっぱい」や「おまんこ」というのも、それはそれでヴィジュアル的なエロとしては当然だし、セックスしてぇなぁとは思うのでセックスエロも当然必要であるが、
単に「おっぱい」や「おまんこ」だけを強調すれば良いという話で全くなくて、姫兎ちゃんの子供のように甘やかされて甘ったれたおっぱいと、その姫兎ちゃんの妄想世界えっちのように、あくまで間接的な生えっちを描く必要があったのだ。
なのに、このライターさんは姫兎ちゃんを「ママ」ヒロイン化させようとしたり、姫兎ちゃんの妄想癖という側面も「羞恥エッチ」的に利用するだけであったりと、僕が以上に説明した「おさななじみ」エロは殆ど描かれていない。
まぁ、これはシナリオ展開がそういうものだからと言う話はあって、一応はそこらへんを説明しておくならば、姫兎と主人公は子供の頃に結婚の約束をしたんだけども、いろいろとネタバレなことがありまして、
今度からはきちんと恋人関係になりますという「幼い幼馴染ヒロインが成長する」話にはなっているので、だからこそ上のような「子供のようなエッチ」は描くことは物語に反する…とこう書いてきたら何だか結構腹が立ってきたぞ!
実際に作者がそんなことを思ったのかどうかは知らないし、物語との兼ね合いなのか、それともライターさんのエロ妄想が貧弱なのかは知らないので、僕は先の仮説に立たないとは言っておくけれども、
それとは別に、僕はこういう「おさない魅力」を持ったヒロインが「恋人になるので成長しなきゃ」話はあんまし好きじゃないんである。倫理的または一般論的には正しいかもしれないけれども、
プレイヤーまたは主人公は、そういう「おさない姫兎ちゃん」に惹かれたのであって、それが恋人になったという理由で成長消滅してしまうならば、それって本末転倒じゃないかとはいつも思ってしまうのだ。
だが、このシナリオはその点で「妙に凝っている」ところはあり、人によってはそれが魅力だという人もいるだろうし、僕も「軽い仕掛けを使ってコメディ」として描こうという意図は解るし、
なるほどそういう「無駄に凝ったコメディ」としてはそれなりに面白いのは認めるものの、しかし「エロ」と「イチャラブ」をきちんと描けているのかと言う点においては、器用ですなぁというのが最上級の誉め言葉となってしまう。
一応ライターさんが仕組んだ仕掛けをネタバレするのもイクナイとは思うので、肝心なところはボカしてそのプロットを記述するなら、主人公と恋人になった姫兎は主人公に美味しい料理を食べてもらいたいと、
主人公に料理を教わることになるのだが、これが一向に上達せずに、何度どんな初心者向け料理を作ったところで、出来上がるのは希望の党でしかなく、その度に糞飯ヘブンに旅立ってしまう主人公は、
とある休日の朝、ついに糞飯を食べたあとリアル死亡の危機に!…と言うお話で、まぁこの直後に「な、なんと、そういうオチだったのかぁ」が待ってるというお話で、ヒントは叙述トリックエロシーンではある。
が、僕にとってこのシナリオの評価は、そうした「叙述トリック」のシナリオの完成度やその評価とは一切が無いんだな。どちらかと言うと、そういうシナリオを「この作品でやること」自体の問題だとは言える。
このシナリオは、そうした「叙述トリック」を基本的に除いた場合、そこで行われていることは、一応は主人公と姫兎が料理の勉強をしながらイチャラブしていくという展開にはなっていくわけだが、
とはいっても、上のプロットを見ればわかるように、また先の「叙述トリック」を作動させる都合上、そうした描写はダイジェスト気味と言うか、まいかい料理をするのに何故か失敗するというコメディ描写となるだけで、
実のところ、きちんとした主人公と姫兎の恋人描写がきちんと描かれているとは言い難いし、このような「ミステリー主導」のシナリオは、そもそも今作でいえば「姫兎の糞料理はなんで毎回糞飯ヘブンになるのか?」という疑問を、
ユーザーにより強く意識させてしまうし、実際そのようにシナリオは進んでいくので、これは糞シリアスとかシナリオがイチャラブを邪魔をしているというよりも、ライター氏には初めから恋人生活を書こうという意図なんざ薄いわけだ。
もちろん、全てのエロゲに「イチャラブ描写が絶対に必要だ」という決まりはないので、無いなら無いでそれはそれでよろしい。じゃあ、その代わりに何があるのかと言えば、器用めいたコメディ叙述トリックしかなく、
そんなものがこの姫兎ちゃんに必要であったかと言うと、僕は結構疑問には思う。
また、この「エロシーン」においても、このシナリオはエロシーンを生かしているように見えて、実は全然生かし切れていないのが問題だ。
確かにこのシナリオは、あるエロゲのエロシーンのある種の「慣用的表現」を叙述トリックに生かしていて、それ自体のアイデアは大したものだと評価して良いだろう。
でも、エロゲのこうしたシナリオを矢鱈に評価する人たちに抜けているのは「このシナリオでそんなことをやる意味があるんですか?」という問題である。え?まさか「アイデア」だけで評価っすか?
要は、その糞飯ヘブンであったり、またはエロシーン演出を用いた叙述トリックといったものが、姫兎ちゃんというヒロインの魅力なりエロなりを描くのにちっとも役に立ってはいないのだ。
その叙述トリックにちょっと触れるような真似になるが、そんな叙述トリックでそうした時間を隠蔽しようとするよりも、実際にその時間を全て作中できちんと描いて、
結果的に読者がそれに全然気づかなかったくらいのことをエロゲはきちんと目指すべきで、やれエロゲという演出をちょいメタ的に利用してみたましたみたいな猪口才を大仰に評価するような一部の連中がエロゲを衰退させるのだと言いたくなる。
この点をちょい詳しく言えば、僕は一言コメントでこのシナリオを「エロシーンが物語とは関係ない」とは書いた。ここで僕は「良くも悪くも」といったいように、それ自体がエロゲとして駄目だというつもりは全くない。
でも、こういう「エロシーンを叙述トリックに使っているから、きちんとエロシーンを作品に取り込んでいる」みたいなものは、それは猪口才のひとつとして使っているとは言えるが、物語とは大して関係が無いという点では変わらないし、
キッツイ言い方をするなら、これは寧ろ「マイナス」だとも言うことだってできる。だって、このテクニックは、偉そうな人が説明するように「読者の作品に対するメタ意識」を刺激することによって成り立っているわけで、
もしもその人が昔懐かしの「~教室シリーズ」の大ファンで、僕は作者にヒロインが寝取られないと抜けません!といった超特殊性癖の持ち主であるならその主張は認めよう。
だけれども、ふだんはメタでも何でもないべたなエロシーンに興奮しておいて、じゃあこの作品は「メタな作品だから、エロシーンもメタ的に見るべきで興奮するべきものでない」みたいなことを言うつもりなのだろうか。
これだからこの手の「メタなんたら」はエロゲにおいて最早何の発展も余地も無くなっているわけだ。メタというのはベタがあって初めて存在するわけで、単にメタだけのメタは中国雑技団めいた技術の誇示以外の何物でもない。
まぁ以上は「シナリオそれ自体に対する悪口」というよりも「叙述トリック」みたいな猪口才を矢鱈に評価するメタ馬鹿野郎に対する怒りが先立っているので、こうした点を除けばというか、
べつだん、上のようなシナリオそれ自体も「そんなに」は悪くはない。適度なスピード感もあるし、作者の方はたぶんこうした猪口才技をコメディチックにしか使っていないので、シナリオそれ自体はきちんと分を弁えてはおり、
共通ルートの姫兎ちゃんに特に思いいれのないひとには「普通に楽しめる」シナリオであるし、僕だって「B]評価くらいには悪くない「小粒なシナリオ」だとは思っている。
それに、このライターさんの、以下のコメントは全くその通りで、別に馬鹿にしているわけでも、他のライターさんを贔屓にしているわけではなく、本当にこのコメントの恐縮はその通りだなぁと同情している部分もあって、
事実残りの三つのシナリオは、どのシナリオも尋常ではないお話に仕上がっているので、このライターさんがある種の「異常技」を駆使して何とか張り合おうとしたのも、結果は兎も角として、その意図は仕方なかろうとは思う。
>今回ライター陣が本当にとても豪華でして「私が居て大丈夫か……?」と思いながらお仕事させて頂きました。
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(3)「そ、そんな……あぁ、素敵だ……」
もちろん、猪口才という点にかけては、この「暁乃」を担当した藤太さんに右に出るものはいないではないか?という反論だってあり得るだろうが、僕の語感としては、藤太さんは猪口才というよりも「如才ない」というか、
小回りが利くというか、基本的にスキのないシナリオを描くんだけども、そうした「スキのなさを目指している」というよりも「隙の無さから生まれるような、ある種の隙」それ自体を描こうとしているところがあって、
その「スキの無いシナリオ」の表面的な完成度はもちろん評価はできるんだけども、そこから微かに漏れ出すような尿漏れパット破るが、個人的にはとても印象に残る作ライターだという印象があり、
この作品はまさにその通りの作品で、僕としては「大満足しました」という他は無く、そういう意味では、自分勝手な理屈としては「まことに語りがいが無い」という贅沢な悩みすらあるわけだ。
まぁあんましライターさんを褒め上げて、信者認識されてしまうのも、全うな評価を妨げてしまうという意味でライターさんにとっては失礼だとは思うので、ここでほんの少し毒づいておくと、
この作品の共通ルートから言えば、いちばん「個別ルートを書きやすい」ヒロインが暁乃であることは、エロゲ初心者がみてもこれは明らかではあると思う。僕の感覚では、
(優しい) (普通) (難しい)
暁乃>>>>>>>姫兎>>>>>>>>>瀬莉>>>>>>>>>>>>>>>鏑城
くらいの違いはある。暁乃はある意味で、個別ルートのありとあらゆる伏線が共通ルートに置かれているようなヒロインで、あらかじめ「どの範囲まで動かすことが出来るのか」が結構きっちり定まっているヒロインである。
この作品の個別ルートのうち「いちばん予想がつきやすい」ヒロインは暁乃シナリオだろう。そこで細かい綾を馴らしてシナリオを面白く見せているのは藤太さんの手腕ではあるが、
しかし「暁乃姉さんがマゾ豚で、主人公がお姉さんを調教していくようなお話になるんだろうなぁ」みたいな大まかなプロット展開は、この作品ではこのシナリオが一番予想しやすい。まぁ他が予想がしにくいこの作品自体が異常なのだが。
その予想のしやすさは、共通ルートにおける暁乃のポジショニングからも明白で、まず物凄くベタな構図として「こんな怒り突っ込みキャラのねえさんをエロくするためには、反転してメス豚にするしかないよなぁ」っていうのがある。
それくらい、この暁乃さんはたった一人で「作品内の良識」を保っている、唯一の突っ込み役だったのだ。
瀬莉は普段はマトモというか、計算高くマトモに振舞っているだけなので、マトモじゃなくていい時には最高にぶっ壊れてしまうし、姫兎ちゃんも根が善良なだけで頭はパーだから微妙に一般常識は通用しないし、
鏑城ときたら終始考え行動しているのはいつだって「おなか減った」でしかなく、このアナーキーな空間に人間として最低限の常識を通用させるためには、暁乃ねぇちゃんがカミナリを落とすしかないわけだが、
これは別に担当ゲンガーや、声優さんの悪口と言う意味では全くないということを明確にしたうえで発言するなら、そんな暁乃ねぇちゃんは、瀬莉ちゃん風に言えば「正論だけの糞BBA」にしか見えないし、
そこで突然に「実はわたしはマゾ変態だったぁ!」と告白されても、主人公としてもユーザーとしても「ひぃぃ、そんなこといわれても~」と言った感じで、共通ルートの暁乃ねぇちゃんは、
シナリオが正しくそのように要請しているように、異性的な魅力は殆どないと言えて、これが正しく個別ルートの暁乃ねえさんの「自信の無さ」へと接続する。
>「ねぇちゃんがいつもいちばんなのは、おねぇちゃんがいつもいちばん頑張ってるからだよね?」
私が一番だからじゃなくて、私が頑張ってることを褒めてくれる。認めてくれる。
…日向…日向…
大好き。
「んっ、んんっ?夢?…なんだ、今さらだな」
これは萌えゲの偉大なるテンプレ伝統である「恋の目覚めは誤解から」と言う主題であるが、そこにこの作品は「性の目覚めは転倒から」を付け加えるものの、
そこをこのシナリオは解りやすくは語らないというか、ある意味では暁乃ねぇちゃんがわかりやすくシバってしまうがゆえに、ある意味ではシナリオの狙い通りに「近親相姦の抑圧=SMにおける抑圧と解放」のようには見えてしまう。
もちろん、この表面的な読み「も」正しいのであって、確かに暁乃ねぇちゃんは精神的にも肉体的にも「自分を縛って」おり、そうした「自分を縛ること」それ自体に快感を得ているとも言えて、これは正しく近親相姦快楽に繋がるものの、
ここで重要なのは、別に暁乃ちゃんは「近親相姦それ自体を悪いもの」だとはちっとも考えはいないという事だ。
それじゃあ、暁乃ちゃんは何に縛られているのかと言うと、それは「良いお姉ちゃん」という主人公である「日向が理想としていると暁乃が勝手に妄想しているお姉ちゃん」像によって縛られている…と言いたいところではあるが、
この「縛られている」という普段は否定的な意味合いを持つこの現象が、この暁乃ちゃんにとっては性的快感なのも事実であって、そのような自分の理想我というよりも「脳内主人公が要求してると思ってる妄想理想我との脳内交渉」そのものに、
やや抽象的に言えば「色々と応えること」そのものが快感なのである。なんでこれが具体的に「脳内主人公にに罵倒されることが快感だ」とか言えないのかと言えば、もちろん(脳内自分)罵倒もある種の「プレイ」の一環としてはあり得るだろうが、
それは別に「脳内主人公に自分の価値を否定されたい」という欲望があるわけではない。そうした「脳内主人公と脳内理想我」という脳内劇場を通じて、主人公と触れ合っているような妄想にふけることそれ自体が快感なのであって、
それが脳内妄想を飛び越えて、自分の身体と現実世界において具現化すると「自分の身体をそのまま縄で縛る」という爆発反応装甲になり、精神的には立派な権力者になって近親相姦を合法化させるような「立派なお姉ちゃん」になりたいと化すが、
そうやって自分が自分で性的オナニーに興じているだけに過ぎないことも、このお姉ちゃんはきっちりと自覚しているわけで、それを自覚すればするほどに脳内日向の罵倒軽蔑は強まり、ますます妄想罵倒により姉弟の絆縛りオナニーが捗る捗る。
こういう文脈がある以上、この暁乃ねえちゃんの前半戦は「瀬莉VS暁乃」という戦いになるのは痴情の定めではある。そして、こんな勝負は勝負にならず、一方的に瀬莉ちゃんにフルボッコされるだけなのも目に見えすぎて実に爽快ですらある。
自分のオナニーをちっとも後悔せずに公開することすら厭わずに、むしろそのオナニーをリアル実現する為には現実世界においてありとあらゆる破壊を尽くすことが出来る瀬莉と、
自分のオナニーをちっとも公開せずに後悔することがこれ即ち快感となって、口では近親相姦を合法化させると言いながらも、それを未来の言い訳にして今はちっとも主人公にアピールすることすらできない暁乃。
なるほど、これがもしも「あぶのまーる」抜きのガチな恋愛話だったら、一敗地に塗れたこの暁乃の台詞――
>「けど……それでも悔しくて、悲しくて……くぅぅッ」
「気が付くと、自分で自分を」
以下の台詞については完全にネタバレなので、未プレイの人は是非この衝撃の真実を楽しんで欲しいものの、まぁここまで説明すればわかるだろう。この暁乃ねぇちゃんは真実の悲しみですら強烈なギャグになってしまうのだ。
だけど、それが故に、暁乃は瀬莉に勝つことが出来て、しかもこの勝利の要因は瀬利シナリオにおいて瀬利が本当に勝ってしまう理由と同じであるというのも、きちんとシナリオを読み込んでいて素晴らしい。この二人、実は結構似てるから。。
さて、こっから先は、主人公と暁乃の調教物語が始まるのであるが、これについてはあまり語るべきものは無いというか、ある意味で他のシナリオ以上にネタバレ満載なので、此方としてもそのギャグを破壊するのが気が引けてしまうのだ。
別段プロット自体はこんなふうに「主人公と結ばれた暁乃であったが、主人公の愛の調教を受けながらも、自分の母親がこの近親相姦を認めるのかどうか悩んでいる」みたいにネタバレしてしまってもいいし、
その最後のオチだって「かあさんは泣いて外国に旅立った」とネタバレしてしまってもいいのだ(まぁここでもわざと必要な情報はボカはしてはいるんだけども)。
それでは、それ以外にどんなネタバレがあるのかと言えば、例えばこんな主人公の台詞とか…
>「とはいえ、あらゆる性癖を網羅してきた僕だけど、まさかその知識を実際に試す日が来るとは…ふっ」
これはギャグという点では、この台詞をここでネタバレしてしまうのは非常に惜しいわけだが、シナリオ展開としての「主人公がお姉さんを調教することを決める」ネタバレは、全くこのシナリオの面白さを損なうものではない。
もちろん、これは「テキストそのものが面白い」というような、エロゲレビュー七つの大罪の一つであると勝手に僕が決めている「センスのよさ」(この言葉を使いまくる連中は絶対にセンスが無いと断言してもいい)」」ではなく、
このシナリオでいえば、主人公が暁乃とイチャイチャしながらも、同時に調教を進めていくときの、まぁ当たり障りのない表現をあえてすれば「愛の調教」における絶妙に細やかな態度の使い分けが物凄く面白くて、
上の文章のように文章そのものが面白いというよりも、えっ、そこからご主人さまモードに入ってしまうの?みたいな、何気ない日常のイチャラブ描写が少しずつ変態調教モードへと移り変わるそのスイッチの切り替えが実に巧妙なのだ。
>「ごめん……あんまり、ねえさんが可愛いから、ねえさんのことも食べたくなっちゃってさ」
「ひ、日向……う、嬉しいが、すごく嬉しいが……ううっ、今は……お昼を食べる時間で、はぁ、はぁ」
「だったら、食べ終わるまで‘おあずけ’だね」
いちおう、このシナリオでは、主人公が暁乃に対して「ドSに振舞う」とは言っているが、上の台詞からわかるように、この「ドS」っぷりは、一般的な「ドS」とも違っている。
こういう時に便利な表現は「愛情がある」というもので、それは当然その通りではあるが、それではこの主人公はどのような愛情をもってドSとして接しているかと言う点は、実はそんなには語られないところが効果的で、
例えば、上のやり取りにしても、主人公が「最初からすべて計算済みで、暁乃がこういう態度を取られると喜ぶ」と思ってやっている、みたいなモノローグは最小限に留められており、、
ここでは、一段目が普通に恋人として甘えようとして、三段目からご主人さまモードに入ったのか、それとも、一段目からご主人さまモードとして、ショタ主人公的に暁乃を誘惑しようとしていたのかは判別がつかず、
ある程度は自然に弟としてお姉ちゃんに素直に甘えようとしながらも、同時に「ちょっと意地悪く」お姉ちゃんを困らせて自分の思い通りにしようとするような、子供の気まぐれで無邪気な全能感のようなものを暁乃にぶつけて、
暁乃は暁乃で、このショタっぽい主人公の可愛さに悶えながらも、その可愛い主人公が自分を征服してくれる事にも快感を見出すといったような、両方とも実にてめぇ勝手なエロチックを意図的にか偶然なのかわからない交換をしながら、
>まぁいいか。ねぇさんも嬉しそうだし、なにより、僕もけっこう楽しかったから。
なのである。この「まぁいいか」とか「けっこう楽しかったから」という言葉の正確さが実に素晴らしい。人によってはこういう台詞を「真剣に愛していない」と取るかもしれないが、それは3割程度には合っている。
そりゃ「真剣にSMプレイ」をするなら、完膚なきまでに相手の欲望に答えなくてはならず、その論理的な帰結としては、自らのそういう行為を「真剣に楽しまなくてはならない」とは思うのだが、生憎この二人はそこまでは望んではいない。
もちろん、そういう「深い考えのうえでやっている」わけでも無くて、この二人は、まぁ暁乃ねえさんはかなりマジにマゾ入ってしまっているとは思うのだが、少なくとも主人公は相手の性癖と自分の性癖に「若干引きながら」も、
自分の「ご主人さま」属性が刺激されるとそれはそれで「なんだか楽しくて」やってしまうみたいな「ちょい冷静で常識的なのに、時にはご主人さまを演じ切ってくれる」くらいのヌルさ加減が、これまた暁乃ねぇさんにはツボなのであったりして、
>「日向が、日向が……私好みのいい子に育ってくれただけではなく、うう……んぅ
秘め事の中では、ドSに、なることも……できる子とだったなんて、ううっ、いったい……どこまで、私好みに育ってしまったんだぁ」
主人公がエロビデオで一生懸命自慰習して主人さまプレイを自然に身に着けたのも、べつに暁乃ねぇさんの教育のたまものではないので、ねぇさんが感激するのはちょっとおかしいのだが、
そんな夢と言うか淫夢でしか思わなかったものが、まさにいま実現しているというのは、僕でいえば庭がついに完成するようなものだから、それはそれで感動もひとしおだろうし、
主人公としても、別に「ねぇさんに認められて嬉しい」というわけでもないんだろうが(だって変態性癖だしなぁ…)それでも、今まで自分の前に見せなかったマゾ豚姉さんは、
それはそれで結構可愛いし、ねぇさんが無理をして自分を苦しめるよりも、自分が姉さんにちょっと意地悪をして、ねえさんが喜んでくれた方が、自分も楽しいし姉さんも気持ちよさそうだし、
>ふふふ、こうして一緒のお布団で寝るのは、日向が保育園を出て以来だな。
全ては結局こういうもとの鞘に戻ったと言う話でしかないので、子供の頃のえっちないたずらのように、弟はご主人さまを演じて、お姉ちゃんは愛奴隷を演じて、しっぽりセックスしまくった後はお休みなさいと淫夢の終わりは現実に続き、
そうして最後に待ち受けるのはこのシナリオで「最強のラスボス」に立ち向かう勇猛果敢なチャレンジであるが、家族愛はそこでも不条理で一方的な勘当じゃなかった感動を二人に突き付けて、あっさりとフィナーレを迎えてしまう。
全てはコメディのようでいて、でもどこか妙に現実めいていて、なるほど確かにトントントン拍子で話は進んで全てがひょいとスムーズに繋がっているのだけど、話の内容をよく吟味すれば、それは単に偶然すべてが上手く行っていだけみたいだが、
そのことについて登場人物もユーザーもきちんと納得するというか、そもそも納得とか説得とか誰得とか「得」を採算度外視した近親相姦愛と変態性癖についての話だと思えば、僕らのご主人さま属性の「徳」も高まりそうなお話であった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(4)「……聞こえた。やっと」
>面倒。
朝比奈は全身から、凄く面倒で耳障りな音を立てている。
正直、めんどくさい。
でも、この変な音はもっと面倒で、嫌い。
だから
「今度は鏑城さんですか……なんですか私にせっきょ―――」
「音」
「え?」
「朝比奈。今、すごく嫌な音だしている。耳障り」
「わ、私が耳障り!?どういうことですかっ!?」
「うるさいし、汚い」
「なっ、こ、これは少し汚れているだけで、顔を洗いさせすれば――」
(中略)
「でも、今は嫌な音。周りにも迷惑。なんとかして」
「なんとかって……何を言っているのか全然わからない!」
朝比奈の体と心から不協和音が飛び散って、部屋中に充満している。
近づくのも面倒くさい。
「よくこんな音を出す女に手を差し伸べようとする」
「え……?」
「普通なら、今の朝比奈に誰も近づかない」
ご覧の通りに、鏑城の自分のシナリオ以外の位置づけとしては、基本的には「オチ役」というか「オチがつかないという事を示すオチ役」とでも言うべきものであり、確かにどんな揉め事が起きても「おなかが減った」と他人に言われては、
そうだまずは飯を食わなきゃ全ては始まらないと言ったような常識的認識が脳裏に浮かび、今までの色んな揉め事はいったん「保留にされる」ので、本人自体がさしてこの鏑城のように可愛くなかったとしても、腹ペコキャラは癒しとして機能する。
とはいっても、上の鏑城は本人以外のルートとしては、やや例外的な振る舞いをしており、けっこう「鏑城らしくない」言動&モノローグではある。例えば別の鏑城らしいシーンを引用するなら、
>怠惰女は顎をホウキの尻に乗せて、ぼぉっと空を見ていた。
「掃除終ったな」
「無駄。やらない」
「外。埃いっぱい。掃除しても、すぐ落ちてくる。すぐ汚れる。やってもやらなくても同じ」
こ、この女。本当にそう思っている目だ!
「あのな……掃除は無駄じゃない!」
「全く掃除しなかったらどうなると思う?」
「埃まみれになる。でも、死なない」
「埃まみれの店と、埃まみれじゃない店があったら、どっちにお客は入る?」
「味が良ければ気にしない」
この両者の違いがきちんとわかる人は、鏑城が好きになれるかどうかはさておくとして、彼女の一行動や一言動について興味深く見守ることはできるだろう。
そこで「こいつは単なる自分勝手な女じゃないか」としか思えないような人は、それはそれで僕もそういう人とは、きちんとエロゲ対談して「じゃあ瀬莉ちゃんと何が違うんでしょうかねぇ」と意地悪な質問をぶつけてみたくはある。
但し「こいつは単なる自分勝手女じゃないか」というのは、まぁ正解と言っても差し支えない。そして瀬利ちゃんとの違いはと言えば、瀬莉ちゃんが自分勝手に周りの環境を利用することが出来るという意味で、見栄っ張りだとしたら、
この鏑城は、他人のことには「音と料理」以外には大して興味がなく、さらに瀬莉ちゃんのように自分にも大して興味を持ってないので、自分勝手の「自分」を抜かして「勝手に振舞っている」と言えば80点前後の点数は取れるだろうが、
そこで問題になってくるのが、最初の鏑城の引用ではあって、どうして「勝手」な人間が「他人の不快な音」を無視できないかという難問は出てくる。そんなに適当にスルーすればいいじゃないか。「自分勝手」ならば。
やや世俗のお話をすれば、世の中には「謙虚でモノを言っているつもりでも、凄く自分勝手でしかない理屈」を捏ねる人間と言うのがいて、そういう人が自分でも他人からも「謙虚な人間」だと思われている地獄があるわけだが、
別に鏑城が上でそのようなことを言っているというつもりはないにしても、ただ、それに近い場所に近づいてしまっているということが、鏑城をここまで不機嫌にさせているとは言うことが出来る。
例えば「自分だって怒るのは嫌なんだ」という、それ自体はそれなりに日常的に置いては妥当な慣用表現はあり、いちおう、普段怒ってばかりだと思われている僕でも、よくそんなこと恥ずかしげもなく言えるなぁくらいには理解できる。
なんで怒るのが嫌なのかと言うと、まぁそれ自体はその状況において色々な理由があるとしても、他人に対して「怒る」というような行動以外は取れないという状況そのものが、自分にとっては不条理に感じられるので、そこが辛いのだ。
その「怒り以外は取れない状況」が何に起因するかは、それはその状況によって違うので、ここで「怒る事以外ができない自分が悪い」とか言い出したら、それは言葉の正しい意味で単なる自己中心主義者であるわけだが、
その理由が「自分」であれ「他人」であれ「世界」であれ「不条理」によるものであったとしても、どちらにしてもそこで「怒る」事しかできないというのは、その問題をクリアに認識することを妨げるという意味で、実に如何ともしがたい。
もちろん、そういう状況は必ず発生するので、怒っていることが悪いとも言わないし、また怒りを発することが問題解決を「常に妨げる」わけではないので、客観的にはそれが必ず悪いとは言えないが、主観的には快い情況ではないだろう。
それでは、ここでの鏑城は何に苛立っているのだろうか。まず表面的にはと言うか、第一要因としては「瀬利と主人公が発する嫌な音が嫌いだ」であり、これについては後に後述するものの、
基本的には「なんだか雰囲気が悪い」と言い換えても差し支えはない。だから、ここで瀬莉ちゃんがマジレスしているように「それだけの自分勝手な理由でよくそんなことを言う」は結構正しいわけだが、
しかし本当にそれだけの理由だったら、二番目の引用の鏑城のように「面倒くさい。煩い」だけで適当にはスルー出来るわけで、鏑城が不機嫌な理由はそれだけではない。
まず、一般論的には、この手の話は真相は「なんだか雰囲気が悪いという理由だけで相手を批判するのも、それはそれで理由が薄い」とは解っているからこそ「キモイ」みたいな言葉が出てきやすくはなる。
つまるところ「キモイという(感じる)自分も、それなりにキモイ」という事情があるわけだから、その第一要因たる「キモい」がさらにそれで相手を批判する正当性が弱さを生み出し、それがますます腹が立つというのはある。
鏑城がここで感じている不機嫌さもそれに近いところはある。
まず第一に「相手の音がキモイ」というのはあるにはあるが、だけど、それを直接的に相手に伝えることに正当性が無いということで苛立っている(そういう意味じゃ鏑城は世間の正当性なんて気にはしないだろう)わけではなくて、
その「相手の音の気持ち悪さ」以上に、自分がそれを相手に伝えていることそれ自体に、何か気持ち悪いもの、あるいは自分にとっては物凄く居心地の悪いものを感じて、そのことに対して苛立ってはいるのだ。
参考までに、姫兎はそれについて「だってせっちゃんと私は友達だしー」とはいって、暁乃は「主人公を通じた関係者」だとはいっているわけだが、そのあとに鏑城にこんなことを言わせるライターさんは、実に優しい人なのだなぁとは思う。
まぁ僕としては、基本的に鏑城の態度に最も共感できる。
恋人ならともかく、単なる同性の知り合いに「友達だ」とか素直に言えるようなタイプの人間は少なくともエロゲオタに相応しくなく、お友達を大事にする暇があったら積みゲを崩すべきであろう。
さて、以上のような「個別ルート」以外の鏑城を、どうやって個別ルートの「メインヒロイン」として描くかは、かなり難しい難問ではある。
もちろん「個別ルートでは人格改造デレ」という暴力をふるうという手段はあり、これはこれで別に悪いことではなく、ある意味で瀬莉ルートにおいては、そういう「ちょろさ」が救済となっているし、
今のソシャゲとガチャに嵌っているようなエロゲオタ?の諸氏には「ちょろいん」の元気を分け与えてもらった方が良いとさえ思う。単なる共同体惰性でソシャゲをやってる爺よりクルクル人格が変わる軽薄野郎の方がオタとしては正しい。
そして、こういう「人格改造デレ」において失われるものと言うのも、この鏑城ちゃんというヒロインにおいては、あまり明確ではない。
そういう「人格改造デレがいかん」みたいな人のことをいう人は、そのヒロインの人間性やら人格やらの「尊さ」みたいなことを言うわけだが、この「尊さ」という文字自体が流行りによって一挙に尊くなくなったように、
「尊さ」みたいなことを言う人は、単にその言葉を言って自分の感情をすっきりさせたいだけのことが多く、その「ヒロインの人格の尊さ」とやらをきちんと考えて、文字にしたことなんか殆どないというのがゼロ年代の教訓ではある。
この鏑城の場合、個別ルート以外においては、そのような「尊さを感じさせる何らかの一貫したもの」は「おなかへった」でしかなく、それ以外の鏑城の意思やら感情やらは「よくわからないなぁ」以上のものは特に感じさせない。
だから別に、それを「人格改造デレ」というのが適切かどいう話はさておくとしても、担当ライターのほずみん氏がこのように書いていたとしても、
http://tortesoft.nexton-net.jp/abunoma/ouen_illustcomment%20_3.html
それはそれで「まぁ妥当だよなぁ」とはおもってしまうのだが、如何せん、別にほずみん氏は意図的にそうだと思ってやっているわけではないだろうが、これは結果的に罠になってしまってはいる。
別に過大広告だとか嘘をついてるというレベルではないのだが、少なくとも上の文章が伝わってくるようなシナリオ内容とは、コカコーラとジンジャエールくらいには異なっている内容にはなっており、
別にこれも嫌味ではないのだが「苦戦しつつ執筆していてとても楽しかった」のが、個人的には一番伝わってくるような内容にはなっていて、その次くらいには
「鏑城相手に苦戦しつつ苦戦するのがとても楽しかった」と思えるような内容にはなっているとはおもう。
とはいっても、これはいわゆる「めんどくさいヒロインが好き」という、まぁあくまで僕の個人的な意見を言わせて貰えば、単なる自分の怯懦を尤もらしく言い換えているだけの自作自演繊細シナリオではなく、
シナリオ全体はけっこう「面倒くさい」展開にはなっているものの、その面倒くささは、鏑城の特異な性格にあるというよりも、解くい過ぎる性格にあると言ったらそっちは瀬莉ちゃんであって、
強いて言えば鏑城の癖っ毛を梳くのに主人公が慣れるまでの時間それ自体が、いろんな試行錯誤に充ちているという意味で面倒くさいとは言えるが、いったんその梳き方がわかったらあとはけっこうスムーズに流れていき、
どちらかというと「甘い言葉とおいしいものとちんこ」でメロメロにするというよりも鏑城の「唐突なセックスと泣きべそと貧乳」によって此方が知らぬ間にメロメロにされていくと言った方が正しいだろう。
それはヒロインの「めんどくささを理解した」からメロメロになったというよりも、単にその癖っ毛に悪戦苦闘しながら、そのうちにその梳き方を覚えてしまった全ての時間が愛おしく思えてくるという話だとは思う。
別にこのシナリオは「糞シリアス」を演じるという話ではないが、しかしまぁ「この作品の中では」という相対評価をしてみるならば「コメディ抜きにシリアス」だと言えるのは、たぶんこのシナリオくらいだろう、
「鏑城の気持ちがわからない」という一点集中において、このシナリオの前半は駆動していくわけで、その気持ち明かにされた時に、ある種の感慨を覚えるというのが、ここで僕が言わんとしている「シリアス」であるが、
とはいえ、別に展開それ自体は「シリアスな雰囲気」は帯びないのは、それはそうしたシリアスな葛藤に必要な固定的な情報が足りないからであり、そしてその情報を得たいという切実さもこの展開においてはそれをブーストさせない。
そういう意味でも、このシナリオも共通ルートの「日常ゲー」の作法を上手く用いている。
鏑城にある人突然押し倒されて、しかも「あぶのまーる」なエッチだけではなくて、本番のナマハゲじゃなかった生嵌めセックスまでしてしまうが、べつだん鏑城はその日以降も、特に此方に対して何も変わらない態度を示しているという、
まぁこれ自体は「それなりにありそうなシナリオ展開」ではあって、これも基本的には「マイペースに自分のやりたいことを追求する」鏑城の普段の行動の通りだとも解釈できなくもないし、
一応はナマハゲセックスしたものの、押し倒されてからの流れだった以上、きちんとしたセックスをしたとは自分からは言えないわけで、ここで主人公はあくまで今までの日常のまま過ごして、
あちらから何か合図は無いのかそれとなく伺い続けるという待ち惚けモードに入るわけだが、依然として鏑城は特に変わった様子も見られないという安倍一強状態が続いてゆく。
いちおう、未プレイの人の為にネタバレしておくと、じつのところこの鏑城は「特に深い考えがあって行動して」いたというわけではないという事実が、最後には明らかにされるお話で、これは意外性と鏑城の性格に綺麗に嵌まるオチではあるし、
>「こんなのはじめてでぇっ……わかんない……っ」
というのが答えだったとしても、そういう答えを聞いてしまった以上は、もう今まで何百回も聴いていた「おなかへった」でさえ、これをそのまま聞き流すのは難しくなり、この鏑城のキャラデザさえとても趣深いに思えてくる。
こういう時は「保護欲をそそられる」というのが、昨今のエロゲ言説の御定まりになっているが、これだと姫兎との違いが分かりにくいので、僕としては古風な言い方にはなるが「寄る辺なさを感じさせる」とはいいたいところはあって、
そういう意味で、この作品のシナリオの恋愛のコアな部分で、ある意味で「萌えゲー」とか「恋愛ゲー」ではなくて「古風な純愛げー」からは始まっていると言ってもいいだろう。
それは、ヒロインを異性として魅力のあるヒロインとして主人公が好きになるという「良い子に良い主人公が結ばれる」お話ではなくて、良い子がどうかは結構怪しいものの、このヒロインは放っておけないと感じさせるのが「純愛げー」であり、
そこから例の「結ばれなかったヒロインは可哀想だ」妄想が共同幻想批評として生み出されてくるわけだが、その点で確かにテン年代のエロゲである今作は正しく進化している。
上に引用したように、別に鏑城は主人公と結ばれなくても、まぁあのように立派にやっていけるわけだし、瀬莉ちゃんにとってはある意味で主人公と結ばれなかった方が、世の中上手く渡っていけたという残酷な平成が明らかになるのだから、
>「わ、私、それも、もっと。名前で呼ぶの、もっと」
この感情を知ることがどれだけ素晴らしいことであるのかを、それだけを知ることが、この結奏ルートのイチャラブ恋人描写の意味であって、それはやっぱり普通のイチャラブ描写とは少し味わいが違うシナリオにはなってくる。
>「だから私もいっぱい、私のこと、小野寺に教えてあげたかった」
先にも書いたように、別に結奏は「面倒くさいヒロイン」ではなくて、何か複雑な性格をしていたり、何か隠しているわけでもなくて、強いて言うならばごく単純に経験と言葉と接触が基本的に足りないだけだから、、
最初のお付き合いは、ごくごく単純に「お互いのことをよく教えあう」ことから始まるのだが、そこは既にお互いエッチもしちゃっているわけだし、主人公の方は好きだと等しいことを言ってしまっているわけで、
単純に愛情表現に不慣れな結奏が子猫のようにというのは欺瞞的な比喩で、正確を期すなら人見知りな小学生のようにおずおずと様子を見ながら主人公に接近を試みるようなシーンを「イチャラブ」といったらこれも嘘で、
この段階では言葉の正しい意味で「ロリヒロインに対するラブ躾」と上から目線で表現すべきだろう。この時点では、主人公と結奏は普通に「対等ではない」という事が重要であって、
その「愛情表現をよく知らないヒロインにいろいろと教えること」という純愛ゲー的な愛情と調教ゲー的な支配欲が入りじまったこの絶妙なバランスこそが「あぶのまーる」なロリ背徳感を際立たたせてくれる。
ここで偽悪的に「いやこれはちんちんで餌付けしているだけだ」とか偽善的に「いやこれは純愛なんだ」と「割り切ってしまう」のはエロゲ純愛変態道の堕落だと言わなくてはならず、
>「もっと、いっしょがいい。うれしいの、いっしょに味わいたい」
というような、このデートイベントで結奏が美味しそうに食べているシンプルなグレープのようなシンプルな感情が、とても甘く味わえるのは、これは当然「イベントそのものの」描写力と言うものではもちろんない。
まず基本的には、鏑城の意図不明な行動と言う前戯があって、次に突然なあぶのまーるえっちというアナル挿入ミスがあって、そうして一連の真実が明かになった後の告白と言う、それ自体は恋愛シナリオのお膳立てがあったうえで、
更には、この「いっしょに味合う」ということが、このイベント単体だけではなくて、今までの日常ゲの土台を利用しながら、どんなに小さな時間でも、エロゲ的に言えば10クリックくらいであっても、
そうしたイベントを時間軸においてきちんと連結させているという事が重要なのだ。
>「朝は判った。今みたいな時、やることが終わって、次にやることまでの間の時」
因みに自分はこういう時は、シューマンの間奏楽章でも聴いているか、自分のティン毛をジョリジョリ剃っていることが多いのだが、こういう「それ自体は特にどうと言うこともない」時にまで、
結奏はすこしでもぎゅっとしたいと近づいてくるという「描写が当たり前にあること」それ自体が、この小さなヒロインの何気ない愛の言葉の破壊力を高めるわけであって、
それもこれも、単にいきなりそういう描写が成立するというわけでもなく、今までの共通ルートにおいて「そういう何気ない」描写を、それこそ10クリック未満のものであっても、確実に時を刻み込んだ御蔭様であるからこそ、
>「私、私、うぐっ、やっぱりそうなんだ、結局こうやって全部――」
その時間が壊れてしまったこの先のことは絶対に言わせないというところが、ほずみん氏の優しさでもあるし、そこをあっさりと言わせてしまう瀬莉ちゃんシナリオとは優しさと世界の構造が丸っきり異なっていて、
結奏のヴァイオリンにはこの物語が始まる昔からこの作品が始まってさらに他のルートに入ってもずっと同じ感情を奏でていたというのは、この作品の中で一番暖かいお話だと言ってもいいだろう。
なのに、どうしてこの僕は「B+」なんていう、結構中途半端な評価をしているのか、何が不満なのかと言う話は、それを展開するのは「エロについて」という後段に回させていただくが、最後のちょっと前の
>「むちゃくちゃに……して……ください」
以降の情事においては、この作品で二番目に滅茶シコさせらせていただいたが、このシナリオがイチャラブシナリオとは言い難いのは、このように実はラストにドラマツルギーとエロとイチャラブが収束する古典的物語構造を採用しているからなのだ。
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(4)「自分がいろいろ好きなだけじゃなくて、私にもそれを要求するなんて、わがままですね」
http://tortesoft.nexton-net.jp/abunoma/ouen_illustcomment%20_4.html
まぁまずは他の三人のコメントに比べると、この丸谷さんのコメントには「全部本当のことを言っている」と言う点を除いて、いくつか言っていないというか、
別にそれが悪いというつもりはないのだが「プレイしていない人にはあまり内容が伝わらない」コメントにはなっているし、これも別に批判と言うわけではないのだが、
ほかの三人が曲がりなりにもエロシーンの傾向を伝えているのに対して、こちらはそれについては全く何も伝えていないというのが、実に面白い対称となってあらわれているように思える。
僕はこのレビューの一言コメントで「誘惑エロヒロイン」と瀬莉シナリオのエロについて簡単に述べたわけだが、丸谷さんがどこまで深い考えがあるのかないのかはよく知らないものの、
このシナリオでは一面では「誘惑エロヒロイン」モノであるのと同時に「そうではない部分」もあって、さらにその両者がお互いに矛盾しないというところがあり、確かにこれを適切に短文で伝えるのは至難の業だろう。
あるシナリオがあるエロシーンの傾向と親和的だ、というのは、今まで語ってきた今作のシナリオで言えば、暁乃や結奏のシナリオが典型的であって、
暁乃で言えば、今まではマゾヒズムを抑圧してきたお姉さんを主人公がきちんと愛奴隷にするというお話は、暁乃と言うヒロインに対する恋愛とそのヒロインに対する性的欲望がご主人さまエッチと言う形で繋がるし、
結奏については、これは後述するようにいろいろと厄介な欠点はあるものの、しかしながら、最終的に結奏が全裸エッチというかたちでなにもかも全てをさらけ出すようなセックスと物語の大団円は綺麗に一致するわけだ。
もちろん、此処の性癖によってはそれが成り立たないという事はあり得るものの、しかしエロと物語の両面においても、あなたが主観的に和姦で抜ける人なのかはさておくとしても、いわば客観的なレベルで、
ある物語とあるエロシチュとの間に、連続性と親和性があるかどうか?という事については、一応了承はできるはずである。その親和性が抜けるかどうか?というのは、それは人それぞれと言うべきではあるが。
一昔前、だいたい3~4年前くらいの頃「誰得寝取られ未遂エッチ」という議論がエロゲクラスタを騒がせたことがあった。まぁこういうのは昔から結構やっている話だとは思うが。
それは、まぁ具体的な物語状況は色々あるにしても、共通点だけあげるなら、寝取らゲーというジャンルではないのに、ヒロインが性的危機に襲われることがあり、しかも最終的には未遂で終わるのは、
これは「独占厨」にも「寝取られ厨」にもまるで得をしないシチュエーションで怪しからん、みたいな話であった。
こうした言説は「ある典型的な物語シチュ」に対して、いかに人々が異なる性的感情を抱いていたり、あるいはそんなことを基本的に全く勃起させなかったりするか?という点において興味深い話であり、
まぁ個人的には、この手の物語シチュには「あーはい、そういう展開っすか」以上の感慨も勃起も特にないとはいっておくが、ある人にとってそれは「最高の寝取られ導入」であったり、
またある人にとっては「最悪の独占NG]であったりするというのが、ある意味でエロゲの難しい所であり、またエロゲの可能性の一つではある。
一応、ここ最近は「エロゲの衰退」がやたらに論じられているので、やや本題から離れた価値で、これについて多少なりの筋道をつけて手短に論じておくならば、
こういう「個々人の性癖」なり「個々人の価値観」の違いを「否定的にネガティブに見て普遍性やジャンル全体の共通性」を無意識のうちに前提していた、今までのエロゲが端的に間違っていたのだと言える。
例えば、上のような話をすると「そうやって、個人の性癖を製作者に押し付けようとする真似は、エロゲの幅広い可能性を減退させて業界を云々」という、まことに阿呆なことが一般論として通ればそりゃ業界は衰退するだろう。
確かに、製作者にとってそういう「個々人の性癖や価値観によって話やエロが通じない」というのは、いささか面倒くさい事態ではあるだろう。故に作者としての愚痴話としては、これは同情されるべきだが、それ以上の正当性は無きに等しい。
この話は単に「自分の性癖と価値観に合う、またはそれを批判しない読者以外には相手をするつもりはない」以上の議論でしかなく、それはそれで別に批判はしないが、そこで可能性やらジャンルの拡張を言い出すのはとんだ馬鹿野郎だ。
何故なら、それこそ「他者の可能性」を排除しているのは、そういうアナタ達だからである。単に自分に快い作品の拡張を「可能性が云々」とか言ってるだけの夜郎自大に他ならない。
もちろん、そこで「他者の可能性を排除するな」とは僕だって言わない。僕だって批評というかたちで「嫌いな作品や性癖」を積極的に排除し、自分の好きなそれを肯定するという、これまた消極的な排除を行っている以上、
新しい可能性田のジャンルの拡張だといった話は、そうした否定や肯定の言説を全く遠慮なく増大させることによって、無限に近い「好き」と「嫌い」の可能性を提示し、それを世界と作品の糧にする以外の方法はあり得ない。
そういう文脈において、先のと同じく、だいたい3~4年前くらいから、昨今同人ゲーやら同人音声作品やらで、昨今性徴著しいのが、これはまぁ色々な言い方はあるし、
どこまでの範囲をそこに入れて、何を入れないのかみたいな神学論争めいた話は出てくるわけだが、広い対象範囲を示す言葉として僕は適当に「誘惑誘惑エロヒロイン」モノという言い方をしている。
これは、別に「そのようなヒロインの属性や性格」だけを示ししているわけではなく、そこに「エロ」という言葉が入っていることからわかるように、きちんとした性行為が物語に含まれることを示す……
と言われても、具体的にそのジャンルについて良くわからない人にはイメージがわかないと思うので、ここでは先の文脈を使って「ヒロインが性的危機に襲われる」ではなく「主人公が性的危機に襲われる」テンプレ展開を連想して欲しい。
そうして、普段のテンプレ物語だったら「そうした主人公の貞操の危機は回避される」という話になるのだが、こうした作品では「主人公の貞操の危機は食べられてしまう」とか「誘惑に乗ってしまう」というのが主なテンプレになる。
その趣向としては、恋人のいる主人公が他のヒロインに襲われたり、逆寝取られされたり、あるいは単に浮気をするだけだったり、サキュバスやその手のヒロインに誘惑されたりと、まぁ色々とはあるわけだが、
大まかなラインは読者の皆様にも伝わったと思う。要は、単に「エッチに迫ってくるヒロインがいる」という話ではなく、実際に「そういうヒロインに陥落または誘惑されてエッチする」というのが最低条件として存在するわけだ。
さて、しかし、この手のお話は、今のところ長編シナリオとして商業エロゲにおいて実現している例は、意外に少ないし、更にこれを「恋愛ゲ」や「萌えゲ」の下に導入するのは至難の業にはなっている。
これはある意味で、寝取らゲと恋愛エロゲと萌えゲが「普通には合わない」と同じような難しさがある。またすぐにこういうことを言うと「可能性を否定するのカー」とか言い出すヴァカがいるのがエロゲ業界の貧困であるが。
これは常識的に考えればわかることである。恋愛エロゲとか萌えゲをやりたい人は、単純にヒロインと少なくとも「寝取られが入らない」普通の恋愛を楽しみたいのであり、確かにある種の変態性癖として、
「こんなわたしでも……」のような「フリーセックスが大好きなヒロインとの恋愛」という話は考えられなくもないが、それが僕が上で言うところの「普通の恋愛」とは異なるだろう。
そのような「普通の恋愛と異なる恋愛シナリオが描ける」という事はありえるし、それはそれで別に作ればいいとは思うものの、そういう作品を「恋愛エロゲと寝取られゲが合わさった」とは普通は言わないものである。
これと同じような意味合いで、べつだん主人公が「逆寝取られ」ながらも、本命ヒロインと付き合うという君が望む変態を描くことはできるだろうし、そういう作品が出たら僕は是非にやりたいとは思うものの、
これはこれで、作品として完成させるのは凄く難しいと思われる。仮に「逆寝取られた」あとも本命ヒロインと付き合っているのであれば、それは単に「逆寝取られ展開」を薄く引き伸ばしてるだけという事になってしまうのだから。
「エロとシナリオが合う合わない」と言う話が難しいのは、話としては成立しても、エロとしては逆効果であったり、エロとしてはその物語が効果的でも、その物語は物語としてはこれ以上続けることが難しいと言った困難ではある。
例えば、こうした「誘惑エロヒロイン」シナリオを、色々と上手く弄って「純愛シナリオ」とすることは、実のところそれほどは難しくはないと思うが、しかし物語の連続性としての「誘惑エロ」は破壊されるだろう。
つまり、仮にAヒロインからBヒロインに逆寝取られされて、その後いろいろあって、Aヒロインの下に戻るみたいな話を凄い完成度で描けたとしても、僕の愚息としてはBヒロインに逆寝取られた物語に冷や水をぶっ掛けられたような気分にはなる。
しかし、逆に「単にAヒロインからBヒロインに逆寝取られた」だけと言うお話それ自体がエロチックならば、それ以上のお話は特に必要ないということになってしまって、故に同人エロゲや同人音声作品がこの手の作品の主戦場となっている。
まぁこの作品からすると余談になるし、これは別に誘惑エロヒロインだけの話ではないが、ことに同人エロゲにおけるエロ表現でいうと、こうした困難に大して「ゲーム性」を用いているということは指摘しておこう。
つまり「何らかのジャンルエロを「一本道の物語」の紙芝居ADVにおいて複数投入するのではなく、例えばエロRPGなりといった、それ自体は「一本道の物語」であることが多いが、そこにプレイヤーのゲーム性における能動的選択肢を配置し、
そうしたゲーム性のリアリティとの操作において、例えば「サキュバス敵キャラにレベルドレイン」といったシチュから小さな物語を無数に生み出すことが出来る。とはいえ、これも基本は短編物語におけるエロとそうそう変わらない。
それでは、この作品はどのようにして「誘惑エロヒロイン」と「萌えゲ的な恋愛シナリオ」を前者を殺さない形で接続しているのだろうか?
この問いに答える前には、まずこの作品の前者の部分について、瀬莉ちゃんの清楚ビッチっぷりを紹介せねばならない。まぁ、まずはサンプルを引用するならば、
>何を悶えているんですか?下着を見ているだけなのに。まさかエッチなことを想像なんてしてませんよね?
>だって……デザートは瀬莉が欲しいって言ったじゃないですか」
>「そのかわいい口で今夜何をさせようか、とか言わないでください。もう大胆なんですから」
>「えー。そんな皆さんの前で恥ずかしいですぅ♪」
>「ふたりではぁはぁしましょう♪ はぁはぁはぁはぁ、んっ、も、もうしんぼうたまりません!」
なにか凶悪なノイズが混じったと思われる方もいるかもしれないが、それがノイズではないことは後で語るとして、上の台詞だけでは「誘惑ヒロイン」と言うよりも、単に「あざとく」て、
古い言い方ではあるが「ブリっ娘」ヒロインではなかろうか?と思われる方もいるかもしれないが、そこで最後の変態気味な台詞の意味が明らかになってくる。
表面上の日常生活上では、最初の引用のように「エッチなことを間接的に匂わせて、主人公を誘惑しながら」も、その瀬莉ちゃんの性欲がピークに達すると最後の引用のように変態化するわけだが、
後者は前者の「上っ面のあざとすぎる誘惑ヒロイン」を棄損しているように見えて、実は「半ばギャグ」に見せかけながらも、わりと誘惑エロをブーストさせているといってもいい。
もしも、これが完璧に「小悪魔ヒロイン」として、主人公を落とすためにそのような「あざとさ」を演じている(もちろん、これはこれで僕はかなり好みな趣向であるが)場合には
それはそのようなシナリオの定めとして「エロへの期待」は、ある種の射精管理シナリオのように彼方に遠ざけられることにはなる。「エロで釣る」が明白な場合には、そのエロが中々実現しないことも同時に明白となる。
だけど、この瀬莉ちゃんの場合、ある意味でそれが彼女の唯一の美徳とも言っていいのだが、彼女は「わりと性欲を抑えきれない」と「主人公を自分の性的魅力で誘惑しようとしている」が同居しているので、
ユーザーとしては「このヒロインならいつ本番誘惑エッチがあってもおかしくないなぁ」と常にエロ期待を高めておくことが出来るわけだ。
もちろん「誘惑エロヒロイン」ものには、いくつもののやり方があって、そういう風に最後までエッチをじらし続けるシナリオがあっても悪くは無いし、そっちの方が好きだという人間もいるだろうが、
そういう風に「シナリオを優先する場合」には、ユーザーは「ああ、これは最後までエッチしないタイプなのね」を分かってしまうという弱点もあって、これが「エロとシナリオの融合」の難しいところではある。
さらに、こうした「瀬莉ちゃんが変態性欲を隠さない」は、前述したように色々な伏線があるわけだが「誘惑エロヒロイン」という趣向に限定して言えば、
そのような下品さを敢えて隠さないというのは「エロへの期待」という、まぁエロゲであってはそれ自体はさして悪いことではない性的欲望に対して、絶妙な背徳感をも与えることができる。
これで、瀬莉ちゃんに「ちょっとはまともな善良っぽい人間的なところがあった場合」には、実のところこの瀬莉ちゃんは、他のヒロインと同じく「主人公を純粋に愛しているだけ」と言うように見えてしまうのであって、
あまり「誘惑エロヒロイン」っぽくならないわけだ。だから、ただ単に「自分の性欲を単に満たそうとしているだけかもしれない下品なヒロイン」に「見えるかもしれない」という程度の猜疑心が欲情に対する背徳の隠し味になる。
もちろん、ここでは片一方では「単に主人公を純粋に愛しているだけ」という解釈もたっているので「マゾゲー」まで行かない「誘惑エロヒロイン」に重要なのはこの両義性である。
これが完璧に「主人公は単にヒロインに利用されているだけ」と言うのが明確になると、これもこれで「誘惑もの」とは言えるが、どちらかと言うと「マゾゲー」のジャンルには近くなってしまうから。
ここらへんも「エロとシナリオの融合」で難しい点で、こちらはこちらで「エロ」を追求した場合には、それはそれで「ハード」系にシフトしがちになってしまうのだが、このシナリオはその微妙なヌルさを上手く用いてる。
とある事情(いやまぁ糞仕事と人間関係糞事情が重なりまくり、数分単位で読める漫画しか息抜きが無かったんですが)あって、僕はこの数か月間「To LOVEる」系の「見えそうで見えない、やりそうでやらない」系の少年エロマンガ系列ではなくて、
「君は淫らな僕の女王」系?の「全部見えちゃうし、わりと未遂エッチもやっちゃう」系の作品を結構読んではいたんだが、こうしたジャンルはわりとエロゲの真のライバルとは言えて、
単にエッチとストーリーを「テンポよく挿入する」だけのお話ならば、これはこの手の「青年エロ漫画」にお株を奪われる可能性は結構高そうではある(だから、僕は前からお手軽系廉価エロコメ作品はエロゲだと危険だとは言っていた)。
そこで、エロゲの優位性は何かと考えるに、単純に「エロを生かすシナリオ」と言う点だけで考えてみても、この瀬莉ちゃんシナリオのように「常にエロを意識させながら、安易にエロ連発だけに陥らないシナリオ」だとおもう。
この瀬莉ちゃんシナリオを、エロを常に意識させる「あざとい媚びヒロイン」描写をわりと直接的に導入しながら、それを誇張化させることで逆説的に「エロはいつ起こってもおかしくない」というエロ期待を予測不可能なものにしつつ、
だけれども同時にそれを「あくまで変態ギャグ展開としても読める」レベルを同時に実現することで、こうしたエロ期待までを含みこむ「日常シナリオゲー」を更に豊かなものとしてる。毎回「劇的な展開」が期待される漫画ではこれは不可能だ。
「うふふ♪ 今日も朝からいっぱいでちゃいましたね♪
僕は毎度のように抜かれてぐったりして、ぼんやりと思う。
昨日も、一昨日も、一作昨日も、更にその前も、少しずつ変化しつつも同じよーな朝を迎えていた気がする。
まさか……。そんなエロゲでよくあるループものじゃあるまいし。
だけど、いくら思い出そうとしても、ここ何日か瀬莉としてたかされてたかしてる以外の記憶がない。
厨房で母さんと話した以外は、瀬莉以外の人と話した記憶もないぞ。
いや、まさかそんなはずは……
「おはようございます」
「お、おはよう」
瀬利は、いつものように手に持った小瓶を此方へ見せて
「今日もいっぱい出ましたね。しかもまだ元気」
「んかぷ」」
またくわえられて
「ん、ちゃぶ、ちゅぶ、ん、ちゅぶ、ぴちゅ」
熱い舌がいやらしい音を立てて、出したばかりなのに元気なペニスをしゃぶってくる。
「あ、ううっ。くぅぅぅっ」
うまい、うますぎる。このまま流されてちゃってもいいんじゃないか……
そうすればこのループが壊れて、違う世界が開けるかも――――
(中略)
瀬莉をなんとか振り払い、そのまま逃げるように部屋を飛び出した。
なんだこのループは?
パラダイス!? それとも悪夢!?
どうやったら終わるの!?
――――という恐ろしいループは、あっさり崩壊した。
そうして、この後半のシナリオに入るわけだが、これを「良かった」以外に批評するのは、少なくとも僕にとってはかなり難しい。もちろん、そこを何とかする為に、今まで伏線をばら撒いてきて、
これから刈り込みに入ろうとはしているわけだが、このシナリオ自体には、そういう細かい伏線技とか、緻密に練られた構成みたいなものは実は殆どなくて、ある意味で当たり前のことを当たり前に描いているだけに過ぎないと言える。
まぁ端的に言えば、この後半シナリオは「ポルノのような、メス奴隷やオス奴隷は(まぁ人権侵害チックなことを行わない限り)「現実的には存在しない」という、それ自体は常識的な事実をもとにしている。
そうしたフィクションが成立するのは、それはそうしたフィクション的な現象が「全く成り立たないから」ではなく「短期的にしか成り立たない」からであって、
例えば、どんなポルノフィクションでもいいが、それを読んでいるときの僕らは「勃起して射精する」くらいには、そうしたフィクションに影響されているわけだが、それ以外の時間については、
そうしたフィクション「以外のことを大抵考えて生活している」ということではある。端的に言い換えれば、もしも実際にメス奴隷なりオス奴隷になり、所有するにしても自分がなるとしても、それを現実に実行したらエライ手間が掛かるし、
何よりも一番の問題は「24時間まいにちエロいことを考え続けられる」というのは、これはもう皮肉抜きである種の天才であることは間違いなく、普通は他にもいろいろとやりたいことがあるのだ。エロゲとかね。
別にこのシナリオの上記のような現実を語るシナリオが今までなかったという話をしているわけではなくて、間接的にそういう話をしようとしているのは、昨今ではやや見られなくなっている類のシナリオではあるが、
>」「実妹とセックスしまくった挙句、距離を置こうと言い出す糞兄貴シナリオ」
は、実はこういうことを書きたかったんじゃないかなぁとは思っている。もちろん、こういうシナリオは昨今は「セックスしまくったら最後まで責任を取れやゴルア」という正当な批判によって叩かれてはいるものの、
そうした主人公の卑小さを通じて描きたかったのは「実妹とイチャラブセックスしてばかりでは、現実の生活は成り立たない」みたいな「閉鎖した世界からの脱出」ということを言いたかったのだとおもう。
そこで、もちろん、実妹サイドとしては「お兄ちゃんは、世界と私のどちらを取るの?」と言う話になって、主人公はそれにこたえることが出来ないから、距離を取ろうと云々と言う話になってユーザーの大半から叩かれる。
とはいっても、別に僕はユーザーの大半が、そうした「イチャラブエッチだけでは世界は成り立たない」に対して、何か文句があるわけでも無いとは思うのだ。
ユーザーの大半はそうしたことも既に招致済みで「でも、自分はそうしたイチャラブエッチをエロゲに求めているわけだし」という、これまたエロゲのシナリオ以上に厄介な現実的な事情があるとは言えるし、
更に言えば、そうした事情を踏まえた上でエロゲをやっているのに、エロゲで語られていることが「現実の世界の常識を知れ」と言う話だったら、自分は何のためにエロゲをやっているんだという話にもなってくる。
まぁもっと酷い話を言えば、少なくとも「この失われた20年」の悲惨な現実(日本がこの20年の所為の緊縮政策の所為で二等国に落下)を見て、現実に帰れと言うのは、その被害者に死ねと言うのにも等しいだろう。
だから、このシナリオは、そういう「当たり前のこと」を「これが現実なのだぁ」という形で突きつけるような真似はせずに、まずはいろんな現実を生きている人間もいるという「当たり前のこと」を対置させる。
>あの時間に私をつけていたのですから、十中八九学校関係者でしょう。
弱みを握るなりにして、背後の組織を吐かせるのです。
送られてきた僅かな映像。チェックするのも簡単です。
「ふっふっふ……。私と日向君の愛を邪魔したんですから、それなりのむくいを覚悟してもらいますよ」
ただ弱みを握って組織を吐かせるだけでは済ましません。徹底的に破滅させてやります。
「……早く出てくるんです」
「……早く」
私の姿しか映っていない!?
この瀬莉ちゃんの描写は実に秀逸だ。この手のヒロインはいわゆる「ヤンデレ」とカテゴライズされて、何か狂っているという印象を与えるわけだが、それは別に彼女たちに論理が欠如しているわけではない。
このシナリオの瀬莉ちゃんの「狂気」も、強いて言えば、左派で言えばアベノセイダーズ、右派で言えば、山尾なんちゃれの違法選挙と似たような「陰毛論」とおなじことで、
ようは自分が「監視カメラ」という、極めて確実で卑小なる証拠を通じて現実世界を見すぎたために、そういう卑小な論理で世界を構成していくと、現実世界の大きさに対してその人は「狂っているよう」に見えるわけだが、
当の本人のそれが故に自分の理性だけで現実を必死に組み立てようとするから、当の本人としては極めて論理的ではある。
>つまり、この極端なエゴイズムは、もう一方の極端にある唯物論と同じパラドックスを示すという事だ。
唯物論とまったく同様、エゴイズムもまた、理論においては完璧ではありながら、実際においてはまことに偏屈なのである。話をわかりやすくするために、エゴイズムの妄想を簡単にこう説明しても良かろう。
つまりこれは、人間はいつでも夢を見ていると信じることが出来るという理論なのだ。さてこれにたいして、お前は夢なんぞ見ていないという確固たる反論をつきつけることは明かに不可能である。
理由は簡単だ。どんな証拠をだしてみたところで、それもやっぱり夢の中に出てくる証拠に過ぎぬかもしれないからである。
しかしながら、夢を見ているその男が、もしロンドン全市に火を放っておきながら、そろそろ家政婦が朝食が出来てたと呼びに来るにちがいないと言い始めたら、もう放ってはおけない。
(中略)
自らの五感を信じぬことのできぬ人間は、五感以外の何物も信じることのできぬ人間同様狂人である。しかし彼らの狂気を証明するのは、彼らの推論の論理的欠陥ではなく、彼らの生活全体が明らかに間違っているという事実にほかならない。
どちらの型の狂人も、それぞれ自分の箱の中に自分を閉じ込めてしまっている。どちらの箱の内側にも太陽と星が描かれていて、彼らはそれが全宇宙であると信じている。どちらもこの箱から外へはただの一歩も出来ることが出来ない。
一方では天国の健康と幸福の中へ出ていくことができないし、もう一方は地上の健康と幸福の中へさえ出ていくことが出来ない。彼らの立場は全く合理的である。いや、ある意味では無限に合理的といってもいい。
ちょうど銅貨が無限に丸いのと同様である。しかし、愚劣な無限性、下劣で卑劣な永遠と言うものも世の中にはあるのだ。(チェスタトン 正統とは何か)
チェスタトンと言えば、いかにもエロ助的な「シナリオ重視主義者」でちょいと気の利いた事を掛ける人なら「狂人とは理性以外すべてを失った人間である」と言う言葉くらいは知っていて、
そこから「理性や合理性なんて嘘っぱちだぁ。感性こそが全てだぁ」みたいなことを言ってソシャゲのガチャに嵌って死んでいった人が多いとは思うけれども、その訂正の為に長めの引用をさせていただいた。
尤も、そういう意味では、瀬莉ちゃんはまだ健全な人間とは言えるわけで、瀬莉ちゃんは利己主義と感性主義において、それこそ10代のクソガキが嵌るように、両方を中途半端に齧っているに過ぎないとはいえる。
一方においては、自分の性的魅力や理性を機会主義的に利用して「自分の都合のいいのように」他者を使い潰しながらも、もう一方においては他者である主人公にどうしようもなく魅せられていて、
機会主義を用いて主人公を性的に誘惑し(これは上手く行った)更には「自分だけの主人公にする」という自分の性欲をフルに発揮しようとして他者を排除することには失敗した。
>「あなたが現れなければ、私は世の中なんて簡単だとあざ笑って、大切なものも失いたくないものもなく、上手く生きて行けたのに」
ここに瀬莉ちゃんの唯一健全なところがある。もしも瀬莉ちゃんが完全に病的な人間だったとしたなら、主人公を自分の性欲を満たすだけに用いて、あとは好き勝手に周りの世界とも上手くやっていただろう。
でも、瀬莉ちゃんは周りの世界のことなんて本当にどうでも良いとは思っていて、周りの世界をシカトしてまで、主人公を自分のモノにしたいとは思っていて、その思いだけは真実であるが、
その現実的なありようと言うのは、下に引用するようにに、それはそれなりに滑稽なものであり、余談であるが、これを審美的な物語に仕立て上げようとするときに生まれ出でるものが、中二病的なフィクションである(ワーグナーとか)。
だけど、そういった瀬莉ちゃんを、僕もこの作品の主人公も普通に可愛いと思うし、同時にある種の恐れさえも抱く、その恐れとは前述したような狂人に対する恐れもあるが、それよりも、
>「日向君にとって、しあわせというのはなんですか?」
「料理を作ること……三田とかとバカをやること、美味しいご飯を食べること、家族で仲良く平和に暮らすこと……」
「世界人類がしあわせであること……は、なんだか大きすぎるから省くとして……」
あと絶対に忘れてはいけないのが、
「大好きな人と一緒にいること」
「多いんですね」
「普通だよ。ごく普通」
「私には一つしかありません……日向君の側にいることだけなんです……」
結局のところはこういう話で、矢鱈にエロ助のシナリオ重視主義者の皆さんは、この手の「天才と凡人の違い」みたいな嘘話が大好きなのであるが、平々凡々の人間の大半はこのように欲張りなので、
ある一つの対象に打ち込むことが出来なかったり、狂人すれすれの集中力を示すことが出来ないという事に過ぎず、中途半端とはいえ、ここまでひとりの人間を愛することが出来る瀬莉ちゃんのことを羨ましく思えてくる。
しかし天才と言われる側からしてみたら、この瀬莉利ちゃんの台詞のように「幸せが一つしかいないこと」というのは、それはそれで凡人の欲張りが羨ましかったりするわけだ。
故に、その瀬莉ちゃん的な「論理的な帰結」としては、二人の利害は異なるのだから、二人は対等に愛することが出来ずに、きちんとした恋人になることが出来ないという話になってくるわけだが、
そんな風には話が進まないのは、上の引用分を見れば明かだと思う。そのネタバレは流石にしないものの、このような会話が成立している時点で、二人はもう既に立派な恋人であると言えるのだから。
僕がこのシナリオに「A」という極めて高い評価をつけているのは、以上に挙げた論点の「他に」というか、それを要約するようなものが、上のような「嘘のない対話」と言うことになるだろう。
しかもこれは「腹を割って話す」みたいな、別にそれ自体が悪いというつもりもないが、ある種の演劇的な身振りからも遠ざかっているし、二人にものすごく強い信念があってどうこうと言う話でもない。
単純に主人公は瀬莉ちゃんも好きだし、周りの人間も好きだしという一般論を述べているだけに過ぎずに、瀬莉ちゃんもまた、主人公だけが好きだし、あとは他はどうでも良いという事だけを述べているにすぎないのに、
この二人の会話には何処かこういう話にありがちな「越えられない信念や自己の壁」といったような寒々しさが無くて、それこそエロゲオタが自分の性癖を語り合っているような日常的なユーモアさえある。
瀬莉ちゃんは一部を除いて主人公に最後まで嘘をつかず、主人公も瀬莉ちゃんに対して最後まで嘘をつかずに、お互いに自分の欲望を最後まで素直に語り合うという、実に真っ当な青春の夜明けのエロ話が一貫して続けられる。
ただ、別に僕はこのシナリオのそうした人生論に納得するから、このシナリオを高く評価しているわけではなくて、まぁこういうお話がエロゲでは少なくて珍しいなぁ評価すべきだなぁくらいはあるとしても、
さっきの「嘘のない」と言うのを敷衍させて頂けば、単純に主人公の立場にきちんと感情移入できたというナイーブな話をした方が良いだろうか。もっと身も蓋もなく言うなら、
「あざといヒロインに沢山性的な誘惑をされたいけど、それと同時にきちんと日常や恋愛を楽しみたいし、だけれども誘惑エロのエロさは失いたくない」
という、エロゲオタの実に我儘な欲望と、このシナリオの主人公の「瀬莉ちゃんと料理人を両方手に入れたい」という、これまた我儘な欲望の利害がシンクロしたと言ってもいい。
そうしてそれのカギとなったのが、このレビューで今まで言及してきた「日常ゲー」の構造なわけで、瀬莉シナリオではそれがシナリオの問題解決のそのままのカギとなるというネタバレはさておくとしても、
それ以前のシナリオにおいても、この日常ゲーの構造は、シナリオのテーマを構造的に高める、つまりは「そのテーマ以外の描写を省き、そのテーマに関する描写だけに集中する」のではなくて、
例えば、主人公と瀬莉ちゃんが「周りを無視してイチャラブセックスしまくる」という展開においても、必ず学校から帰った後は「主人公は厨房に戻る」という描写を10クリック未満であっても挿入し、
そうした「料理人」を捨てさせるために厨房で瀬莉ちゃんがおまこんを挿入させる背徳感エロシーンにおいても、その後の賢者タイムの反省が極々真っ当な人生論の説教臭さを脱臭している。
ここでは、エロと日常と物語と深淵なる人生論的テーマが、もちろん「調和」はしてないものの、単に時系列と空間列において、適度に隣り合わせになっていて、世界において何も嘘も無駄もないという確かな実感を僕らに与えてくれる。
だからこそ、このシナリオのエンディングは、狙ったように唐突で、これは比喩でも隠喩でも何もなく、ある一枚絵以外は全て沈黙に包まれた世界をポンっとユーザーに見せて、物語は終結していくのだろう。
もちろん、この「一枚絵」を「解釈を生む」とかいって「実は悲惨なエンディングだった」とかやらかすのは、基本的に間違っている。解釈の方向が別れるということと、わかりやすい解釈が出来ないというのはイコールではない。
このエンディングを「ハッピーエンド」の方向に解釈するのは、基本的には妥当だろう。主人公も瀬莉ちゃんも結婚して子供を産んで幸せになって、三人並んで道を歩いているという一枚絵は、まさに幸せそのものだと言ってもいい。
だけれども、その一枚絵の「解説的ストーリー」が、このように「全くないこと」が、ここまで妙な味わい深さをユーザーにもたらすのは何故だろうか。それはやっぱり「別の解釈もできるから」だからだろうか。
そうではあるまい。僕らが「幸せな一枚絵」だけ見せつけられて、その「幸せの物語的説明」が「最後だけ全く欠けている」ことによって、僕らはこれまでのシナリオの幸せと、エンディングの幸せを自分で結びつけるように仕向けられる。
このように本編でお互いの欲望を遠慮なくぶつけ合って、エロも日常も幸せも将来の夢をすべて手に入れようとした主人公たちの本編と、その後の未来のイメージの「中間点」を、この一枚絵に投影していく。
その解釈については人それぞれあるだろうし、そういう解釈はもはや作品テキストの解釈と言うよりは、個々の人生の反映みたいなものだから、これ以上は僕がどうこう言っても仕方がないだろうし、
余り僕は「テキストを出汁にして自分を語る趣味」はそれほどは無いので、僕としてはここ数年、なにやら「ヒロインとのマトモな社会人夫婦」を描くことがイチャラブとなっているようなエロゲに反旗を翻す意味で、
このような解釈を主張したいと思う。これは別にイチャラブゲーだけではなく、ハーレムゲーにも適応可能なので、更なるあぶのまーるエロゲに向けての第一歩をこの作品は踏み出したのだと解釈したいのだ。それは…、
「仕事に集中する主人公から、自分に関心を向けさせるために自分の子供を使って主人公を誘って最後にエッチに持ち込もうとするエロ奥さん瀬莉ちゃんは最高だなっ!」
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☆エロについて
ある作品の適切なエロ回数というのは、作品またはそのシナリオによって凄く難しい問題で、この作品で言えば「結奏」のシナリオがそれに値する。まずはこれから述べてみよう。
この「結奏」のエロについては、上で少し述べたように「シナリオ的」または「ラストまたは後半ののエッチシーンのエロを高めるため」には効果的であるが、
そのような構成である以上「本当にエロいのは後半のエロ1~2回くらい」ということも意味するわけで、そのように考えると先のような構成を認めた場合でも「エロ回数」少ないよなぁにはなってくる。
以上をもう少し丁寧に語るなら、これは別の凌辱やら調教やら寝取られゲーでも良いとは思うのだが、このような「エロ進行発展形」の作品の場合には、
作品の流れとしてはヒロインのエロに対する感度が少しずつ上がっていって、最終的にはその各ジャンルが要求する物語においての「ヒロインが性的に堕ちるまでの過程」が描かれわけで、
その最終目的である「堕ち切ったヒロイン」の結末のエロシーンはまぁ1~2回程度だとは思う。もちろん、こうしたテンプレ的な枠組みにおいて、ユーザーがどの部分をどのように性的に欲望しているのか?
というのは、それは人によって色々と違うとは思うのだが、あくまで個人的な性的欲望からすると、この手の構造は非常に「コスパが悪いなぁ」とは思えてくる。
別に僕は寝取らゲーは趣味ではないが、一般的な調教ゲーやら凌辱ゲーは「そんなに嫌いではない」としても、その最終的に「堕ち切ったヒロイン」までに至る「過程」には、
僕はあまりエロを感じられないわけで、そういう僕からするとその手の作品は「エロイッカイズツ」と大して変わらないわけだ。エロの回数が沢山あろうと、それが殆ど「過程」であるなら、僕にとっては意味が薄い。
もちろん、一般的にはというか「抜きゲの大半の構造」はこのようなエロ物語構造を採用しているし、または単純に「エロもっと言えばオナニー効用」以外の点においても、
このような「エロシーンそれ自体の価値」ではなくて「物語に関連していくエロシーン」というのはありえるだろう。その一つの例が、この作品の「結奏」シナリオと言うことになる……と言いたいところなのであるが、
実際のところ、この結奏シナリオには「そうとも言い切れない」ところがあって、これは否定的な評価を下せば「あぶのまーるシチュ」をライター氏が何か勘違いしていたという可能性もあり得る。
結奏シナリオのエロ展開は、まずは「前後のシナリオ展開」を度外視して、単純に「エロシチュ」だけで抜き出すと、基本的には主人公が変態チックに性的に、しかも無関心気味に責められるというの、
同人音声界隈でも結構マイナーに属すると言ってもいい「クールまたは冷徹なヒロインに、畜生的に機械的に搾精される」というジャンルで、
まぁ無表情気味なヒロインにちんちんを踏まれたり、アナル調教をされたり、ストローで尿道を弄られたりするのが「そのシチュそれ自体が」好きな方には良いかもしれないとは言っておくが(僕はノーサンキューだが)、
しかしシナリオ展開においては、最初の1~2回を除いて、結奏ちゃんは少しずつ普通の恋人になっていくのであって、シナリオの文脈で言えば上の「あぶのまーるシチュ」の大半は、
基本的には「勘違いエッチギャグ」みたいになっていくわけで、特定のあぶのまーる性癖に「刺さりまくる」シナリオとは言い難いわけだ。ラストなんて普通のラブラブえっちになってしまっているもんね。
その点で、本編を(この作品評価の中で言えば)結構叩いた姫兎ちゃんシナリオは、エロを「シナリオの叙述トリック」に用いてはいるものの、べつだんエロそのものにマイナスではないと言える。
そうした叙述トリックに使われるエロシーンは、わりとダイジェスト気味にカットされたエロシーンが用いられるが、それとは別に「きちんとしたエロシーン」が用いられており、
さらにダイジェスト気味のエロシーンそれ自体も、本編の「姫兎ちゃんとイチャラブエッチしまくっています」に対して割ときれいに繋がっており「エロシーンを叙述トリックに使うことそれ自体」の
シナリオ的な評価としては本編の評価の通り僕は否定的であるが、エロシーンそれ自体には悪い影響を与えず、ましてや回数の水増しを行っていないという意味ではプラスの評価くらいは与えても良いとは思う。
エロシーンそれ自体も、先のシナリオ評価に書いた通り、共通ルートの姫兎ちゃんのロリエロさがほとんど消えている点はイクナイし、妄想えっちが好きと言うのを「羞恥エロが好き」と捉えなおすのも変じゃね?とは思うが、
そこらへんを度外視すればそれなりに良いエロシーンだ。基本的には、結ばれた後は姫兎ちゃんと一日やりまくってます系の日常和姦エッチになるんだが、
一日の始まりの御目覚めのベット全裸CGから始まり、お風呂場でのエッチへと至るような、シームレスに全てのエッチが繋がっているような流れの良さがありながら、エロシーン自体はきちんと長く尺を取っている点は評価できる。
ああ、そうだ。ここで今まで全く触れていなかったCG面について多少の評価をすると、一枚絵に関してはどのゲンガーさんも合格点のレベルとは言えるのだが、この作品の問題点は立ち絵にあるとはおもう。
とはいっても別にこの作品のゲンガーさんは「可愛い立ち絵」を作れないという事よりも、これはここ最近のエロゲについて、少しずつ目立ってきた特徴ではあるのだが「SD絵」にお株を奪われる「構造になってる」っぽいのだ。
もちろん、この作品だけではなく、2017年の作品で言えば「こいのす」にも書いてる「はたち」さんのSD絵が素晴らしく、冗談抜きで「SD絵のエロシーン希望」と言ってもいい出来ではあるのだが、
これは別に立ち絵のゲンガーさんが「悪く」て、SD絵のゲンガーさんが「良い」という「だけの話」ではなくて、単に「SD絵を用いるようなヒロインの可愛さを強調するイベント」にはSD絵を用いて、
それ以外の普通の描写においては「普通の(まぁこの作品の場合、基本的にはギャグ多めな)立ち絵」を用いるという、役割分担がはっきりしすぎているので、どうにも「可愛い立ち絵はあまり必要ない」という判断になるっぽい感じはある。
これは何気に「エロゲの危機」の一つだとは思うのだ。エロゲの「立ち絵」が何でここまで発展したのかと言うと、その時点では結構無理な「大半のイベントを立ち絵で表現する」という無理難題に立ち向かうために、
「色々と汎用性があるポーズや表情を進化させてきた」という歴史があるので、単純に「立ち絵の役目はこれくらいで」と言うふうに、機能が限定されてくれば来るほど、立ち絵の味わいはどんどん低下していってしまう。
だから別に「SD絵を廃止しろ」というつもりはないにしても「SD絵をまずは必要としない」レベルまで立ち絵の表現を進化させたのちに「SD絵」を導入するくらいの覚悟は必要だろうとは思う。
まぁそのぶん、立ち絵を担当するゲンガーさんに負担が掛かると思うので、そこはそれでSD絵のエロシーンが必要になるという方向で話を進めていただきたいなぁと思う。
さて、残るは「暁乃」と「瀬莉」のお二人となるが、この二人はタイトル通りの「あぶのまーるらばーず」をきちんと味わえる上に「変態シチュ抜きゲ」以上にエロいシーンになっているように思える。
まずはその点でストレートにエロいのは、暁乃ねえさんであり、彼女は「調教エロシチュ」が楽しめる……と言いたいところではあるが、これは半分程度は正解であるがもう半分は間違いであって、
何故なら暁乃姉さんは大切なところを除いて既に自分で自分をマゾ奴隷に調教済みなのだから、積極的に主人公が「姉さんをマゾ奴隷に仕立て上げるまでの肉体調教」というのは、実はそこまで描かれずに、
実質的には「最初から既に堕ち切っているマゾ豚姉さんとのご主人さまエッチ」となって、これが実に俺得であるのは今までのレビューをご覧になっているからには既に御承知済みだとは思われる。
普通にきちんとした「調教エッチ」をやる場合には、過程が8~9割で、きちんとした「奴隷とご主人さまエッチ」は残りの1割となるので、僕みたいなダラシのない萌え豚には辛いのだが、
こういうシナリオの場合には、ご主人さまと奴隷ちゃんとのラブラブエッチが半分くらいのあるので満足度が実に高いわけだ。
しかもこの主人公、基本的には「独占厨」なので、この手のSMモノではご主人さまティムポをさしおいて主役になってしまう道具類を、使わないとは言わないが、基本的に嫌悪しているのも好ポイントでしかない。
とはいっても、エロシーンの描写としては「SMモノ」という売り文句を裏切るモノではなくて、そこはそれ結構ハードなプレイをかましてくれるわけだが、
それもこれも「マゾのねえさんが喜び為のプレイであって」基本的にはマゾのねえさんが「こういうプレイをしてくれないか……」と躊躇いがちに主人公にお願いをすると、
主人公は「その姉さんの予想を少し超えたプレイ」をかましてくれると言った次第で、プレイにおける物理的ハードさを強調するよりも、
あくまで「主人公が終始リードを握り続けて、ご主人さまたる自分の優越性」を姉さんに教え込んで、姉さんはそれをマンマと喜ぶと言った「ご主人さま」プレイが好きな自分にはかなりの高評価のエロシーンだ。
こういうエロシーンをやらせると、やっぱり「萌花ちょこ」さんは上手いというか、この手のエロシーンは「アンジェリカ」を例にだせばわかるように、ある種の無限への挑戦と言うか、
>「通常モード演技→ちょいエロ気分演技→イキそう演技」
みたいな、通常だったらまぁだいたい三段階くらいのギアチェンジが求められるところを、
>「通常モード演技ちょいエロ気分演技→イキそう演技→初級メス奴隷演技→メス奴隷がイキそう演技→メス奴隷がお預け喰らって発狂寸前演技→ギリギリ直前で絶頂演技→中級メス奴隷演技」
みたいに、いわば「無限のメス奴隷進化」を演じわけないという、こればかりにはAIがいくら進歩しても無理難題をクリアしなければならないのだが、
通常演技時のいかにも「正論は言うだけで堅苦しいボイス」から、メス奴隷時のトロトロに媚びまくったボイス変化だけで、ひとりのヒロインを最初から最後まで自分の好みに変えたような満足感を味わえる。
もちろん、ライター氏のテクニックも大いに称賛に値する。藤太さんのエロシーンの描写は、良くも悪くも「作為」を感じさせるものが多くて、悪い場合にはその「作為」が、
初めからエロシーンの構成内容を予想させて、それがシナリオによっては「もっと自然で普通なエロシーンの方が良いんだけどなぁ」と思ってしまうようなことが偶にはあるのだが、
今作のシナリオにはおいてはそれが全てプラスに働いている。なにぶん、主人公もプレイヤーの大半も「ご主人さまとメス奴隷ちゃんエッチ」という「やらせ」に最初から同意しやすいシナリオであるし、
エロシーンにおいても調教行為における「アメ」と「ムチ」のバランスが実に適切なのよね。描写において交互に「アメ」と「ムチ」を与えると言ったやり方ではなくて、
「ムチ」の時にはかなり激しいプレイを噛ましながらも、その「ムチ」が「アメ」となるようなプレイも同時に行うので、僕みたいにご主人さまプレイは好きでも、暴力プレイはちょっと系のヘタレご主人さまにとっては実に乗りやすい。
然しながら、あくまで「ご主人さま勝負」という点に関して言えば、暁乃シナリオの主人公よりも、瀬莉シナリオの瀬莉ちゃんの方が三枚くらい上手だろう。
まぁ正確に言うと、別に瀬莉ちゃんが主人公をマゾに仕立て上げるわけでも無くて、単に主人公に誘惑エッチするくらいであるが、その「性的に相手を嵌める」テクニックが実に素晴らしい。
正直、この手の「誘惑エッチ」では、同人音声や同人作品が一歩先を進んでいるというか、商業エロゲはその手の作品がほとんど出ていないという現状があるので、どうにも誉め言葉としては弱くなってしまうが、
しかし「2017年の同人音声や同人エロゲ」と比べたとしても、この瀬莉ちゃんシナリオは余裕でそのジャンルの中で5本の指に入ると言ってもいい。商業エロゲの底力を発揮した傑作エロシーンが満載だ。
昨今と言うか、ここ数年の同人音声界隈で目立つのは「オナサポ」だの「手コキ」だの「耳舐め」だのと言った「男性受けプレイ」の一種であるが、
しかしもう既に同人音声界隈では「単にその一つのプレイだけに特化」した作品だけではなく、これらのプレイを物語とシチュの上で「組み合わせた」作品が出現しているわけで、
今さら商業エロゲ業界が「手コキ」だの「授乳手コキ」だのをやれば良いという話ではないのだ。だいたい、その手のプレイが「本当に好きな人」がその手のプレイを褒めるのは別に良いのだが、
今のエロゲ業界で一番駄目なのは「今の時代は耳舐めとか授乳手コキが最先端だからそれをやれ」と、別にその手のプレイが好きでもないのに本気で言うヴァカがいることである。
あらゆるエロ表現が常に生まれ続ける同人音声や同人エロゲ界隈においては「最先端」という事に拘るのは単なる時代遅れのヴァカで、如何に細分化されたシチュのなかで適切な組み合わせを果すのが求められているのだ。
故に、この瀬莉ちゃんのエッチも「耳舐め」とか「搾乳手コキ」といったオンリープレイと言うよりも、誘惑エロという物語展開との合わせ技が発揮される。
この手の「共通ルートでヒロインとエッチしてしまうタイプ」作品の場合、ユーザーはどうせ「これ、最初から本番までやらねーだろw」とわかっているので、
本番を前提にした普通のエッチになればなるほど「無駄エッチ回数」とカウントされがちなのであるが、この瀬莉ちゃんの場合「この未遂エッチが一番エロいんじゃないか?」と思ってしまうほどだ。
その「合わせ技」で言えば、四回目のエッチの「手コキ&オナサポ」が実に素晴らしい。もちろん、僕はこの二つそれ自体のエロシチュは、正直言って「大嫌い」であって、
だいたい、ここ最近は「青少年に生セックスでの射精障害を引き起こすので止めさせよう」と言われているくらいに最高のオナニーである「床オナ」派の僕からしてみれば、
「手コキ」なんてものは、しょせん猪口才な「手淫派」がやるような猪口才なエッチプレイであり、手コキはあるのにパイズリやフェラが無かったりするだけで、僕はその作品は駄作認定してもいいくらいだし、
「オナサポ」というのも、わざわざそういうメタっぽい自虐プレイでないとマゾ快感を味わえないというのは、精神と淫乱の貧しさ極みであると滔々と説教したくなってしまう。だけど瀬莉ちゃんは、この耳舐めの時点で、
>刻印です。日向くんが私のものだという印ですよ。
こんなにもエロすぎる。耳舐めというのは、同人音声における特殊録音効果(バイノーラル録音とか)を「色々な意味で利用してから」流行ったエロシチュであり、
ここで「色々な意味で」というのは、一般的に言われている「直接耳元で囁かれているような臨場感がエロい」の他にも、その音そのものがエロいというよりも、
「その密着的な音声の歪みが密着エロを妄想連想させる」と言った方が良い(だから、エロゲで全篇バイノーラルを「やっただけ」では対して効果は薄い。ポイントは普通の録音との差異効果にある)」のだが、
この瀬利ちゃんの耳舐め自体はバイノーラル録音を使うこともなく、基本的には一枚絵の中に「耳舐めカットインCG」を挿入しているだけではある。
でも、この耳舐めがこんなにエロいのは、これも普段の日常描写とのからみで、普段はエロい誘惑台詞を半ばギャグ的にばら撒いていた瀬莉ちゃんが、
そのエロ誘惑台詞自体は日常シーンとあまり変わらなかったとしても、ここで「耳舐め」という「エロシーンの文脈」に絡めとられることで、普段のエロ台詞のエロ要素がここで異常に強調されるからだ。
単に、ここで普通のヒロインが「プレイの一貫」として「耳舐め」をやるだけでは、それはその手の性癖を持つ人間しか反応しないだろう。エロシチュの正しい合わせ技というのは、こういうことを言う。
さらに、このオナサポの物語展開の汚染建てじゃなかったお膳立ても素晴らしい。主人公と無事に結ばれた瀬莉ちゃんが、もっと主人公を自分のものにしようと、
主人公のオナニー用の最初から最後まで超自作自演のエロビデオを渡すものの、当然のごとく適当にスルーしちゃう主人公を押し倒して、主人公の目の前にエロビデオタブレットをおいて、
主人公に「手コキ」や「耳舐め」をしながら、自分が出演しているエロビデオを見せるといった趣向となっている。この同時進行が実にエロい。
片方のエロビデオでは、主人公の好みを知り尽くした瀬莉ちゃんが、媚び媚びの台詞やエロポーズを決めて主人公を挑発し、それを見て勃起した主人公のおにんにんを、
>これぞ五感を刺激する刺激する未来。VRです。ほら、中指があんなにじゅぽじゅぽ音を立ててますよ♪」
>「こんな風に、女の子のなすがままになって、逆らおうともしないなんて……本当にかわいい」
とか言いながら刺激してくれる。だかれ、これは確かにプレイとしては「オナサポ」や「手コキ」であるが、その行為それ自体を強調するプレイと言うよりも、
主人公の「五感の全てを誘惑して調教する為」の手段として、そのような「オナサポ」や「手コキ」を用いているわけだ。
この手の「同時並列的プレイ」(同時に異なった種類のエロが進行する)というのは、ここ最近の同人音声でもちょくちょく出ており、
これは音声作品がヴィジュアルに拘束されない(例えば、複数のヒロインがセックスをしながら耳舐めというのは、ヴィジュアルで描写すると女体曼荼羅みたいになってしまう)為であるが、
この瀬莉ちゃんのエッチは、カットインという「ヴィジュアルのリアリズム要素」を半ば破壊するイメージ的描写を用いながら、
更に「瀬利ちゃんのエロあざとい誘惑キャラ」を用いて、片一方では主人公を媚び媚びに誘惑するエロビデオ瀬莉ちゃんと、その誘惑に引っ掛かる主人公を手コキや耳舐めで刺激するちょい意地悪瀬利ちゃんを、同時並行進行エッチとして描くことで、誘惑エッチに同時に必要だが二つ合わせるのはなかなかに難しい「過剰な性的快楽」と「性的快楽に対する背徳感」をあぶのまーるエッチで表現することに成功しているわけだ。
ただ、多少のマイナス点を挙げれば、まぁ純愛エロゲだが、最後はきっちり「純愛エッチ」に持ち込むというのは、ある程度は仕方がないとしても、
ここまでイカした誘惑ヒロインを生み出したのだから、最後までそれを貫き通してほしかったというのは正直あるし、この手の「実は純愛エッチを瀬利ちゃんを望んでいる」まで含めて、
エッチシーンでそれを全て表現しようとなると、エッチシーンが七枠あっても実は足りないというところはある。次回作も、この「あぶのまーる」路線で進めるならば、
ヒロインを三人くらいにしぼって、エロシーンを思う存分使えるような作品の枠組みを作った方が良いのではないだろうか。個人的には次回作は「メイドもの」あたりが一週回って新しくて良いかなぁと。
ライターに関しては、まぁここまでの豪華メンバーを揃えるのは難しいとしても、丸谷ちゃん「専用ブランド+有望そうな新人ライター」を揃えるというのは良いと思う。
例えば、同人音声作品で有名なライターさんに声をかけてみるって言うのも一つの手だろう。大半のユーザーは共通の体験版の出来で作品を判断するので、共通+1個別ヒロインはベテランに描かせて、残りの1~2のルートを有望そうなライターさんに描かせるみたいなブランドが、僕が勝手に望んでいるこの「とるてそふと」の未来だ。
>「私と生本番エッチなんかしら、料理人失格になっちゃいますよ」
その濡れ濡れとした瞳は『そうして、今すぐ犯して』とl言っているように見えた
「そんなのどうだっていいっ!今、瀬莉としたい!」
腰の動きが止まった。彼女は笑った。
今まで見た中で一番しあわせそうな笑顔」
そして、どうか、こういう意味での「ヒロインの幸せそうな笑顔」と、この主人公と同じような必死な欲望をぶつけられるようなエロゲを今後も作ってくださると、とても嬉しい。
これほどまでに未来のエロゲに希望が持てる作品を作ってくださって、本当にありがとうございました。