主人公の目線で作品を捉えていたが、視野が狭い読み方をしていることに気づいた。等身大の正義を振りかざすための妄想材料として見るのは、人間として生きている限り仕方ないんだろうか
本作が述べているのはプログラムされた世界平和で、その先兵として殺戮に走るレフ。
発展に犠牲が付き物であり、殺す側も殺される側もビジラウムに仕組まれたプログラムの一部として役目を終えていく。
レフになる人間は、他人が持つ負の感情に触れることで滅びの力を覚醒させ、
人間を殺すほど能力を開花させる殺戮兵器へと変貌を遂げる。
主人公の一人、楠田友紀の視点はあくまでセカイ系(主人公とヒロインの関係性が、世界に影響を及ぼす)の類型といえる。
相澤を自殺に追い込んだ薄汚れた世界を、レフの力で滅亡させることが彼女のささやかな意志と生を尊重する手立てとなる。
レフは邪魔な人類を排除し、自身の悲しみと良心に基づいて理想の世界を作る能力なのだと思う。
実際は創作物の中でもない限り、世を嘆く凡人がいかなる幸福論を導き出したとしても出来ることは限られる。
現実においては、科学の普及や法整備を自ら推進する立場にあれば、人間の知能や精神の水準を間接的に引き上げることが可能だろう。
それでも、科学や法が発達したところで人間の生態的性質を変えるには及ばず、
長期的に見て人間の理性はまだまだ発展途上だと断定できる。
詰まるところ、「バカな奴が多すぎるから人間滅びろ」とか、
「世の中や他人が自分の思うように変わってくれない」とか、
現実や他人に対する不満は誰でも抱えている。
自身を取り巻く現実に目を向けると、そこら中に無自覚な人間の業が溢れ、
世界は絶えず混沌と悲しみに満ちているという見方ができる。
レフの目線で見る世界平和は個人思想の延長であり、それ故に読み手によっては素直な共感を得られるだろう。
しかし、ビジラウムが企図する世界平和について考えると、理論上は正しいが何だか釈然としない部分がある。
レフによって失敗作の人類を自己消去し、次の世界では正しい方向に導くというものだが、
レフの暴走から生き残った人々が次の世代に命を繋がなければ、結局はビジラウムの目論見は潰えるのである。
世界各地でレフが発現している状況は、今回の人類は失敗だったと代弁しているに等しいが、
レフの裁量に任せすぎていてシステムに穴がある気がする。
レフが誤って人類を全滅させたり、強いレフが現れずに一斉に狩られる可能性があるが、そこら辺は上手く調整しているんだろうか。
また、レフに感化された私は「理想の世界を作るために不要な人間を殺戮するセカイ系」という点に魅力を感じていたが、
個人的な思想とライターが伝えたい内容は違うことに気づいた。
失敗作と人類全体を秤にかけて、大多数がダメだったら全部リセットというのは、
物語を俯瞰的に見ている読み手にとっての得である。
そんな世界でも正しい理性を持った人間がいるとしたら、その行いと価値を踏みにじることになるのは納得しがたい。
ビジラウムが作り出す理想の終端には、確かに理性的で幸福な未来が待っているのかもしれない。
だが、その未来に生きる人々にとっては、当たり前の日常を漠然と生きるだけにならないだろうか。
より良い世界を作るために犠牲を生むプログラムが、幸福に対する思考力を失わせるのである。
それこそがビジラウムを作った研究者の目的だとしても、それは誰にとっての”主観的な”幸福になるんだろう。
セカイ系というのは、読み手が満足する世界観を表現できればそれでいいんだろうけど。
ここまでは「海からくるもの」を主人公の目線で捉えた個人的な考えだが、
本作の言わんとする内容とは論点がズレている自覚がある。
私の感想は「個人の幸福」を主題に書いたもので、海からくるものは「未来に意志を継ぎ、より良い世界を作る」ことがテーマなんだろう。
追記:
本作の時系列はビジラウムにとっての過渡期にあたり、
何周もしていないためフィードバックが不完全になっている。
だが、いずれは「自ら未来を作る意志を持たない人類」が生み出されなくなり、世界から犯罪や悪心の類が消える。
ビジラウムにとってこの物語は、先史文明の遺産ノイルマギに頼った不完全な人類が描かれたに過ぎない。
もっと時間が進めば、違う物語になったはず。
結局は人類やレフが死滅しようが、レフが最低1人は殺すのでその周回の成果は0じゃない。
人類が消えたら元も子もないだろうけど、気が長いシステムだ。