「私達に精一杯の祝福をしよう。」
35:シナリオ 7/10 (×5)
09:グラフィック 3/5 (×3)
08:音楽 4/5 (×2)
04:キャラ 4/5 (×1)
20:その他 20/20 (×1)
76:得点
例外的に100点です。
どうしようもないものについての物語として読みました。
「みんなで資源の許す限り新しい意識を作って、そして新しい意識のために死ぬのよ。私達は全員、次に生まれる新しい意識の材料になるのよ」
「............その時、私達の意識はどうなるんですか?」
「意識は完全に消滅するわ。どこにも残らない。アーカイブは有限だわ。個人の意識を残したりなんてしない」
「......死ぬ。私達は新しい意識を作って死ぬんですか。本当に完全に死ぬなんて、そんなのおかしくないですか?」
カーネーションシステムにより、元々、ふゆくる世界(幻想世界)には私たちの言うところの死がありませんでした。ほとんどの生徒が死を知らない世界です。(ふゆくる世界で言うところの「死」は、私たちの言うそれとは別物ですからね。)
しかし、物語中盤になると、私たちの言うそれと同様の死が提示されるようになります。その死に対して空丘夕陽は「本当に完全に死ぬなんて、そんなのおかしくないですか?」と疑問を投げかける訳です。ごもっともです。ごもっともですが、「おかしくないですか?」と言われても「そういうもの」としか言えないと思います。死はどうしようもないものでしょう。
このように、私たちの言う死と、ふゆくる世界での「死」を並べることで、(相対的に)死の問題点を再確認をしたことが、まず大切だと思っています。死に対して「おかしくないですか?」と言う、ここが出発点。
そのうえで、月角島ヴィカは未来よりも美しいまま終わる事を望み、また宇賀島ベルリンは未来に残すことで安心し、そして空丘夕陽は「幸せでありますように」という願いを見いだす、などなど、といった展開でした。『ふゆから、くるる。』が散らかっているようにみえる理由のひとつとして、こうした回答がキャラクターによって違うことがあるような気がします。良いとか悪いとかはないですよ。それでも、一通り扱っていると散らかってしまう気がするので、ここでは空丘夕陽が語ることについて書きます。この2人はそれぞれ別のキャラクターですが、私はこの2人を繋がりがあるものとして読まないとよく分からなくなってしまうので、勝手に繋がりがあるということにして読んでます。ごめん。
「私達は誰かの、幸せになれ、という願いの中にいるんですよ。」
ふゆくる世界やキャラクター達が人間によって作られた、というSFネタのための人間原理世界観でありながら、このセリフのための人間原理世界観でもあるような気がします。人間原理そのものはよく分かってないですが、少なくともこの作品での人間原理は「この世界は何かしらの意図(願い)によってあるものである」という捉え方だと思ってます。
こうした世界観について、夕陽が言うには「月角島さんはこの世界のことを遺書だって言ってましたし、宇賀島さんは外の人の安心のためだって思ってますよね。私はね。願いなんだと思います。」だそうです。また、「どうせ死ぬならオレは何か残したいね。」というセリフなどから、ベルリンはふゆくる世界に、繋がり・縁起を見いだしているように読めます。同様に「私達の死後も世界が続いて行くんだって、少しでも私達に残せるものがあるんだって思うから、生きていけるのかもしれません。」と言う菊間も、ベルリンと同様の捉え方をしていそうです。こうした「繋がりを残すことで安心したい」の連鎖の先に彼女たちがいる、という意味では、人間原理による世界が入れ子構造になっているという捉え方ができるかもしれません。そう捉えてみれば、夕陽の「願いの"中"にいる」という表現もよく読める気がします。
ところで、夕陽は自身の世界の捉え方と、ベルリンの世界の捉え方を別のものとしていました。(「宇賀島さんは外の人の安心のためだって思ってますよね。私はね。願いなんだと思います。」)この世界は何かしらの意図によってあるものである、とする人間原理的な捉え方はどちらにも共通しています。異なるのは、それが外の人の安心のためであるか、彼女たちに向けられた願いであるか、という部分。だから、夕陽や朝日について読むうえで一番大事だと思っているのが、彼女の願いや祈りについての言及です。
『ふゆくる』では、冒頭から祈りについて語られていましたが、そこでは「祈りに意味なんかないって知っている。そんなの常識さ!」「祈るという行為の全部。全部、全部、全部。全部が無意味だとしたって、祈りたいって気持ちは生まれてしまうんだ。」と、祈りを無意味としながらも、無意味な祈りを否定しない朝日の態度が描かれていました。そう、祈りが無意味なものであると強調されていることが個人的にすごく大事なんですよね。
先程、引用した菊間のセリフは「何かを残せると思えなくなってしまえば生きることが難しい」と読み替えることもできると思うのですが、それと同様に、菊間やベルリンの「繋がりによって安心する」という心持ちは、いつか死ぬとしても未来へ何かを残すことに意味を見いだせるという考え方が示されていると思います。あるいは、単に生きて死ぬだけでは無意味であると読み替えることもできるかもしれません。そのため、こうした心持ちについては、祈りそのものよりも、未来を向いて今安心することの方にピントが合わせられているように見えてしまいます。これは、祈りに対して、なにか意味が見いだされているような気がする。
一方で、夕陽や朝日は未来を向いていることよりも、祈ること、それ自体にピントが合わせられているように見えます。特に朝日は「全部が無意味だとしたって、祈りたいって気持ちは生まれてしまうんだ。」と言って、無意味なことを肯定する、まではいかなくとも、それを否定しない態度が描かれている。もう少し言えば、朝日が祈るという行為に対して「意味っていう言葉は相応しくないよね。」と言っていることから、意味という尺度を用いていない、すなわち、祈るという行為を理屈とか理性とか、そういったものの外側に置いています。要は祈りのチェスの話ですよ。先述したように、本作の出発点は死に対して「おかしくないですか?」と言うことであると思っていますが、この理屈の外側にある問いに対して、同じく理屈ではない祈りへと着地するというのはかなり好きな描き方です。
この辺については、『素晴らしき日々』の「幸福に生きよ」や、『CARNIVAL』の「ニンジン」に近いものを感じました。特に「私達は誰かの、幸せになれ、という願いの中にいるんですよ。」と言いながら「幸せや感謝を強要されているみたいで、気持ち悪くないですか?」と言う夕陽は、「幸福に生きよ」の応答のようにも見えてしまいましたね。
ちょっと話が逸れましたが、このように夕陽と朝日の祈りは、未来を向いて安心する以前に、まず純粋な祈りがあるというのが大事であると思っています。だからこそ、どうしようもない問題であるところの死に対して祈りを用いることができるのでしょう。ともかく「みんなが幸せであるように」ってことですよ!