社会批判をしないところがよかった。
[3/7追記]
結局何が問題なのかというと、
・2周目以降がだるい。共通が長いので。
・ED後のエピローグが手抜き。
・2章以降が減速気味。ただ、あれを3回も見せられたら飽きるので、敢えて削ったという見方も出来るのでは。
・南雲えりの使い方が明らかに失敗。権力の前には人は無力ってことを言おうとしたのかもしれないが、伝わってない。
設定上の細かいあらをとりあえず無視して楽しめれば勝ちですが、そのためには↓にも書きましたが、とりあえずテキストが受け容れられるかということが必要かと。
損はしないと思うんですがね。
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「それ散る」や「CROSS†CHANNEL」系のギャグパートがお気に召さなかった方は手をつけないのが無難。
それと、ライトな恋愛を求めている方もやるべきではない。
批判(?)的なコメントに「もっと勉強しろ」とか書いてる人は、ぶっちゃけシナリオライターの術中に嵌っていると思います。今頃「やっぱりそういう人が出てきたか」とほくそ笑んでいることでしょう。
まず、どんな素人が見てもこれは「完全に」フィクションの世界のお話だ、というのはすぐに分かる。
# 単なる歴史の if ではなく、それと似た体裁を有していながらも 0 から作られた世界。
確かにこの世界をアンチテーゼとして「社会批判」をしようとしているようにも思えるし、実際にある一部分についてはその通りだろう。
だが、本作の真の目的はそうではなく、社会批判的感情(理不尽さ)を通して個々の内に潜む問題を描くということにあるのだ。
物事に謙虚な姿勢で取り組まない人間が安易に「社会批判」を行おうとすると、どうしても社会に対する責任の押し付けになってしまう。全編を通してまた語られているのは、そういった無責任な批判こそ悪である、という本質である。これは本編中でも直接示されているし、クリア後のタイトル画面の
"There is no such thing as society."
という一文によっても確認される。ライターが安易な批判をしていないのは、そういった真実を正確に認識しているからに他ならない。
法月という、「一見」体制の権化として描かれている人物に対する怒りを募らせれば、自ずと彼に対する怒りが「政府」に向かうだろう。ライターの真意が見抜ければ、これは罠だということに気づくのだ。
一見社会批判と思わせる本作は実は個人批判に満ちている。
第二章は『1日12時間しかない義務』である。
これは見ての通りで、自らを自らの意思で律しなくてはならないということを主張する。
第三章は『大人になれない義務』である。
章サブタイトル"The child is father of the Man."がこの章での主張……のように思えるが、これは全く違う。
本来の主張は「自らの弱さを曝け出す強さ」を持てということだ。
「完璧超人」森田賢一と言えども、自らの弱さを曝け出した灯花を目の前にしてその無力さを思い知った。そして直後、人間の強さを知る。
一方京子が最後まで打ち明けられなかったものは何か。自らの過去に深く根ざしたトラウマ。それは誕生日のその日、主人公によってえぐられ、白日の下に曝け出される。このシーンで描かれる娘と親の対比がそのまま、「弱さ(トラウマ)を曝け出して強くなった人間」と「自らの奥底に抱え込んで鬱屈してしまった人間」であることからも、これは裏付けられる。
第四章は『恋愛できない義務』である。
ここでは希望が絶望に変わる流れが繰り返し描かれており、その中で失望していく夏咲は一度、世界に深く絶望する。
まず表面的には「人のぬくもり」、そして「法」だけでなくいかなる存在であっても決して奪うことの出来ない「愛情」。これは一周目で即座に理解していただけたことだと思う。
この章で夏咲は、絶望し忌避していた「他者」に救われてしまう。
彼女を蝕んだ「孤独」は次章との接続に於いても重要だが、信じては騙されを繰り返し人を信じようとしなくなった少女を救ったのは、やはり信じることだった(==直視しなければならない現実)。
そして一方を見れば、「いままで独りで、よくがんばったね」という台詞(==悲しみの共有)。
第二・三章では当事者に対してどちらかと言えば厳しいことを言っていた。第三章で「人間は弱い」ということを認めたのが非常に重要である。第四章では、この弱さを当事者自身に解決することを求めていない(強くあれ、とは言わない)。
心に問題を抱えて自らの内に引きこもってしまった人を前にして、人がとる行動は以下の三パターンに分かれる:
1. 事態の深刻さを軽視し、「現実見ろよ」だの「甘えるな」だのと吐き捨てる。
2. 本人の悩みを理解し、同情する。
3. 彼或いは彼女の悲しみと苦しみを受け止め、慰め、抱きしめた上で、慎重に現実を提示し、前に向かって歩みだす。
第四章は悩んでいる当事者ではなく、その周りの人間に上の分類で言う 3 の人間になれと言っているのである。
そして第五章『車輪の国』。
ここでなされるのは「社会とは何か」という問いかけである。
第四章で「人は独りでは生きていけない」ことを示し、第五章では璃々子の演説で群集が心打たれる。7年前には人々が蜂起した。
これらの現象を見ていると、自ずと「社会」なるものが如何に曖昧なものかが見えてくる。
「社会」は人を縛る。けれども、「社会」はその統制下にあるはずの個人によって揺さぶられる。
強くなった人間の前には恐怖など何の強制力もない。
人々が団結すればそこに新たな「社会」が生まれる。
ここに至って、結局冒頭の主張がなされるのである。
即ち、「社会」というものは存在せず、安易に批判することは責任の押し付けに過ぎない。そして「社会」は究極的には人間個人であり、「社会」を批判することは自己を否定することになる。そこに自らが含まれていることを見落としているからだ。
結論として本作は何を言いたいのか。
第四章までと第五章では繋がりがないのではないか?
そんなことはない。
第四章までのテーマである「人間らしい人間のあり方」と第五章のテーマの「人間が形作る社会」を併せてみよう。
……もう見えてきたはずだ。
そう、ライターが本作を通して我々に語っているのは「人間らしい社会のあり方」なのである。
これは見事に本作で描かれているような血の通っていない社会と対比されている。
―― 一人の人間には何も出来ないかもしれない。
―― 最後には圧倒的な力の前に屈するしかないのかもしれない。
―― けれど諦めないで戦った者達は我々に何を遺したのか。
『あんたも、本当は分かっているんだろう?』