無駄なおしゃべりは、身体を濁す。
他の人も書いていたが、なんとなく傑作になりそうな予感を感じさせつつ、結局期待を上回るような瞬間はない、そんなゲームだった。一応プレイ中は基本的に楽しめたので決して駄作ではないが、7年の歳月を経てプレイするものとしてはやはり精彩を欠いている印象だった。
Ⅰ章はかなり好きな部類にある。贋作と芸術の本質的な価値をめぐって展開する物語。体験版でも読んだ部分ではあったが面白かった。三章で明らかになるさらなる真実を踏まえても芸術をめぐるひとつの物語として完成度が高かったと思う。
Ⅱ章は全く面白さを感じなかった。その後の展開にほとんど絡まないキャラクター達が好感度マックスでよく分からない猥談を繰り返したり、リトグラフで何をやっているかのイメージもかなりつかみづらかった。こちら側の知識不足ではあるが、結構な分量が割かれていて7年もあったのだから図解のひとつでもしてくれる親切心があっても良かったと思う。
Ⅲ章は恩田寧と本間心鈴の対決+個別ルートといった構成。
恩田寧と本間心鈴の対決は中々読みごたえがあったように思える。
心鈴ルートは比較的平凡に感じた。特に心鈴と恋愛関係に入るのは正直かなり唐突に思えた。後半の方で語られる凡庸な創作の価値といった話は面白かったが。
真琴ルートはなかなか良かった。青春の忘れ物的なもので郷愁を掻きたてつつ、美術における批評の価値のようなものがテーマとなって、一章における中村麗華の思惑の裏側が観れる。「贋作を真作として価値を持たせる」のような価値転倒のギミックが好きなので、面白く感じた。しかし終盤の酒で潰して無断で作品を発表するという手法は正直、強引すぎる印象を持った。
個別ルートは直哉が芸術家として復活せず、教師として生きていく道を描くものであった。この二ルートを終えると選択肢で恩田放哉に対して自らの信ずる「弱き神の芸術」を語ることができるようになり、この選択肢によって草薙直哉が芸術家として復活する本編に入る。
Ⅳ章は圭が向日葵の絵を描くに至るまでの経緯を描く過去編、何を思って圭が向日葵の絵画を描いたのか、Ⅲ章までで示唆されていた、本間心鈴と草薙健一郎との関係が描かれる。ゴッホと重ねて描かれる激しい圭の芸術家人生はスリリングで面白かった。
そしてⅤ章こそが断筆していた直哉が芸術家として復活する、サクラノ刻の核となる部分である。この部分ははっきり言って微妙だった。
直哉が圭の向日葵に対する返答として作った作品は、千年桜の灰を使い思いを瞬間的に映し出す燃える絵画である。いろいろとこの絵画には禅が必要だとかいった前提が思わせぶりに書かれていたものの、最終的には単なる魔法による幻惑にしか思えなかった。体験の唯一性を表現するというのはバンクシ―がやったことで話題を呼んだ「絵をシュレッダーにかける」といった現代アートのパフォーマンスの一端にしか思えないし、千年桜の灰も単なる「工芸的技法」にしか思えない。これら二つは紛い物の芸術を作成する手法として作中で批判されていたものであった。
たしかに他者に与えることで芸術を紡ぐ直哉が、他者から与えられることによって復活し作品を残すというのは物語的な必然ではあるのだが、直哉の絵が中村圭の絵画を上回ってその先に行けるとするロジックがとても弱いように思えてしまった。サクラノシリーズでは作中で絵画の優劣が繰り返し争われるが、流石にビジュアル面で表現することには限界があるため、いろいろとロジックをつけて作中での序列を決める必要がある。この競争はバトル漫画などにも近い。バトル漫画における、良い勝利というのは作中に提示した条件や制約の範疇で、作中に提示された不利を覆す点にあると思う。しかしこの結末は別に直哉が中村圭を追い越す十分なロジックになっていなかったように思える。この論点でいうと、中盤の絵画対決とかは悪くなかった。長山加奈が「芸術は差異を求めるが大衆は反復を求める」ロジックによって氷川里奈(アリアホーインク)に一矢報いるシーンは痛快だった。やや文章に冗長さを感じないこともなかったが。
加えて、これが直哉の真にやりたかったことだとして、いたずらに断筆期間を取って「買いかぶりすぎだ…」といった言葉で謙遜し、思わせぶりな態度を取り続けていた説明にもなっていないように思えてしまう。良く振り返ってみると断筆していた直哉が公的に創作を再開する理由は単に莫大な借金を負わされそうになったからである。
クライマックス部分の演出も微妙で、これ見よがしに血を吐いてみたり、残り2時間で会場につかなければならない状況にしたりするのも極めて人工的なクライマックス感が強かった。トーマスに「敗北ができる才人の凄さ」を語らせたりするのも、喋っている内容は良いのだが、作者の入れたかった注釈を無理やり挿入したかのような唐突感があった。藍との恋愛も結局根幹の芸術観的な部分とあまりシンクロしていないように感じてしまった。
Ⅵ章は最もどうでもいい章であった。なんというか今更この作品で凡庸なエピローグを見せられても読後感が良くなることはなかった。昨今の風潮に応えているのかもしれないが、適度な余白があった方が物語とは美しくなるのではないだろうか。まさしく「無駄なおしゃべりは、身体を濁す」を地で行っている気がしてしまった。
総合的に言えば、一応論理は通っているものの、作中で触れられる幸福論・芸術論・バトル漫画的エンタメが高度に融合しているようには感じられなかった。部分部分をかいつまむと面白い部分はあるのだが。
このある種の凡作気味な部分はある種自己言及的に触れられているので意図したものと捉えられるかもしれない。V章冒頭で草薙直哉は自らが書こうとしている絵画について以下のように述べている。
「非凡は素晴らしいのだろうか……どのぐらい非凡なら素晴らしいのだろう……」「だから、君らが”凡庸でつまらない”というのは正しいんだ」「俺は、非凡であろうとは思わない」「名画であろうと思わない」
この作品の結末は凡庸であるかもしれないが、前作『サクラノ詩』から長い年月を経てこの作品を体験する読者はそれぞれ異なる印象を持っているようだ。このような混乱という唯一無二の体験、作中で投げかけられている美の体験の一回性を読者に投げかけるのが作者の意図なのかもしれない。
CGとかBGMは全般的に良かった。前作のCGが古びて見えるぐらい彩色面は進化している。特に恩田寧が青空の下で絵を描いているシーンが好き。作中のアートも良かった。絵は素人なので分からないが。心鈴のクリスタルの絵(禿山の一夜的な名前がついていた)は結構好き。ただ中村麗華とかの立ち絵が一種しかないのは手抜きにしか思えない。時間があった割にはアセットが貧弱な印象はいなめないかもしれない……