ヒロインとの距離感が素晴らしい作品だった。こういうのは本当は日本中どこにでもある場所なのだろうけど、夢を見れるのはやはり北海道か。
○藤川りるけ
北国の広さと空の青さには特別なものがあって、人は時々それにのみこまれて、ただぼんやりとその感覚に浸されてしまうときがある。そんな場所で生まれ育てば、広さと青さにどこか頭を吸い取られ、感覚を預けてしまったような、元気だけどどこか不思議な女の子が出来上がる。りるけや沙緒だ。淡雪のような都会的に見える女の子だって、北国の空の下では例外ではない。青は幸福の色、天国の色であると同時に、底なしの牢獄を感じさせる色でもある。
ロシアでは時々人の目まで青いから、頭が狂ったようになることもある。革命期の詩人たちは、内戦の中で青いユートピアを夢見た。「В этот день голубых медведей, Пробежавших по тихим ресницам, Я провижу за синей водой, В чаше глаз приказанье проснуться. この青い熊たちが/静かなまつげの中を走りぬけた日に/青い水の向こう/瞳の椀の中に目覚めの指令が見える」
「О Синяя! В небе, на котором Три в семнадцатой степени звезд, Где-то я был там полезным болтом. Ваши семнадцать лет какою звездочкой сверкали? 青い娘よ!/3の17乗の星がある空の中/僕はどこかの役立つ部品だった/あなたの17年はどんな星となって瞬いたのか?」
革命の気配とは無縁の能都萌町のネギ畑で、青い空の下、デート代わりにお気に入りのブーツをはいて主人公と水撒きをするりるけ。少々のんびりした性格なので、友達がなにやら楽しげに話をしているときはぼんやり微笑んでいる。口を開けばとんちんかんなことを言うけど、それでも楽しい。お年寄りとするゲートボールも楽しい。
りるけが主人公と結ばれて、朝ごはんがネギづくしではなく、普通のメニュー(ただし味噌汁はネギ多め)になったとき、少し寂しさを感じた。北国の空と同じように、ネギはりるけにとって寂しさと幸せをともにしてきた牢獄だったはずだ。そこからの解放は、しかし、喜ぶべきことのはずでもある。りるけの幸せの牢獄は、今度は、長い間思い続けていた人になったのだから。
○帆村淡雪
うまく語る言葉が見つからなくて困るが、とても心地よい近さの感覚を与えてくれる話で、田舎らしい素朴なテンポで進む話を追っていくうちに、すっかり雰囲気にのみこまれて持っていかれた。店の手伝いとか、引越しとか、それだけのことでこれだけ心地よいお話になるのが不思議な気がしないでもないけど、どこに目をつけるのかでこれだけ変わるのかということ。こういう空気感はやはり人の出入りが激しい場所では無理で、こんなふうに静かだけどだだっ広いところで、毎日同じ人と顔をつき合わせているうちに、相手のリズムやペースになじんでいきながら、少しずつつくられるものなのだろう。初対面の人にも覚えてもらいやすい「キャラ」とか、お礼や謝罪や依頼などの強い言葉で周囲と自分を塗りこめながら、なんとかその日その日をまわしていっているような社会人には、ほしくても手が届かない生活だ。二人は田舎を離れる前に結ばれたけど、また田舎に戻ってきたのはそのためだ、などと安易に結論付けてみても意味はなく、一度結ばれればどこにいても関係はないのだろう。都会に出たがっていたのは消えた主人公の代償だとか、髪を伸ばし続けていたのは情の深さの表れだとか、そういう記号的な読み方もできるのだろうが、それよりもこの広くて寒い土地で互いのことを思いながらつつましく生きていく、その幸せの感覚のほうが印象的だ。エロゲー的などぎつい設定は控えめなので、幼馴染という元来地場性の強い属性がよく生かされている。りるけルートの余韻は素晴らしかったが、この淡雪ルートもトゥルー感が濃くて幸せな気持ちになった。
○藤川灰音
田舎の人の性欲はすごいですね、という感じで、お望みどおりきれいなお姉さんに持っていかれた。
○風真沙緒
以前、さくらむすび(と魔法はあめいろもだった気がする)の感想を書きながら、「もっと密語を」という品のない要望を口にしたが、その要望に全面的に応えてくれた唯一といってもいいエロゲーが最果てのイマだった。密語なんて言葉が本当にあるのかしら調べないまま適当に造語したけど、元ネタは19世紀前半の詩人たちが仲間内で作り出していた、内輪空間の言語感覚をギンズブルグ(フォルマリスト・トゥイニャーノフの弟子)が評して言った用語(インチームヌィ・ヤズィク;英語はインティメイト・ランゲージかな)。ヒロインとの間だけの特別な言語関係を取り結ぶことができたら、その距離感やラブラブ感はいやがおうにも理想的なものに近づくだろうという目論見だ。盲点は、エロゲーというインターフェースの問題で、ヒロインがその親密な制約言語にエンジンをかけた場合、主人公がそれについていけないとコミュニケーションの不全感が生じ、主人公がついていけてもプレイヤーがついていけないとプレイヤーは疎外感を感じるということだ。小説なら仲良し空間が形成されるのを第三者的に見守って楽しむだけなので問題ないが、エロゲーではヒロインが欲望の対象であり、ヒロインと親密な関係を取り結ぶことを欲望しているのはプレイヤーなので、主人公はヒロインについていける器でありながらプレイヤーの邪魔はしないというバランスを取ることが要求される。こういうことができるのは田中ロミオのような器用なライターくらいで、大抵の場合は、密語コミュニケーションはそのベクトルを変え、ヒロインを極度に幼稚化して(+主人公を朴念仁化して)、インファンタリズムによってコミュニケーションの純度を確保する方向に走る。最果てのイマでは言語的な妙技の他にも、プレイヤーにきれいに接続するために、主人公の特権性が大掛かりな設定上の仕掛けで担保されていて、全体として見事な職人芸のような、完成度の高い作品になっていた。
本作『春萌』をやってみたのは、論集30x30を読んで沙緒ルートを書いた夏葉薫氏の作品に興味を持ったからで、そういう幸せな言語空間を見ることができるのではないかと期待していた。結論から言うと、方向性はまさにその通りだったけど、本作は居心地の良さを追求した快楽装置ではなかったようだ。一部のネタにすぐに反応できなかったということもあるが、主人公がわりと普通の人で、普通に沙緒についていけなかったり、舌足らずになって「愛してる」の連呼で押し切ってしまったり、普通にナンパ男的なうっとうしさやがっつきぶりがあったりしたため、理想の親密空間にノイズが混じるように感じられたからだ。
でもそれだけで終わる作品でもない。沙緒も、主人公もライターも(おこがましいけどプレイヤーである僕も)、若い。理想の恋人とのコミュニケーションを求めてあがく。そこには、最果てのイマのような枯淡の境地とはまた別の、真摯な希求があると見たい。北海道の田舎という土地柄が感じさせる若さと寂しさもよく似合う。身体の持つ官能性は冷たい空気に冷やされる。そして、沙緒に美しい目で涼しげな眼差しを向けられながら、彼女も同じコミュニケーションを求めている幸せを感じることができる。