ここまで本気で作ってくれて感謝。面白い感想は書けませんが、作品自体は面白いです。ストーリーや設定だけではない、夢の詰まった作品だと思いたい。本作の特徴の一つは、三人称のいわゆる地の文に、萌えのあたたかな眼差しを導入したことかも、などと2周目をやりながら思う。ロミオテキストの散文的な饒舌さが、うまい具合にやわらかくなっている感じ。「わたし-あなた」関係が中心のエロゲーにとって、これは前進なのか後退なのかよく分からない。(2008年10月19日、2回目プレイを終えて長文追記)
ただしテキストは荒削りで、設定に抵触しない範囲でもっと据わりのよい言葉を使うべきところや、(悪い意味での)奈須きのこの文章のような、みっともない力み方すれすれのところがけっこうある気がします。OPの文字のフォントいじりの演出も過剰だと思います。
知的な過剰さの副産物なのでしょうが、良くも悪くも散文的で言葉にアウラが足りない感じ。例えばkeyのライターのような感性があれば鬼に金棒なのにと思ってしまいます。もちろん、本作のテーマは哲学や工学に大いに関係があるのでこれは致命的ではないし、このままでもすでに鬼だけど。
(追記):再読・味読に耐える文章だった。ピアノBGMとの相性がとてもいい。掛け合いも一発ネタの応酬ではなく、緩急の変化をつけながら滑っていく感じなのがいい。
シナリオ以外では、システム・演出・音楽・絵ともによくできています。心地よい統一感があってトリップしそうになる。
朱のアラミス、車輪の国のまななどのように、子供(あずさ、さやか)の立ち絵が印象的。もちろんそれ以外も(特にあずさと葉子)。
音楽はCDがラジカセで聴けないのがとても残念ないい出来(←ある程度解決しました。イマのwikiを作ってくれた方々に感謝。でもサントラも買ってしまうかも)。
2周目をやったら感想も変わるかも。今書けるのはこれくらいです。
以下、2回目プレイのプレイ日記をダラダラ載せておきます。僕の頭がだんだん模倣子に感染されていく過程となっているようです。
文章が下手だしいろいろ頭の悪いことが書いてあって恥ずかしいですが、ひまな方はどうぞ。
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5ヶ月ぶりくらいに、最果てのイマの2周目の続きを少し進めた。ロシアの人に田中ロミオの話をしたりイマスレを見たりしているうちにやりたくなってしまったのだ。やはり完成度の高いゲームだ。シナリオばかりが褒められるけど、音楽も素晴らしい。シナリオは優劣を比べてもあまり意味がないけど、音楽と総合的な視覚演出では、最果てのイマはクロスチャンネルより確実に一回り上のレベルだ。今日はちょこっとしか進めていないけどへぇーと思ったことは、忍の夢に出てきたんであてにならないけど、登場人物たちはゆとり教育世代の子供なんだそうな。そうか、僕がああいう友達や聖域に恵まれなかったのは、世代が全然違うからなのか。うらやましいな、未来のゆとりジュニア。なんていう戯言はさておき、楽しい掛け合いを聞きつつ、イマの語りに耳を傾ける。そして忍が唯一自分に課しているという、一日一日を精一杯生きるという平凡で力強い目標を読んだところで、今日はセーブ。
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ニコニコ動画で最果てのイマのプレイ動画を見てしまい、久々にイマ起動。あずさルートの1週目が終わった。初回プレイと違ってがっつかずに読めるのがいい。CGも改めて見ても神がかっている。エロゲーの2周目をするなんてかなり不毛なことかもしれないが、この残り少なくなった連休に、ゆったりしたいい時間を過ごせた。子供時代の話は相変わらずいいし、お散歩あずさもいいし、これだけでも読み応えあるんだから、いったいどれだけ詰め込まれた作品なのかと。でもなんで森の中で終わってしまうのか、よく分からん。忘れてしまった。暴力的なエラー。あずさとの絆は絶対に切れない固いもののはずなのに・・・。
エロゲーにはイマみたいなサプライズを次々に生み出す力あるものかと思っていたけど、どうやらそうでもないらしい。この作品はもっと大事にする必要がありそうだということで、imaのタグを作ってみた。何しろESに投稿した感想があまりに貧相なので。まあ、プレイ日記を書くにしても、果たして完走できるか怪しい。残念だけど。
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笛子はキャラクターが曖昧だから(一般人に近い)、キャラよりもそれを取り巻く環境のほうに目がいくかも。家では千鳥のねっとりと張り詰めた視線に縛られて息を潜める忍にとって、工場での時間は錆色に見える穏やかで心地よいものだそうだ。錆色。ちょっと距離を置いているようであり、ぎりぎりのバランスで成り立っているような身内の空間のようでもあり。そのこもってしまいそうな空気(若者たちばかりが集まってもこもるものはこもる)にさっと吹き込む風が、庭のお茶会の風だったり、イルカのイメージだったりするのか。フランの知性と笛子の知性は質が違う。だからキーホルダーをあげた。
妄言です。ストーリーあまり覚えていないので。確かこれからサブキャラが登場したりトリックがあったりして、話がめんどくさい方向に進むんだよな。笛子が粘着質になっていき、そんな自分に疲れていく過程、って言ったら乱暴かな。
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笛子シナリオ1周目は、やはり最後まで何やらよく分からない。というか他のヒロインの1周目とは違って、あまり完成させようとはせずに前置きっぽい段階で終えているのかな。1周目では都市伝説的な雰囲気で引っ張っておいて、最後は矛盾する展開とスパイという種明かし。次周へ続く。シーンのつなぎ方の謎。ボウガンの解説が出てくるのは都市伝説的な雰囲気のためでとりあえずいいとしても、死ぬ順番の話をあずさにさせるのは何で?人死にが多いこのシナリオにおける、聖域の解体の可能性の話として?夕焼け空に向かって木から飛ぶ子供と壊れる姉の話は伏線でいいとしても、あのタイミングで挿入されるわけは?ピースがちぢに乱れるにしても、その乱れ方には何かの必然性があるはずなのに、それがつかめない。というか、音楽と雰囲気でうまくまとめられてしまっているような。
続いて沙也加1周目。こちらは本作のテーマ的な部分がけっこうストレートに語られるので分かりやすい。いや、あの墓参りで禅問答みたいな対話は分かりにくいけど。ヒロインを対等な個人として尊重し、相手の領域に踏み込む責任を持たないせいでバッドエンド気味になるのが1周目ということでいいのかな。だとしたらあずさ1周目はバッドエンドにすら至っていないということになるので、このまとめ方ではおかしいか。演技としての優しさだったと沙也加は言うが、そんなに思いつめないでくれよ。頭いいのに何でそんなに短絡的になるの?それほど追い詰められていたのか、それほど長い間抱え込んでいたのか。それは後からシナリオを振り返っても取りこぼされる、音楽や空気で表現される領域なのかも。笛子シナリオで「そうか、君の外見が好きだったんだ」と閃いた忍を理解するのは難しいが(真面目に言うと、沙也加と違って、笛子は本当に他者っぽいということなのかな)、沙也加の美しさについては、エロゲーなので表情の種類が足りないのは諦めるとして、文章と絵がきちんと調和していると思う。しかし何とまあ年上っぽいヒロインか。こんなのと付き合ってたら気力が持たない。そしてそこがいい。こちらにだらける隙を与えず、背筋のまっすぐな、和風なカップルになれるんだろうなあ。しかも時々甘えさせてくれるし。・・・・・・。茶道(思わず僕も正座した)があれほど官能的なものだとわかったのは沙也加のおかげ。いいなあ、沙也加・・・(語彙が尽きた)。そしてまた謎が少し。沙也加が姿を消したのはなぜか。忍が依存を受け入れてくれず、「外」に向かったからか?そんな流れだったっけ?あー、笛子もだけど、この辺はユーザーとかそういう話なのかな?このシナリオ内では閉じられないのかな?あと、葉子はなぜ、沙也加の屋敷ではなくて商店街を探すことを勧めて、その後消えたのかな。どうでもいいことかな。
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最果てのイマの、1周目葉子シナリオの緩やかな語りに聞き入る。ことあるごとに開いては読み、それが習慣と化していた母にとっての聖書に似ているのが、大げさに言えば今の僕が最プレイ中のイマかもしれない、というような心地よさを時々味わえる。こうやって忍のように、イマのようにゆっくり物事を反芻し確かめながら生きていけたらいいだろうなと思う。頭の回転が速いと周囲の物事の速度が相対的に落ちるとかそういうのは措くとしても、僕にはそれができないからこうして彼らの世界の速度に思考を調弦できるこの作品のありがたみを感じる。人に頼み込んで物事を動かすという集団の倫理は、この作品ではいろいろな形で幾度も描かれているけど、会社勤めをするようになって、失敗して、上司に尻拭いをしてもらうようになってから、その辺の不如意な感じとかいつか代価を求められるということに対する眩暈のような感慨とか、そういうことをやんわりと伝えてくる千鳥とのエピソードが悲しいっす。頭痛を忘れるために目を閉じて、記憶のストックの中から飛び切り上質な思い出の封を切る、と語り始められる子供時代のアイスの交換と、新しい言語世界に幻惑される葉子の話。心地よくすべるイマの語り。なんか再話するだけで感想の代わりになってしまう。ジャーゴンの世界の魅力は言葉そのものだけによるのではなく、それを話す集団の雰囲気に強く左右される。その意味では僕にとってはネットやオタク界隈のジャーゴンは言葉そのものとしてはとても機知に富んでいて楽しいけど、雰囲気として目指すべきものは、大学で所属していたサークルの心地よさの記憶を200%くらい美化したものかもしれない。そのサークルに所属していたといえるのはほんの一時期だし、僕はそこであまり溶け込めていなかっただろうし、今では思い出すこともほとんどないし、活動としてもメンバー的にもおもしろかったのは別の歴史のサークルの方だったし、そんなことが当てはまるのがそのサークルだけということでもないのだけど、あそこでは一瞬何か明るいものの片鱗に触れられたような気がする。その何かを得たという勘違い?の一点において、基本的に人間嫌いだけども、今でも僕は仲良し集団的なものの心地よさの実在を心のどこかで信じることができていると思う。そんな集団で使われるジャーゴンはこそばゆいような魅力を持っている。でもそんな集団は自覚的に狙って作れるものだろうか?幸か不幸か、いつも結果的に振り返ってみたらそうなっているということが多いような。忍は自覚的に作っている、というネガティブな思考に陥ることがあるけど、本当にそんなことができるのかは解けない謎のままで、ただそういう仲間の雰囲気を享受しながらいろいろあがいてみる、というのが田中ロミオの結論。分かりにくいところが多い最果てのイマの中でも、これが最も魅力的なテーマの一つだと思う。
余談だけど、そういう雰囲気が現在の延長としての子供時代の回想の中で描かれているのだから、田中ロミオの描く「子供時代の思い出」は鍵ゲー的なエロゲーのお約束として機能する甘いトラウマの過去ではなく、あくまで現在の延長としての過去となる。鍵ゲーのフィクションは現実を呑み込むほど恐ろしいフィクション(おとぎ話という言い方はあまり好きじゃないな)であるのに対し、ロミオゲーのフィクションはフィクションとして自律することを許されていないというか。その善し悪しはよく分からない。
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あずさルートの2周目が終わった。カテゴリー2になると「戦後」のエピソードらしきものがいくつも入っているらしい。よく分からないが。デートに誘おうとするあたりの話は戦前だけど、その次のエッチシーンは戦後とも取れるような気がする。そう見たほうがあずさがあんなふうに泣き出したことをもっと読める。その次の「章二の要求」は戦前だろう。そしてそのあとONEのような話になってしまう。世界から人がいなくなり、このルート自体がイマの作り出す迷路の一分岐にされてしまったらしい。あれだけ聖域を壊すことを恐れていたのに結局壊れてしまったのは何が原因だったのか、「納得いくまで何度でもやり直しなさい」というイマは明確に敵ということになるわけで、あずさと結ばれる→人がいなくなる→あずさとまた出会って世界が新しく始まる、という流れを単なるイニシエーションの象徴みたいな解釈に落とし込みたくはない。真相は藪の中(考察サイトはまだ読まない)。出迎えるあずさの笑顔に不安なものを感じ、これはあずさの顔をしたイマなのではないかという気配がしたとしても、そういう微かな不安は抱えたままでもあずさを選んだことは正しかったと思わせるような不思議なシーンでした。
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沙也加に続いて笛子と葉子のシナリオも終了、戦争編も終了。沙耶加は究極過ぎてすぐに二人だけの世界になってしまうけど、笛子は和気あいあいとおしゃべりできる友達的な場所なのにいつのまにかエッチなことに、という・・・これはこれで実はおいしい。葉子については改めて言うまでもなく、怖いくらいこちらのペースに合わせてくれるのがいい。1回目のときには読み流してしまったが、疲れ果てたシャーリーの「今」もよかった。さすが赤毛のアンを熟読してから唾棄しただけある。2回目プレイの戦争編はいい意味で短く感じた。この簡潔さを忘れると邪気眼的な方向に行く。
そしてついに終わってしまった。2回目は途中で間が開いたりしながら2年以上かけて進めたということもあるけど、ループ構造で繰り返されたエピソードにも気づかず読んで楽しんでしまえるような心地よいテクストだった。BGMの印象もあるかもしれないけど、田中ロミオのほかの作品も含めて、ここまで伸びやかでありながら抑制が効いた文章はエロゲーではなかなかお目にかかれない。言葉のニュアンスやイントネーションにかなり丁寧な配慮が行き届いていて、呼吸や音楽に合わせて流れていく言葉。言葉は使われるのではなく、かといって自意識の罠に囚われたり背伸びして気取ったりするのでもなく、音楽の即興演奏か何かのようにくつろぎ、滑らかに変奏されていく。配慮が行き届いていなければ親密さは馴れ馴れしさに転落してしまう。自分の神経が行き渡る空間、自分もくつろいだ即興の一部となれるような空間こそが幸せが可能となる空間であり、いくら身体感覚や世界認識が拡張されてもそれだけでは膨張する宇宙のように寒くて乾いてしまう。そんな作品の「内容」が、近い距離の文体という「形式」によって実現されているかのような感覚。設定が上手すぎるということもあるけど、設定だけに還元されるものでもない。この作品のフルボイス化が難しいというのは。模倣子感染や脳腫瘍云々を脇においても、作中の各キャラはある強度を持った個室的な場の空気に同調しており、あるいは同調したものとしてテクスト化されており、音声化による物理的な具体化は怖い。声は硬い。偶然は排されねばならず、排されない偶然は馴致できるものが望ましいはず。
大きな物語的なものがすでになく、ひたすら目の前にある現在を楽しみ、洗練させる。少年マンガ的な試練とその克服(エロゲーで言えばHello,worldとか)はなく、学園祭やら海やらといった萌えゲー的な行事もなく、ただサロン的な場所に集まったおしゃべりをしたり、集団登校しながらおしゃべりをしたり、散歩に近いようなデートをするばかり。身内というのは少なくとも意識の表層では性的な欲望の対象にはならないから、「聖域」での仲間をそういう目でばかり見るのは無理があり、その意味ではエロゲーの王道とは言えないかも知れない。だが美少女ゲームの真骨頂は日常を楽しむことにあるという言葉が実感できるという意味において、ただのキャラ属性確認的なうすい掛け合いとは一線を画したこの作品は美少女ゲームの王道だと思う。そしてそこにいたるまでに周到な態勢を調えた上で、これだけの今を作り出した田中ロミオの(この器用なライターさんにとっては珍しい、と思う)誠実さというか、本気が感じられ、こちらとしても作品として好きになれた。
参考:福嶋亮大氏(批評家)の『最果てのイマ』試論。さすがはプロ、整った内容。http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/dd7b948890ae91bd15e4a59e69247dbb