あんまりきれいな音楽を鳴らさないで。暗い話でしょこれ・・・
「柚木式子は物語を持たないかわいそうな娘でした。渡会泉は物語を与えられました。まだ主人公はなかなか好きにはなってくれないけど、でも全てを投げ打って、きちがいみたいでどうしようもない主人公についていって必死にアピールして、一緒に逃げて、金色夜叉やって、最後にはやっとお互い離れがたい存在になって、よかったじゃないか。逃避。らくえんの杏、イリヤの空。OP作った人つながりってわけじゃないけど、何だかイリヤの空のときのような加速していく悲しい感じ。BGMのせいも。音楽がよくあった作品は久しぶり。これDL版でBGM抽出できないのが惜しい。西尾維新みたいな饒舌だけど擦り切れた言葉を使う、西尾維新みたいにそれがだんだん悲しく必死になっていくテキストに、秋空のように澄んだテクノだかプログレだかの音楽がついたら。智代アフターのように軽い線と白っぽくて明度の強い色彩がついたら。」
というのが泉エンドを迎えた時点で書いた駄文ですが、この後だいぶ暗く重くなりました・・・。まさにあの後で戻って再開した選択肢から。そのためかえってあの泉エンドが引き立つ。泉は失敗したクリスチャン。ああ、いいツボを突いてくるよ、この展開は。式子だけではなく、イッポリートや病院坂の盟友ですね。なぜ、結構丁寧に聖書やクリスマス礼拝のエピソードが描かれていたのか。ここにライター氏の抱えるテーマを見てみたい。一般向けに本から仕入れた知識みたいな説明の仕方がされていた部分もあったけど、僕はライター氏が実際にも結構キリスト教の近くで育ち、その人格形成の上で無視できない影響を受けたのではないかと思った。エロゲーのモチーフとしては珍しいということもあるのかもしれないが、聖書や教会との泉の距離の取り方がリアルに感じるのだ。キリスト教に納得できず、そこから離れたからこそ、厳しく真理を求め、知識や論理に溺れる人間になっていく。そこからも解放された泉との逃避行のなんと悲しく楽しいことか。
本作は近代ヨーロッパ文学、特にわれらがドストエフスキーとの親和性が高いように思う。弛緩したりまったりすることを知らず、神や規範に追い立てられるカッチリした窮屈な個人の文学。でもド氏とは違い瀬戸口氏他は信仰は持てなかった(日本人だしね)。ソーニャこと理紗は聖書を読んでもその厳しさについていけなかった。聖なる娼婦ではなかった。ただ悲しんで従うだけ。ああでもそれが聖なる娼婦っていうことなのか。最終シナリオは理紗の語りなのに、その語りは核となる部分をぼかす。理紗の抱える罪の強迫観念が曖昧なのだ。父の娼婦となったこと、武の娼婦となったこと。これが理紗の心をどれほど暗いものにしたのかについては、「アイドル」的なところのある理紗の口からはうわ言のようなぼんやりしたものしか分からない(ついでに言うと、ソーニャ・マルメラードワについてもある意味同様かも)。これ以上重くて凄惨なシーンを増やしてプレイヤーを疲れさせることを避けるための、賢い作者の配慮という部分もあるかもしれない。あるいは、陵辱に慣れたエロゲーマーの馬鹿頭には届きにくくなってしまったのかもしれない。理紗がなんであんなに苦しまなければならないのか、よく分からない!そこにこの作品一番の悲しい魅力があるような気がする。理紗がいい子の仮面をつけなくてはならなかったこと、仮面が皮膚に張り付いて笑おうにもきれいな笑顔しか作れなくなってしまったこと、そんなことはぜんぜん普通じゃないか、程度の差はあれみんなそういう歪みは抱えているものだろう(なんか失礼なこと言ってますね)。0か1かを要求してくる現実の世界で、その選択肢の設定の仕方がたまたま意地悪だったから、こんな風に酷いほう酷いほうへと転がり落ちていって、最後に逃避することに決めたんじゃないか。これはハッピーエンドだろう。泉も理紗も。そう考えて満足してしまっていいものか。それとも、理紗がなんだか柔らかくてつかみ所のない声や性格をしているからこそ、そんな風にして小さい頃からおとなしく汚されることに慣れながら育ってきたからこそ、プレイヤーにとってはいつまでも暗闇、というか曖昧な薄闇のような存在になっているのだろうか。
あとは細かい印象とか。2章の武は普通の乱暴だけどいい奴キャラだったなー。なんてこと言うと陵辱や暴力への感覚が麻痺しているか。こんな普通の奴に理紗を貪られていたところに本作の暗さが見える。それに理紗の父(書きたくないが)。書かれないからこそ嫌らしい気持ち悪さ。
音楽は「夜の情景」と「マイホーム」。どちらも曲名とはあまり関係ないシーンで使われるいい曲。特に前者は学が誰かと会話しているときに流れると一気に「終わり」っぽい雰囲気になってくる卑怯な曲。綺麗過ぎて安易だろうか。ONEの追想みたいにとっておきのところだけで使う節度が必要だったろうか。こういう曲は麻薬みたいなものでしょう。何で吸い出せないのでしょうかorz。「マイホーム」のほうは音楽だけ聴くと明るくて軽い感じだけど、作中のやりきれない話の背景で流れると不思議なことに。家族計画でもそんなのあったなあ。
絵は線や色に勢いがあって好きだけど、鍵ゲーや天いなに感じたようなリアリティは弱い。目の描き込みが他の部分と同じレベルだったり、表情バリエーションの差異がはっきりしすぎていたりしたからか。非エロイベント絵も一義的過ぎ。観賞用というよりは説明イラストに近い。髪の毛が様式化されている。でも好きな絵柄なんで、このスタイルでも危険な現実感を表現できることをそのうち証明してほしいものです。泉のH絵でよいのがひとつ。
音楽と絵がないのはとても寂しいが、小説版は今度探してみよう。
これはプレイヤーを巻き込む陵辱物のエロゲーだけど、サブキャラたちの陵辱は割とあっさりしている。結局、重い話が読みたいのか読みたくないのかわからなくなる。この宙吊りな感じが暴力的。なにやってもだめなものはだめ、こういう状態になってしまったらとりあえず誰かと逃げるしかない、その相手を見つけるまでにこんないつらいことがあるのかやはりという作品だった。感想がまとまらない。
(追記。07年2月15日)
こんなに中毒的にはまったのは2005年10月にやったうたわれるもの以来かもしれない、CarnivalのBGM。「夜の情景」を一日に20回とか聴かないと力が出ない。聴いても逆に吸い取られているのかも知れないけど。さすがにそんな感じで3日も経つと底が抜けてきてしまって、物語の印象がだんだん歪んできてちょっと後悔している。この3日の間に試行錯誤した結果、結局パソコンのレコーダーからBGMを録音して、それをちょっとノイズカット編集して、CDに焼いてから携帯プレイヤーに取り込んだ。多分CDなんて売ってないだろうし、音質はあまりよくないけどこれで我慢するしかない。吸い出そうとしたけど、苦労してやっと出てきたOggファイルがなんか再生できないやつで行き詰ってしまったのだ。でもできた頃にはもう飽き始めてしまっているんだよなあ。
本作の絵について補足、というか訂正。絵が説明的で一義的過ぎていまいちだ、なんて書いたが、音楽を聴きながら通勤途中とか眠る前とかに思い出していると何だかじわじわと沁みてきた。エロゲーの一枚絵は構図とか質感とかで静的というか観賞用にしっとりと止まっている感じの絵が多い。本作の川原誠さん(とグラフィッカーの人たち)の絵は、動いているのを一瞬だけ止めて、次の瞬間にはまた動き出しそうなのが多い。描画法とかのことは専門的には全然知らないのであれけど、ようするにバネが効いた感じの輪郭やポーズ。これが一番よく効いてくるのは子供時代を描いた一枚絵。あのデモムービーに出てくる子供理紗と子供武のカット、あれ、いい。あのシーンと重なるボーカルのメロディも。あの止まった一瞬はあまりにも濃すぎる一瞬。つまり、描画法が静的で観賞用的で抽象的で自律的であることと(すいません、言葉の使い方めちゃくちゃです)、その絵が鑑賞者にとって多義的で開かれた、濃い印象を与えるかどうかということは、別に因果関係で繋がっているわけではないと。その絵が自律的でない説明イラストだったとしても、その説明すべきシーンが物語の中でどんな機能を担っているかによって、きわめて雄弁な絵となることもある。萌えオタを右派としては、萌えは属性や記号ではなく物語の有機的なつながりの中で醸成されるべきものと見るので、こんなふうに濃い一瞬が鮮やかに切り取られていると唸らされる。そういえば昔読んでいたフォーチュンクエストのイラストもずいぶんお世話になった。
Hシーンの絵については、一番残念なのは目をつぶっている絵が多いこと。エロ絵はできれば自律的にエロくて美しいものがよい。止められた一瞬ではなく行為の最中ですから。ただし前戯的なパートではそういう面白い一瞬を捉えるのもいいと思う。というのも、ロリキャラエロ要員として以外はほとんど意味のないかに見える麻里の、あの綿飴を持っている絵が印象的だから。あのねじれは幼女の身体の魅力を見事に描いていると思う。別にポーズだけではなく、どのキャラもそうだけど、顔の輪郭とか線がいいのが多い。立ち絵の表情の種類は多く、しかし各表情のニュアンスはあまりはっきりとデフォルメせずに微妙なほうが繊細な表現ができる、という法則があると思うけど、この川原氏みたいな線の絵は、立ち絵表現も何か違う方向性を目指す必要があるのでは。正直僕には何も思いつかないけど。
(追記。07年3月11日。小説の感想)
遠い。遠くなる。読みたいはずの二人の幸せな時間については、回想っぽくさらりと触れられているだけ。ゲームではそこはこれまた不確かな形で暗示されていただけのに。山登りや温泉や何やかやはあんまり思い出すべきこともないような遠いことだったのだろうか。やはり楽しいことはあまり書けないのか。コタツとミカンについてもそう、いちいち壊すための幸せというか。理紗の弟の視点から書かれているのは、これが遠い話だからで、それはいつか呉茂一の再話するギリシア神話のダイジェストで、登場人物達の喜びや悲しみがさらりと内側から膨らませられるように描かれていたような感じで。オタクメディア(に限った話でもないが)は受け手の欲望に忠実であろうとした結果、本来は軽く暗示して受け手が自分の中で反芻するべきものを、異常なほどに引き伸ばしたボリュームで描こうとし、創作上の課題としてそれはそれで困難で素晴らしいものだと思うけど、失敗したときにはかなり無様になる。本書が理紗の弟の視点による語りという距離/縛りを選択したときに取った態度は、心理的な壁を作るという以外にも、ゲーム本編と小説版後日談という落差を生かしたものだし、だからこそ冒頭のプロローグや作中の学や理紗のセリフが映えるのだろう。理紗はあの後どうなってしまうのか。洋一とサオリへ目を転じて理紗を忘れることは無理なわけだし。みんなには老けないでほしい、若いままでいてほしい。子供の頃の鮮やかな記憶を持ち続けてほしい。でも引き伸ばされた一瞬にはこだわり続けることは禁止されている。女々しいの好きなのに!終わらせたいのに続いてしまうことと、続いてほしいのに終わってしまうことと。