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vostokさんのBLACK SHEEP TOWNの長文感想

ユーザー
vostok
ゲーム
BLACK SHEEP TOWN
ブランド
BA-KU
得点
80
参照数
38

一言コメント

いつもそこにある死の物語。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

 やはり心の健康のためには時おり瀬戸口作品を読むことが必要なようで、ヒラヒラヒヒルから1年半くらい開いてからだったので栄養が染み渡る感じがした。本当はもっと早く読みたかったけどSteamはログインのパスワードを忘れてしまい何だか面倒そうなので放っておいたら、ありがたいことに安価な物理パッケージ版が昨年末に出ると知ってようやく手に入れることができた。デフォルメ強めのマンガ寄りのキャラデザなので少し不安だったが、始めてみるとすぐに慣れ、小さな口絵のようなキャラ表示も見やすく、まばたきしたりゆらいだりするアニメーションもとてもよかった。女性キャラはちょっと目が大きすぎる場合もあるけどみんな可愛く、男性キャラはジェフリーとかフェルナンデスとか渋いおっさんが特によかった。控えめなアコースティックな感じの音楽も疲れなくてよかった。声なしだったがテクストに集中できたのはよかった。

 ギャングややくざ物のジャンルには詳しくないのでジャンル的なリアリティがどれくらいあるのかよく分からないが、Y地区という町の雰囲気が五感で感じられるように何度も重層的に描かれていて、読み物として面白く、没入感があったのはやはりノベルゲームならではだ。たくさんの登場人物のモノローグ(アーカイブとされる「作者」のモノローグも)の語り口からもその雰囲気は感じられる。

 中盤から人がどんどん死んでいく。死ぬ前に何かを悟ったり、満たされたりする場合が多いので、そういうシーンがあると死亡フラグにように見え始めてくるし、知っている人がどんどん死んで物語終わりに近づいていくとひんやりした涼しさが漂い、そういう涼しさや無常観を抱えながらもそれまでと同じようにどうにか生きようとする人々の切なさがギャング物や殺し屋物の醍醐味なのだろう。この作品はそれを十分に堪能することができるし、瀬戸口作品のいつものツボもそれに近いところにあるようだ。さまよえる羊には暖かい毛が生えているので涼しいところでも生きていけるのだが、それを刈られて哀れな姿をさらすこともある。人生はどうやら苦行や悪夢のようなもので、人生の休日は死ぬときにようやく訪れるらしいのだが、それでも改めて振り返るとそうして生きてきたことに何らかのきらめきを感じたり、大変だったけどやりきったというささやかな満足感を得られることもあるらしい。でも基本的にはつらい。この作品で一番印象的だったシーンの一つは、太刀川先生が死ぬ前に、ミアオが死ぬ前に目を覗き込んで予想外に喜びの感情が流れ込んできて自分は絶望していたのでショックを受けたことを思い出したところなのだけど(ここでもBGM「南まで500マイル」がよかった)、ここで端から見ると苦行をしているようにしか見えなかった太刀川先生は、実は自分がずっとミアオの神秘的な喜びの影を追いかけていて、ミアオに何か恩返しをしているつもりで患者たちを診ていたと思い直し、ようやく安らぎを手に入れつつもこれまで生きてきたことを前向きにとらえる。他のキャラクターにも似たような瞬間はあって、欲望の町で自分の欲望のために行動しているはずが、なぜか無私無欲で人のために行動しているような結果になるのは不思議なことだ。何か自分なんてどうでもよくなるような大きなものに遭遇してしまう。うまく言葉にできないが、遠いローズ・クラブの時代や亮たちの子供時代が、現在との対比である種の活気や明るさ、子供らしい自由の感覚と共に回想され、同時に明るさだけではなくて現在につながる暗さや死の影の根源も既にあったりして、懐かしさだけではなく寂しさが漂うのも関係があるように思う。

 タイプBの発症や介護のテーマはヒラヒラヒヒルと共通している。たぶん、普通に生産性や効率を求める社会からは零れ落ちた要介護者が施設に隔離されることと、普通の人たちにとって危険なタイプBやタイプAがY地区に隔離されるのにはのには似たところがあって、亮や能見さんが「生産性」のない介護という仕事に安らぎのようなものを見出すのは、現実の介護業界で働いている人や身内の介護をしている人にとっては当たり前のことなのかもしれないけど、僕にとっては子供の相手をするのと同じで大げさに言えば生きる意味を考え直すきっかけになる。とはいっても実際には意味なんてものはなく、いつのまにか必要に迫られてやることなんだけれど、そんなことをいうなら人生なんていうのもいつのまにか必要に迫られてやることの連続なのかもしれず、生産活動である仕事と非生産的な介護や子守りは等価なのかもしれない。そういうことを思い出させてくれるような施設生活の描写だ。掘り下げはなかったけれど八龍会のボランティア団体としての活動にも似たような側面がありそうだった。

 人が次々と死んで涼しくなっていくが、最後はそんな時代を潜り抜けた4人が集まって終わる。これは物語をきれいに締めるために用意された演出のようなものなのかもしれないが、僕としては松子があんな形で死んだままだったらあんまりだと思っていたので嬉しかった。しかしその分、キラ☆キラやMusicus!にあったようなえぐるような読後感はなく、穏やかな終わりだった。瀬戸口氏は今回の作品では脚本だけでなく「監督」も務めたとあったけど、路地のしわざということにして、一度はこういうハッピーエンドもやってみたかったということなのかな。殺し合いばかり描く物語だからこそ、救いのある終わりに意味はあると思いたい。どうせまだすべては続いていくのだし。描かれなかったけど、しばらくしたら亮はシウにも会って、さくらがYSを抜けるか亮がYSに復帰するなんていう物語があったっていい。灰上江梨子のその後についてももっと読みたかった(最後の方でサーシェンカの前で泣いた後から一人称が「私」になってしまったので、それを区切りに新しい物語が始まったとみることができる)。……続編が出れば喜んで読むけど、まあ、軽く想像するだけにとどめておいた方がいいのだろう。ちなみに、tipsでは三芳の「捜査上の失態や問題行動が多く、完全に出世コースから外され、いまだにY地区でタイプA犯罪の捜査をしているが、本人はまんざらでもないようだ」にほっこりした。三芳(星<ひかり>っていう名前なのね…)の物語も面白そうだな。

 ロシア要素についても一言。瀬戸口作品には毎回何かしらの形でロシア要素やキリスト教要素が入ってくるのがちょっとした楽しみで、今回はキリスト教要素はほぼなかったけど(人身売買神父のエピソードは短すぎで、どちらかというとタイプB病院や八龍会のボランティア活動に教会的なものが感じられた程度、あとは作品タイトルにもなっている羊のイメージか)、ロシア要素の方は今回は直球できていて楽しめた。といってもいつものドストエフスキー的な思索や語り口は全編にちりばめられていてことさらロシアらしさが強調されているわけではなく、今回はゴーゴリ的な怪奇物というジャンルと(強いて言えばY地区という空間を活写する切り口も『ネフスキー大通り』みたいだったけどこれは別にロシア文学の専売特許というわけではない)、ギャングとクスリの自由で荒廃した世界が90年代やその影を残す現代のロシアとからめられていて面白かった。ロシアは奈倉有里さんのエッセイで描かれるようなインテリゲンツィヤの国であると同時に、ナイーブでダサいマッチョなマフィアの国の側面も残している。ロシアンマフィアという日本のフィクション作品で昔から描かれているようなダサくてガチな人々は確かに存在していたらしく、今でも時折90年代の亡霊のような男たちが逮捕されたり殺されたりすることがある。歴史的にはソ連時代の70年代くらいにさかのぼり(もっとさかのぼることもできるが)、ロシアの不良少年たちの間でのボクシングブームを支え(五輪強国であるスポーツ大国としてのロシアの裏面)、ペレストロイカ期から90年代にかけてはボディガードビジネスや様々なグレービジネスの端々に見え隠れしていた。有名なのはモスクワの巨大市場チェルキゾンとか。全国に様々な派閥があり、ジェム(極東最大だったコムソモリスク・ナ・アムーレのマフィアグループのボス)とかヤポンチク(モスクワの有力マフィア)とかカリスマがたくさんおり、特にモスクワ州リューベルツィやタタルスタン共和国は武闘派マフィアの根城として有名だった。ロシアで北野武映画の評価が高いのにはこういう背景もある。個人的には、昔モスクワの地下鉄で大きな荷物を抱えて苦労していた学生だった自分を助けてくれ、なぜかそのまま自宅でロシア語を教えてくれることになった無骨なおじさん(見た目はCMでコーヒーを飲む宇宙人を演じるトミー・リー・ジョーンズに似ていた)を思い出す。彼は以前にボディガードをやっていたが当時は妻はどこかのダーチャにおいて一人でモスクワのアパートで暮らしていたようで、殺風景なだだっぴろい部屋で子供向けの絵本を教科書に奇妙なロシア語レッスン(スラングを教えられたり、ラジオで一緒にクラシックを聴いたりした)を何回かやってくれ、ウィーンに留学中だった娘と見合いをさせられそうになった。ベズマーチェルヌィフ[母なし]という恐ろしげな名字だった。今思うに、ソ連で育って90年代に苦労して、娘を育ててようやく一息ついたら自分には寂しい生活しか残されていなくて、そんなときにロシアが大好きな危なっかしい日本人の若者と偶然知り合って、これも何かのめぐりあわせだと思ったのかもしれない。ありがたいことにそういう親切なロシア人との出会いが何度かあって、これは旅行とか出張とかではなく、時間のある留学生として行かなければできなかったことだと思う。それから当時のロシアには物乞いが多くて、いつも同じ場所で両手を地面について体をゆすっているおばさんの物乞いとか、自分にはいつまでたっても慣れられなくて通り過ぎるたびに心が少し波立っていたことも思い出す。脱線してしまったが、普通の人がいて、マフィアがいて、飲んだくれがいて、ヤク中がいて、インテリがいて、成金がいて、敬虔な正教徒がいて、オウム信者がいて、シャーマンや魔女がいて、それがごちゃごちゃにシャッフルされている悪夢や幻覚のようなものがロシアという国だ。と改めて考えてみると、今回の作品でロシア要素が現れたのはサーシェンカの来歴に限った話ではなく(ちなみに、ロシアには今でも近づくのが危険とされるグレートホールのようなオカルティックなスポットがいくつかある)、Y地区というのはロシアのエッセンスが瀬戸口フィルタを通して日本に現れたものとみることもできるのかもしれない。

 先日、保育園の保護者会で炎上案件があって、感情に振り回されやすい(「もやもやする」らしい)お母さん方が、ちょっとした間違いを犯した一人の母親を公開処刑的に追い詰めて退園に追い込んでしまって非常に気持ち悪い思いをした(悪者を守ろうとするような僕の意見は「優しい」「それが理想なんだけど」と褒められたが少数意見にとどまり、結局「安全」を求める「現実的」な若いお母さんたちの怒りやもやもやに押し流された)。Y地区では詐欺や窃盗はおろか人殺しだってしながらそれでもがちゃがちゃと生きていくのであって、人を殺しても誰かを憎む必要はないとうそぶく亮の言葉に、女の世界と男の世界は違うなと改めて不適切な感慨を抱いた。望んだ排除よりも望まれない共生や包摂の方がまだ健康であるというのは、ヒラヒラヒヒルと共通の瀬戸口作品のテーマなのかもしれない。

 ともかく、まさにあのシナリオチャートのような複雑な多面体としての物語である。そこにはいつも死が隣り合わせにあって、だからこそ人は生きている。そして自分にとってのそんな非日常の物語だからこそ、自分には必要な物語だったのかなと思う。