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vostokさんの猫撫ディストーション Exodusの長文感想

ユーザー
vostok
ゲーム
猫撫ディストーション Exodus
ブランド
WHITESOFT
得点
85
参照数
996

一言コメント

とてもやさしく心地よい作品だった。書き尽くした感のある見事な出来ながら、これで猫撫の物語が終わりになるのは名残り惜しくもある。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

 以下、プレイ順の感想です。ネタバレ多し。


●Exodus

 キリスト教を内側から、情念の側から取り上げたのが一連の瀬戸口作品だったとすると、猫撫Exではキリスト教は外側から、あるいは知性の側から扱われる(ライターが本当に信者だったかとかそういう話ではなく)。あえて悪く言い換えれば、意匠としてのキリスト教。または、骨組みとしてのキリスト教。なけなしの信仰心の萌芽のようなものを15年ほど前になくして以来、貪欲で弛緩した、神様のいない生活を続けてきた自分にとっては、出エジプト記をなぞる形で進行しながらも、中沢新一がよく使ったような言葉と流動体に関するニューアカ的なメタファーが、ししおどしの禅的な幸福感礼賛にスイッチしていく懐かしい展開は、どこかに悪意ある皮肉が仕込まれているのではないかという不安も感じさせる後味かも。それは今の自分には信仰がないという架空のかもしれない罪悪感、大げさに言えば原罪の意識から来ているものかも知れず、だとすると言葉の罠にはまっている自分はますますししおどしに頼らなければならないのではないかという袋小路。不安は強まる。十戒の契約を交わしたと思ったら、金の小牛もヨシュア記もなく出エジプトの物語は終了し、あっというまに黙示録の千年王国に、7つの封印の解放もバビロンの崩壊もなく飛ばされたのだから。僕がヨハネの黙示録を消化できていなくて気づかなかっただけならいいのだけど、深読みせずに普通に読むと、猫の十戒の辺りから先は聖書とのつながりが単なる脱力系のこじつけみたいになってきていて、あの神経症的な黙示録の恐ろしいイメージはどこにいったの、というかギズモとのエッチシーンに「千年の夢」(だっけ)というサブタイトルをつける、その冒涜的とも思えるセンスが怖くなった。・・・というのはまあ偽善的な身振りで、次の日にプレイ再開したら普通にするする読み進めてしまったという。

 前に論集向けの小文で、前作について「物語性の貧困さ、言葉のバイタリティの弱さというのは『未来にキスを』をプレイしたときにも感じたことで、同じ観測者のモチーフを扱いながら、観測者を空に浮かぶ不気味な目玉として描き、それに内側から反抗する青春物語だった『素晴らしき日々』とは対照的だ。しかし、本作の静的なたたずまいを「家族は揺らがない」というキャッチフレーズに重ね合わせて見るならば、ヒロインたちがそれぞれ見せてくれるものの価値が改めて浮かび上がるように思える」などとなにやら知った風なことを書いたけど、猫撫Exで持ち込まれたのはまさに定番中の定番とも言える劇的な物語構成の枠組みであり、組み立て方も凝っていて読んでいてとてもスリリングだった。誰がどの役どころを演じるのか、モーセは誰なのか?アロンは?ファラオは?神様は?というよう様なところを追いかけているだけでも楽しかった。小道具を見るなら、例えば、時間の空間化を因果性の崩壊や言語の融解とつなげるのとか(ゴミ、中国語の部屋装置、ギズモの新聞を読む振り、琴子のとんちんかんな受け答え)、それを旧約聖書的な「~と言った。そのとおりになった」の仕組みにつなげ、言葉で全てを埋め尽くして言葉自身を瓦解させてエデンの園に還ろうとする目論見とか。

 モーセは神様から預言者に指名されたとき、はじめは自分は口下手だからダメだと尻込みする。それを支えるのが神の奇跡であり、アロンの助けだ。アロンは琴子のはずだった。そして、40年間流浪を続けながらもカナンを前にして道半ばで死んでしまうアロン(とそしてモーセ)のように、琴子は脱出を果たせない。無実の琴子が楽園の礎となり、遠い時空を隔てて子羊ならぬ子猫として復活するのはイエスにもなぞらえられるのかもしれないが、そういう連想はエロゲーとしてはやはりしないほうがいいのかな・・・

 聖書では家族というのは、現代的な家族の絆とかいう意味ではあまり問題にならない。そもそもヨセフ、マリヤ、イエスという家族プラス神様と聖霊という組み合わせ自体が「内側」や「身内」というじめじめ属性と無縁で、きれいさっぱり概念の骨組みに漂白されている。女性といえるのは1人で、究極の処女崇拝的な世界観に守られているものの、エロゲー的なベクトルとは合わない部分がある。黙示録パートでの樹の言動に少しの違和感を感じるのはそのせいなのだろう。その意味で出エジプト記に取材するというのは題材の選択で失敗しているところがあるが、逆に言えば、失敗(=言語)を所与のものとしてそこから出発するのがこの作品のやり方であり僕に与えられた選択肢でもあるのだから、まったくの最短距離におもいきり直球を投げてくる話だと見てもいいだろうと思う。




●結衣 -Time is Money-

 認識にまつわる現象学的世界観の話が出て、結衣が悪魔から人間になったなあと思っているうちに終わってしまった。

 余談ながら、この作品をプレイする前に百貨店で安く売っている鉱石を集めだして喜んでいたので、石の話が出てきてなにやら嬉しかった。パイロープは見つからなかったけど、ガーネット(柘榴石)の一種は500円で売っていた。他にも薔薇水晶、水晶玉、珪化木、オレンジ方解石など、それぞれ猫撫のヒロインたちのイメージに合った石を集めて悦に入っていたという。手持ちの石でさらに強引にこじつけるなら、深い空を思わせるラピス・ラズリは電卓、のっぺりした、それでいて天上的超越感を漂わせるトルコ石は樹か。



●柚 -Awareness Human-

 邪道ながら、個人的には夏野こおりさんの声の魅力は前作では理解できなかったが(どちらかというと可愛くない汚れ役だったし)、Scarlettのアメリアの可愛い声で教育を受けたので今作ではフォローできた。シナリオ的にもそこは抜かりがなかったかも。

 作品世界に対する抗議者の役割を割り振られている柚が家族として取り込まれてしまうと、誰も抗議するものがいなくなる。常識的にも柚と結ばれるのが一番まっとうな落としどころであって、柚が受け入れられていく様子が描かれた終盤は、不協和音のない調和と充足感の雰囲気に満ちている。人は人と違うという大人の前提に立っていた柚は、家族になる過程であたかも少し子供なってしまったかのようで、偶然だけど、終盤の座ってカップを持っているCGでは柚は少し幼く見える。家族のロールプレイングをして、自分が相手と断絶があることを認識して、その儀礼を経て受け入れられていく、というとなんだかありきたりな話のようだが、前作で彼女が抱えていたものを考えるとようやく静かな入り江を見つけた柚を見て素直に喜べる。



●式子 -Role playing Organism-

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俺は、膝の上の母さんの下着を引き下ろしていた。
母さんの下半身は、月明かりの下にあらわになっている。
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 恐ろしいのは、主人公が式子を「式子さん」ではなく「母さん」と意識的に呼ぶのは本作ではたぶんこのシナリオだけだろうということ。母親と恋人が分かちがたいものとされており、しかも結婚式を挙げて皆に祝福されるという展開にはくらくらする。人妻コスプレ喫茶2で感じた近親相姦の妖しい雰囲気が濃くて大変素晴らしい。この不穏な空気は、平行する「現実世界」の式子本人からも祝福されるにいたってほとんど不条理とも言える域に達し、そこまで突き抜けたおかげで、本当に式子の願いと幸せというものを考えさせられるという流れはきれいだ。認識ではなく想像力が世界を構成し、祝福の連なりが人を結びつけるという式子のメッセージはとてもあたたかい。ほんわりした性格の合間に見せる立ち絵の真剣な表情も印象的で、賢くて正しい人だなあと。その彼女が選ばれるヒロインとしての喜びを伝え、独占欲を見せる。これ以上の完璧な母親ヒロインはありえないような気がする。



●琴子 -琴子色-

 下世話な話、琴子に関して一番思ったのは琴子頭でかいよということだった。大人びた造詣の顔なのにでかいからかなりおかしい感じの絵もちらほら。しかしそこを無理やり納得すると、琴子は体が小さくてやはり妹なんだなあとあらためて感じられたり。

 あと、このシナリオでは特に大きなイベントもなく、家族が出かけていなくなったらいつの間にか二人が結ばれてしまうのだけど、この含みを持たせたプロット進行が照れているのか策士なのか不明な琴子らしくて可愛い。



●ギズモ -メイド in world-

 言葉を覚えて世界を構築していくギズモをめでる、前作のシナリオを焼きなおしたものなのかなあと漠然と雰囲気を楽しみながら進めていた。ちょっと言語論的な話がくどいなあ、現代思想の概説書みたいだと思いつつ油断して、何で(ブレザーではなく)セーラー服が出てくるんだろう、これはどんな文脈のフェティシズムだろうかとか暢気に考えていた。今思えばフェティシズムが象徴するずらされたエロス、遅延されたエロスというのは言葉の構造そのものとも言えるし、反対に言葉を封じて沈黙や感覚に閉じ込める反言語的な方法とも言える、とかこじつけられるのか。

 ともあれ、全てはいわゆるフラグだったわけで、ギズモという存在の設定からして一番「もっともらしい」結末へ向かうことになったシナリオだった。そして同時に、言語を通じてしか進行させることのできないこの物語の限界を残酷なまでに鮮やかに見せつけられた。なにしろ、「選択肢」は言語で出来ていて、世界を選択肢に分割するということ自体が言語的な行為で、言語以外のものを選択することは出来ないのだから、あのギズモが人間になることは決してできない。

 ではなぜギズモはあのまま文字を覚えて人間になっていくことがなかったのだろうか。実は覚えていっていたんだけど、結局はああした形で残っただけで、当初の目的を果たすことはなかった。ギズモは樹の趣味の塊で、その欲望を反映して生み出されたものだから、あのままのギズモと結ばれることは近親相姦にも勝る、自己循環という最悪の禁忌だから罰が当たった、というような説教くさい説明はこの作品にはふさわしいものではない。Kanonの真琴シナリオと同じ泣きゲーの文法で書かれているからだというのは説明になっていない(真琴シナリオの説明にもならないかもしれないが)。子供たちに拒絶されて、追いつめられて言葉を捨てる前のギズモと慰めあうように交わるというのは樹が卑怯なように思われたし、閉塞間の漂うエッチシーンだったけど、それはあくまで結果の話。エクソダスシナリオがハッピーエンドだったからこちらはバッドエンド風にしたという説明はもちろん論外で、うまい方法は本当になかったのだろうかと沈鬱な気分になる。言葉がもともと挫折を前提としたものだから、言葉の構築を象徴するギズモの成長はそのままでは「ゴール」を迎えることは出来ない、言葉を越える「奇跡」なしに「ゴール」に辿り着くことはできない、だから沈黙せねばならない、沈黙した後に残るのは視覚情報と言葉以前の音だけ(確かにギズモは姿も声も可愛くて、このシナリオを終えたらますます可愛く感じるような仕掛けになっている;自転車の乗るギズモ、服を試着するギズモ、歌を歌うギズモ、そして寂しげに鳴くギズモ・・・)。

 そうすることによってしかこの物語を終わらせることは出来ない。そんな物語を「受け入れますか」と猫神様に問われたら、僕は言葉で答えなくてはならないのだろうか。