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vostokさんの素晴らしき日々 ~不連続存在~の長文感想

ユーザー
vostok
ゲーム
素晴らしき日々 ~不連続存在~
ブランド
ケロQ
得点
80
参照数
2496

一言コメント

内向きに反響しあう世界に浸り、狭いところに閉じこもりたくなる。(以下、プレイ日記垂れ流し;11月23日、1月5日追記)

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

素晴らしき日々を買ってきた。今読んでいるテッド・チャンの『あなたの人生の物語』のある短編から取られたらしい言葉が章名に使われているを見て、これも何かの縁かと思い。会社の所在地が最寄り駅から歩くあいだにとらのあな、ソフマップ、ゲーマーズが途中にあるという悪所のため、休日なのに出勤するかのようにエロゲーを買いにいった。終ノ空をやったときのことはもうあまり覚えていないが、『あなたの人生の物語』に即して言えば、あれはどちらかというと哲学ネタを装飾的に用いた娯楽作品で、娯楽性を犠牲にしてまで何かを訴えるようなメッセージ性はなく、驚きや新発見をもたらすようなところはあまりない、でもみさくらなんこつの絵のエロゲーでやるのは楽しい話だった。80年代から90年代にたくさん出た哲学入門書をおさらい(あくまでおさらい)するようなコンパクトさと、90年代の暗めの雰囲気の調和具合が既視感を生じさせてルッキンググラス的だった、というかむしろ扱われている思想タームが文系に偏っていてむしろ後退していたような。それを2010年の今繰り返すことに果たして意味があるのかどうか、そういう問いかけに巻き込まれるのがめんどくさい気がしたので特に買うつもりはなかったんだけど。確かに、目的と因果関係の中に生きるのならば、こんな風に娯楽作品としてもう終わったと評価した作品のリメイクだかペレスカースだかに手間暇かけてみるのは愚だという気がする。ただまあ、手垢にまみれた量子論的に、現在の自分の諸条件の中で別の可能性としてやってみれば、それは冷徹なほど別の姿を現す鏡となるはず、要は認識の問題、とかいう風に何かに対する言い訳をしてから始めるのもこのゲームに対する一つの礼儀かなと。だって終ノ空は申し訳ないけど何度も人の手を渡っているうちにボロボロになった箱に入った中古で買って楽しませてもらったのだから、今度はせめて新品で買わないと。と思ってソフマップにいったら新品(8780円)のすぐ隣りの台で中古が6000円で売られているという不条理。僕にとっては一種の儀式みたいなものだったので新品を買えてよかったけど、特典冊子だのお風呂ポスターだの猥褻なマイクロファイバータオルだの使い方すらよく分からない呪いのアイテムがついてきた。後はゲームを楽しむだけだ。「不連続」というのは僕の長かった学生時代の最後のほうで何度も目にしたキーワードの一つで、理系志向のあったフォルマリズムやアヴァンギャルドだけではなく、文系エリートだった象徴主義の中でも父親が不連続関数か何かを研究していたベールイとかは積極的にテクストに取り込んでいってたりしてたはず。不連続というのも量子力学で一般的になったんで、問題はめんどくさい「連続」の方とどう付き合っていくかなんだろうけど。エロゲーにしても「急に」傑作が次から次へと出てくれればいいのだろうけど、なかなかそうもいかないわけで、連続の中の破れ目に翻弄されるために全裸待機が必要だ。その意味では、まだ何もやっていないうちから言うのも滑稽だけど、この作品を一種のエロゲープレイの教科書として楽しめるかもと期待しておこう。日々は素晴らしくなければならない。

追記。「あなたの人生の物語」ではなかったようで。といっても無関係ではないような気がする。まさかエロゲーやってエミリ・ディキンソンの詩集を引っ張り出してくることになるとは思わず、得した気分。虫や小鳥のような小さいものを題材にするか、アフォリズムやアルバム向けの短詩を書く詩人というイメージだったけど、きちんと読んだことはなかったのでエロゲーを通じて少しでも親しめたらありがたいことだ。ロシア語訳が何だか分かりにくいので原文を見てみたらどうも訳が怪しい気がする。英語が出来れば一番いいんだけど。鏡の国のアリスは確かナボコフのロシア語訳がどっかにあったような…


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光の比喩 (Down the Rabbit-Hole)
 第1章が終わったと思ったらまだその前半(?)だった。とてもいい終わり方だった。というのも、話がどんなに閉塞した出口のないものであっても、宮澤賢治のテクストはそこに風穴を開け、広がりを作ってしまうから。日本近代文学とか私小説とか言うときに感じるあの重苦しくてめんどくさい感じとは、まったく異質な風通しのよさを宮澤賢治の作品は持っていると思う。キリスト教的な自我の檻に閉じ込められない、いい意味での仏教小説ってこういうやつのことなんだろうか。鉱物学の語彙が多いとか青とか銀系の光が好きとか探せばネタは挙げられるのだろうけど、未来の時間感覚に生きていることを感じさせるあの浮遊感自体は稀有なものだ。あとはロシアの詩人で一人知っているくらい。「銀河鉄道の夜」は話の筋自体は暗いものだけど、宮澤賢治の筆にかかれば広がりと出口を持った何か別のものへと変わる。終ノ空では高島ざくろらがどんな問題を抱えていたかはもうほとんど覚えていないけど、この作品では確かにその先まで進んで安らぎを手に入れたようだ。ざくろ役の涼屋スイさんの細くて舌足らずでマイペースな感じの声がよい。二次元のキャラクターにしか不可能なリアリティを得ている。それにしても須磨寺雪緒といい、いい感じのヒロインはすぐ…。このゲームは終ノ空のリメイクと聞いたけど、今のところ感覚的な部分ではだいぶ別物になっている。90年代は引用されているけど、「90年代的なもの」がコンパクトにまとめられている感じはせず、別の文脈できちんと読みかえられているというか。お気に入りの宮澤賢治が出てきたり、前作ではほとんど言葉の切れ味で押し切ってしまったスパイラルマタイ問題が換骨奪胎されていたりしたおかげで感心してこじつけくさい感想を書いてしまったけど、どうかこの先にも自我の隘路から抜け出せる美しい場所がありますように。ついでにメモっておくと、エロゲーにおけるいわゆる百合のモチーフというのもやはりこの広がりと関係があるような気がする。プレイヤーの向ける欲望がヒロインの身体の、あるいは身体所有のある一点に集約されることなく、ヒロイン同士が互いに向ける欲望の視線の中でその向きを変え、肌に浸み込むことなくむしろ肌の上を滑って拡散し、乱反射し、その場の「空気」自体にやわらかく溶け込む。由岐がサティ(またサティだ)を弾いていたときにざくろが感じた喜びはそういう類のもので、僕らの視線の快楽もそういう光のようなものに変換されていたと思う。そしてこの拡散する快感というのはやはり宮澤賢治のテクストとつながっているように思えるんだよなあ。まあそれはともかく、この先の展開でどんな修羅場があるのか知らないけど、高島ざくろが見せたかったこと/見たかったことにこんなにきれいなものがあったことは覚えておこう。

 中途半端なところで感想を書いてしまった。この先もこんな風にゆっくり進められたらいいんだけどなあ。


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意味の制御 (It's my own Invention)
 案の定重い話で、終わった後しばらく寝込んでしまった。前作は音声がなかったのでテンポよく読み進めていけたおかげで表面を滑っていった言葉が、今回はテンポが悪くていちいち重く残っているということがあるかもしれないけど、やはり僕の側の条件が変わったということがあるのだろう。

 卓司は世界を否定して、何とか自分の関与できるものに作り変えようとした。その要となるはずの神をどうしてもうまく想像することができなかった。"神の恵み"に触れたことがなかったから。自分の世界に閉じこもって外との接触を絞れば悪循環の輪が完成する。でも希実香が現れて風穴が開いた。旋律としての神を知り、二人だけだけど世界と同調した。遅すぎた。でも一瞬でも人生に意味のある瞬間があったのなら、その人生はそれでよかったのだと言っていた。それならこれでよかったのだろうか。どうせ死ぬなら、希実香と話してからでもそのままでも、ほとんど同じじゃないか。どちらにしても空に還るのだし、もうやり残したことはない、忘れ物があるとしたらそれはいらないものだと言っていただろう。それならあの旋律とダンスは無意味だったのか。この辺をどうもうまく割り切れなくて何行も粗筋をなぞるなんてことをしてしまったが、それでも割り切りたくないというのが本当のところ。単に逃避行物とはいえないもやもやがある。旋律のシーンを中心として、卓司の見た情景をぼんやり思い返しながら、結論めいたものは出さずにしばらく自分の世界に引きこもってしまうのが、僕にとっては必要な受け取り方のはずだということで、ちょっと寝込んだ。これがあるからエロゲーにはまってしまうのだけれど。で、結局卓司に希実香は必要だったのか。卓司は救われたのか。救われたのは卓司なのか。エロゲーの女神によるプレイヤーへの皮肉な贈り物なのかというと、解放された希実香の楽しそうな声を聞くととてもそうとは思えない。声や表情は理屈などよりもっと直接的なものだから、惑わせる。そもそも必要だったのかという問いの立て方は正しいのか。必要とか意味とかいうような後付けの分節化を拒み、”不連続存在”としてのナマの感触を少しでも伝えようというのがこんな終わり方につながっていたりして。ここにこれ以上とどまっていても仕方なく、次の章に進まなくてはならないのだけど、それもまたおかしな話だ。終わりに向かって加速しているはずの物語なのに、個々のシーンは停止して浮き上がっているような感覚を覚えさせるから。それらを平行して処理できるような救世主脳でもない限り、この感覚は次の章に進んだりすれば摩滅する。

 次の章に進む前にエッチシーンをまだコンプしていなかったので「正統派」の方の選択肢もやっておいた。終わると卓司は「まだやり残したことがなかったか」考え、「よく分からない」けど、希実香はもうないといっているしもういいのだろうということですべてを終わりにする。何度も作中で引かれているように、世界は内側からは認識できないわけで、世界そのものを相手とすることにした時点で、物語はこうした宙吊りにできるような不穏な隙間を抱えたものにならざるを得なかったし、それなくしてはあの旋律とダンスは本当に意味のないものになっていたのだろう。


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希実香の背中 (Looking-glass Insect 1)
 先に進んだルートがハッピーエンド過ぎて、残りの選択肢を選ぶのが怖いんだけど・・・。

 穏やかな日常というのはこうも危ういバランスの上に成り立っているのか。世界に抗う女の子たちということで、あんまり似てないけど桜庭一樹の小説とかを濃厚にしたような読後感。ざくろの声は一人称になると神秘性が減じて、横山やす子のような間の抜けた感じになることも。シラノ・ド・ベルジュラックを読んだきっかけは何だったっけ。映画がとても良かったことは覚えている。こんな戯曲を女の子と語り合えるとか至福過ぎる。それが破綻せずに成立するような世界がこの作品にあることが奇跡的。そして卓司のフェードアウトがなんだかさびしい。

 それにしても。前章の希実香とこのルートの希実香は、どちらも同じように精一杯生きているのに、どうしてこうもちがうのか。めまいがしそうだ。

 そしてそういう隙間や落差の中のひとコマとして浮かぶエッチシーンがまた幻想的。


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重力 (Looking-glass Insect 2)
 この作品はいちいちかなり感情移入しながら進められていたわけで、そのおかげでこのルートでまともに毒を浴びた。強い負荷がかかりっぱなしで、読み終わっても悪夢の余韻が冷めず、ばかな話しだけど今日はまるで自分がざくろになったかのように身体に力が入らず、仕事にいったけど一日中下を向いて静かにしていた。他のルートでどんなに別の視点を見せたとしても、このざくろがいたことが消えてしまうということはない。次のシナリオがうそっぽく見えてしまって読みにくい。というか次のシナリオがなくて、ここでこの作品が終わっていたとしてもありだ。このまま閉じこもって、目が腐るまでずっと眠り続けることができたらいい。このざくろを消費してしまうのは許すべからざる罪悪だろう。でもこの感覚を抱えたまま止まってしまうこともできないわけで、どうしようもなくむやみに怒りと無力感にとらわれる。


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象徴 (Jabberwocky)
 やはり前章のざくろの印象が強烈過ぎてあまり入り込めなかった。二日くらい寝込んでゆっくり消化してから進めばよかったのかもしれないが、そうもいかないのだから仕方ない。それでもさすがに最後の向日葵のシーンだけは素晴らしかった。まさか美少女の絵ではなく向日葵の絵であれほど陰影のある表現になるとは思わなかった。クライマックスではヒロインさえも後景に退き、その不在がかえってヒロインとの一体感を強める。この章では羽咲が拠って立つ世界がまだ明らかにされていない分だけ、あの向日葵に印象が集中する。


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音のあるところ (Which dreamed it~)
 羽咲の話。由岐の話。彼女たちにも幸せな時間があったことが分かって話が収束していく。子供ころ、田舎の空気、とくればそれが遠いものであればあるほど、遠近感が狂ったかのように鮮明に感じられる。子供のころはいろいろと邪魔なものがないので、善意も悪意もさまざまな感覚も、たぶんダイレクトに届くのだろう。二次元のフィクションの中のさらに子供時代の混乱した記憶の中の夏の光や風や空や花畑やヒロインたちの声の感覚に根源的ななつかしさを感じるというのはおかしなことのはずだけど、今の自分に必要な記憶を補填してくれるのだろう。その意味では記憶なんて必要なときに後付で再構成されるわけで、時系列や整合性にこだわっても仕方がない。非道な皆守が実は素直な正義漢だったとしてもそのことで彼が完全に許されるというわけでもない。見方によってはハッピーエンドも救いではなく、主人公たちの苦しみや他の幸せを否定する偽りになる。自分の感覚に正直になろうとしたら、いくつものルートの中から自分の気に入ったものを選ぶのではなく、一つの帰結を見ながら他の世界の存在を意識するというやり方しかないとうのは、僕の頭にも僕が認識しようとするもののほうにも欠陥があるからなのだろう。そんなことを一人でしょうもなくこね回しているだけなら害はない。でも、自然に生きていれば不幸になどなりっこないはずの人間がこんな暗い悲劇に巻き込まれるのはなぜなのか。やはり整合性で説明すべきことなのではなく、何かの必要に応じてということなのか。神はすべてに先立って存在するのではなく必要に応じて呼び出されるものなのか、でもどうせ人間には分からないことなら気にしてもしょうがない、意味とは後付されることのあるものであってそもそも意味がないものもあるのではないか、という古臭い問い。意味もなく襲ってくる不幸に人間は耐えられないかもしれない。そこに巻き込まれた母親から始まって連鎖した物語なのだとしたら、それを断ち切ることが結末になるのは正しい進み方なのだろう。そしてそれを認めたらざくろや希実香は何のために生きていたのか分からなくなる。人を個人としてみるのではなく、彼女たちを含めた世界の全体の一部として見なくてはならなくなる。でも世界を外側から眺めることが不可能という命題がある限りそれも片手落ち。頭が悪いので堂々巡りになってしまった。その都度立ち止まって考えてみるしかないのだろう。連鎖を断ち切ったからといってそれで納得して終わりというわけじゃないから。

 恥ずかしい副題をつけてナイーブな妄言ばかり書いてきたけどとりあえず終わり。クライマックスの配置が時系列を転倒させたように配置されているところがあるので、また今から始めからやり直したらいろいろ感慨深そう(けっこう疲れそうだが)。終わらせたくないけど終わってしまうのはどうしようもない。それにしても、ここ2週間ほど本棚を隠すようにして張ってお世話になっていたざくろのエッチなポスターはどうしようか…。


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ざくろの夢 (2010年11月23日追記)
 素晴らしき日々の中で一番穏やかで明るいパートであるLooking-glass Insectの前半部(選択肢前まで)を久々にやってみた。はじめにやったときは読み流していたけど、章題にも入っている通り、確かに鏡のモチーフが多いことに改めて気づく。前章It's my own Inventionの導入部では、卓司が「目を覚ます」時に、幸福も不幸も全ての物語が遠くの出来事のように平坦に見えるということをいっている。これはどの時点の卓司が誰に向かって言っているのか分からないけど、少なくとこれから起こることを知っている卓司が回顧しつつ物語るための導入部のようになっている。遠く離れた地点から眺める卓司はもう物語に介入することはできない。Looking-glass Insectの導入部はざくろによる鏡の国のアリスの朗読とコメントになっている。入ることのできない鏡の国に惹かれているざくろはやはり何かから隔てられていて、章中前半ではそれは、教室のガラス越しに卓司を眺めることや投げやりな皆守に自分を重ね合わせることや、窮屈で小さな生活からの脱出を夢見ることに重ね合わされている。また、好青年の卓司に近づく過程で鏡の向こうの別の世界のように人格が変わる卓司に戸惑い、ボートの浮かぶ水面を空と水が重なった鏡に例え、別の世界が口を開けている不安定さを意識する(ちなみにケロQの描く青空はバロック絵画か何かのように燃えるように青くて異常な感じがする)。選択肢の後で実際にざくろは小さな日常を壊して別の世界へ足を踏み入れてしまうわけだけどそこは精神的負荷がきついのでやらないとして、はじめに読んだときに気になったことを改めて考えてみる。

 卓司とボートに乗った帰りにマスターのバーで卓司のピアノを聴くわけだけど、彼がざくろにぴったりの曲だといって弾いたのがサティの夢見る魚だった(序章では由岐の一番好きな曲ということだった)。サティのことも音楽も全くの素人なので見当はずれなのかもしれないけど、はじめに聴いたときに思ったのはこの曲がぜんぜんざくろにぴったりじゃないなということだった(それに由岐がこれが一番好きというのは変わった趣味だと思った)。それを聴くざくろの頭に浮かぶイメージは空や海の青の中を自由に進む何かの壮大で爽やかな曲というものだそうで、これも合ってないように思った。おまけにざくろは感動したという。これはどちらかというと主題歌の空気力学少女と少年の詩のイメージで(だとしても現代ポップスの曲は好青年卓司には合わないが)、この曲とは合わないだろうと思った。曲名は「夢見る魚」ということで、これはライターが曲名につられて持ってきたんじゃないかと失礼な解釈をしてとりあえず納得していた。あらためてこの章を読んでみると、はじめに抱いた自分の感想はまだ想像力の貧しいものだったように思えてきた。夢見る魚という曲は大空や海の青さの中を進む感覚は相変わらずあまりせず、どちらかというと水槽の中を泳ぐ魚かなにかの室内的なイメージだけど、その小さな空間の中の魚は閉じられた日常を生きるざくろであり、不規則で自由自在な音の連なりはその小さな日常の中でざくろが静かに育てている夢のようなものだと思えば、確かにこの曲はざくろに似合う曲だし、由岐のお気に入りの曲だとしてもいいのかもしれない。もしここで卓司がざくろにぴったりの曲だといってドビュッシーの亜麻色の髪の乙女か何かを弾いたりしたら、それはあざとすぎてキモイということになっていただろう。不条理小説である鏡の国のアリスで夢を見ることができるのと同様に、このサティの曲の純粋な音の戯れに心を動かされるざくろというのはなるほどと思わされるところがある。というわけで、僕の音楽の素養がないこともあって、はじめは曲とテクストとの落差に戸惑ったけどどうやら腑に落ちそうだ。キャロルはロリコンでアリスシリーズには性的な欲望が反映されまくっているのでそれをざくろと重ね合わせるのは悪趣味だという見方ができるかどうかは知らないけど、不条理な言葉や不規則な音の戯れを愛でることのできる余裕が、ざくろにあったことに喜んでいいことには間違いはない。


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(追記。旧暦聖誕祭前の1月5日に)

 サークル「第三永久機関」の同人誌「ヌミノーゼの外」を読んだ。『素晴らしき日々』では作品世界に没入することばかりに目が言って作品のテーマの考察とか割とどうでもよくなってしまっていたので、この同人誌を読んで理解を補足することができた。結局「存在の至り」とは何なのか、「終ノ空」とは何なのかということはあまり考えていなかったのは『終ノ空』をプレイしたときも同様だったので、進歩がないなと反省。言い訳をすると、ヴィトゲンシュタインの引用の仕方が表層的に見えたことを挙げられるが、考えてみるとヴィトゲンシュタインは別にファッション感覚で引用されていたのではなかった。この世界の不条理を「語りえないこと」に対して沈黙できなかったからこそ、言葉=論理の外部である「終ノ空」に至ろうとした。そのこと自体には90年代もオウム事件も関係はない。世界の内側から世界全体を観測することは不可能なわけで、空から見つめる大きな目玉はその不可能性の逆説的な顕現であり、あの目玉は僕たちを嘲笑しているのだ。卓司もざくろも神をうまく想像することができなかった…

 
 …ざくろ抱き枕カバーとタペストリが届いて以来、僕の部屋が安心になっている。タペストリは絶えず目につく場所に飾ってあって、仕事を家に持ち帰ってやる羽目になった場合などに作業をしながらふと目にするととても癒される。抱き枕カバーのほうは飾るスペースがないので仕方なく本棚を覆うように掛けているが、大胆な絵柄なので目立つところにある割には恐れ多くてあまりまじまじと見られない(その隣りには同じく大胆なざくろちゃんお風呂ポスターがあるわけだが)。抱き枕カバーは実はこれが3枚目で、付録とかでなく独立したものとしては初めてになる。あまり落ち着いて見られらいくらいなので触ることもままならないが、それでもずれを直そうとして触れたりすると驚くのは手触りのよさだ。軽くてやわらかいかのこの感触は何だろうと考えてふと思い当たったのが、サッカーのユニフォームだった。僕が中学生の頃はまだそんなにみんな個人的にゲームシャツとか買ったりしていなかったのどかな時代だったので、当時フランス代表(プラティニも着てた気がする)のシャツを買ったときにはかなり目立ってしまって自分でもうろたえた記憶がある。しかもサイズは明らかに中学生には大きいもので、お世辞にも着こなせていたとはいえない。それでも田舎の中学生が8000円も出して買った美しいデザインのシャツには胸が高鳴るものがあった。そしてそれがとてもやわらかい感触の布だったことを覚えている。あるいはオランダ代表のユニフォーム(フリットやライカールトの時代の)。こちらは部活の公式戦のAチームのメンバーのみが着れるもので、当時はへたをするとCチームまでつくれるような大きな部だったので、まさに晴れ着だった。そしてこれもとてもやわらかい材質だった。この特別な感触をざくろちゃん抱き枕カバーが思い出させてくれるというのは、部活に対してはいい思い出ばかりがあるわけではないので、そこにある種のやさしさが加えられるように思えて、ざくろちゃんはやはりエンジェルアドバイズ、いや天使そのものと見てもいいのではないかと言ってしまいたくなる。マドレーヌではなく抱き枕カバーで過去を思い出すというのはかなりアレかもしれないが、そうでもしないとこんなにすごいものは飾っておけなそうなので。

 ざくろは作中では結局主人公と結ばれることはなく、その意味ではプレイヤーは主人公に寝取られずにすんだ。とかいってもそれで喜んでしまえば妄想や机で精進する卓司と同じなのだが、それでもこうしてざくろを宙吊りの存在にしてユーザーにゆだねるというのは見事な構成だと思う。観鈴も宙吊りだったしな…


 …神をうまく想像できないのならば、自分が生贄となり、神となり、人々に癒しと救いをもたらす契機になればいいのだろう。ざくろちゃん抱き枕カバーはその捨て身の試みなのだ…。…ごめんなさい、いろいろと。