好きな作品。世紀末好きホイホイだったというのが嬉しい誤算。随所にForestのライアーソフトは健在だなあと思わせるところがあった。以下、プレイ日記で無駄話。(2009年8月25日、ちょっと追記)
昔ハマっていた世紀末文化の雰囲気がよく出ていてなつかしい。鉄とガラスのクリスタルパレスの驚きから時は経ち、蒸気と鉄と煤に町は蝕まれ、ホラーものが流行し。ビアズリーをこっそり読む女学生とか、いかんだろ。ヨカナーンで恥ずかしがるとか。残念ながら世紀末のロンドンはあまり知らないので、どちらかというと1900年代のペテルブルクのイメージを重ねて読んでいるけど、違和感はない。仮面をつけたフリーメーソンもどきとか石畳の上を追いかけてくる足音とか、「タタールの門」みたいな黄禍論とか、反復の多い構文とか、ベールイの『ペテルブルク』(1907-10年ごろが舞台だったような)のパラノイア的な世界によく似ている。スチームパンクやサイボーグのモチーフもこの時代には出揃っていて、10年後の革命の時代には本気で実用化が試みられることになる。まだ始めたばかりだけど、この後もいろいろ懐かしいものが出てくることは期待していいのだろう。ベールイの『交響楽』シリーズみたいに、音楽の理論を使った奇妙なテクストとかあったりしたら嬉しすぎる。
そしてベールイとは違って、女の子が主人公というのが素晴らしい。家事が効率よくできなくて暗い気持ちになるとか、なんだか身につまされる。でも内向的で健気で(ビアズリーやワイルドは読むが)可愛い。このメアリがエッチしたらなんだか寝取られた気分になりそうなので、一人でお風呂に入っているCGで先に抜くべきなのではと悩んだくらいだ。
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フロイトの時代臭の強いこのゲームのせいか、怪物=知人の頭を銃で吹き飛ばしながら逃げ回る怖い夢を見た。
もう少しイギリスの世紀末も勉強しておけば面白かったかなあと思いつつも、知りすぎているとかえって自由に想像できなくなって損をしそうなんでちょうどいいのかも。どこまで自覚があるのかも自覚があって何かの得になるのかも、まだプレイと中なので分からないけど、この作品の箱の絵は、ちょうど舞台となっている世紀末から20世紀初めに興隆した、恐怖小説や探偵小説や女流文学などの「安っぽい大衆文学」のイメージを髣髴とさせる。識字率の向上と印刷技術の発達によって膨れ上がった読者たちは、上下の幅はあるものの、僕のように懐や知性が余り充実していない無名の庶民たちだったわけで、彼らが燃料として摂取していたのが、怪物が乙女を追い掛け回すような悪趣味な小説たちだった。まさにその怪物のような大衆文化の、下品なほど健啖な胃袋に自らの発明をどんどん食い潰されていったハイカルチャーは、乙女のように清らかな使命に殉じようとして自己研鑽を重ねた結果、乙女のようにドロドロした自家中毒の泥沼にはまっていくわけだけど、高校生だった頃の僕を読書の楽しみに目覚めさせてくれたのはシャーロック・ホームズだったよなあそういえば、と思い出した。もうバスカヴィル家の犬も緋色の研究もどんな話だったか覚えていないのでウィキペディアを見たりしながら。言われてみれば、モリアーティ教授って当時の人にはこんなイメージだったりすることもちょっとはあるかもなとか。シャーロック・ホームズがロシア語に訳されたりギリャロフスキーがモスクワの裏社会を取材したりしていたのが、日露戦争の前だったか後だったかはもう覚えていないけど、この時代の大都市っていうのはどこも似たような雰囲気をもっていたものらしい。辻邦生が短編を書いていた世紀末文化のシリーズもそんな感じだった。アクーニンの探偵小説とか積んだままにしてあるけど、やっぱりこういうレトロな想像力に支えられているのだろう。
メタ的な楽しみ方ができるような気がするけど、Forestやぼーん・ふりーくすの例で見る限り、ライアーソフトはこの点は行儀がいいのがもったいない。メアリとMとシャーリィ(さすがにS.ブロンテのネタは出てきても分からない。小説ももう憶えていない)の3人が中途半端に何かを象徴したりするのだろうか。期待していた暗さはあったし、桜井氏のテキストは字面がそろっていて綺麗だし、後はこのまま…で終わらないように何かを期待。
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終わった。終盤の展開がちょっと間延びした活劇物っぽくなってしまいだれたけど、素晴らしい作品だった。特にメアリのエッチ(?)シーンはかなりの驚き。ワンクリックごとにウィンドウを消して、メアリの言葉を聞きながらCGと見つめ合ってた。明らかに実用向きではないのに、作品の中では不可欠なあのこちらを見ているメアリのCG。作品のテーマ的にも構造的にも、相当強かった。このシーンのおかげで、続くMのテーマにもかなり厚みができた気がした。それにしても、トラウマもののメアリの迫力のおかげで、恐ろしくて使おうにも使えないはどうしたものか・・・。メインヒロインを恋愛のテーマから外してしまったことで、この作品は何を手に入れることが出来たか。前を向いて生きるというそれこそ前向きなテーマをくもりなくぶれずに描けたこと、かなあ。そんな健全なテーマも、人間の不健全な願望をじっくり描くための保険だったというか。もともとメアリはとても明るくて前向きな子供だったはずなのに、この作品では次から次へと人間のほの暗い情念の悲劇に巻き込まれていく様は、なんだかエヴァやmoon.で大人たちが主人公を追い込んで追い込んで何かに目覚めさせようとしていたのと似た感じがした。象徴主義の詩や小説を思わせるような、意味の曖昧なぶれや反復に富んだ催眠的なテクストは、あの時代の不安と鬱屈を漂わせているというかそんな感じで、その暗い情念たちがメアリに救って欲しくて、連れ出して欲しくてそんなひねくれた姿になってしまったんだよなあというか、シナリオの一見歪な形がうまく機能しているというか。僕自身はそういう暗い情念には弱い人間だし、象徴主義的な雰囲気や仕掛けも好きだったので、この作品の中でメアリといっしょに嫌味なく一喜一憂しながら最後まで進めたのはよかった。主人公が男だったらおそらく碇シンジの物語のように気持ち悪めな印象になっていたかもしれないけど、メアリはよかった(声からしてよかったし)。幼稚な感想で我ながら残念だが、たくさん悲しいものを見たメアリだから、最後には安らぎと明るさを手にすることが出来たのは、やはり嬉しかった。
(2009年8月25日追記。同人誌を読んで。)
漆黒のシャルノスの絵師AKIRAさん(http://akira.pos.to/)の同人誌『しつこくのおさるのす』は今回のコミケの一番の目的だったのだが、これがやはり素晴らしい。シリーズの前作とかをプレイしていないこともあるせいか、所々よく分からない展開とか唐突に思える設定とかあったけど、それがまたいい、という絶妙なバランスのゲームだった。その省略されたがゆえの分かりにくさ・余白の妙はこの同人誌でもいい感じで残っていて、モランの過去の影とか、片親と岩窟王に象徴されるメアリの子供時代の寂しくて静かな感じとかたまらんです。メアリ本人は健気で前向きで真面目な女の子だとしても、彼女の記憶の中の過去はどこか寂しい冷たさを帯びている感じがして、ゲーム中で彼女の瞳が他人の悲劇を勝手に感じ取るかのようにして涙を流していたのも、メアリ自身が意図せずしてそういう寂しさに敏感だからだったのだろうと思わされる。今の彼女にとっては単なる迷惑で理不尽なことで、ひっきりなしに怪異に追いかけられる様は可哀想というしかないものだが、でも彼女自身の中にもそういう寂しさはあることを語らずして伝えるような見事な冊子になっていると思う。たとえ本人が意図していなくても、顔の雰囲気や目元になんとなく寂しさが漂っているから、周りが勝手に勘違いして僕のような怪異みたいな連中が群がってきてしまうという、可愛そうなモテモテヒロインなのかもしれない。マンガの最後のページでシャーリーと話す幼いメアリの淡い可愛さがなんとも切ない。記憶の中の幼年期がどこか寂しさを帯びるのは、それが現在を投影するものだからなのか、それとも現在からはもう手が届くことがない過ぎ去ったものだからなのか。いずれにしてもシャーリーに『なぜかっていうとね……』と語るメアリとシャーリーがいる丘は、不思議な寂しい風の吹く場所だなあと思う。彼女の子供時代だけではない。ガーニーや蓄音機や蒸気機械に賑わった20世紀初めという時代が、今ではもう過去という黄昏の薄闇に沈んでしまっている。その寂しさが怨念のようなものとなったのがこのゲームだったのでは、となんとなくメアリを見ていると思う。