「罰も与えてくれない、愛してくれない世界」と、そこで足掻き苦しみ生きる人間たちはかくも美しい。骨のある文章を読みたい方は是非。※小説版の追記
瀬戸口作品に触れるのはswan songに続いて2作目ですが、相も変わらず心に響く作品を作ってくれています(CARNIVALの方が先に発売されていますが)。
小説版はまだ読んでいないので、ゲームのみでの感想です。
自分なりに考察(果たして考察と呼べるほどのものかは置いておくとして)すればするほど、好きになる。のめり込む。魅せられる。
こういう感情を持てる作品にこそ、出逢えて良かったと思えます。
いろいろ考えてみましたが、当たり外れなこと言ってるかもしれませんが、あまり気にせず。
以下、多分にネタばれを含みますのでご注意を。
●概括
人は生まれながら罪を背負っている。多かれ少なかれ、それを意識しようとしまいと。
人は終局的には孤独な存在である。欄間・鉄格子(=他人、社会との繋がり)という狭い範囲でしか他人と繋がれない。
しかし、その窓こそが「狭く、暗く、寒い部屋」から「温かく広い世界」へと通じうる扉。
「家族箱」に閉じ込められた理紗にとって、学はまさにメシアであり、理紗の「汚い」仮面を剥ぎ落とす。
そう、人間が人間を助けられるかに思われた。
しかし、それは一面に過ぎず、理紗にとってメシアたる学も、学にとってメシアたるべき母親に突き放される。
武という存在によってそれまで保たれていた心は、武を封じ込めることで疲弊する。
そして、決定的な「罪」が、夏祭り最終日、創り出される。
●考察
理紗と泉を分けた決定的なものはなんであろうか。確かに理紗が背負わされた罪(父親の性的暴力などからくる、仮面の自分)の占める部分は大きいであろう。
しかし、一番感じたのは「言葉」の有無であった。
3章で、理紗は幾度か学・武に言葉を告げず、結果としてすれ違いを生じさせていた。
一方で、関係が浅い故に、「別に好きじゃない」などの言葉を紡ぎながらも、「幸せ・楽しさ」を手に入れた学と泉。
人は人を救えるかもれない。但し、言葉という感情の表現を通して。
学は香織さんに言う、「今目の前にいる相手が考えて事だって、わからないじゃないですか?他人の心なんかわかるもんですかね」
そう、学と武のような関係でない限り、一つの自己の中で巡る思いは他者に届かない。
その点、すれ違いが何度も生じてしまった理紗と比べ、泉との間ではそれがなかった。
しかしながら、学と泉の関係は、理紗とのそれより果たして希望に満ちているように描かれているかというと、そうは感じない。
理紗に対しては、お互いが向き合い笑いあいながら、『理紗が望むなら、僕は人をやめて、神にでもなんでもなろう。』という思いを学は抱く。
泉に対しては、二人で遠くを見つめながら、気ままな流れに任せる二人を雑草に見せかけて描いている。
「ほら、葉っぱが、風に乗って沢山飛んでる」
「そうだね」
「太陽が、すごくおっきいよ」
「そうだね」
「何か、考え事してる?」
「…ん?……うん」
僕は、頭を掻いてから、正直に告白した。
「なにか、すっごい名ぜりふを言おうと、考えてたんだけど、なんにも思い浮かばないんだ」
「そうかあ、なにも浮かばなかったんだ」
「ごめんね」
「もう、何で謝るの?変なの」
泉は、クスクスと笑った。
僕は、雑草の先端を千切ると、風に乗せて投げた。
泉endは周りの環境で考える(競馬など)と「あまり」にご都合主義過ぎるのだ。
その分、内面的なつながりは表面的なものに止まっている。
刹那的に生きる泉と、理紗と向き合わず逃げ出した学。その二人ならば当然の結論なのかもしれない。
一方、理紗とは何度も挫けながらもすれ違いを経ながらも、最後には理紗にとっての「神」、メシアになる決心を学はする。
言葉は確かに繋がりを得る、深めるうえで欠かせないものである。しかし、学と母親が言葉を交わさずに気持ちを通じ合わせていた事に見られるように、一定の繋がりにある者同士にとっての真の繋がりとは、言葉という表面的なものに囚われないないのだとも伝えているのではなかろうか。
いずれにせよ、学が決心してくれたことに、この作品の救い、希望を感じざるを得ない。
最後に、足掻き、もがき、苦しむ人間はかくも美しくなんて儚く切ないのだろうかと思わさせる理紗の台詞を。
「生きてくのって、苦しいんだね」
「うん」
「もし神様がいたら、きっと人間のことは嫌いなんだと思うな」
「そうかな、嫌いじゃないけど、好きでもないんだと思うよ。あんまり興味持ってくれてないんじゃないかな」
「そうだね、罰も与えてくれない。世界は愛してくれない」
「だけど……」
「だけど、私はこの世界が好きなんだ」
「そうだね」
「だから苦しい」
「片思いだ」
……
「ねえ、ニンジンを追いかけちゃだめかな?」
「あれは、どうやっても届かない仕組みになってるんだよ」
「うん、わかってる。いいんだ、なんか、一生懸命走りたいの。後悔したくない」
※追記
CARNIVAL小説版を(サラッとだけですが)読んだので追記します。
ビバ!国会図書館(笑
さすが瀬戸口さん。ゲームendも好きでしたが、小説版もまた素晴らしい出来。
完結度でいったら、間違いなく小説版が上であり、(謎は残しつつも)しっかり「最期」を描いてくれています。
あぁ、学は理紗の為に生きたんだなぁ、と。
小説版を読んで改めて感じてしまうのは、やはり泉との対比。
ゲームで描かれた泉endは表面的に幸せなものであり、あの生活はなんだかんだで続いていたのだろうと思う。
転々としながらも、警察に捕まらず、上手に裏と表の狭間の世の中を亘っていく二人。
それも、幸せの一つの形でしょう。
一方、小説で描かれた理紗との7年後の姿。
表面的には幸せと言い難い。それは理紗の姿にも学の心にも表れている。
まさに「懸命に生きていく」ことの辛さが伝わってくる。
「罰も与えてくれない。世界は愛してくれない。」
そう理紗は言っていた。
小説においては、その「罰」を一心に受けている学。
作中、聖書を読んだ理紗は自分が「罰を受けるべき人間」であると「感じて[思って]」いた。
学の方にはそのような記述は見られない。
しかし、どうしようもないほど苦しんでいた事は間違いない。
「罰」を一心に受けた学と、(それ程の「罰」は)受けていない理紗。
この相違は、単なる性格の違いに見出してよいのだろうか。
「罰」に苦しんだ学は精神的な病気である。
しかし、病気の一言では片づけたくない思いがある。
おそらく、「罰」を他者(=世界)に求めるか、自身に求めるかの違いなのではなかろうか。
心から、どうしようもないほど罪に、世界に、他者に向き合おうとする学。
この学の姿こそ、(瀬戸口さんが考える)、人間像なのではないだろうか。
学は、人間は、美しい。
最後に。
小説版も素晴らしく、特に学視点で描かれた部分は心を蝕まれ(揺さぶられ)続けていました。
しかし、本編236頁に対して、たった1頁のあとがき。
これほど卑怯だと思った文章はない。
もうね、反則です。
全ての意識を持ってかれた。心も体も。
瀬戸口ファンなら必見です。
結局1万払って買ってしまった。くれぐれもマケプレなんかのぼったで買わないように。