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violinsさんの未来にキスを -Kiss the Future-の長文感想

ユーザー
violins
ゲーム
未来にキスを -Kiss the Future-
ブランド
otherwise
得点
88
参照数
2124

一言コメント

超デフォルメキャラ達が送る、明るい奴隷のハートフルラブコメ。・・・その皮を被った、新しい世界への、恋愛の最終形への、圧倒的な楽園への招待。「キスっていうのは、世界を閉じるためにするんだね。」

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

最終章"Gensis"の先へと。 霞を、霞と康介を圧倒的な楽園へと連れて行く物語。



他人の感情が判るが故に、どきどきできない、"恋愛"という意味での「好き」という気持ちが持てない悠歌。


>五感で感じられる物理的な世界なんていうのは、生きるために必要なちょっとした技術だろ?
>だから……目で見える見せかけの世界から目を逸らして……
>悠歌の中にある本当の世界に目を向けたらいいんだ。
>そこには常に悠歌だけのもので……もしもずっとそこだけを見ているとしたら、
>俺なんていうのは永遠に新しいだろ?
>俺は……どうあがいたって悠歌だけの世界に入ることは出来ないんだから。


彼女に提示されるのは、彼女が得たのは、
他者との、好きな人との断絶。自分だけの世界、物語。
そこに、希望がある。





得体の知れないもの、自走するシステムという『檻』に囚われた椎奈。
Automatonからヒトへ。
人以外から、人による支配へ。


>そんなこと言うのは、好きになってるんじゃなくて、『好き』に操られてるだけですよね。
>だからほんとは……難しいことなんかなくて、ただおにーちゃんとひっついていたいってだけでいいんです。


「好き」という言葉は単なる道具で。
自分の足で立つこと。
人に支配されても、意思を持たないはずのもの・得体の知れないものからは自由な存在であること。





混乱したままの定常状態に幸せを感じながらも、自分という存在との乖離。自己喪失の恐怖。


>正確な言葉が見つからないけど、友達でもなく、恋人でもなく、ただ「わたしと彼」として彼と付き合いたいのだ。
>わたしは、そういう難しい人種なのだ。


彼女は霞を混乱させ対立する。排他的な存在として。
・・・そんな彼女も見つける。あるべき世界を。


>ただ、あなたがそこにいるから……そこを目指して時間をかけて進化するしかない。





ひたすらに『お兄ちゃん』を求めた霞。
彼女が苦しみ、悩み、助けられ、辿りついた場所は 楽園。


>ボクたちは世界を変えることができる。
>何の努力もせずに、このままの状態で、世界を変えることができる。
>ただ、ここに存在してるって前提さえあれば。



              Bye-bye human.




非などすべて排除できて、望むままの、あまりにも甘美で・・・淋しい世界。

>わたしたちは自分の中の属性を見て、属性を相手に会話してる

まさに夢の世界。理想が現実となる楽園。2次元。
・・・でもそれは、逃避。
















追記しました。('10/9/7) 微追記('10/9/27)



ここまで「キャラクター」性を際立たせた点に関しても、各ヒロインなりに答えを見出し、その上更に"Genesis"で作品として一本軸が通る点に関しても、”主張”を通す作品として素晴らしかった、と言いたい。

ただ、その「キャラクター」性を際立たせるほど現実の人物からは乖離し、プレイヤーの感情移入を阻害しがちになっているのではないか。
それでなくとも、"Genesis"までが長いと言われるように、日常のつまらなさも指摘されている。
キャラクター性を際立たせるほど、行動に制限は生まれ、同じような言動を繰り返す。決められた枠を外れない。
もしその「キャラクター」がひどく現実的(例えば「Crescendo」)ならば「生命」を感じやすいのであるが、本作は記号としてのキャラクターを据えている。
ここは娯楽作品としては受け入れがたい点であるが、逆に”主張”を通す作品として認めたい点でもある。




人間から進化したヒトの特性として

>わたしたちは自分の中の属性を見て、属性を相手に会話してる

という部分があるが、こうした人間は現実では、他の作品で言えば、「CARNIVAL」の理紗の父親のような人間なのではなかろうか。
彼は妻を「旧家の出身で会社勤めとしての自分を理解していない」「自分の理解者は理紗(当時小学生くらいか)だけだ」など、他者を理解しようとせず、”自分の決めつけた姿”だけを他者に見ている。
この場面(=3章のはじめ)、理紗はまさに”人形”以外の何物でもない。こういう思いを抱いた人は少なくないのではないか。





自分だけは幸せな世界を見れても、「属性を与えられる」他者は必ずしも幸せとは言えない。
しかしながら、これが両者が望んだ形だったら?
"Genesis"の最後に描かれる、目を瞑り背中合わせの霞と康介。
彼らはそれぞれがその内部にお互いを想い、自己完結型の恋愛を、人生を送る。
理紗のように傷を受けることはなく、ただ自分が望む世界が自分に対して拓いているだけ。
自己を2次元のキャラクターとして投影し、自分はその2次元の世界を自由に改変する力を持っている。



――圧倒的な楽園



自己投影型エロゲ―賛歌とも言えるし、逆に3次元という辛い現実をつきつける作品とも言える。

少なくとも、「エロゲ―(を始めとする現実逃避としての2次元)」に対する見方は揺らぐ。
もう、「未来にキスを」をやった以前の自分には戻れない。


追記(というかメモ書き)
悠歌さんの言う理解による自己と他者の一致は、弱い独我論の肯定とその言語ゲーム性の話と共通?(ウィトゲンシュタイン)
>他人は「私が本当に言わんとすること」を、理解できてはならない(『青本』117頁)

追記2
ポスト・モダン的<世界像>は、最終的に、<社会>(の駒の一部)かあるいは<死>(ボード・リヤール)<狂気>(ドゥルーズ)の二者択一をもたらす。
それを拒否する限り、自己の<世界イメージ>の内部に、不可触な永久運動としての<システム>の中に閉じ込められた<私>というニヒリスティックな自己像を抱え込む。
『現代思想の冒険』2章