Can the eye be a killer?(テーマについて追記:2012/10/8)
このサイトにあるサンプルCGの真ん中辺りにある、スーツ姿の祐未が典史を見下ろしている
ものに顕著に描かれているように、「視線」の力が強烈な作品だったので、一言感想は
廣野由美子の著作名から拝借。
確かにドロドロした部分もあるけれど、だからといって殺すほどの、ヤンデレ的な、狂気に
満ちた修羅場はないのでご安心を(?)。
音声を9割5分強聞いた時間。「クリック後もボイス継続」あり
10:58/亮輔End
9:33/扶End
7:42/尚人End
9:14/Grand route
0:40/おまけ:写真入門、全5回
計:37時間7分
シーン数:8(祐未のみ、挿入あり5)
CG数:100(内SD1)
BGM数:38曲+OP,ED*2
開始5分ほどにあるOP後の視点が、一周目二週目三週目で、扶、亮輔、孝一(尚人に相当)と
変わることから、想定されている攻略順は以上のものになる。
(出来もこの順に下降気味…。Grand routeで持ち直す)
※以下、ネタバレ度は高めです。
他の方のレビューを読んで、作品テーマについて追記しました。雑記の前にあります。(2012/10/8)
一番下に、箇条書きでネタバレ少なめの雑感・まとめを置いておきます。
>「……祐未は、やっぱりぼくを真顔で睨みつけている時が、一番綺麗だよな。」
写真家として、見る存在としての典史と、
モデルとして、見られる存在としての祐未。
二人きりで作ったわけではもちろんないけれど、根幹は二人だけが共有し得るような、
そんなアイデンティティ(礎)をもった二人だから紡げる「恋ではな」い物語。
◯手法など
陵辱とかダーク系はとりあえず置いておいて、所謂シナリオゲーだろうと萌えキャラゲー
だろうと、恋愛、もっと広く捉えれば性的な意味を含む男女関係はエロゲーにおける中心である。
しかし、「恋ではなく」というタイトルや酒田といった具体的な地名や恋愛関係に縛られない群像劇
など、あえて「現実性」を強調しつつ、エロゲーという媒体で「エロゲー」から離れるような
話・要素を使ったのは、作品に占める割合はさほど大きくなくとも、効果的だったと思う。
プロレベルの写真・映像・モデルとしての存在感といった実際描くには難しいが文章でなら
表現が容易いというものも、視覚面をうまく回避していた。
あとTipsはゲーム媒体の良さのひとつ。それでも専門用語を使っている場面はわけわからんかったけど。
「視線」の力が強いと書いたけれども、それを表現するのに「絵」があるということ、
そして、「恋」に至るルートもあれば、Grand routeでは「恋ではな」い関係を上位とする道もある、
という可能世界(エロゲお馴染みの、AさんルートBさんルート…という広義のループ性)は、
エロゲーという媒体が上手く活きていた。
つまり、エロゲー媒体のいいとこ取りはできていたんじゃないかと。
しかし一方で、ループ性ゆえの整合性が欠けている部分もちらほら。
(決定的なのが、祐未に対する扶の恋心。亮輔ルートでは早々と諦める)
その点、整合性を欠いてでも展開に変化を付けるというエンタメ重視の意図は成功しているので、
「現実性」重視の作風と合わせて考えると、評価が分かれるか。
(共通部分は序盤の1,2時間くらい)
◯シナリオ
「目は口ほどにものを言う」というまたまた「視線」から始めるが、(決定的な)ことばを交わすか
否か、一人称複数視点という点を合わさって、これが印象的な作品の肝になっていた。
つまり、地の文における思考感情と、意識的・誤解の少ない伝えるためのことば、そして無意識的な・
伝わって”しまう”「視線」。
なにぶんダブル主人公の典史と祐未はガキ臭く、すぐ感情的になりやすい。
だからこそ肝心な思考感情がことばになって表れない。伝えられない。共有できない。
いちユーザーとしてイラッと来た時も一回二回じゃない。
そのじれったさを打ち破るのが、認めたくなくても言いたくなくても相手に伝わってしまう、「視線」の力。
>「わたしは……これまでの行き違いも、典史からの気持ちも……あの一瞬で、すべて理解できたけど。
>それでもまだ、話しあいなんてしたいの?」(尚人ルート)
この「視線」は、ほんとうにかち合った時”だけ”伝わる、というのも、二人に与えられた、二人が
育んできた末の特権と言えるか。
扶の祐未への恋心は、「なんとなくそうかな」というように決定的ではなく曖昧なものが蓄積されたもの。
Grand routeで描かれたそれぞれのラストの対峙のなか、唯一ことばを越えたものを見いだせたのはこの二人だけ。
好佳との対比をみればわかりやすい。
◯シナリオ その2 キャラ
特に尚人ルートが顕著だが、まず展開ありき、なんじゃないかと思うような古典的見せ場は少なくない。
キャラを殺しているんじゃないか?という疑い。
しかし、自主制作映画に熱心に関わるような人たち、という特殊性を考慮に入れれば、それもいくらか薄まる。
「泰斗」って名前が出てくるくらいだし。
泰斗・祐未のおやっさんはどういう想いを込めたのかって考えるのも一興。閑話休題。
ライター早狩といえば、緻密な心理描写と人物描写に定評があるが、各キャラの輪郭がしっかりしていた。
その枠内でのごちゃごちゃカオスった心情(特に祐未)は正直理解すら危うい部分もあったけれど、
それでも枠を破ることはなかったなぁと振り返って思う。
しかし、イマイチ共感できない・没入できなかったのは、私にがむしゃらさが欠けていたからだろう。
恋愛感情なら比較的理解しやすいのだが、そこでもやや詰まる部分があったのは、憎悪・妬みの強さに関係するか。
「憎悪と愛情は、本質的に同じ」との台詞は、ベクトルで単純化すれば方向・大きさが類似していることだと言える。
「好きの反対は無関心」というのを零ベクトルで例えてもいいし、1(有)と0(無)で把握するなら、
愛憎は1と-1、どちらも「有」であり絶対値|1|みたいな。
「私だけを好きでいて」ではなく、「嫌いなのも私だけでいて」といった台詞も、内容を問わずに
「一途な想いを向ける」というそのことを重視する考えが反映されている。
まあともかく、メイン二人から、恋愛感情がライバル心などより副次的な、より下に見られているように、
熱意・情熱・ひたむきさの方にこそ、重きを置いている。
恋愛したことあるかとかよりも、特に他人に対して全力でぶつかったことがあるかどうか、っていうのが
本作に入り込めるか否かの分岐点じゃないだろうか。
加えて言えば、キャラも一人称とはいえ複数視点だし、なまじ輪郭がはっきりしていて白紙部分が少ない分、
それぞれ独立した存在として「眺める」位置にたつユーザーが多いように思う。
あと、テキストに関しては三点リーダーの多用がみられる。
散り散れの思考や、その思考を表に出すときにことばがつまってしまうこと、考えながら話す様をあらわす
意味では良かった。
笑える場面は少ないけれどなくもない。後輩:好佳がいい立ち位置。
(この娘は好きな人を真っ向から批判できるってのもポイント高い。なまじ主人公=プレイヤーと仮定する
エロゲではあまり見かけない点かと。まあこの娘の好きな人は典史ではないけれど)
それ以外だと、呼称の使い分けは有効に機能していたが、この場面でこの呼び方?という理解できなかった
場面もいくつか。読み取る側の問題かもしれないけど。
◯エロ
イチャラブを含めれば尺もある。CG数もそれなりにある。
挿れてからは長くないけど、典史が喋らないように気を使っている。
感情もすごく篭っている。何年も積み重ねてきた想いが「好き」という受け皿に乗っていたと気づいた、
そしてそれを互いに認識しあったのだから。
亮輔ルートなんかは、泡沫さと強靭さ(一種の呪い)とが混ざっててクライマックスと言えるほどの
盛り上がりを見せている。
だけど[だから]、抜けない。
処女だからすっごく痛がっている(「現実性」)っていうのもあるが、快楽を求めるのではなく精神性が
前面に出てきているのが大きい。+上で述べた投影の難しさ。
トノイケダイスケも精神的つながりが強いけど、もろ「恋愛」という枠でのワンシーンであるのに対して、
やはりどこか「恋愛」という枠からこぼれ落ちている印象は拭えなかった。
映画や小説でのそれといった、芸術的ともまた少し違うような。
「結ばれる」よりも「刻み付ける・傷つけあう」ような、抽象性をもったつながり方。
抜けるかはともかく、それまで気付かず押し込めてきた感情の反動の大きさからくる、
見所あるシーンだった。
◯テーマ「恋ではなく」
結論から言うと、
①「恋だけではなく」
相手に対する感情が「好き」だけで捉えきれない。
②「恋である必要がない」(keikagoさん)
「恋」が最重視されているされているわけではない。
同語反復・自己完結的に自立している「ライバル」関係は越えられない。
但し亮輔ルートは特殊
この二点に集約されるかと。
まず、典史・祐未が付き合う形をとった3ルートと、逆に付き合わなかったGrand routeがあるが、
前者をifや前置き、後者を「恋ではなく」というテーマに則った正史と見るのは受け入れがたい。
(一番似合いの関係はGrand routeでのそれであるとは思うが、他もやや劣るくらいの対等な、
充分ありえた未来)
「付き合う」=「恋で」あり、「付き合わない」=「恋ではな」い、という外形的二分法の次元で捉えてしまうと、
「いまでも自分が典史の写真の邪魔になると感じたら……すぐにでも身を引く覚悟、もってるよ」
「典史が誰かと結ばれて……世間から後ろ指さされても、二度と顔をあわせられなくても……わたしの気持ちだけは、
典史の側にあるの、きっと。…‥こんな感情って、『好き』って表現していいのかな」
――扶ルートにおける初夜を過ごした翌朝、祐未宅の門前でのシーン
こういった、「好き」「恋」からこぼれているものを無視することになる。
この後の台詞に「わたしたちの抱いている気持ちは、決して一般的な『好き』だけじゃない、って伝えたかっただけだから」
とあるように、「好き」は確かにあるが、「恋”だけ”ではない」という方がより精確。
そして、Grand routeに顕著に表れているが、「付き合う」「付き合わない」「男と女」は二次的で、
「祐未」であり「典史」である、そのことこそが上位にある。
ちと言い過ぎなきらいはあるが、「恋である必要がない」ということ。私はGrand routeでも恋心に
当たるものを裡に抱いていると解しているが、それが「恋」と認識されている、形付けられている必要
はないし、実際二人とも相手を「恋」「好き」では捉えていない。
祐未は「扶は私を『女である祐未』だと、女が先にあり守るべき者として見ている」からと言って、
扶の想いに応えられない。
もちろん祐未は「女である」ことも含めて「祐未」なのであるが、典史が見る「祐未」で最も本質に
あるのが、「絶対に負けたくない相手」という性差のない部分。
男と女であることは、恋愛関係になることは、写真家-モデル関係に比べて一段落ちる。
せいぜいが並ぶレベルで、逆転はしない。(※後述、亮輔ルートに関するところ)
ここで、Grand routeにおける「芸術と恋」からみた他キャラについても見てみる。
典史と祐未に「恋愛」ばかり見ていた美月も、孝一と付き合う段階では「スランプ脱出という芸術のために
相手を捨てる」という打算をもち、それは卒業間際でも(弱まりはしても)まだ残っている。
好佳が扶にまず求めたのは、誰でもない自分が納得のいく作品に再編集すること、情熱の継続であり、
それは芸術家としての扶である。
他二組は苦しい。
省吾に必要なのは着飾らない対等な存在と愛情であり、朋子との関係は「恋」であろうが愛であろうが
本質的な差はない。「恋である必要がない」。……厳しい。
亮輔については、映研・脚本家としての未来を見るとして、蓉子がサポートするくらい考えられねー(汗
亮輔ルートでは結局のところ「恋愛」が最上位にきたと言えるし、そういうキャラなんだと片付けても
宜しい…のか?さすがに適当すぎか。
ただ、この二人がくっつくのは大団円のためのマリオネットだと見做す前に、蓉子の素が出た場面と
「女の意地」という感情、亮輔視点の地の文をもう少し注視してほしい。
話は典史と祐未の二人に戻る。
写真家-モデル関係を至上と捉えると、祐未がモデルを諦め医者を目指すことになる亮輔ルートの存在が
ネックになる。
これを解決するために、典史-祐未の関係に並びうるのは誰か、同程度に影響力を及ぼせうるのは誰か、
という点を考えてみる。
祐未にとって、女が二の次の「祐未」と捉えてくれる典史は、恋愛関係に限らずかけがえの無い「ライバル」であり、
典史にとって、「ライバル」としての「典史」に対する祐未はかけがえがない存在で、片割れとすら言える。
この「ライバル」というのが肝であり、扶はこの二人にとって尊敬すべき相手で、目指すべき相手であり、
対等な「ライバル」の範疇にはなりえない。
典史にとっては祐未の他にもう一人、「ライバル」であると明言された存在に、泰斗がいた。
亮輔ルートにおいてこの泰斗という存在は、朋子と重ねあわせられることで一層際立って強調されていた。
典史から泰斗に対する視線も、泰斗から典史に対する視線も、「自分の方が劣っていた」と言うほど相手の
実力を認めていて、それでいて諦めていたというよりも追いつき追い越したいという思いが強かったように
思う(確か明示されていなかったがニュアンスはこっちよりだった記憶が)。
泰斗-祐未間がこうした「ライバル」関係にあったとの記述はなかった(はず)のが手落ちかと思うが、
「ライバル」で見た時には典史を媒介にした三角関係にあったと言えるのではないか。
モデルの「祐未」であり写真家の「典史」であるという、本人たち以外にアイデンティティの根幹を揺さぶれたのが、
この「ライバル」関係にあった画家泰斗だけなんじゃないだろうか。
(扶いじめが強くなってきた気もするが、彼はまあそういう存在なんだよ)
モデルを、「ライバル」関係を捨てても「典史」と「祐未」でいられた可能な世界は、理想化された「ライバル」
泰斗に対する典史、泰斗のような子どもを救う祐未という、泰斗が媒介する世界だけだったんじゃないかと、
そんな風に考えるのもまた面白いのでは。
◯雑感
<良し>
・群像劇の名に恥じない、メイン以外にも力を注ぎ込んでいる
・その上でのキャラ・ペア同士での対比や、(どれだけ時間を重ねたか、相性はといった)
人間関係が見えやすい
・眼力がありシリアス絵もいけるトモセシュンサクの起用
・重複がほとんどない多様な展開=エンタメ性
・Grand routeで新たにサブ2人を加えて、更に幅を広げている
・カヒーナOPムービーFull! EDも両曲ともFullです
・生理に触れてる。もちろんエロシーンじゃないけど。こういうところも「現実性」を
高めている
<悪し>
・「なぜそこでアレを言わない」「言葉に出さない」といったもどかしさ・不満
・流して問題ないとはいえ、カメラ知識に全くついていけませぬ。「おまけ:入門」は
全然入門になってなかった
・起伏に欠ける
・抜けない。エロシーンは祐未のみ。好佳の裸絵(風呂、覗きなし)は一枚あり
・Grand routeの引きは流れはいいけどイマイチ弱いか。読後感で言えば扶ルートの方が
よかったり(多分に好みが反映されてますが)
・GrandEDはeufoniusだが、綺麗系じゃなくて重くカッコいい系の方が合っていたのでは
・自ら責任を負いすぎているきらいがある(部分もある)ので、(客観的にみて褒められ
ない)他者を責めない点を理解・納得できるか。
(義理堅さというキャラ背景は旧家的家庭環境で説明がつけられる)
・萌え?萌え要素が強い人間が現実性に欠けるとは言わないが、この作風でそういうキャラの
出る幕はないですね
友情出演のすーぱーそに子も正直要らんかったなぁ。特にEDクレジットで名前が浮いてた
・かわいい?う、うん。それなりには