プレイ時間2時間16分。収穫シリーズ(5作)の四作目。Too much to depend...依存することされること。愛を与えること与えられること。
プレイ時間/タイトル 点数 CG数(差分込) 視点
0:56/子宮の九月 (70点) ー 柾木
0:42/破談の十月 (65点) ー 柾木+耕平
0:38/別離の十一月 (75点) 計17枚 柾木+耕平+雪
新規BGM7曲。
しょっぱなから「~夏~」までの重大なネタバレ含みます。ご注意を。
「~秋~」自体のネタバレ度は中くらいかと思います。
郷愁漂う秋。
物語は一年の節目を、
その区切りを、迎えようとしている。
<子宮の九月>
しろと雪のお腹にはやや子がいる。
身体を繋げてはいないけれども、柾木はそれを、父親であることを受け入れている。
そんな中、(九月の終わりに転校する)中平ゆかりが柾木に告白する。
>愛情の名の下に踏み込む足が侵略だと、どうして気づかない
これは「四月」での柾木の言葉だが、雪もしろも柾木に対して「侵略的」な愛を注ぐ。
それに対してゆかりは被侵略者。受け入れる存在。
「愛しなさい」と真白に言われ(「四月」)、それを実践しようと変わりつつある柾木。
柾木が一転して愛を与える立場に立つ。
ひと月の関係、その中で彼が見るものは。得るものは。
<破談の十月>
秋。文化祭という名のお祭りがやって来る。
神も霊もメイドも女装も三角関係も入り乱れた、嵐のようなお祭りが。
けれども、子どものようにただ楽しむにはしがらみも曖昧な関係も多すぎて。
冬、それは選択を迫られる時。
その一点に向かい、道は閉ざされていく。
与えられた愛情の中、柾木も耕平も選択する自由がある。
しかしその自由は救いとは限らなくて。
選択することは誰かを苦しめることで。
選ばないでいられた、ぬるま湯につかっていられた穏やかな時間は終わりを見せ始めている。
移りゆく、関係が「確定」に向かう様には心奪われる。
しかし、キャラの多さによって「広く浅く」を強いられ切り捨てる部分も少なくない、ということが表出している。
風前の灯火の雰囲気が漂う。
嵐の前、最後かもしれない「楽しさを満喫できる」文化祭が、ちと重さを持ち過ぎている。
神や妖怪自身が「お化け屋敷」を行うなど娯楽要素が強いものも祭の説明上だけで終わってしまったり。
サブキャラまで全員がそれぞれ祭を「楽しむ」。
楽しさがが強ければギャップも際立つのだが、振れ幅が小さい。
絡め取られた柾木や耕平はともかく、貫や真白といったまさにサブキャラ達にはもっと楽しませてあげて欲しかった。
<別離の十一月>
そう、忘れていたんだ。
耕平を取り巻く恋愛が「普通」の範囲にとどまるのに対し、
柾木の恋愛は、彼の価値観は、「異質」であったことを。
彼は緩やかに、しろに雪に向かっていったが、それは本来彼女たちに「興味」を抱いた感情とは別で。
余りに「普通」に歩み寄っていた為、まるで平和ボケのようにそれに慣れてしまっていた。
叩き落とされる。微温さに、甘さに浸っていた心が。
「好き」だから「好き」。
それの何がいけないのか。
きっかけはあっても、それが「好き」な理由と言い切れるか?
確かに魅力的な点は挙げられるだろう。後付だろうと。
ではその「魅力」の集合が「好き」になるか?
思考の放棄かも知れない、「好き」という言葉に支配されているのかも知れない。
たとえそうであっても、それ以上を欲する気はない。
柾木の発する『好き』は軽い。相手に届いていない。
彼は「好き」の中にいない。
だからこそ彼は試すのだ。そう、試す。
自分ではなく、しろと雪を。
自分が満足するだけのモノをもった存在なのか、"理想"に届く存在なのかを。
雪舞う秋。認められた彼女、見放された彼女。
世界は白に塗りつぶされたて、物語は一点に収斂していく・・・