現状では委託販売されていない本作。イベントで手売りしてるのを買うか、サークルから直接通販で取り寄せる以外にプレイする術がない。そんな消極的な領布からもお察しだが、良くも悪くも同人でしか出来ない尖った作風で、難しい。あらすじを目で追うだけならそうでもないけど、作者が伝えんとしてることを読み解くのは前作以上に骨が折れる。
前作は人類がそれ以外のモノに変容した終末世界で、人間未満の少年が人間を求めた物語だった。
それはつまり『そもそも人間とは何か』という読者への問いかけであろう。
島地や芽依の出した答えは、他人の心に自分を残すこと、自分の心に他者を留めること。
>"自分はここにいる"と、誰もが誰かに知っていてほしい。(前作SCENE VIEWより)
そして親しい誰かと過ごした思い出が胸に在れば、人はたとえ独りでも前を向いて生きていける。
傍に居なくても人間は繋がっている。
偶然だろうが、先日プレイした活動漫画屋の「柊鰯」にもまるで同じことが書かれていたけれど
作者が主張した『人を人たらしめる本質』は
人間が係わりの中で育む、想いの連関性のようなものだと解釈できる。
これがおそらく前作のメインテーマだった。
今作「Episode:Ave Maria」は、表向きナタリア誕生秘話の呈だが、
その実は、前作と同じ主題を別の角度から描いた風だ。
マリア・レンドールの同位体の少女。
芽依と島地の例もあるから彼女の名がマリアであるとも限らず、作中に一度も本名は記載されないが
後にシスターと名乗る彼女は、欧州の何処かの街角で世界を呪い、
「誰も観測できず、誰からも観測されない」次元へと隔絶される。
当初自分が世界から消えたことに思い至らず、皆の方こそ世界から消失したのだと考えた彼女が
赤字で「ざまあみろ」と吐き捨てるシーンが強く印象に残る。
同世代の子から理由もなくいじめられ、周囲の大人達は誰も介入せず見てみぬ振り。
大好きなパパとママは仕事が忙しくほとんど会えず、世間は彼らをインチキ科学者呼ばわり。
幼い少女の心に積もった鬱屈は相当なものだったのだろう。
人の居ない世界で、事象が観測によって容易に捻じ曲がることに早くに気づいた彼女は
図らずも別確率の自分自身をその異次元に呼び寄せてしまう。
それは無意識の人恋しさ故か、それとも極限状態に耐えられない心の乖離か。
識別のために仮名を冠した彼女達を、最初の少女シスターはアルファベットチルドレンと呼んた。
他人を拒絶しながら一方でそれを求めた二律背反。
肌身離さず抱いていたマリエルも、持ち主の人への渇望を証明している。
顕現するのが常に自分自身だったのは、其処が矛盾した二つの希求の妥協点だったからかもしれない。
それとも、他人と上手くやっていくことを諦めて内に引き篭ってしまった少女は
向こうに居た頃から他人のことなど碌に『観て』なかったのか?
そちらの解釈は猫撫ディストーションに被るが。
だけど彼女らが違う個を持つ様に見えても、それらは結局自分自身の中に在る相の一つに過ぎない。
AC達の存在とバトルロワイヤルのイベントは、メタな解釈をするなら
シスターという"一人の"少女の性格傾向とそれらの鬩ぎ合いの暗喩なのだと思う。
(モチーフはエニアグラムか?)
象徴的だったのは、最初の殺し合いで
事前に用意していた計画を放棄してまで、シスターが自身の良心の体現だったCを生かそうとしたこと。
そしてそのCを殺したのが、我の強いDや攻撃的なGではなくて快楽主義者のHであったこと。
このイベントは、自身の愉悦の為だけに他者を玩んだかつての島地を想起させる。
後にシスターが彼に抱く怒りは、そっくりそのまま自身へとはね返る同族嫌悪だ。
少女の良心が悪意によって砕かれた、このくだりが彼女の人生のターニングポイントになった。
島地とは真逆で、かつて人間だった少女が、10年を費やして人間未満の化物へと堕ちていく。
死と復活を繰り返すAC達の人格が徐々に変容していく様は
他者との交わりを絶った者が心の多様性を喪失していくメタか?
それは非人間的な形へと収斂する。
簡単に復活できるが故に生命の尊厳を一顧だにしない魔者達は、鏡に映ったシスター自身だ。
またそれは彼女が自分の中の人間性を、不要なものとして切捨て続けた当然の結果でもある。
自分自身を殺すほどにシスターの心は麻痺して、磨り減って、とうとう人間の領域から乖離した。
何か大きな切欠を得られなければ、彼女はもう魔者以外の何者にもなれない。
彼女らの殺し合いの本来の目的は、不純物を排して観測者の意思を純化させて、
この牢獄から元居た場所へと帰ることだった。
しかしそれは果たされたのだ。
シスターは目の前に居る9人の化物が、純化された自分自身であることに気づかない。
認めたくないと言った方がいいのか…。
本編JQVにて福来先生は人間の心の変容(=成長)を進化に例えたが
シスターがその進化の袋小路に陥ったのは、彼女が究極的に独りきりだったからだと思われる。
ゴースト化現象によって観測した芽依に感銘を受けて、彼女に寄り添いたいと望んだ時、
それは今まで独りに隔絶されていた女が、それこそ10年越しで他の個に触れたことになる。
シスターは否が応にも自身と他者とを比較させられてしまう。
今まで見ようとしなかった自身のおぞましさを直視させられる。
堪らずロッジへと逃げ帰る彼女。だけど人は自分自身からは決して逃げられない。
そして別確率の自分が両親の研究を完成させ、それを切欠に人類が滅亡した事実を知る。
>「私の呪いが実現してしまったんだ!」
自分自身のことだけにシスターにだけは解ったのかもしれない。
向こう側の自分も同様に、無意識に世界を呪っていたことを。
人類の悉くが消えて絶えるのを望んでしまったことを。
だって彼女が変容したのは犬や猫ではなく鳥だったじゃないか。
何故それは鳥でなければならなかった?
人類の為などと口清い事を言いながら、マリアは本当は無意識に解放を望んでいたんじゃないのか?
要は何かから逃げ出したかったのだ。一体何から?世界?人類?それとも自分自身?
解放や逃避は言い換えれば、自身を取り巻く世界や人間達の否定である。
人間を求めたが故に、自室の外の世界を象徴する鳥に変容しかけた島地のケースとはこれまた真逆で
人の世を無意識に拒絶したからこそ(正史の方の)マリアは鳥に変じた。
OEが正真正銘「呪い」で、それが人類を害したケースは言わずもがな、
もしOEがマリアの意思や思惑とは無関係に人々に作用したのなら、彼女に責はあっても罪があるとは言い難いし、
シスターも理性ではそれを理解しているのだろうが、
それでも世界を呪って、何かの理由でそれが本当に形になってしまったら…。
どちらにしても、人は内に湧き上がる罪悪感を抑えられないかもしれない。
向こうの自分と自分自身とを同一視して、受けたショックにシスターは耐えられない。
人間性を取り戻したが心折れた彼女は、もう二度と観測結果を殺めることは出来なくなっていた。
そして半ば自ら望んで10歳若い自分自身に討たれる。
ある意味、この一連の出来事で享けた衝撃こそが
彼女にとってのオーガニック・エヴォリューションだったのかもしれない。
戦闘の間際に彼女は、芽依と島地が人の絶えた世界でも雄々しく前を向いて歩む姿を想うが
感銘を受けた何かは、人類が滅亡するずっと前から存在していたことに気づいた。
作中では具体的な詳細を欠き分かりにくいが
前作(本編)と併せて読めば、それが当稿冒頭に述べた主題そのものであったことが窺える。
これはマリア・レンドールの物語ではない。
(二重の意味で)マリアになれなかった女の物語だ。
事ある毎に垣間見える前作主人公・島地との対比は
両者が一見似ているようで、実は真逆の属性を帯びていることを示唆する。
ある種の反存在を新たな主人公に据えて展開するアナザーストーリーは、複数の視点を読者に提示することで
描く対象(=人間の本質)の、より高い次元での理解を促そうとする試みなのだろう。
だけど難解であるが故に、かえって主題がぼやけて解り難くなってしまった感は否めない。
物語は結局前作と同じところに着地する。主人公の"人間"への昇華だ。
シスターは末期に"娘"達を祝福して想いを託した。
それは作者の定義した『人間の証』そのものだ。
本編を見直せばナタリアは総勢9名で、"次の"シスターは観測されていない。
一度は堕ちた聖母は、だが最後は人間としてその生涯を永遠に閉じた。
(描かれはしないが)その死に顔は安らかであったと信じたい。
人の輪から外れて舞台を降りた正史のマリアのことを想えば
シスターはマリアになんてならなくてむしろ良かったのかもしれない。