何処かで見たような作風とそれに付随する違和感は、しかし作品の本質を大きく損なうものではない。 粗は数あれど、本作にはそれらをまとめて吹き飛ばして良作認定させてしまうだけのパワーがある。 語感・情感の豊かさ、描かれる世界の美しさは群を抜き、同人カテゴリに限れば間違いなく最高峰の一角。
先日ひょんなことから、情景というものをちゃんと計算して描くことの重要性について、改めて考える機会を得た。
直後にプレイした本作は、真に都合よくその回答を提示してくれたように思う。
目に映る景色はテキスト上で、端的でありながらひとつひとつ細かく鮮やかに彩られ
舞台を印象づけるのに欠かせない一助となっている。
例えば、人の絶えた市街地の寂寥。
一方人の世が滅んで尚美しい景観を保つ隣町外れの渓流。
"国破れて山河在り"とはよく言ったものだ。
例えば、学園屋上から臨む僅か300mのセカイの狭さ。
澄み渡る青空の広さは、寄る辺を失った少年少女には不安の象徴でしかない。
(放射冷却による寒暖差を鑑みれば、設定上においてもそれは不安要素)
フェンスを隔ててこちら側=人の領域と、向こう側=「青の領域」との対比。
彬名の最期、直後の主人公の心情の推移は立ち位置によっても演出される。
保健室のシーツやカーテンの白は、かつてそこの主であった明日海の純潔性を意識させる。
そして彼女と先生との逢瀬を知った瞬間その『白』い視界は、生々しい体液のセピアに変色して果てるのだ。
人食い熊の闊歩する隣町市街は、保護特区と同様のゴーストタウンであっても、より不気味さを醸す差別化が図られる。
その印象は模糊として、しかし何故か不安を掻き立てられずにはいられない。
山林の緑の昏さは、踏破の困難とその先の彼らの行く末とを暗示した。
そしてベタだけれど、最終局面は暮れの朱に切なく彩られる。
特異な環境で育った人間未満の少年は、他者のココロを、繋がりを求めて止まず、
しかし彼の稚気、無邪気な残酷さはそれを弄び壊さずにはいられない。
その面は悪魔の如く邪な笑みに歪んで…。ビバ愉悦部w
病床期に興じた『忘れ名の王国』、そのルールをリアルにそのまま持ち込んだ彼は
友人達や彼女を、その心を、(彼にとっては馴染み深い)人形のようにしか扱うことが出来なかった。
他人は何故自分の思い通りにならないんだ!と憤るシーンが象徴的。
取り巻くセカイを一度は破壊し喪失した彼は、芽依との邂逅に贖罪の機会、ある種の"救済"を見い出す。
それはきっと福音だったのだろう。
人類救済部とは、他の生き残りを探す活動に見えて、実は彼ら部員こそを救済する類のものか。
芽依と島地の本質を思えば、それは二重の意味で自慰に等しい。
芽依にとって島地がアニムスであるのなら
一方人を求めて止まなかった島地にとっての芽依は、か弱い"人間"そのものであり
対照的にアニマの発現であったと云えるかもしれない。
しかしそれを投射に過ぎないと、「薄汚くて」「いやらしい」と一蹴するくだりは些か趣に欠ける気も。
第3の生存者ナタリアが、最初のOE例たるマリア・レンドール…
正確には彼女のアイソトープ(同位体)であったことは類推できる。
彼女の変容した小鳥、アヴェ=マリアの遺伝子は、既存の生物とはまるで異なるものであったという。
作中世界にナタリアが出現して、チート性能を発揮できた理由の説明として、
彼女が環境にもOEにも耐性を持った、作中に曰くニューエイジ
即ち新人類に変容することに成功していたかもしれない可能性があって、
観測者の減少に伴う確率変動によってそれが世界に現出した、というものが挙げられる。
尚、芽依に観測された島地のケースと異なり、その確変はナタリアの任意によって引き起こされる。
その場合、ナタリアは個人名ではなくニューエイジを指す『種族名』であって
OEによって人類の何%かが『ナタリア』に変容する世界、そのような可能性があったかもしれない。
(それはエルフェンリートのディクロニウスの存在意義の様に、
あるいは、リング三部作の結末で貞子のコピーが人類を駆逐して置き換わったように)
彼女が2人以上存在している理由にそのようなことを考えていた。
あるいはもっと単純に、ナタリア種は人知れずせっせと単為生殖してるのかも知れないがw
余談だがもう一つ仮説として、コペンハーゲン解釈に関する話がナタリアの方便であり、
本当は彼女が情報体、人の精神に宿るコンピューターウィルスのようなモノである可能性を考えた。
OEが特定のミーム、概念の伝播によって発生する現象であるなら、
それは人の脳というハードウェアにウィルスが感染する様に喩えられないだろうか。
ペットボトルのワープもありえない夜空も巨大な月も、彼女の干渉によって生じた幻影だとしたら?
実存在と、頭の中の幻影と、得られる認知が同じなら両者の間に大した違いはない。
この仮説は、ナタリアがまるで島地の思考を読んでいるかのように振る舞うことが出来る理由に、(彼女が天才であること以上に)十分な説得力を与えるだろう。
ならば彼女は何でもありだ。神出鬼没は当たり前、物理では傷つかないし任意に遍在だってできる。
全人類にあまねく広がったそれは普遍的無意識の体現と云え
トリックスター的な性格はまるで、外世界の邪神の這い寄るアレをオマージュしたものに思えてくる。
妄想という名の思考遊戯。
ナタリアの目的or行動原理は作中に記されるように「過去のやり直し」である。
主人公を操り、彼に一度は壊してしまった保護特区生活のやり直しを果たさせることによって、
人類を滅亡させるトリガーを引いてしまった自身の過去への慰めにする意図があったのだろう。
それは作中に伏線の張られた「投射」そのものである。
自身の欲求や願望を、相手の意思や本質とは無関係に彼に重ねる代償行為。
主人公にそれが否定、論破されるくだりは本作のサブテーマの1つを表すのだろう。
過去はやり直せない。やり直すべきじゃない。
どんな悲惨な過ちだって、一度起きてしまったことを無かったことにすべきではない。
だってその過ちがなければ、彼は芽依の為に身を挺して奔走することはなかった。
心の痛みがなければ動機が生じない。正しい行いが為せない。
過ちを教訓として次の成功に繋げる必要があるのではないか。
それこそが作中に曰く「成長」であり「進化」であり「発展性」と呼ばれるものなのだろう。
あるいは喪われた人達に報いる義務。背負わなければならない十字架。
リセットは罪過を帳消しにしたり、赦したりするものじゃないだろう。
それは逃避であり、過去に生きた人々に対する冒涜なのだ。
ナタリアを否定した後、すべてに決着をつける直前、主人公は懐かしい人々に今生の別れを告げる。
彬名の背中を押すくだりは、それは明らかな代償行為なのだろうが、読者の心を打つ美しいものだった。
しかし彼の胸に去来する想いはそのシーンでは直截には表されず、以下に記述する結末に象徴されるように見える。
島地の変容したニューエイジは、黒髪ショートに左目の泣きぼくろが彬名を思わせる稚児だったが、
それは二人が順当に愛を育んでいれば生まれ出でたかもしれない、彼らの忘れ形見のようでもあった。
『変容は当人の願望を反映する』
ラストシーンになって初めて私達は、その設定が実は伏線であったことに気づかされるのだ。
土壇場で剥き出しになったココロの形は、島地が最期に求めたものは、
「――世界で一番ちいさなものは」、つまり…。