同じ短所を抱えているのに、自分のことを棚に上げて他人を批判している者を目にすれば、大抵は(それを実際に口にするか否かは別問題として)「お前がいうな」とツッコミたくなるのが人の常。だけどそのアホな発言をした当人が、ツッコミを想定した上であえてその不適切な発言をしたようにしか見えない時、ツッコミの誘い受けにしか見えない時、私達は「あれ?もしかしてさっきの釣りだったんじゃ…w」と思い至る訳だ。おそらく作者は本当は「どうしてそんな釣り行為に及んだか」を考察して欲しかったのだろうが、世評を見るに彼の思惑は物の見事に潰えたと云わざるを得ない。
自身のアイデンティティを自分以外の誰かや、属する組織の論理に付託するのは
果たして本当に成熟した"大人"の所作と云えるのだろうか?
例えば東郷シュウはASDFに自身をおもねる。軍の論理で物事を考える
彼の言う「娑婆っ気を抜く」とは、一個人のアイデンティティの喪失と洗脳紛いの上書きを指す
喩えるならその様はカルト宗教の狂信者にも等しい
組織の論理を自分自身の考えだと思い込む
お仕着せのルールの"正しさ"に縋る
望まぬ事を止む無く行う時、「そういうものだ」「必要だった」「仕方がない」と自分に言い訳して
それ自体には可も不可も無いのだけれど、そこで思考停止して、感じた"痛み"を総括しない
そんな人生はきっとイージーモードだ
私個人はそういう"ヘタレた"生き方を否定しないけれど
「それが大人なのだ!」と力説までされると流石に違うだろとツッコミたくなってくる
つまり、シュウの研鑚や経験は「空の英雄」としての成長にばかり費やされ
生身の人間としての「東郷シュウ」はいつまで経っても未熟な"子供"のままなのである
自宅でのだらしの無い様もそれを端的に象徴する
リアルにおいても、公私の公ばかりを優先して私を蔑ろにした社会人が
配偶者に三行半を突きつけられ、子供達にも愛想をつかされた例がかつてどれほどあったことか
大人であるはずの、社会的評価もある者達の"未熟"
『仕事教』に帰依したワーカホリック達の末路は、本作の「大人」論の粗を浮き彫りにしている
シュウの「筋金」は軍から借りたハリボテに過ぎない
だからその殻を剥いた生身の彼はとても弱い
「鍛えられていない男は役に立たない。尊敬されない」「守れない男に価値はない」と豪語するも
彼には市井の女一人満足に幸せにしてやることも出来ない
オカに上がって軍から離れて第二の人生をスタートさせる程度のガッツも無く
(渡世の厳しさ云々じゃなくて、軍属のアイデンティティを喪失する事が何よりも恐ろしい)
より楽な方への逃避、すなわち空で戦って散る最期を望み
様々な方便を並べ立てて自己正当化を図り、他人からの批判を許さない一方で
それを語った同じ口で、死にたがってる涼子に生きろとエゴを押し付けてみたりもする
「いや其処は彼女の望みを肯定してやれよw」とツッコミを誘ってる様にしか見えないのだが…
そして彼が初見からアエリアルに謂れのない反感を抱いたのは、程なく「空の英雄」のお株を奪うであろうあのスーパーロボットの存在が、自身の存在意義や寄る辺を脅かすことを本能的に察したからだ
それはつまり、自身の"弱さ"が他者への攻撃性に転嫁したことを示唆する
度し難いことに、シュウは自身が散々否定してきた「豚」という枠に己を貶めることばかりしている
救いがあるとすれば、彼が自身の弱さに自覚的であったことか
>シュウ
>「……シン……シンよ、お前は俺と同じにはなるな」
この言葉に籠められた万感の想いを、私達は是非に読み取らなければならない
シュウは本当は、心の奥底で自身を恥じている
弟にドヤ顔して語った人生観の粗に、間違いに気づいている
そして彼の半生にはきっと後悔があったのだ
「悔いがない」という言葉は、そう自身に言い聞かせなければ潰れてしまう、彼の弱さの顕れ
一方、他者に依らず己の力で立つ終盤のシンは本当の意味で「筋金が通って」いるように対比される
兄が面と向き合わず切り捨てた、人が普遍的に持つネガティブを
(至らぬ点も多かれど)なんとか併呑して折り合いをつけて生きていこうとする
それは兄の生き方の何倍も苦痛を伴うものだが、より尊いものであるように映る
著者井上啓二氏はブログ上で、前作アルテミスブルーについて幾つか種明かしをしている
前作主人公田島ハルは成長過程の子供、江戸湾ズは大人達の遊び場として位置づけられ
ハルが星野に付いてダイダロス01へ旅だったのは「親元からの巣立ち」であり、物語上の必然であったとされる
シンが子供の、シュウ達が大人としての役割を与えられているなら
当然本作においても同様の「巣立ち」が演出されているはず
しかし序盤のシンのやっていたことは、まるで親鳥の後を付いてまわるカルガモの雛のように
父や兄の道程を深く考えもせずになぞらえる行為だった
彼は二人それぞれの思想に染まり過ぎていた
その果てにあるのは彼らのコピーの誕生でしかない
果たして出来上がるであろうそれは本当に大人と呼べるものなのか
一般論だが例えば幼子にとって、親とは神にも似た絶対者である
自身と比べ圧倒的に強健で賢い彼らの言は常に正しく、従って然るべきと信じて疑わないものだ
しかし齢を経て現実検討力が養われた時、『親の言い分は必ずしも正しいとは限らない、従う必要もないのだ』と
真っ当な人間であればいつか必ず気づく
幼き日、あんなに大きく見えていた親の背中は、いつの間にか小さく縮こまって映り
その時自身が親と並び立っている事、あるいは超えてしまった事を自覚する
シュウが自身を「壁」と称するくだりがある
これはSPOOKから市民を守る防波堤としての己を指すが、ダブルミーニングになっていて
シンが大人になる過程で何時かは乗り越えなければならない「壁」というメタを含む
(コールテンの口にした「壁」も同様のメタを内包する)
超えるべき壁は物語の都合上、超えられる程度の高さに抑えられていなければならない
つまり本作の、子供達の指針たる「大人」が存外"ショボい"(言葉が汚くて申し訳ない)のは
彼らが著者の作為によって道化、噛ませ犬、踏み台の役割を課せられているからなのだ
大人へと至るため、東郷シンは東郷シュウを卒業しなければならない
兄の言い分を鵜呑みにして彼をそのまま写すのではなく、彼の器量を、その思惑を、超えてみせなければならないのだ
そして実際に物語はシンがシュウを超える形に収束していく
同様に私達読者は、作中に提示された教訓を忠告の一つ程度に捉え、あるいは否定し、ライターの意図を超えてみせねばならない
そこに思い至ったとき、隠されていた本作の真のテーマが朧気に姿を現してくる
井上氏は自分を大人=道化に、読者を子供に見立て、各々の自己啓発や総括を促し
最終的には(読者が)彼を踏み越えて高く飛翔していく事を望んでいるように読み取れる
もしそれらが私の読み違いで、本作がもっと単純な作者のエゴの顕れor承認欲求の塊に過ぎないのなら
あからさまな自己矛盾、論理破綻や、登場人物の逡巡、葛藤、惰弱を
わざわざ作為の下に描いてみせた理由を説明できない
(それらは自己正当化を損なうものだ)
また他者の思想に付和雷同する者達を、もしも氏が読者のそういった反応こそを望むのなら
作中であそこまで悪し様に扱き下ろすはずもない
(ニールストレームのナルシシズムとそれに呑まれる取り巻きに関する報道組二人の議論が顕著)
本作中における「親」の不在は、仕掛けられたギミックの中核を為すように思われる
東郷家も美咲家も、両親は仕事にかまけて、子供達の親として十全に機能しない
子供達はそれぞれ寂しさを覚えつつ、仕方のないことだと自分を納得させながら育った
(※補足:本物の未来との初H時に、子供の時分二人が寂しさから共依存関係に陥った旨の記述。シュウについては、ロイドメイス在学時に彼が何故同級生を毛嫌いしていたのか理由を察すれば、その子供時代は容易く推量できる。甘えを許されず独り辛い想いをしている最中、子供の特権を甘受して人の気も知らずに隣でヘラヘラ笑っていられる連中が妬ましかったのだ。そう考えると飽く程繰り返されたフレーズ『時代に鍛えられた子供は幸せ』も只の強がりに過ぎなかった事が分かる)
弱さを克己できないシュウ、獣じみた飢餓感を抱えるシン、依存体質の未来
三人のそれぞれ抱える問題の根源にあるのは、親から肯定された経験の乏しさ
シュウが「鍛えられていない男は同じ男から尊敬されない」とうそぶいたのも
未来ルートのシンが、彼女に大人になる事を求めた理由を「母親のような存在になってほしかった」と総括したのも
根底にあるのは同種の『他者から肯定されたい』という欲求
しかし、ケイトとオーサがニールストレーム院長の自己愛を危険視したように
『肯定されたい欲求』を他人にばかり一辺倒に求めるのはあまり良いことではない
本当は、自分自身で自分のことを認めてあげられる様にならなくてはいけない
社会的評価なんて本当は二の次で良い。重要なのは自分が、自分自身に納得できるか否かだ
作中の大人になりきれない者達は
肯定欲求を他者に求める段階を卒業して次のステージに進まなければならない
自分で自分を肯定できる様になる
その為には己の弱さや醜さと向き合って、それを飲み下した後に克己する必要がある
そして自分の弱さを赦せる者は、他人の弱さにも同様に寛容になれる
他人に肯定的である者が、必ずしも相手から認めてもらえるとは限らないのだけれど
他人に否定的である者は、十中八九その相手からも否定されることになる
そして、自分の意に沿わない在り方を否定するばかりの者は
認め合い尊敬し合う成熟した人間の関係を構築し得ない。大人にはなり得ない
だから作中の大人達は子供達に対して、「豚」をボロクソに扱き下ろすのではなくて
本当は逆にそれを赦してみせる寛容さを示さねばならなかったのだ
そしてそれは本来子供らの「親」こそが果たすべき役割だったはず
おそらく井上氏がこの作品の起点としたのは
親から愛されて逞しく育った元気娘が、様々な困難を克服して成長していく前作とは真逆の物
親から十分に肯定されてこなかった者達が、一体どうやって「大人」に至ればよいのか
その方法論の模索だったのだと思われる
だけど私の目に映ったものは、「子供」を「大人」にする為のものであっても
人を「親」に至らしめるものではなかった
誰も子供らの弱さを肯定してあげることがなかった
時代が悪い、生き抜くためには仕方がない
それは一つの正しさを孕んではいるし、同意できる点もあるのだけれど…
それでも親という生き物は一般的に、どのような厳しい時代であっても、特に苦労人は
自分の子供にだけは、自分と同じ想いは味わせたくないと願うものではなかろうか
たとえそれが子供を甘やかし、堕落させる可能性があっても、だ
あの鬼教官でさえも、本当は子供達を早々に戦場に送り出すことには反対したのだ
もしも本作が先述したような、『著者が自分を道化に貶めて読者の礎となるもの』であったのなら
そして読者がその意図を超えることを期待されているのなら
私達は氏の望み通りに本作を否定したり、足で踏みつけたりするのではなくて
「親」の視点を以ってキャラを、著者を、その至らなさを赦すべきなのではないか
道化や噛ませ犬でしかなかった東郷シュウを
「お前はアホだけどそれで良い」「子供でも良い。豚でも良い。在るがままのお前で構わないんだ」と、許して認めてあげる
もし身近にそんな「親」の代替が居たなら、彼の人生はもう少しマシなものになってたんじゃないか
彼は強さを養えて、あの戦いを生き延びて箱船に乗って、涼子辺りと結婚もして
彼が内心かく在りたいと望んでいた、惚れた女の心を守れる「本物の男」に成ることができたんじゃないかと
その境地に至ることが、作者の思惑を超えた読者の「飛翔」なんじゃないかと
本作に触れて、私はそんなことを考えていた
最後にあともう一つだけ、どうしても触れておかなければならない物がある
アエリアルの存在意義だ
憧れのお姉さんがどう足掻いても自分のものにはならず、挙句逆恨みまでされたり…
ちょっとイイ感じだった同期生が死んで早々に退場したり…
自分を想い続けてくれた幼馴染が他の男に寝取られてイチャラブ見せ付けられたり…
本作はシンに、読者にとって、非常に都合の悪い現実味、写実主義の様相を呈していた
本来はシンも早々に、土屋のように潰れたり、りさの様にKIAで舞台から退場して然るべきで
弾薬の尽きたASDFはカミカゼアタックで全滅
残った人類は一人残さずSPOOKに貪り喰われるか、それが嫌で自殺する
そんな悲惨な結末の中で、残り僅かの生で、例えば恋の炎を燃やしたり
あるいは自分を納得or満足させられる何かを見出して笑って逝くことが出来る
…そんな様を描くのが写実主義の王道なんだろうけど
真逆の、あまりに場違いなアエリアルの登場と活躍がそれをブチ壊していく
作者は「人間は鍛えられなければならない」という言葉を、しつこ過ぎるくらい重ねて繰り返すのだけれど
それは、『努力した人がその分だけきちんと報われてほしい』という氏の願望の顕れに取れる
(当たり前だけど、現実世界は残念ながらそんなに生温いものではない)
強い心を獲得したが、現実に抗うチカラを持ち得ない生身の人間に過ぎない東郷シンに
「せめて物語の中くらいは努力が結実してほしい。厳しい時代を生き延びて活躍してほしい。人々の希望たるヒーローになって欲しい」
そういう作者の願望と夢想とが形になったものが
あの、文字通りのDeus ex machina(演劇用語で『ご都合主義』)なのだと感じられた
スーパーロボット物の良さと写実主義とを双方台無しにしてまでそれを形にした是非はともかく
その気持ちだけは理解できなくもない
追記
すみません私はヘタレでチキンなのです///
このような形でお返事申し上げる無作法をお許しください
>dov様
>エヴァのテーマを繰り返したことになります
まさに慧眼です。その発想は正直ありませんでした。目から鱗が落ちる思い
『自己実現の過程における承認欲求や自己肯定感』という題材は、割とよくあるものなのですが
そこにロボット物の要素を絡めたのはエヴァそのものですし
方便を何度も繰り返して、それを自分に信じ込ませようとする手管は
シンジ君の「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」に通じるものがあります
確かにおっしゃる通りだと思われます
dov様の提示された見地は興味深いものですし、議論を尽くす価値も十分にあるかと存じます
井上氏が本作を手がける上で、エヴァの存在が念頭にあったのか否かは
正直なところ判然としませんし、肯定も否定も(情報不足故)今の私には出来かねますが…
ただ上にも書きました通り、本作執筆の切欠はおそらく
「アルテミスブルーで書ききれなかった物を補完するために、それとは対になる新作を書こう」
というものだったと思われますので
その時点では本作をロボット物にする発想も、エヴァに対する意識もなかったのだと推察できます
そこだけはフォローしておかねばなりません
>s0meok様
正直申し上げますと、私も本作プレイ時には生理的な気持ち悪さを感じてました(笑)
そこだけで本作の点数をつけると、100点満点で30~50点くらいになったと思います
脚本家の岡田麿里氏が、アニメの「あの花」を書くに至ったエピソードを思い出しました
岡田氏がNHKのしゃべり場を観て、そこに映された青少年の生々しい自己主張に
そのむき出しのエゴに生理的な気持ち悪さを感じて(笑)、そこからインスピレーションを得た、と
アエリアルの作者がやってる様な自己主張は、触れると気持ち悪く感じるものなのです
それが当たり前なのです
自分というものをしっかり確立した大人であるなら
他人のエゴに触れたとき、心の反作用として、自分のエゴも活性化されます
「作者の言ってること間違ってるんじゃね?」
「大人とはこういうものだろ?」
そういう事を語りたくなる気持ちが、自然に湧き上がってくるものなのです
そして、それがおそらく井上啓二氏の狙いだったと思われます
ですがそこには2つの問題点がありました
一つは、s0meok様の仰るように、本作がほとんどの客にとって不愉快以外の何物でもないということ
商業作品として、こういう試みは客の同意無しにはやっちゃいけない事だと思います
それともう一つ
作者は「読者を釣ったり煽ったりすること」には成功しましたが
「そこから先に思考の発展を促す」ことには大失敗しています
煽るばかりで、そこから先の思考の誘導が上手くいっていない
本作は構造的な、致命的な欠陥を抱えているのです
そういう意味では、井上氏は「浅慮」であったと評せざるを得ません