プレイ中念頭にあったのは、本作の登場人物の悉くがメタいということだ。キャラ付けやその振る舞い、あるいは主人公との関係性は、もっと大きな別の何かを象徴しているように、ずっと思えてならなかった…。長文感想はその訳について。
「はるまで、くるる。」は決して、生々しい人の生き様にスポットを当てたヒューマンドラマではない
冬音が教えてくれるSF的設定、自ら動かない主人公に働きかけてくれるヒロイン達
セカイ系のテンプレートを模したそれらは、恣意的に薄く軽く浅く扱われているように見える
故意に、主人公を主人公然と機能させないような構成or設定にされているため
(つまり、物事が概ね他人まかせであるため)
読者は期待していたほど、謎の解明に胸を熱くしたり
最終局面を除けば、人物のドラマティカルな想いの発露に胸を打たれたりはしない
コミカルな愉しさこそあるけれど、そういったベタな娯楽要素は薄い(皆無ではない)作品だとは思う
重要なのは、それらが著者の筆力不足に起因するものではなく
何かの明確な意図を以って、わざとそのようなスタイルを成している点にある
他人まかせという構図に作品世界や人物への没入を妨げ、逆にそれらを俯瞰するように誘導せんとした作為を感じる
これはもっとメタなものを描いた物語なのだ
結論づけると本作の主題は、おそらく仏教の教義や価値観を下地にして
渡辺氏なりの、人の生きる指針や心の持ち様を読者に説くものだと思われる
春海の殺人欲は、他の生物を殺さなければ生きていけない人の宿業と
仏教の五戒の一つである不殺生戒を語るために設けられた設定に思える
生きることは即ちそれだけで他のものを殺し続けること
ならば必要とされるのは死を意識する、死にゆくものに感謝する
それによって他者を不必要に害するのを抑制することだ
肉体を半永久的に存続させても、記憶や意識が連続しないのであればそれは「死」と同じこと
死と誕生を6ヶ月という短いスパンで延々と繰り返すその様は
つまり擬似的な輪廻転生を体現していると云える
そもそもカーネーションという用語からして、リインカーネーションをもじった物である事は想像に容易い
幼化期にラボ跡で、おそらく冬音の方が読んでいたと思われる秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)からの引用
「三界の狂人は…」のくだりは、ググればすぐに分かることだが
衆生が何も識らずに生まれ、識らずに生き、識らずして死んでいくことを繰り返す様、無常感を詠う
それが、真相を知らずにカーネーションで日々を送る皆のことを示唆しているのは語るまでもなかろう
OPムービー、並びに本編終盤に見られる鏡の国のアリスからの引用
「朝食の前にときどき、6つの不可能なことを信じていた。」について
人格的な不具を抱える一季にとって(そのキャラ設定からしてあまりに作為的なのだが)
不可能事とはつまり、他人の気持ちを理解すること
並びに個々の状況に即した、正しい振る舞い方を識ることだ
本作の諸々が仏教つながりなら、これも仏教的な何かのメタファーになっているのだろうが
6という数字に掛けて考えればこの作品は、一連のプロットそのものが、『六波羅蜜』の符牒であるように思われる
以下、六波羅蜜="人間が完成していくための六つの道筋について"の解説
まず『布施』、与えること
春海ルート
殺人欲に囚われ一季を求める春海
一季がその身体を彼女のために無償で差し出すくだり
次に『持戒』、自身を戒め、慎むこと
秋桜ルート
知的好奇心と、それに付随する冷酷さとの鬩ぎ合いに葛藤する秋桜
また、一季がその自己犠牲性を彼女から糾弾されて反省するくだり
三つ目は『忍辱』、耐え忍ぶこと
冬音ルート
永く管理人に殉じ、遂には潰れてしまう冬音
一季がその責を肩代わりして数千年に渡り耐え続けたこと
四つ目は『精進』、努力し励むこと
静夏ルート
執拗に一季を元気づける静夏
彼女に感化され前向きになる一季
五番目は『禅定』、自身を落ち着け定めること
AAによる導き
取り戻した心の平穏。カーネーションの停止。最後の365日
以上を以って六番目『智慧』、仏界の認識、悟り
ラストシーン
生命賛歌、歓喜、多幸感、共感の獲得
>「俺はみんななんだ。好きな気持ちも、悲しさも、嬉しさも、
>切なさも、喜びも……みんなに教えてもらったと思う」
>「俺はみんななんだ!」
当初は他人なんて理解できない、そんなの不可能だ無理ゲーだとうそぶいた一季が
かくして、その「不可能なこと」を成し遂げる
そしてお気づきだろうか
本作ヒロイン陣は、六波羅蜜を作中に体現させるための明確な意図を以って設定or配置されているのだ
私が登場人物を"メタい"と感じた理由にもこれで説明がつく
一季は共に過ごしたその少女達の影響を受けて、真っ当な人間性を獲得した訳だが
それは彼女達のパーソナリティをデータとして蒐集したと言い換えられる
人間の実体を肉体ではなく意識に在るとするなら、其は即ち情報の集積体だ
人は見聞きした事、読んだ本、共に過ごした人々等外界から取り込んだ情報によって自身を確立していく
一季のパーソナリティは、春海と、静夏と、秋桜と、冬音と、真冬と、AAから出来ている
曰く、「俺はみんななんだ」
そういえば、最近プレイした猫撫ディストーションExodusに同じような話が出てきた記憶がある
確か「俺も『言葉』だ」だったか
あちらは家族の話だったがなるほど、主人公達一行も見方を変えれば家族のような物なのかもしれない
最後に、一季の心を砕いた絶望について考察しておく
外の世界の氷河期の終わり、春の訪れを待ち侘びながら
主人公はカーネーションの管理に、それこそ意識が摩滅する程に永い永い時間を費やした
流転するカーネーション内での安寧の日々は
しかし真相を、外の現実を識ってしまった一季にとっては作り物の紛い物である
その価値は、外のリアルに比べて一段低く貶められたものに捉えられる
そして日々の果てに太陽は停止する。一季は絶望する
>ドウセ、オワラナイシ。
>サイショカラ、ゼンブ、オワッテタシ。
>ダカラ、ズット、オワリツヅケルダケ。
お分かりだろうか?
それらは、仏教の一番基本的な教義である『色即是空』の符牒なのだ
万物は流転する。この世にはたとえ神仏だろうと永久不滅などは存在しない
その宇宙の絶対法則の前で万物は霞んで見えてしまうこともある
だがしかし、AAから届いたメールが2通あったように
色即是空は、空即是色を伴ったワンセットだ
価値のない物など無い
彼らの日々は、決して貶められるような物ではないのだ
作中にて、一季が再起するくだりで示されたように
上記は結局解釈の問題、物の見方や心の持ちようの問題なのだと思う
じゃあ具体的にどのような心構えに努めれば良いのか…
>「元気ってだけで世界が華やいで見えるわ!
>それに楽しいわ!
>それってとても素敵なことだもの!」
「はるまで、くるる。」は大人の事情による制約があったにしては
随分な力作で、怪作で、迷作で、壮大なメタフィクションであったけれど…
渡辺氏の論旨は、結局この一点に集約されると私は思うのだ
曰く、「元気って素敵だわ!!」
…C†Cとの酷似については、無理してここで言及しなくてもいいよね?
他の方が散々触れてらっしゃるし、これからもどんどん増えてくだろうし