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turquoiseさんのましろ色シンフォニー -Love is Pure White-の長文感想

ユーザー
turquoise
ゲーム
ましろ色シンフォニー -Love is Pure White-
ブランド
ぱれっと
得点
90
参照数
545

一言コメント

王道学園純愛物語のイデア的作品

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

一言感想で述べた「イデア的作品」という評で表現したいことは次の二点:

1.理想的作品
2.「イデア」への憧れとしてのエロス(プラトニック・ラヴ)の表現としての作品

1についてはさておく。
2について、以下で詳しく述べる(ネタバレ・超解釈注意)。

本作では、愛理の母親である学園長・瀬名蘭華の言葉として、「人間はいつだって、もうはんぶんを探してる」という命題が登場する。
本命題を単純に捉えれば、「人間はいつでも、(恋愛の)パートナーを探している」くらいに解釈されるだろう。
一方でこれは、プラトンが『饗宴』の中で喜劇作家・アリストパネスによって語らせた命題、「各人はいつも自分自身の割り符を探し求めている」を想起させる。
この命題は、『饗宴』の中のエロス讃美としての男女一体論(アンドロギュヌス説)――人間の男女はもともと両性具有の強大な力をもった種族(アンドロギュヌス)であり、
その強大さ故にゼウスによって真っ二つに両断されて男女に分かれたために、本来の形に戻ろうとする強い欲求、すなわち恋心が生まれる――において語られる。

プラトンが真理とか理想に関するイデア論を展開したことと、
「愛」と「理」という二つの語からなる名を持つ愛理ルート後半で本命題(の変形)が繰り返し現れることは無関係ではないだろう。
たとえば、愛理ルートの終盤の、愛理が蘭華に全校生徒の署名を渡すシーンにおける蘭花のモノローグ「人間はいつだって、もうはんぶんを探してる」や、
愛理ルート最後のHシーンにおける次の描写がこの関係性を思わせる:

>男でも女でもない、
>ただ、愛というかたちを自分たちはしていると――

>違うつくりをした自分のもう半分を、俺は抱きしめる。

>俺たちはつかの間、二人で『一人』になれる。

こうした描写を手掛かりに、愛理ルート(或いは本作全体)は、
プラトンのエロス論(プラトニック・ラヴ)のある種の表現である、という解釈について述べる。

さて、プラトニック・ラヴというと、「肉体的な欲求を離れた精神的な愛」などと解釈されることが多いようだが、
これは原義のプラトニック・ラヴ(以下、括弧付きで「プラトニック・ラヴ」と表記)とは異なる。
以下で、本感想文で用いる「プラトニック・ラヴ」とイデア論の個人的な解釈を表明しておく。

プラトンが『饗宴』の中で語るエロス論には続きがある。
プラトンのエロス論の真打ちとして登場するソクラテスを通して語られる、
マンティネイアという街の女性ディオティマ(預言者と解される)の話によれば――先のアリストパネスの説を半ば否定した後――、
「エロス」とは、「善きもの、美しきものが永遠に自分のものになることを願う欲求」だという。
そしてこの「永遠性」への憧憬は「出産」の欲求として現れるという。
死すべき人間にそなわっている唯一の不死性が「出産」である。

ここで、プラトンのいう「出産」は、文字通りの肉体的な出産以上の意味を含意し得る。
それに応じて、「プラトニック・ラヴ」にも肉体的なものと精神的なものがあり得る。
精神的な「出産」とされるものに、学術・芸術などの分野における創造がある。
精神的な「出産」は、素朴には、「善き(才能ある)」人・作品と交わることで、「より善き」ものを創造すること、と言えるだろう。
作家・詩人などのおよそ創作家と呼ばれる人々は、他の「善き」作品に触発されることで、「より善き」作品を生み出すことが可能になるだろう。
たとえば、学術の分野で言えばプラトン自身が多くの「子孫」をもっている者であり、音楽ならばバッハがそうであろう。
そして、プラトンによれば、精神的な「出産」で最上のものは国家の秩序づけにあるという。

また、プラトンによれば「エロス」には「正しき道(順序)」があるという。
まず、我々は美しき肉体を求め、その後に、諸々の美しき肉体は互いに同族であることを認め――肉体の美を何かささいなものと見做し――、
その次に、惜しみない知恵への愛(ピロソピアー)のなかで多くの美しく、壮大な言葉を生み、ついにそこにおいてたくましく成長して、
ある一つの知識であるところの永遠・不死なるもの――「イデア」を見てとるに至る、という。
すなわち、肉体的な「プラトニック・ラヴ」の実践の後に精神的な「プラトニック・ラヴ」の実践があり、
この「エロスの(正しき)道の終極」に「イデア」がある。
(プラトン自身は、『饗宴』の中で「イデア」という言葉は用いていないが、慣習に従ってこう呼ぶことにする。)
結局「エロス」とは、「『イデア』への憧憬が『出産』を求めること」と説明できるだろう。

「『イデア』への憧憬が『出産』を求める」という命題に個人的な註釈を付け加えると、
「イデア」への憧れが「出産」の欲求として表出することの眼目は、「善き連鎖」にあると言いたい。
「(美の)イデア」の追求を例に、肉体的な出産で言えば、
「美しき」肉体との「出産」は「より美しき」肉体を産み、この「より美しき」肉体が他の「美しき」肉体と「出産」することで、
「より『より美しき』」肉体が生まれる――。
精神的な「出産」で言えば、
「善き」作品との「出産」は「より善き」作品を産み、この「より善き」作品が他の「善き」作品と「出産」することで、
「より『より善き』」作品が生まれる――という具合である。

「出産」された「より善き」ものが――「悪しき」ものではなく――「善き」ものと「出産」することが、「善き連鎖」である。
この「善き連鎖」の最果てに「イデア」があると考えられる。
こうして、「『イデア』への憧憬が『出産』を求める」という命題の普遍性が「善き連鎖」として説明される。
プラトンが言うように、「イデア」の追求にとって「善き」ことが「出産」にあるとすれば、
「イデア」の追求にとって「より善き」ことは、「善き連鎖」にあることになる。

以上をまとめると、「プラトニック・ラヴ」とは、
有限な生しかもたない人間の、永遠・不死なる「イデア」への憧れが「出産」を求めるという形で表出する欲求(恋心)、と言えるだろう。
そして、「イデア」へ至るはじめの一歩に当たる、「より美しき」肉体を求める「美しき」肉体との「出産」は、文字通りの肉体的な出産である。
従って、「プラトニック・ラヴ」は「肉体的な欲求を離れた」ものなどではなく、むしろ「肉体的な欲求」は必然的なものとなる。

*

さて、このような「プラトニック・ラヴ」の考え方を本作に適用してみたい。
肉体的な「プラトニック・ラヴ」と精神的な「プラトニック・ラヴ」の両面を考えるが、まずは愛理ルートの肉体的な側面について簡単に述べる。
愛理ルートにおいて、新吾にとっての「美しい」肉体とは、他ならぬ愛理という美しい外見や美しい思想をもった一つの個体である。
そして、「美しい」肉体との「出産」を求めることは、愛理とのセックスを求めることを指す。
愛理ルート最後から二番目のHシーンで新吾は

>好きな人とのエッチって――、やっぱり、まさに『愛を確かめ合う行為』なんだ。

>大好きな女の子が俺とのエッチで達してくれることって、どうしてこう、叫びたくなるほどに嬉しいんだろう。

程度に思っているが、愛理ルート最後のHシーン(対面座位であり、これもアンドロギュヌス説を想起させる)で達した直後に至って、

>愛情を積み重ね、お互いを昂ぶらせ合った男女のセックスの、その極みの極みだけがつかの間見せてくれる、どうしようもなく幸せな、究極の幻想。

とまで感じいる。
愛情を積み重ねた「過去」と幸福な「未来」への予感が「現在」に集約されるような感覚――それが「究極の幻想」であれば、これを「永遠性(の感覚)」と解釈すれば、
ここに至って「プラトニック・ラヴ」の肉体的な側面を体得したことになる。

*

次に、本作品の精神的な「プラトニック・ラヴ」の側面について述べる。

本作は学園統合というやや珍しい設定から物語が始まる。
以下では、学園統合が結姫女学園(以下、結女)と各務台学園(以下、各務台)の精神的な「出産」を表すという解釈について述べる。
すなわち、蘭華の言葉「人間はいつだって、もうはんぶんを探してる」の「もうはんぶん」は、
結女学園長という立場の蘭華(或いは結女そのもの)にとって、各務台であるという解釈である。
そしてこれは、仮統合期間を舞台に本作が描くものは、「蘭華による、精神的な『出産』の試みである」という解釈である。
プラトンは精神的な「出産」の中で最上のものは国家の秩序付けだと考えたが、これを学園規模で試みたものと位置づけられる。
上で述べた通り、プラトンは「イデア」の追求には――肉体的な「出産」に続いて――精神的な「出産」が重要であると説いた。
「善き」ものとの精神的な「出産」が「より善き」ものを、最終的には「イデア」をもたらすという考えである。

冒頭の新吾の言葉で語られる二つの学園の特徴は次の通り:

結女:長い歴史と伝統を誇る、市内でも有数の名門校。
各務台:「新市街の再開発に併せて設立された」歴史もステータスもないごくごく普通の共学校。

結女には「強堅(しっかりしている)」という「善き」特性が、各務台には「柔軟(臨機応変)」という「善き」特性があると考えられる。
そして、これらの特性の代表者はそれぞれ、愛理と新吾である。
これは物語冒頭の、統合に反対するという愛理の「強堅」な態度と、テストクラスに積極的に馴染もうとする新吾の「柔軟」な態度として表出している。

これら特性の代表者が愛理と新吾であるという主張には説得力が足りないかもしれない。
学園の代表者とは形式的には生徒会長であって、二人はそうではないからだ。
それでも本解釈を採用する根拠としては、愛理と新吾がテストクラスのクラス委員であること、冒頭における新吾の愛理評として

>真面目で、頭がよくて、凛としていて、結女のイメージを体現しているかのような生徒。
>しかも――彼女は、あの学園長の娘さんと来ている。
>結女の子たちの誰しもが、一目置いている。

なる描写があること、新吾がたびたび学園長室に呼び出され、仮統合について訊かれるほど一目置かれていることを挙げておく。

さて、「強堅」と「柔軟」にはそれぞれに「善さ」があるが、一方だけでは「より善く」なることは出来ない。
学園統合には両者の「善さ」を融合させる働きがあり、ここに「より善き」特性を創造する可能性が生まれる。
愛理ルート終盤では学園統合が危機に陥るが、プラトンの説く「エロスの正しき道」によれば、
肉体的な「プラトニック・ラヴ」を体得した愛理(と新吾)は、精神的な「プラトニック・ラヴ」の実践が可能となっており、
実際に愛理はこれまでの親子間の不和を克服して、学園長である母親を(精神的に)助けるかたちで、学園統合に向けて行動する。
描かれる内容は、学園長へ全校生徒の声と賛成者の署名を届けることのみであるが、学園生に可能な行動としては妥当なところだろう。
以上のことから、愛理ルートでは、「プラトニック・ラヴ」が肉体・精神の両面から表現されている。

次に、本解釈を他ヒロインに敷衍して、改めて検討してみたい。
すなわち、結女のヒロインと新吾がそれぞれ、結女と各務台の「善き」特性の代表者であり、
蘭華にとって、「結女のヒロインと新吾が結ばれること」が「精神的な『出産』が成功する」かどうかの基準である、という解釈を検討する。
本作ヒロインで唯一、各務台出身の桜乃ルートにおいてのみ統合廃止となることが一つの傍証である。
特に、桜乃と新吾の仲を両親に認められた次のシーンで、蘭華により統合の中止が言い渡されることが印象的である。
これは、各務台の代表者とした新吾が――結女のヒロインではなく――各務台出身の桜乃を選んだことをみて、
「精神的な『出産』は失敗に終わった」と蘭華が見做したことを表現していると考えられる。
また、桜乃ルートのエピローグで描かれる桜乃と新吾を取り巻く関係、特に学園の様子に変わりがなさそうなことも印象的である。
しかし、本ルートの終盤で愛理の口から、統合廃止と新吾・桜乃間の関係は無関係であることが語られるため――その真偽までは語られないが――、本解釈は不適切かもしれない。

検討を続ける。
アンジェルートにおいて、アンジェと新吾は結ばれたことを蘭華に報告しており、学園統合は果たされている。
統合された学園には新たにメイド部が発足し、さらに新設特別カリキュラムとしてメイドの授業が創設される。
学園統合による新たな制度の「出産」である。
アンジェのもつ「善き」特性は「奉仕」である。

みうルートにおいて、蘭華はみうの母親である結子の会話を通して、みうが「もうはんぶん」を見つけたこと聞く描写がある。
明確には語られないが、みうと新吾が同じ部に所属していることから考えて、相手が新吾であることは知られていると考えられる。
そして、本ルートにおいても学園は統合され、新たに――新吾を部長とする――環境保全部が発足し、
これまでの、動物を護るだけの活動から一歩踏み出て、動物たちが安心して暮らせる住処を創る活動である植林活動が始まる。
学園統合による新たな活動の「出産」である。
みうのもつ「善き」特性は「母性」である。

改めてまとめると、仮統合期間において結女のヒロインと新吾が結ばれた場合においてのみ学園統合が果たされ、そうでない場合は学園統合は行われない。
ただし、愛理ルートでは学園統合が果たされたかどうかは明確に語られない。
しかし、愛理ルート後半は学園統合自体が主題となっており、このために行動する愛理と新吾の描写から、近い将来に学園統合は果たされると考えるのが妥当だろう。
学園統合が果たされた他ルートの場合、
アンジェルートでは、メイド部とメイドの授業が産まれ、
みうルートでは、環境保全部と植林活動が産まれている。

以上により、仮統合期間を舞台に本作が描くものは、
「蘭華による、精神的な『出産』の試みである」という解釈が概ね検証されたかと思う。

*

最後に、王道学園純愛物語にとって「善き」描写が「プラトニック・ラヴ」だと考えると、
「王道学園純愛物語で『プラトニック・ラヴ』を描いた愛理ルート(本作品)は、プラトンと本作クリエーター(たち)が『出産』したもの」
という言い方になり、「王道学園純愛物語のイデア」へ至る「善き連鎖」における一つの作品――イデア的作品――となるが、さすがに超解釈か。



*



以下で、1の「理想的作品」という評について、項目ごとに感想を述べる。

【テキスト】
恋心が芽生えるまでの過程と、主人公とヒロインの想いが深まっていく様子が大変丁寧に描写されている。
特に、ヒロイン視点の心理描写がきちんとあるため、感情移入がしやすい。
ヒロインと結ばれてからのイチャラブも、一歩一歩前進するさまが描かれていて、眺めていて微笑ましい。

【シナリオ】
公式で謳われている『王道直球の学園ラブストーリー』のコンセプト通り、
学園の定番イベントの定期テストや部活動、そしてスーパーの特売日という何気ない日常を題材に展開されるシナリオ。
どのルートでもハッピーエンドで綺麗に纏まっている、王道学園純愛物語として理想的なプロット。

共通ルートでは、主人公の持ち前の気遣いでクラスの雰囲気作りに成功し、ヒロインたちと仲を深めていく。
選択肢によってどのヒロインを最も気遣うかが決まり、それに応じて、どのヒロインと恋人になるかが決まる。
個別ルートでは恋心が少しずつ発展していき、個別の問題の解決を通して、より深く甘い関係となる展開が待ち受ける。

以下は個別ルート毎の雑感。

愛理ルート:
波風を立てないように空気を読む主人公と、生真面目で折衝が苦手な愛理が相互作用して、少しずつ成長していくさまが描かれていて微笑ましい。
エンディング直前の描写で綺麗にタイトル回収していくだけでなく、エピローグでの新吾の言葉で綺麗にオチる。

桜乃ルート:
義兄妹でありながら恋仲に発展することに躊躇しつつも少しずつ距離が近づくさまは、
安玖深音さんの演技の巧さも手伝って、これ以上ないくらいに丁寧に描写されている。

アンジェルート:
「空気に敏感」な主人公と「世話好き」なメイドの二人はどこか似ていて、それ故惹かれ合い、支え合っていく関係はとても微笑ましい。
そんな二人だからこそ、一度付き合い始めると仲が深まるのは最早時間の問題であり、個別ルート中はただただ甘い時間を堪能できる。
他ルートと比べると短めだが、コンパクトに纏まっているとも言える。
エピローグでは二人が寄り添って生活している様子が描かれおり、幸福な未来を予感させるもので印象的。

みうルート:
部活動を通して仲が深まる話で、サブヒロインの紗凪や捨て猫が巧く使われている。
蘭華と結子の関係など含みをもたせた描写が幾つかあり、最後まで関係性が明確に述べられない点もあるが、メインのお話は丸く収まっている。

【CG】
和泉つばす氏の原画と、冬の季節にあった幻想的なタッチの塗りが相俟って、テキストが描く世界観が効果的に演出されている。
また、どのCGも構図が大変素晴らしく、よく考えられていると思う。
差分が豊富で、テキストによく追随している。

【ボイス】
どのキャラクターもよく合っている。
特に、感情表現が穏やかな瓜生桜乃を演じた安玖深音さんの演技は、少ない抑揚の中に微妙な気持ちの動きが伝わってくる、素晴らしいものだった。
テキストにある3点リーダや読点に込められた気持ちやリズムもきちんと丁寧に表現されていた。
「ボイス保存機能が欲しい」と何度思ったことか。

【音楽】
世界観・季節感に合った、穏やかで優しい音色の室内楽曲がメイン。
アーティキュレーションの設定も細かく、聴き入ってしまうこともしばしばある程。

【Hシーン】
恋愛の進行具合に合わせた適切な描写で、回数を重ねる毎に深まる愛情がよく伝わってくる。
他ルートと比べるとみうルートにおける描写は特に濃厚で、良くも悪くも浮いている。
前戯の多くのシーンで、きちんと服を脱がせていくCG差分があるのが嬉しい。

【演出】
後ろ姿の立ち絵やカットインの存在、食卓を囲んで話をするシーンに合わせたCGの配置、
教室でキャラクターが動きまわる描写や雪の降る描写など、行き届いた細かい演出が憎い。

【総評】
全編を通して『王道直球の学園ラブストーリー』のコンセプトが貫かれて丁寧に作られており、
CG、ボイス、音楽や演出の全てが高水準に纏まっている王道学園純愛物語の理想的な作品。
付き合うまでの過程とその後の濃厚なイチャラブをじっくり味わいたい方に是非お薦めしたい作品。