プレイ中はそれほど楽しかったわけでもないが、終わってから考察(妄想)するのが最高に楽しい作品だった。
リメイク前未プレイの完全初プレイ。しかし終ノ空リメイクを先にプレイ済。
まずこの作品で特に気になったものは大きく3つ。
エロシーンの傾向
作品を通しての主張
音無彩名から読み解く楽屋裏
エロシーンの傾向
序章から唐突に始まるレズセックス。女装ホモ、近親相姦(父娘)、露出、ふたなり、ふたなり、薬物キメセク、またもレズ、自分の他人格とのセックス、近親相姦(兄妹)&ロリ…軽く見ただけでもわかる通りマイナー性癖のオンパレード。
単なるニッチ向けという可能性もあるが、作品を通しての主張を考えるとエロシーンもまた主張の一部であるように思われる。
作品を通しての主張
「幸福に生きよ!」
「猫よ。犬よ。シマウマよ。虎さんよ。セミさんよ。そして人よ」
ついでにマイナー性癖持ちよ。
「等しく、幸福に生きよ!」
何度も繰り返されたエミリ・ディキンスンの引用や、世界=私という論述はこの主張を補強するための材料。エロシーンがマイナー性癖のオンパレードなのは、性癖を拗らせたエロゲーマーにも「幸福に生きよ」という命令が刻印されているのだという補足説明なのだろう。
追加ルートのオチもその現れ。幽霊かはたまた幻覚でしかなく子供も作れない由岐と一生を共にするというメリーバッドエンドという解釈も可能かもしれないが、この作品の主張を考える限りそれはない。
「幽霊だって人権はあるんだぞ」
「そんなのあるわけありませんっっ、そんなの二次元に
人権があるって言ってるのと変わりませんっっ」
「私はあくまでも脳内の住人だからな。脳内の住人とのセックスはカウントされないんだからな」
つまるところ幽霊も幻覚もモニターから出てこない嫁も変わらないという話で。そして脳内嫁しか相手のいない童貞だろうと「幸福に生きよ」というのがこの作品なわけで。
間宮卓司とリルルの問答がさらに理論武装を強化してくれる。
「有意義な人生には子孫を残すって言うのもあるよ!」
「つまりは…お金も無くイケメンでも無く子孫も残せない人生はなんら
意味が無いんだね?」
「…どっちにしろ全部消えてしまうのに?」
「宇宙の終わりが来て、すべてが消え去るとしても、卓司くんは
子孫を残す事こそが生命が生きる意味だって言うんだよね…」
「人間の子孫が無限の時間に存在出来ないなら、それは一瞬だよ」
「有意義な人生って…卓司くんの言い方だと、ただ時間的に答えを
後に引き延ばす事に聞こえるよ…」
「それらは単に、幸福を時間的に引き延ばして”これは有意義である”と
宣言しているみたい…」
「幸福の時間的な量…それが人生の意味なの?」
つまるところ、結婚して子供をもうけて…という幸福像は、卓司くん言うところの教育=洗脳による価値観なわけで。子供が作れない由岐と一生を共にするのはメリーバッドエンドという解釈など、この作品をプレイしていれば出てくるはずもないだろう。
音無彩名から読み解く楽屋裏
音無彩名=ナイアーラトテップ=作品内の全キャラクター=すかぢ
水上由岐=間宮皆守=間宮卓司=間宮羽咲=高島ざくろ=盲目白痴の神=プレイヤー
この作品はエンターテイナーであるナイアーラトテップ音無彩名が主人である盲目白痴の神アザトースを楽しませるために水上由岐を始めとする5人の視点を通して物語を届けるものである。
この作品はエンターテイナーであるすかぢが盲目白痴のお客様であるプレイヤーを楽しませるために水上由岐を始めとする5人の視点を通して物語を届けるものである。
この作品をプレイしたプレイヤーは自分の人生を肯定されたような気になり、「感動した!」「幸福に生きる!」「これだからエロゲーはやめられない!」などと絶賛するわけだが、結果として虚構の世界に囚われ続けるわけである。
夢を見続ける主人を楽しませる一方で、アザトースが目覚めると世界が終わるために覚醒を阻止しなければならないナイアーラトテップ。
虚構に囚われる客を楽しませる一方で、エロゲーマーが脱ヲタすると業界が終わるために覚醒を阻止しなければならないエロゲーライター。
こういった関係性に着目して作品世界をつくりあげた手腕には驚くほかない。ナイアーラトテップが内心では主人を見下しているという設定もまた皮肉がきいていて良い。
序章で唐突に
「私の知っている方で、シナリオと原画とCGと演出用素材から背景まで、
自分が出来るからと言う理由で全部やろうとしてしまう方がいますが…」
とライター自身を元にしたメタネタが始まった時は何かと思ったものだが、
「仮定7…すべての存在は一つの魂によって作り出された…」
にかかっていて、作品世界と作者を繋げるアイディアは素晴らしい以外の言葉がない。
作品内ではすべての人物がアザトースの見る夢でありナイアーラトテップ音無彩名の他人格。メタネタでは作品世界の存在はすべてすかぢから作り出された。考えれば考えるほどよく練られているとわかる。
基本は終ノ空と同じネタ、真相が明らかになってくると妹を守るため3人の人格が生まれたとか、原因となったのは家族を殺してしまった事件とか、どこかで聞いたようなネタ。そもそもファイトクラブの影響が大きいらしく、オリジナリティーとはほど遠い作品。実際プレイしていて物語に惹き込まれることはなかったようにも感じる。
ところが素晴らしき日々。
「誰かが作った曲を俺が弾く
そいつは俺に弾かれると思って作曲したわけではない
でも俺はその曲を弾く
だいたい好きな曲だから
感動した曲だから
その旋律は、誰かの耳に響く
俺以外の誰か」
「音楽は響く
店内に響く
世界に響く
世界の限界まで響く。
そこで誰かが聴いているだろうか?
聴いていないのだろうか?
それでも俺は…曲を弾く
誰のためでもなく
それを聴く、あなたのために…。」
序章で由岐が語った時には気が付かなったが、素晴らしき日々までプレイしてようやく気がついた。おそらくこれはすかぢの創作論なのだろう。ファイトクラブにクトゥルフに俺つばとネタはオマージュだらけ、主張は過去の偉人の言葉からの引用を連発。ストーリーやシナリオから新鮮味を感じることはないかもしれない。
それでも創作なんてネタ被りが当たり前。楽しむ誰かのために創作をするだけ。見ようによっては開き直りかもしれないが、立派な創作論である。実際作品も高く評価されているようだし、おそらく正しいのだろう。
しかもこの語りの後で流れる曲がOPというのがまた良い。「空想力学少女と少年の詩」とはまさしくこの作品そのものと言える。というよりこの作品そのものなのだろう。この作品に違うタイトルをつけるとするならこれ以外にないぐらいだ。そんな曲を、作品そのものである曲を持ってくることで、誰かがつくった曲(ネタ)を自分(すかぢ)が演奏する、それがこの曲(素晴らしき日々という作品)という演出。面白い。
この作品のTRUEEND
向日葵の坂道をクリアした時点でタイトル画面が変更され、Knockin’on heaven's doorをプレイできる。
向日葵の坂道と素晴らしき日々をプレイすることで終ノ空Ⅱのフラグが解放される。終ノ空Ⅱをクリアするとタイトル画面が元に戻る。
普通にプレイしていれば最後にプレイするのは終ノ空Ⅱとなる。ここからさらにJabberwockyⅡを始めると、音無彩名が登場する。
「…ここは境界… そして…魂が、何度もやり直すための…地点…
あなたの選択で…世界は…変わる… 私から質問…
水上由岐さん…間宮羽咲さん…そして…終ノ空…
あるいは…あの夢から覚めていない…
あなたの言う”今”はどこ?」
さらにオープニングテーマ時の画面に書かれた文字。
「空へ続く6つの旋律」
Dawn the Rabbit-Hole
It's my own Invention
Looking-glass Insects
Jabberwocky
Which Dreamed It
JabberwockyⅡ
この6つの旋律がつながる空というのはすなわち結末のことなのだろう。
素晴らしき日々も、向日葵の坂道も、終ノ空Ⅱも、神である”あなた”の選択次第で定まる結末。つまりはどれがTUREENDなのかは決まってなどいないし、語り得ぬことなのだろう。
個人的には
「間宮皆守はたしかに屋上から落ちた…さらにその前には
ナイフで腹部にかなりの裂傷を負っていた。」
が一番納得できるので終ノ空Ⅱこそが私のTRUEENDと答えたいところだが。
最後にちょっとした謎。橘希実香と岩田美羽がどちらもCV北都南である件。特に意味はないかもしれないが、あえて意味を見出してみたい。
双子でもなければ血縁関係ですらない赤の他人が、まったく同じ声で、同じ学校の、同じ年代、かつ隣のクラス。普通に考えてありえない。そのありえない配役をあえてすることで、この世界が創作物であるというメタネタの象徴にしているのかもしれない。同時に、こうしたありえない事態に作中の誰も違和感を抱かないという点で、仮説7「すべての人物は一つの魂によってつくりだされた」を証明しているのかもしれない。元が同じ人物ならば声が同じ人物がいてもおかしくないという乱暴な理論。ちょっと無理があるかもしれない。
ついでにもひとつ疑問。終ノ空Ⅱでの彩名と由岐の問答。
「なぜ人は他人を理解出来るのか…」
「何故…自分と他人とで”痛み”は同じ意味を持つのか…」
「なるほど…それはすべては”私”であるから…と言いたいわけか…」
これは前提条件が間違っている。人は他人を理解できない。できることは想像すること、理解した気になること。それだけ。このことはライターも承知しているはずで、おまけでの営業と現場の例え話でも他人の痛みは対岸の火事でしかないと明言されている。
「…私は私が感じるものとしての痛みに基づいて、私が感じるのでは
ないものとしての痛みを想像しなければならない…
その議論…哲学者ウィトゲンシュタインのものだよね…
他人の痛みを感じるとは、想像力で自分の痛みを移動させる様な行為では無い…」
つまりは他人の痛みと自分の痛みは別物であるということであり、他人の痛みを想像することはできても理解はできないということ。この言葉を由岐も知っていながら彩名の言葉に納得しているのはおかしい。
仮説、「由岐の世界では他人の痛みを理解できる」
前提条件がそもそも違っているならば、答えもまた変わる。なぜそのような世界にしたのか?作品世界はあくまで想像の産物であり、現実とは違うということを明言したいから。作中の仮説7は現実においても否定することは不可能であるから、変に影響を受けると「自分以外の人間はすべて自分の他人格であり、あるいは自分も他人の他人格かもしれない」などと勘違いをする可能性を否定できない。そのための予防線として、作品世界と現実は異なることを、彩名に間違いでしか無いことを事実かのように語らせることで明らかにした。…説明ならばいくらでもできるが答えは不明、語り得ぬことかもしれないが。
まぁ考えても答えの出せる問題ではないので、特典の「言語、絵画、電波、あるいは物語が紡がれる紙」を楽しみにしたい。特典を読んだら終ノ空リメイクの記憶が薄れた頃に原点終ノ空をプレイするのもまた楽しみ。