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tkktさんのR.U.R.U.R ~ル・ル・ル・ル~ このこのために、せめてきれいな星空をの長文感想

ユーザー
tkkt
ゲーム
R.U.R.U.R ~ル・ル・ル・ル~ このこのために、せめてきれいな星空を
ブランド
light
得点
90
参照数
529

一言コメント

人間社会を真似ただけの、洗練されてない不格好な「町」で被造知性たちが、宇宙一かわいそうな子供を宇宙一しあわせにする子育て奮闘記。微笑ましいトライアンドエラーを童話調のハイセンステキストで綴りながら、飽食や装飾まみれの物質文明への強烈な皮肉もついでのように刺し込んでくる。凄く考えさせられたし面白かったです。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

グラフィック(18/20)
 キャラデザは現在でも十分に魅力的ですね。というか12年前のゲームとは思えない。まあ汎用的な服を着ているせいもあるでしょうが。というワケで衣装差分は少なめですね。例の制服(?)を除けば水着だけかな。背景絵にしても当時の最高峰ではないかと思います。荒廃した宇宙船の独特な雰囲気を見事に醸成していました。また戦闘時のムービーも用意してあって(正直画素とか粗いですが、制作年を考えれば仕方ない)力の入れようが伝わってきました。全体的に非常に高品質だったと思います。


ストーリー(44/50)
 怪作にして快作。メッセージ性・示唆に富んだ、ゴリッゴリの教育論・幸福論の叩き台みたいなゲーム。母性的過干渉、父権的支配、友人的対等。三者三様の接し方でイチヒコを取り巻くメインヒロインたち。ワガママで優しくて賢くて残酷な子供、イチヒコ。よく描写し、よく動かしていたと思います。キャラが本当に生きていました。そしてそんな彼らが「幸福」について本気で悩み希求する。その様が稚拙で滑稽に見えるなら、今一度、よくよく考えてみて欲しい。「洗練された」「無駄のない」物質文明が本当に貴方を幸せにしていますか? と問い返されるような、人によっては不快感を催すような伊藤ヒロさんらしいナンセンス。凝り固まった固定観念や常識をツンツンされても怒らない人は是非プレイしてみて欲しいなと思います。ここから下はネタバレ全開なので、未プレイの方は戻って下さい。

 ・大人が隠していること。良い子で居て欲しいこと。
 物語は主人公のイチヒコが20歳の誕生日の夜、ミズバショウ(長姉であり母のロール)と性行為をする所から動き出します。世の中にこんな凄い事があるのかと、イチヒコは驚きます。それもそのハズ、イチヒコは行為時点で性的知識がほぼ皆無でした。意図的に秘匿されていたからです。我々で言うところのAVやエロ本やらに該当するような予備知識を入れられないまま、いきなり体当たりです。そりゃ驚くでしょうね。ここで付記しておきたいのが、この作品世界が女系社会で、おのずと女性的感性の教育をイチヒコに施しているという事。「子供」に性的な物を潔癖なまでに見せたがらず、「大人」になるまで隠しておこうとする、あの女性的感覚(別に是非を問いたいわけでもないし、僕はフェミニストでも男尊主義でもないので、ただ純粋に傾向を書くにすぎませんが)は男性にはかなり理解しづらいですよね。※もちろん「傾向」であって、全員の女性がそういう信条の下に子育てしているワケでもないだろうし、男性の中にも子供は大人になるまで性的な物に触れる必要は無いと考えている人も居るでしょう。まあここら辺は、異性の子供であるか同性の子供であるかも少なからず関係しそうですが。いずれにせよ、ミズバショウを筆頭とした現社会体制下では、そのような教育方針が執られているようで、イチヒコ君の驚愕は、この所為です。
 人によってはこの教育方針のみでミズバショウを嫌う人も居るかも知れませんが、そこにスッと挟まる小噺が絶妙。旅人のRタンポポが、「良い子にしてないと、舌を引っこ抜かれる」という嘘をイチヒコやヒナギクに教えたというエピソードですが、こういった欺瞞を欺瞞と言わない(隠すこと)で子供たちを躾るやり口は、古今東西に存在しています。有名な例ならナマハゲとかね。つまり何が言いたいかというと、ミズバショウに限らず、大人はみな大なり小なり、子供に嘘をついたり不都合な物を隠匿したりして、育てているワケです。嫌な言い方をすると、まだ何も判断のつかない子供を洗脳しているワケです。そういった意味合いにおいては、ミズバショウに嫌悪感を抱いた人も、方針の差異はあれど、方法は同じ、なんですね。子供の自主選択なんて、そもそもあまり多く与えすぎると、社会秩序の崩壊へ向かってしまう。「あれをしてはいけません。あれはやった方が良いですよ」という親の言葉は、「あれをしては(社会の一員として不適切なので)いけません。あれはやった方が(貴方や私が社会から褒められたり喜ばれたりするので)良いですよ」という意味で、ひとつは子の為で、ひとつは将来的な社会秩序の維持の為、ひとつは自分たちが良き親として社会から認められる為。そういった型に嵌めてしまう。すなわち、自分たちの打算が全くない教育というのは、この世界のどこにも有りはしないのだと思います。ミズバショウだけに限らず、どこにも、誰にも。
 貴方の住む町は宇宙船の中の一区画なんですよ、とか。本当は私たちは被造知性で、貴方は人間なんですよ、とか。そして今は貴方一人だけだけど、他の人間を復活させる方法もあるんですよ、とか。性行為の他にも色んな事を教えずに、ミズバショウたちはイチヒコを育てています。ひとつにはイチヒコが混乱しない為、ひとつには社会秩序維持の為、ひとつにはイチヒコの記憶が無いからこそ社会に認められた家族ごっこ存続の為。彼と自分たちの為。
 こういった隠匿や、道徳の徹底に対して一石を投じる役割を、意外といっては失礼ですが、あまり知性が高くないと言われているR‐コバトムギが専ら担っています。「いい子なだけでは見つからないしあわせ」をイチヒコに教えようと、あの手この手で変態セックスを仕掛けます。空腹でなくとも食べる事、喉が渇いていなくても飲む事……エトセトラエトセトラ。コバトムギは人間相手のウェイトレスをしていた立場から、彼らの幸せ(つまり僕が一言感想で書いた、飽食や装飾まみれの物質文明が持つ幸せ)も見てきたワケです。で、そんな種類の幸せも世の中にはあるんだとイチヒコに教えたいと願うようになります。ここまで読むと、それ見たことか! やはり物質文明が最強なんじゃないか! このウンコ野郎! と息巻く人も居るかも知れませんが、まあ落ち着いて下さい。僕はウンコ野郎ではありません。確かに物質文明にしかない、贅沢という幸せは有るでしょう。僕も少なからず享受しています。だけど、贅沢が、満たされ続ける事が、必ずしも永続的な幸せには繋がらない。イチヒコも言うように、悪いことをすると良心が痛むという感覚があるからですね。贅沢をし過ぎると、「良いのかなこんな贅沢?」という呵責が生まれる。水が清すぎれば魚は住めないですが、だからと言って汚すぎても等しく魚は住めませんね。結局は中道、中庸が肝心なのであって、そのバランスが何より難しい。コバトムギいわく大昔のマンカインドも分かっていなくて、しょっちゅう不幸せな顔をしていたとの事ですから、きっと永遠の命題なんでしょう。
 つまりイチヒコはこれを教わった時点から、大昔のマンカインド同様、健やかな幸せ(規律・道徳を守る幸せ)と、健やかじゃない幸せ(それらを破る幸せ)とのアンビバレンスの狭間で調和を取って行かなくてはいけなくなります。そんな困難を行くくらいなら「良い子でいる幸せ」だけ知って、そのレールの上を歩き続けた方が迷いが無く幸せなんじゃないかと思わなくもないです。(選択肢においても)足りてない幸せ、飽和しすぎる不幸せってのがあるように思います。まあここまで考え出すと、子供に何を与えて、与えないか、途方に暮れてしまいますけどね。ちなみに、この選択肢(従う幸せと、自分で考え選び取る幸せ)というのは物語全体を通して問われます。以下では個別ルートの内容も絡めながら、彼らの選択を書いていきます。

 ・R‐タンポポと流した浄化の涙
 選択肢を教えられる形ではなく、ハッキリと思い出してしまったのがタンポポルート手前のイチヒコですね。つまり正しくマンカインドの知性へ戻った状態です。そうすると、今まで歩いてきたレールに作為と悪意しか感じられなくなり、疑心暗鬼に陥り、本当の本当に「ひとりぼっち」になってしまいます。そしてイチヒコはワガママですが、頭が悪くないので、潜在的に気付いています。この選択肢(記憶)は自分を不幸にする可能性を多分に孕んでいる、と。で、その意識が恐らく、再びの記憶喪失へと至らせたのだと推測します。選択肢自体を蹴った格好ですね。マンカインドの歌を聞いて、夕焼け道を親子で帰る情景を思い浮かべながら、マンカインドとしての記憶を失い、チャペックたちの社会への再適応を果たしたのは、やはり皮肉が効いてて底意地が悪いですね。
 そしてイチヒコが生まれ変わる様子を傍で見ていたタンポポもまた浄化を望みます。彼女は、ハッキリ書かれてはいなかったですが、特別な任務に従事していた&既使用という単語を読むに、恐らくはマンカインドが居た頃、彼らを相手にしたセクサロイド(要するに娼婦)をしていたんだろうと思います。マンカインドが居なくなった後、誰も居ないトウモロコシ畑で閑職をしているというのも、慰労のようで、いかにも「それっぽい」かなと思います。彼の涙で罪が少し洗われた、といった類の話もしていましたね。ルート内容は、Rタンポポが子供に戻り、処女に戻り、最後のマンカインドの妹になった。産まれが違えば、役割が違えば、実際にあったかもしれない家族の形。

 ・R‐ミズバショウ
 母親にとって、男の子は、いつまで経っても子供なんでしょうね。20歳になった、自らイニシエーションのセックスもした、知恵もついた……エトセトラエトセトラ。あんまり関係ないんでしょうね。それどころか、マンカインドとしての知識を取り戻し、露悪的に振舞う彼に手酷くレイプされて尚、「可愛い可愛い坊や」を嫌うなんて考えも付かない。彼女の宝物で、彼女の生き甲斐のままです。逆に嫌われる恐怖にビクビクしながら抱きしめたくらいです。一連の家出騒動は、結構大事のようで、俯瞰的に見ると、反抗期の子供と追い縋る母親の遠回りな愛情確認劇。雨降って地固まっただけ。
 この圧倒的包容力を「母は強し」の一言で片づけても味気ないので少し考えてみましょう。実際かあちゃんの強さってのは、どこから来るのか。答えは作中にありますが、子と自分以外を躊躇いなく切り捨てる事です。ミズバショウは追いつめられると、教育方針がどうだとか、秘匿しておくべき何某だとか、公益のことだとか、全部ふっとばします。ただイチヒコの幸せを願う気持ちと、嫌われたくないという感情に支配されて、ヒステリックに喚き散らします。イチヒコがレンズ会話を嫌えば、是非なんか考えもしないまま、船中の全員に禁止令を出そうとします。これを実際にやれば当然、意思疎通や命令系統が麻痺して船は沈みますが、そんなのお構いなしです。可愛い可愛いイチヒコが不愉快にしているのが可哀想だし、彼に嫌われるなんて耐えられないから、他の事なんて知ったことではないんです。また、一人の寂しさにイチヒコが心を痛めていると知れば、マンカインド復活を強行します。その際は自分は死刑となりますが、それも、イチヒコの幸せを思えば仕方ない事です。彼女は普段は理知的で論理的で、上の方で述べたように社会秩序の事なんかも考えながら子育てしてますが、いよいよの急迫事態となれば、①イチヒコ②イチヒコと自分③自分④その他、くらいの優先順位に瞬間で切り替えてしまいます。あんまりにも感情優先じゃないのか、とか、公益を司る立場も鑑みて包括的により良い方策を模索するべきではないのか、とか、多少の不自由があっても子供(イチヒコ)にも我慢させるべきじゃないのか、とか。こういうのが男性的な考え方なのかどうかは分かりませんが、僕はこういう風に感じました。で、ミズバショウからしたら糞喰らえなワケです。彼女のこの姿勢・判断が正しいかどうかなんか知ったこっちゃないけど、兎に角、切り捨てられるというのは「強さ」だと思います。そしてこの強さが、自分を一番大切にしてくれる存在が有るという事が、子を包容し、絶大な安心感を与えるんですね。体制的に見れば最低の為政者なんだろうけど、最強の母親ではある。ミズバショウを全く嫌いになれないのが、こういう所なんですよね。
 ただ愛情が大きすぎるせいで、その弊害(この場合の弊害は、上に書いた体制の事とかじゃなくて、彼女の本懐である所の、イチヒコの幸福実現を阻害する要素という意味合いです)も決して小さくありません。ヒナギクの評を借りましょう。「イチヒコが決めるのを待たないで、勝手に何がイチヒコのためになるのかを決めて」「イチヒコのためでいたい自分のため」。第三者(隣人)としてミズバショウの本質を喝破していますね。可愛すぎて可愛すぎて、愛しすぎて愛しすぎて、お人形にしてしまっているぞ、お前、と冷や水ブチかましてます。実際、上に書いたようにルートラストのマンカインド復活強行もイチヒコに何らの意思確認もしないまま、イチヒコの為になると決めつけた末の決断です。遅くに生まれた珠の長男坊と過保護な母という関係性だと、いかにも「ありがち」な光景ですかね。
 そして、そんな母が敷いたレールに乗ったままだと、ビターエンド。そこから逸れて、母を迎えに行った結末が、ハッピーエンド。従う幸せか、自分で選び取る幸せか。ただ前者がビターになってしまったのは、イチヒコが実は孤児らしく、マンカインドの社会では爪弾きにされていた過去の情景を読者にチラリと見せているからですね。その上でヒナギク(チャペック代表)が「ウィムシュー」の返答になってしまっている事も加味すると、当たり前だけどチャペックたちはレムを失い、二度とあの「町」にも帰れなくなっている結末。あまり幸せじゃなさそうなんよね。子の幸せになると(勝手に)信じて行った事が、あまりそうはならなくて、ノーを突き付けられた後の方が子が幸せになっている。見事な選択の対比を描けていました。完成度の非常に高いルートでしたね。まあ今作は低いルートなんざ無いけどね。

 ・R‐シロツメグサ
 「パターナリズム」という言葉があります。強い立場にある者が弱い立場にある者の「ため」だとして、干渉や決定を行う事ですね。日本語では父権主義とも訳されます。それはミズバショウもやっていた事では? という疑問が浮かぶ人も居るかも知れませんが、実際彼女もしていたのですが、そのパターナリズムを指摘された後の対応が両者では大きく違っています。先のヒナギクの言葉を受けて、イチヒコの幸せを改めて考え直すという作業をミズバショウはしますし、何よりイチヒコが「やめて(やって)」と意思表示したら、その通りにします。大きな強制力は持たない、非常に弱いパターナリズムという形になります。比してシロツメグサのそれは、周囲からの反発があろうがお構い無しだし、当のイチヒコが嫌だと言っても「ダメだ、やれ(やるな)」と頭から抑え付けてしまうシーンも一度や二度ではありませんでした。強いパターナリズム、真に父権的な強制力です。メチャクチャ噛み砕くと、過保護な母の「こうしなさい?」と頑固親父の「こうしなさい!」の違い。狭義で言えば、ミズバショウのそれはパターナリズムとも呼べないかも知れませんね。
 さて。シロツメグサのパターナリズムを本格的に考察する前に、彼女が非常に男性的であると言う話をしなくてはなりません。じゃないと見た目は綺麗な女の子を、父権的だと評しても中々納得しづらいでしょうから。
 まず彼女は、家族の中で一番「仕事」をしていて家を空けている時間が長い(ミズバショウも仕事を持っているが、家事を優先する傾向)いわゆる大黒柱としての特徴を持っています。そして口数が少なく、ただでさえ接する時間の短いイチヒコとのコミュニケーションも闊達にいきません。オマケに不器用で、イチヒコの機嫌を取る方法と言えば、ゲームを買ってやるくらい。そういう即物的なやり方しか取れない。「ゲームを買ってあげたのに、イチヒコはキスもさせてくれない」という愚痴を聞いていると、たまの日曜に顔を合わせた赤ちゃんにオモチャをプレゼントしてキスしようとしたら、ヒゲが痛いので顔を押しのけられたお父さんそのものに思えてしまう。性行為に関しても、何かもう、必死過ぎてどっちが男か分からなくなるようなやり取りがなされます。
 また、イチヒコに対する場面以外でも、どうにも男性的な思考回路を感じる事が多く、例えば、コバトムギによる評。「自分だけがかしこい」と思っている個体。高度なレムを有し、他の被造知性では話し相手たりえない(と、思い込んでいる)。とても傲岸でプライドが高いですね。ここまで書くと読んでくれている男性の方は、男全員がそのようにプライドが高く他者を見下しているワケでもないだろう? 何を決めつけてんだウンコ野郎! とお思いになるかも知れませんが、まあ落ち着いて下さい。先にも書きましたが、あくまでも傾向として「ありがち」という意味合いであり、当然男性でも腰が低い人も沢山居るし、女性でもプライドの塊みたいな人は沢山居ます。ただ一般的には男性の方がプライドの高い人間が多いとも言われています。思春期から青年期あたりに自分だけ特別という全能感を抱きやすいのも男性の方かな。ただそれだけの事ですね。ジェンダーの話をすると非常に難しいですね、毎度。加えて2007年の作品という事なら、「草食系男子」なんてのも全然言葉すら無い時代ですからね。
 さて、シロツメグサの話に戻りましょう。何百年もの間、図書館でひとり本を読んで過ごしていた彼女は、一つの結論に至ります。自分の知性に真に見合うのは、本物のマンカインドだけだ、と。イチヒコへの異常なまでの執着の根はこの傲慢です。よって彼女のルートへ入れば、絶好機とばかりに食らいついて離しません。先程も書いた通り、周りが何と言おうが、イチヒコが学校に行きたいと言おうが、お構いなし。司法HALの出頭要請すら歯牙にもかけません。「贅沢に耽溺し、規律を破る幸せ」というのは既に書きましたが、彼女のこの有り様は、まさに物質文明の負の側面=堕落的幸せの象徴です。共通からゲームを飽くほど買っていた様子は、この展開の暗喩だったのかなと思います。ただこれは、イチヒコを全く幸せにしませんでした。彼は良い子だし、足るを知っているからです。彼女からすると信じられない話でした。欲しいものは買ってやる。他のヒロインにはできない技術でこの世の物とは思えない圧倒的な快楽をもたらすセックスを朝から晩まで提供してやる。そう言って誘っているのに、イチヒコはあろうことか、友達とのボール遊びを選びます。原始的で単調で、稚拙でバカバカしい、ボール遊びです。大人になってボール遊びをやると涎が出るくらい楽しいですが、子供の時分にそれに気付いているイチヒコ君は、やはり賢い子供だと思います。物質文明は、飽食は、劇薬です。刺激的で煌びやかですが、取り過ぎれば毒になる。文明から離れた物・遊びも多分、芯からの幸せには必要なのだし、結局はバランスであり中庸こそが肝心なのでしょう。これをきっと生来的に、何とはなしに分かっている、そういう地頭の良さですね。先程のコバトムギによるシロツメグサ評には続きがあって……「まわりの良いものに目を向けるだけでこころ(レム)は満たされるというのに」とのことです。イチヒコは気付いています。ウィームシューしか喋れない作業機でも何となく言っていることが分かれば、笑い合えます。たくさんの難しい言葉は別に必要無いんです。そんなことは別に大切じゃないんですよ。そしてそんな友と笑い合って遊べるなら、道具なんて何でも良いんです。最新のハードを持ってて、話題沸騰の超人気ソフトが無ければ楽しめないなんてことは絶対に無いんですよ。そんなことは別に大切じゃないんですよ。シロツメグサは気付いていません。あんなにお勉強が出来て、あんなに難しい仕事をこなしているのに。
 ここら辺も本当に上手く描写しているなーと感心しきりです。コバトムギも上手く示唆的役割で立ち回らせてるし、見事ですね。
 さて。ルートの後半になると、シロツメグサのイチヒコ攻略作戦は完全に手詰まりとなります。カラダでも物でも釣れない。「自分だけ」を見る事を求める彼女に対して、返ってくるのは良い子の模範回答・博愛主義。で、いよいよ追い込まれたシロツメグサは恋敵であるヒナギクを殺害するという手段を取ります。まあ行き過ぎ。ただこの思考回路も、意中の異性を実力行使で手に入れるオスじみてますね。いずれにせよ、とんだトバッチリを受けたヒナギクもまた応戦。争う二人を止める為に、イチヒコは自らの体を機械化、割って入る形で決着。個人的感情だけで言うと、僕はシロツメグサも、この決着も嫌いですね。基本的に変わったのはイチヒコの方だけで、ほぼ一方的に譲歩したような格好で、シロツメグサの方は何一つ変化も成長も感じられないから。一応はイチヒコに対しての好意が(話のレベルが合う)マンカインドなら誰でも良かったわけではなく、彼だからこそ抱いたものだと理解できた点を成長と言えるのかも知れないけど……だいぶショボいと感じてしまう。勿論、嫌いだから減点とかはしてない、つーか寧ろ加点です。絶対に必要な話だし、絶対に必要なキャラですからね。

 ・R‐ヒナギク
 恐らく一番「ちゃんと」恋愛したルートになるんでしょうね。とは言え、このゲームは登場人物たちが過去のマンカインドの文化を模倣して出来たコミュニティが舞台なので、彼らの言う「好きなヤツ」という言葉、「好き」の種類や境界が非常に曖昧です。「好きなヤツ」の中にタイショー(イチヒコと一番仲の良い男友達役の作業機)も入っているので、平気でこんな事を言います。「今度はヒナやタイショーも誘ってみんなで(セックスを)やろうよ!」と。イチヒコには「良い子」の博愛精神が染みついていて(その事は特にシロツメグサを悩ませました)、ヒナギクにしても共通ルートでは多人数プレイに抵抗を見せませんでした。これは、共通段階ではミズバショウへの憧憬(実際は性能の差や社会的地位の差から生じる純粋な憧れ)を恋愛感情のように錯覚し、「好きなヤツ」と認識していた為ですね。そしてそんな憧憬を抱いていた相手が、自分ではなくイチヒコばかり気にしている状態を気に入らないので、素直に彼を恋愛パートナーと認めにくい、という背景も影響しています。誤解を恐れずに言うなら、すげえ濃密なご近所付き合い、で止まっていますね。またイチヒコの方も、ヒナへ寄せる好意は、戦闘用チャペックとしての姿を見せた、強くて格好良い彼女に惚れたという、ヒーローショーに目を輝かせる子供のようなキッカケで、そこからもう一歩進むこともありませんでした。
 こんな状態で「好きなヤツ」だとか、ハシカみたいな事言ってんな、とか。姉を二人とも食い散らかしておいて、踏み台かよ、とか。逆にヒナギクは家族で練習した後の三番目かよ、とか。色々と歪に感じますよね。まあでもよくよく考えてみりゃ、人間でもこんなもんですよね。何となしに性能の良い人(能力の高い人)に憧れて好きだと思い込んでみたり、手近なところで初体験してしまったり、快楽に流されたり、ゲーム買ってくれたお礼にセックスさせてあげたり、助けられたら惚れてみたり。不確かだらけで歪だらけですよね、そもそも恋愛というもの自体が。だから萌えゲーってのは実は超絶ファンタジーなんですよね、アレ。一回目で運命の相手パツヅモで、失敗は回避するし、喧嘩の種も未然に摘めます。余裕のジューンブライドで、就職も上手く行き、子供も可愛くて順風満帆でエンディング。そんな綺麗に生きてるヤツがどれくらい居るかっていうね。
 じゃあそんなパツヅモできない奴らが、「好きなヤツ」と「ちゃんと」恋愛するようになって、「きがちがうくらい、きみがすき」と言えるようになるまで、どう藻掻いたのか。個別ルートの内容を見ていきましょうか。
 ビターエンド時と同じくアプローチはイチヒコから。ただやはりハシカの状態に近く、明確に彼女が一番好きだと言えるまでにはまだ時間がかかりそうですね。とはいえ、彼の子供らしい真っすぐ一直線な行動力(追いかけ回してまで何度もデートへ誘う)は、ヒナギクに結構効いていて、ここらへんから、お弁当の下りくらいまでは、作中屈指のイチャイチャポイントでしたね。しかし、繰り返しになるけど、未だイチヒコの「好き」は軽く、逆に軽々しく好きだと言わないヒナギクの方が、実際はイチヒコを強く想っている状態です。農業区でのセックス時のヒナギクのモノローグに以下のような独白があります。「できることなら、この区画に、ずうっとイチヒコを閉じ込めていたい! だけど、それはできない。イチヒコがイチヒコであること。それが大事だから。いつも元気に走り回っているイチヒコが一番大事だから」と。むつかしい単語なんて一切使っていないけど、すげえ文章なんだよね、これ。実際に閉じ込めてしまった姉二人との対比だし、これから先「自由に選び取る幸せ」をイチヒコに与え続ける強い決意も同時に表してる。そしてこれを読んだ時、恋愛が他人とするものというのは真理でもあるなと僕自身気付かされましたね。姉二人が、スポイルとパターナリズム支配の「従う幸せ」しか示せなかったのは、手放せなかったからなんですよね。ヒナギクはイチヒコが好きで好きで可愛くて可愛くて仕方ないのに、送り出せるんですよね。ここが対等な他人という事、少しだけ俯瞰で見れるという事、選ばせる厳しさを持てるという事。ミズバショウルートのハッピー側ですら、「選び取る幸せ」の選択肢を突き付けたのは全然ルート外のヒナギクでしたからね。
 そしてイチヒコも誘拐事件~司法HALの暴走~ヒナギクの涙を見て、ようやくヒナギクが守ってくれていた「自分で選び取る幸せ」というものを深く理解します。ちなみに僕は便宜上「選び取る幸せ」と書いてきましたが、厳密に書くと「選び取る幸せ=自由意志とそれに伴う幸福と責任」ですね。「従う幸せ」に身を任せていて、それで失敗してもミズ姉のせいです。だけど、自分で選ぶという事は干渉を脱する解放の幸せと同時に、責任ある個人(大人)が負う重圧も請けることになりますね。そこまで理解した上で、イチヒコはヒナギクを追いました。彼の意思で選び取った行動です。失敗すれば彼の全責任です。ここに来て、ようやっと感冒のような子供の恋愛おままごとを脱し、対等な個人としてのパートナー選択が成ったワケですね。その成長まで待ってくれていた、きがちがうくらいすきな人。彼女はようやく、イチヒコのアプローチに「はい」と言います。完璧なルートでしたね。加点するばかりで減点する要素が一切見つかりません。素晴らしかった。本当に。時間を置いて、またプレイしたいですね。

 ・R‐ベニバナ
 不安になってきたから、もう一度ちゃんと書いておきますね。この作品内に出てくる幸せってのは三種類あって、①「規律や道徳・定められたことに従う幸せ」②「それらを破る幸せ・健やかじゃない幸せ」そして③「両者を天秤にかけながら都度自分で選び取る幸せ」です。語彙も地頭もねぇから何度も書きたがるんだよね、わかってんだけどさ。まあ「おさらい」だと思って御寛恕ください。
 そして、①に対応しているのがミズバショウルート。②がシロツメグサ、③がヒナギク、ですね。ベニバナのルートでは①をもう一度引っ張って来るんですが、今度はイチヒコがレールを敷く側、導き手をやらされるという格好になります。あの鼻たれ小僧が出世したもんです。ヒナギクを蹴る形になるので、感情的には好きじゃないルートですがね。正直、ヒナギクルートがオーラスになる方が盛り上がったと思います。ただここでも、イチヒコがそう決めたのなら、とアッサリ引き下がってしまう辺り、彼女は一貫していて、より好感が持てますが。
 レムに目覚めたせいで原罪や労働の苦しみを知った被造知性たちが「従う幸せ」=「何も考えなくていい幸せ」への回帰を切望し、唯一のマンカインド、イチヒコにそれを求めます。ヒナギクルートでは個人としての責任を果たす結末を描きましたが、このルートでは「人類」としての責任を果たすことになります。たった一人のマンカインドとして孤独な使命を背負うワケですから、パートナーは無しです。ベニバナは徹頭徹尾、原っぱの家のイチヒコではなく、最後のマンカインドとしてしか、彼を見ません。名前すら呼びません。神の名を呼ぶなんて不敬ですからね。そして仕舞には一人で死んで逝ってしまいます。

 ・トゥルー
 そうしてベニバナルートの孤独を描いた後、再び舞台はあの町に戻ります。何かホッとしますね。またあの子たちとの毎日、しかもイチヒコの体は機械化し、皆と一緒になりました。そんな宇宙船は、今日もいつもの宇宙を飛び回ります。と、思わせておいての、ビッグクランチ。星たちは消えて、孤独の光だけ残して、別の宇宙へ生まれ変わります。「僕らがいると思っていた宇宙は、本当は僕らとは関係ない」とイチヒコは悟ります。こちらの存在なんて認識もされないまま、勝手に存在して、勝手に消えて、勝手に生まれ変わる。だからこそ、彼は真理を知ります。「僕らにとっては、歩いていける場所と、手でさわれるものが世界のすべて」だと。このコズミックホラー的虚無感をガツンと最後に据えたのは、各ビターエンドとベニバナルートへのノンであり、誰かと手を取って迎えたエンディングへのウィーなのだと解釈しました。


エロ(18/20)
 登録枠は36。イチヒコ君がいわゆるショタ主人公なので、女性上位のシーンが結構あります。特にシロツメグサとのセックスでは彼女がイケイケで、かなり倒錯的なシチュエーションが多く、思わず僕も男汁を迸らせてしまいましたね。タンポポの処女演技セックスもエロくて良かったと思います。回数も十分で、卑語も豊富、質も高かったけど、使い回しCGがあったり、僕の嫌いな空中チンコが多かったりで、色々加減点して、これくらいに落ち着きました。


音楽(10/10)
 OP曲もさることながら、ED曲がヤバい。何回聞いても泣きそうになる。歌詞がもう……ズルいわ、これ。BGMも数はさして多くないけど、クオリティがやはりヤバい。「カトナップ」「ヤーチャイカ」「ケードル」の三つのボーカル入りの幻想的な曲は聞き惚れる。心臓の鼓動を現した「トカトントン」は原始的な打音のみの作りだけど、だからこそ凄く耳に残る。全体的に不満は無しですね。


合計(90/100)