アルベール・カミュの不条理の哲学を下敷きに、和洋様々な思想を綯い交ぜにした超絶考察ゲー。難解すぎて途中で思考回路は力尽きましたが、不思議な世界観だけでも十分魅力的で、考察要素をガン無視して読んでも、何となくでオシャレイプものとして楽しめます。
グラフィック(20/20)
一枚絵の美麗さは、本当に世界に引き込まれるようで、素晴らしいクオリティでした。蛍の私服が可愛すぎて、物語中盤で二人が乗り込むグリーンの軽も丸っこくて可愛くて、凌辱のアレが無かったら全年齢アニメでも通りそう。背景絵も文句なし。森や川、自然の美しさが臨場感を持って感じられました。
ストーリー(39/50)
原画と兼業してまで(相当な作業量でしょうに)書きたい熱があるってのは、凄いって言うか羨ましいですね。そんな熱量に答えられるような知識や思想が無いのが申し訳ない気分になります。以下では途中までやっていた考察モドキの残骸みたいなのを撒き散らしておきます。軽く書いてお茶を濁そうかとも思ったんですが、どうせなら無知を晒して恥を掻いておこうと思い直した次第です。
・世界の不条理とそれに対する心構え
物語は二人の少女、燐と蛍が電車を寝過ごし、終点「小平口」でハタと目を覚ます所から動き始めます。この町は蛍のホームタウンで、燐も時折、彼女の家に遊びに来る、「知った町」のハズでした。が、どうにもおかしい。電車内にも駅構内にも人の気配が無い。醜悪な(見た事がない)蛾が車窓に張り付き、蛍の不安を煽ります。そしてそう待たない内に、直接的な危険が降りかかります。作中では「何か」みたいな書き方をしてたと思いますが、僕の方では「住人」と呼ぼうかな。とにかく、異形のそれらが、ワケも分からないままの二人を襲います。さながらゾンビを扱ったホラー作品のようですね。
蛍や燐、そしてついでにホラー作品の登場人物たちは、どれほどの業を背負っているわけでもなく、何者かの恨みを買ったわけでもなく、このような不運に見舞われます。ただその現象が起こっただけ。そこに運悪く居合わせただけ。作中、燐が世界を巨人に喩え、人間に気付かないまま思うさま動き回り、時折踏みつぶすと苦笑しましたが、総じてこういった事を不条理と呼ぶんでしょう。そして、こういった不条理に際し、絶望して自殺したり、はたまた世界が不条理なら自分も無秩序に振舞ってやろうという事も無く、ただ不条理を見つめ続ける事で反抗とすべし、というのがアルベール・カミュの思想らしいですね。まあ正直よう分らんよね。
彼の代表的な著作「異邦人」の中で、主人公ムルソーは母の葬儀で涙を流さなかった事実と、後日犯した殺人を結び付け、「冷酷な人間」という心象形成をされてしまいます。カミュは自序で「母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことを言うだけでなく、あること以上のことを言ったり、感じること以上のことを言ったりすることだ」と注釈しています。俺レベルの理解力だと、要するに不条理な事(プライべートの葬儀の様子と刑事犯罪を結び付けれるという暴挙)があっても、自分の感じる事を偽らず、あるがまま居なさい、って事としか読めない。まあカミュと直接話したワケじゃないから、はっきり意図通りかは知らない。つーか誰かの思想哲学を発信者の意図通り読んだら正で自分流に読んだら誤って考え方自体、あんまり僕はしないので、とにかくまあこんな解釈で進めます。
・ふたり流の反抗
じゃあ実際彼女たちは、不条理に対してどういった態度でいたのか。ムルソーのように生の価値を無しとしたニヒリズムに近い価値観に殉じる……ことはないですね。蛍は空虚を抱えているのものの、そういう思想ではない筈です。燐も家庭内の不和はあれど、「生きててもしょうがねぇなコレ」とかは言わないですよね。それは互いの存在がそうさせるワケで、ムルソーにとっての信じる真理と同義になります。つまり互いのために殉じられる覚悟があり、それを貫き続けます。不条理な世界の中にあって、手を繋ぎ続けているんですよね。世界が変化する前、放課後のショッピングの間そうしていたのと全く同じように。不条理に屈さず、あるがまま、彼女たちの譲れない者を抱えたまま、世界を生きていきます。
有り得ない仮定ですが、不条理に負けて、今までの絆を失い(或いは捨て)、本来の彼女たちではなくなったとしたら、住人たちに追いつかれて危ない目に遭うたび、口汚く罵り合い、やがて反目してバラバラになってしまっていたかもしれません。そうなれば、きっと三日は乗り切れなかったでしょう。孤独と恐怖に精神が参ってしまうでしょう。蛍は住人たちに輪姦され、燐はヒヒに聡ミューティレーションされるでしょう。
ただ実際はそうはならなかった。とてもとても強い絆だった。用事が出来て待ち合わせが流れた日、「しょうがないけど……それで終わらせるのが嫌だったの」とお互い思い合って、周回遅れの待ち合わせが成った時、二人はその日その時から肩を並べて同じ方向を歩ける二人になった。不条理に飲まれたバッドエンドの最中にも、二人は異形の住人達に犯されながら、手を繋ぎ合っています。例のカミュさんが、不条理な世界にあっては「石、肉体、星、そして手が触れることの出来る実体しか存在しないのだ」と記しているそうですが、ここら辺のワードもヒントにして書いたんでしょうかね。石はヒヒとの戦いにあって立ち向かうための武器となり、互いの触れ合う手・肉体は不条理に抗する絆となって、星(月)が瞬けば住人達に一時理性の光を与えました。ちょいと脇に逸れそうになってますね。取り敢えず、彼女たち流の「反抗」は力強く書けていたんじゃないかと思います。一貫していましたね。
・人がする不条理な振る舞い
世界の不条理に丸っと飲み込まれた住人たちは、もちろん衆愚の象徴で、非常に無軌道・無秩序・不条理に振舞います。自分の都合をブツブツと独りごちながら、建物を壊し、二人を見つければ犯し、個体によっては他の個体の指を切り取って盆栽に植え付ける。(後述しますが)唯一の行動原理は持っているものの、燐と蛍の側から見れば、非常に不条理な存在と言わざるを得ないでしょう。
ここで(何度もすいませんが)また「異邦人」の話をします。ムルソーの側から見れば、検察や陪審員の方こそ不条理を強いるように感じられますが、逆に彼らの側から見れば、人を殺しておきながら「太陽のせい」などと無秩序な供述をするムルソーこそ不条理的に振舞っているとされます。「この男の不感無覚を前にして感ずる恐ろしさ」というのは、非常に明快に衆愚に訴えかけ、死刑宣告へと走らせました。ですが、この不感無覚というのは、表層的でしかなく、実際、彼の周りの人間は全て証人台で彼を擁護します。血の通わぬ人間と見ている人は誰も居なかった。みな言語化は出来ずとも、何とはなしに、彼は自分の世界を持っていて、だけれどそれはママンや周囲の人間を愛さないという事と同義ではないと気付いていたんだろうと思います。サラマノ老人などは、彼がママンを深く愛していたのを知っていたし、事実、翁が愛犬を失った時、ムルソーは母の事を思いました。痛みを共感する心の動きも持っているのが窺い知れた。だのに衆愚ときたら、葬儀で涙を流さなかっただけで、彼の本質を看破した気になって、糾弾するのでしょう。
と、ここまで書くと、大体の人は、自分もまた衆愚の一人だと悟ると思います。僕も勿論そうです。たとえば、ニュースを見ていて、ガテン系の職に就く青年が犯罪を犯したと知れば、どんな感想を抱きますか。十把一絡げに考えてしまいがちではないですか。一方で、インテリ系の犯罪者が出た際に、マスコミが部屋やPC・スマホの情報を洗ってアニメとの連関を話し出したら、「その個人の凶暴性とオタク趣味とを結びつけるな」と強弁する人も居るのではないですか。
まあ簡単に言うと、誰もがポジショントークをするし、物事のうち、自分が見たい側面ばかりを自分の尺度で見てしまいがち、だということですね。加えて、知らない人間は、その個人の性質で見るよりカテゴライズして見た方が分かり易くて楽ってのもあるでしょう。大体の人が時に衆愚だったり、時に賢人だったりするっていうのが僕の人生訓かな。
だから、燐の両親が、人の親でありながら、子を全くかえりみなくなったのも、燐にとっては不条理だけど、両親にとっては、それぞれ別の不条理に打ちひしがれた所為だったのかもしれない。住人達が月の光の下で(先述の通り町が変貌しても星は変わらず実在しているのだから)、理性を取り戻した際には、転車台を回す力が無い蛍を助けてあげる、善良で模範的な市民へとなる。彼らにしてみても、燐や蛍(或いはムルソー)みたいに確固たるものを持てていなかっただけで、顔を失って、道徳を失ってしまった、不条理の被害者です。そしてまた彼らはレバーを回している途中に、どうやらコレも幸せ(解放)への道筋だと気付いたらしく、シャカリキになってブン回します。つまり、一見不条理な振る舞いをする彼らも、唯一の行動理念=幸せになりたい、を持っていて、彼らとしては(理に適ったとまでは言わないけど)当然の欲求に従ったまで、という話でした。ちなみに、彼らにも情状酌量の余地があるから許せとか言うワケでもないっすよ。感情の部分で何を感じるかなんて、それこそ読み手の自由にしたら良いと思います。実際僕も燐の両親は嫌いですし。ただ、心の底では幸せになりたいと思っていて、だけど何か確かに殉じても良いようなモノがあるわけでもなく、顔(道徳)がある状態なら巨乳のJKを助けてあげる、という性質を見るとさ、多分僕もこの不条理な世界に送り込まれたら、住人たちの一人に確実になってるんだよね。だから住人たちには、あんまり強く言えないっつーか。
・和風伝奇要素
じゃあ、なんで蛍を襲うのが住人たちの幸せの実現の一つの方法と成り得たのかって話。これがまたややこしいんだけどさ、このゲームは真相部分は和風伝奇をぶち込んでるんですよね。そこに実存主義的な哲学も混ぜて作ってあるっぽい。けど正直に告白すると僕はあの実存主義ってのは難しくてよく分からんのです。よって、ここら辺で全力考察は諦めた次第だったりするわけですが、一言感想にも記した通り、何となくでも読めます。加えて言うなら今までのも大した考察にはなってないしね(笑)。
座敷童というものを現象として捉え、神格化を否定して、オオモト様は自身の存在について説明していますね。「座敷童とは概念であり、同時にふれることのできる実存でもあった。それであれば、実存的な手段によって、その概念も繋ぎとめられる」という事で始まった肉便器生活だそうで、割と大変そうでしたね(他人事)。
まず現象としての座敷童ですが、コレは一方向に力を加える概念を座敷童と呼んだ習わしという事らしいです。そこに意思や目的があるわけではなく、ただ作用する装置のような。オオモト様の説明では、ピンと張った布の上に鞠を落とし、それを下へ下へ押し付ける力が自分であると言う事です。ある者、その力の方向を分かる者には、それを利用し幸運とする事が出来ます。本当にただそれだけの事だったんですね。道具、と言い換えても差し支えないかもしれません。そしてその歪に加わり続けた力の反動、修正力が働いた末に、小平口は変質した、というのが事の真相です。最初から意味も意思も無い現象によって加わった撓みが、やはり何の意味も意思もなく、半ば物理法則に従うだけのように、パンと跳ね返った。それだけの事。そして、その揺り戻しの場に居合わせた住人や燐、蛍たちは巻き込まれただけ。繰り返しになりますが、ただの不条理ですね。
続いて肉便器生活の方ですが。繋ぎ止めにはただセックスして子を産み落とすだけで十分だったものを、後から日取りやら、場所やら、色んな形式・仕来りを作り出した末が、あの儀式のようですね。聡を監禁した大川氏や町の衆にしても、本心から儀式の必要性を感じているワケでもないけれど、結局は伝統と神聖化の重みに勝つことはなく、四角四面に聡にも役割を求めました。ちょうど母の葬儀の場で泣かぬは異邦人と断ぜられるかのようなバカバカしい形式主義。伝奇にあって神をアイロニックに読ませる書き筋で、結構面白かったですね。
さて。この物語のラストを伝奇方面で考えてみましょうか。
青い家で飲食をしたのは燐だけでした。蛍はついぞ何も口にしていませんでしたね。「銀河鉄道の夜」を引き合いに、登場人物たちは何時の間にか、乗車券を持っていたという話でしたが、「青い空のカミュ」の登場人物たる二人も「何時の間にか」切符を手にしていたんでしょうか。僕的にはノーなんじゃないかなって考えてるんだよね。
つまりヨモツヘグイかその逆をやったんじゃないかっていう。徐々に味がするようになってきた、という燐の言は、どう受け取れば良いのか。水や桃やケーキは、向こうの世界(小平口以外の世界)に通じるキーだったのか。はたまたこの世界の食べ物に順応してしまった(囚われた)と読むべきなのか。ここら辺は一等不親切で、作中に詳細は一切無いです。前者なら切符は燐しか持っていないのではないかという話。最後に繋いだ手が切符を渡したという意味合いなのかもしれないなって。そんなルールが有るのかどうか、これも当然書いてないから全然俺の推測でしかないんだけど。後者なら、最初から蛍しか切符が無かったという話。ちなみに僕は前者だと思ってます。でなくては蛍が乗り込んだ後、追いかけたのは何の為だったのかと思ってしまう。切符無しに乗り込んだ蛍がどこに連れていかれるか知れたものではないから、燐は渡しに走ったのではないかと。
まあこんな推測も、そもヨモツヘグイ的なトリックを用いるつもりで書いていたのかどうかも、ライターさんにしか分かりようがなく(繰り返すけど、ここら辺は極端に説明が無いですから)、もしそういう意図でなかったなら、人によっては、いわゆる「誤読」という事になるんでしょうが。
・完璧な世界
じゃあ今度は伝奇方面ではなく、思想面からラストを見てみましょう。ヨモツヘグイだろうが何だろうが、過程はともかく、結果としては燐はあの世界に残り、蛍は元の世界に帰ってきました。燐は、無垢なる蛍が傷つくのを見るのが耐え難かった。それは将来の話で、確定的ではない上、自分が守るといつも豪語していた、その信念の喪失まで意味します。聡の死が、彼女に決定的な一打を与えたという解釈を僕はしています。もし上段で書いたヨモツヘグイ説が本当だったとして、それでも追いついて繋いだ手を放さないで欲しかった。もし片方しか切符を持っていないとして、列車がどこへ行くか想像もつかなかったとして、それでも放さないで欲しかった。これが蛍の偽らざる本音でしょう。二人のこれまでの三日間は、どこへ行くかは大して意味を持たず、二人で居ることが何よりも大事だったハズです。だけど、いつしかその二人の描く理想が食い違ってしまった。蛍は地獄の果てまで、たとえ自分が傷つこうが、どうせ元々空っぽだった身なのだから、何よりその空虚を埋めてくれた燐と共に在ることを望んだ。燐は聡の死を受けて、大切なものが手をすり抜けていく恐ろしさを再び感じた事で、決定的な怯懦を抱くようになった。或いは、また別の感性で読むなら。ムルソーは「私が死んだらひとびとは私を忘れてしまう」と考えていますが、燐にとってはそれは真実ではなく、少なくとも蛍の胸にはいつまでも彼女が刻まれる事となります。ちょうど聡の死が、いつまでも燐の瞼に焼き付いたままであるのと同じように。己の死という傷で以って永遠に彼女の中に居続ける事が出来るなら、燐は蛍へ、一番大きな傷をつける事にしたのでしょう。そういう観点で見ると「蛍が傷つくのを見たくない」という言は、それは将来の話で、確定的であり、自分が最大の痕をつけるのに見届けられない卑劣を表しています。
「最悪の不幸の中においてさえ、真実に何びとかのことを考えることなどできない」これもカミュの著書の中の一節で、本作の中でも引用されていたものですが、二人は最悪の不幸の中において、お互いを考え続ける事が出来ていたのでしょうか。答えはノーです。聡が居たから。或いは、非常に峻厳に言えば、世界の在り様や吉村さんの事や、冷蔵庫の中のパンの事ですら考えては「真実に何びとかのこと」しか考えていないとは言えなくなるからです。ライターさんが言う「完璧」が何を指しているのか、イマイチ判然としませんが、二人お互い「だけ」で完結する世界と捉えるなら、最後の最後、蛍の中に燐という永劫消えない傷が残った、あの状態が「完璧」なんでしょうか。僕自身が「完璧」とか「絶対」とか聞くとどこかに綻びやパラドックスを見つけたくなる捻くれた性分なもので、中々よくは分らんですね。
乳首が性感帯の聡くんもまた、完璧を探し求めた人だったのでしょう。「なんで綺麗なものをちゃんと大事にしたいだけなのに……うまくいかないんだろうね」という煩悶自問が、グルグル歪んで、小平口が大変なことになっちゃいました。ゲーテの「時よ止まれ、お前は美しい」ではないですが、あの日のワタスゲの原で共有し合った一瞬の至福を、留めておきたくて、忘れ得なかった聡の一面。その夜、子供から変わろうとする燐の体を貪り壊したくなった一面。相反しているようで、実は地続きな考え方だなって思います。綺麗な蝶を綺麗なまま留めておくには、殺してワタを取って、ピンで以ってコルクボードに磔なくてはいけませんから。ヒヒ自身、バッドエンドで燐の首を絞めながら犯す最中、示唆的な台詞を吐いていましたね。
聡は相手を殺して自身の中に閉じ込める方法で、燐は自身が死に相手の中に居続ける方法で、それぞれ「完璧」を目指した。なら最後に残された蛍は、二人の幸福の瞬間、確かに重なり合って、ポーンと投げた紙飛行機を拾って、どうするんでしょう。全然答えは分からないけど、それこそライター自身あえて考えてないような書き方だけど、とにかく、僕は少し涙ぐみました。何だろうな、どっちを考えて泣きそうになったのかも、自分でよく分からなかったんだけどね。結局最後は「感じ入る物語」として読んでしまった僕は、やっぱりお高尚な考察とか出来るタイプじゃないのかもね。
エロ(12/20)
念のため擦ってみたけど大して出なかったですね。選択肢が運で(これも不条理の表現なんでしょう)、その運が悪いとバッドエンド&レイプという形で枝別れるだけで、正着側は一本道、正史は処女クリアなのよね。従って、無茶苦茶された後頑張って生きるエロスみたいなのは無い。シーン内容としては、輪姦が基本。このメーカーは触手のイメージが強かったけど、今回は異種姦と感じるものは少なめ。枠は11枠だったかな。聡くんのシーンも入れるなら12か。まあ、非抜きゲーにしても多くはないね。
音楽(9/10)
OP曲の透明感が素晴らしかった。挿入歌はシナリオの今後を示唆する内容の歌詞が印象的でした。そしてBGMのクオリティの高さ。「アトモスフィア」「長距離走者と水平線」の荘厳かつ幻想的な曲調。「四つのノック」「レイノルズの筆」の焦燥感に満ちたホラーテイスト。数は少ないながらも、逆に頻繁に聞けて凄く耳に残りました。
合計(80/100)