お互いに迷惑をかけて、それを赦しあい、寄り添っていく。 背徳感を維持しつつも、そこに好意が膨らんでいくという構図が導入されており、シチュエーションの構築が見事。
「生きてるだけで罪を重ねていくように。ひとに迷惑をかけて、もう迷惑なんてかけまいと思って、恩返しをしようと思って生きて、その過程でまた迷惑をかけて―――借りてるばかりのなかにありながら愛に生かされている」『ゆびきり婚約ロリイタ』
「生きているだけで罪を重ねていく」とあるが、本作品では、罪の意識についての洞察に光るところがある。以下では、本作品において、罪の意識についての問題がどのように描かれているかの確認を進める。
まず、啓人は、鈴佳に性的なパートナーであることを要求することに罪悪感を覚えている。何故ならば、鈴佳には成熟しているところもあるが(とりわけ、精神面については)、それでも、性的なことがらについての知識は不足している。そのため、性的な知識については、両者のあいだに非対称性が認められる。だからこそ、相手の無知につけこむかのように、性的なパートナーであることを要求することに罪悪感を覚えたのだろう。
そして、鈴佳に対して、啓人は一線を引いていた。つまり、罪の意識があるからこそ、そこに踏み込むことが躊躇われたからだ。しかし、それは孤独の道だ。生きることによって、罪が累積していき、それがあることで、相手に踏み込むことが躊躇われるならば、孤独であるほかに道はないのだろうか?
そんなことはない。罪の意識があったとしても、孤独を解消し、お互いに寄り添うためにはどうすればいいか が示されている。
それは「お互いに罪の意識を抱えているが、それを理由に相手に踏み込まないのではなく、それぞれの罪を赦しあうことによって、寄り添うことができる」というものだ。
かくして、啓人・鈴佳の問題は「擬似的に」解消される。何故ならば、物語の終盤において、鈴佳は啓人のこどもを身ごもるが、彼女は学生であり、啓人は会社員(恐らく)だ。そのため、これまでの生活を維持しつつ、子ども育てていかなければならない という問題が見え隠れする。彼らは「お互いが赦しあうことによって」罪の意識についての問題を解消したが、あくまで、それは問題を擬似的に解消しただけであって、罪の意識を解消し、関係が進展したときに付随してくるものについては考慮されていない。しかし、彼らにはよるべがなく、「申し訳ないと思い続けないと生きられない生」があった。だからこそ、彼らの行いは軽率なものであったかもしれないが、それだけで、否定されうるものではないかもしれない。
3 補遺
鈴佳と啓人は「ずっと一緒にいようっていう約束は、いつか離ればなれになる約束」という問題を解消するため、二人のこどもを作ることを選択する。何故ならば、同じとき、二人が死ぬことは不可能であっても、子どものなかに生き続け(このことの背景には、子は親に対して、生を受けたということから、比類ないほどの借りがあり、そのため、子に借りへの意識(罪の意識)がある以上、そこに自分達も生き続けるという論理があるように思える)子どもが死ぬときに同じ死を迎えることはできるからだ。鈴佳と啓人はそれぞれの罪の意識を赦しあうことによって、寄り添った。そのため、そこには対称性がある。だが、子どもはどうだろうか?比類ないほどの借りを負わされるにもかかわらず、子どもはそれを了承することはできない(何故ならば、生まれていないから)そのため、そこには非対称がある。素朴な疑問として、比類ないほどの借りを一方的に背負わされることをどのように受け止ればいいかが分からなかった*