【発売日15周年記念『CARNIVAL』徹底解説】処女作にはその作家の全てがある。
1.はしがき
あまりに好き過ぎて、評価を書けない作品ってのがある。こういうのって、批評を趣味としているなら良くある現象だと思うんだ。思い入れってのは良いように動けば原動力に繋がる。けれど、大体は悪い方へ悪い方へ動く。価値を自分の中だけに留めておきたい、心の内のみに隠しておきたい。そんな我儘思考が脳内支配、実に抗えない魅惑だ。困る。
文章ってのは実際に遭遇した衝動や衝撃を正確に表現出来る程、上手く出来てない。寧ろ、書いてしまうと価値は下がるし、書けば書く程上手くはいかない。鬱憤が溜まるばかり。そんな事ばっかりだよな、熱意だけで切り抜けようと頑張る世界の在り様は。
しかし、それで批評=無意味とはならない訳で、そもそも評価を綴れん作品に価値は生まれない訳で、だからこの度、そんなニヒリズムからの脱却を果たそうと思い至った僕である。
一念発起の今回、選んだ作品は不動の頂点に君臨している『CARNVAL』
取り敢えず100点とした理由は、救いのない世界における気休めとして最高級品だから。「死にたくなったら読むエロゲ」として僕は本作を位置づけてるけど、別に何時読んだって良い、メッセージ性は変わらない。ただ、1番身に沁みて分かるのはやっぱり死ぬ日の前日じゃないかな。死んでから分かる事が多々あるように、死にたい時に分かる事ってのも多々ある。そこを踏まえないと、彼が最後に至った境地を骨の髄まで理解する事は不可能に近いだろう。人生日々勉強、死ぬまで勉強、死んでからも勉強、真にカルチベートされた人間になれ!
しかし、この作品について調べるとまあ、誰も彼も続編小説読まんにゃ完結しねえと不平を漏らしやがるぜ候。まあ、読むか読まないかと言ったら間違いなく読んだ方が良いんだけどさ、実は読まなくても彼等の結末って充分作中で示唆されているんだよ。最近僕は気づいた。100時間プレイして気づいた。だから、それをきちんと理解出来たから、本作は満点と相成った。小説版含めんと評価に値しねえと抜かす者共、一撃粉砕ブチ抜く所存。内容の素晴らしさについてもみっちり語る。
って感じで書き始めた批評だけど、いきなりこんな文章はじめに読まされて、もう帰りたい衝動に駆られてもしょうがないだろうな。もう前のページ戻ってるヤツがいても不思議じゃない。僕なら閉じる。閉じてエロゲする。その方が有意義だし、文章の下手なヤツに付き合ってやる義理はない。だから1つだけ、ここで本作に対する問題を出すとしよう。その解答が気になったなら読み進めていけば良いし、気にならなかったら退出してくれて全く構わない。去る者は追わず、来る者は拒まず。こんな文字の羅列、それ位のスタンスで臨むのが丁度良い。別に高尚なもんじゃない、ただの自己満足知識ひけらかし大会に他ならないんだから。
さて、この『CARNIVAL』と言う作品は、様々な物語、詩、哲学、宗教に関連付けて生み出されたゲームであり、その根底には1つの文学作品が関係している。僕はそう踏んだ。ヒント、本作の文体及び表現描写。前者は全部参考になるけど、特に第3章 TRAUMEREIが分かりやすい。後者は『CARNIVAL』で最後に出た文章が、彼の文学作品最後の文章と対比的で分かりやすいんじゃないかな。また、これ自体作中で名前は登場していない、けれど誰もが知っている文豪の誰もが知っている代表作である。
それが何か、気になった人は読み進めて欲しい。気にならなかった人はさようなら。
取り敢えず気になった人は、最後までつきあってくれたら、いいな。
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あっ! また花火!
祭りだ 祭りがあるんだ!
見よ! 今花火が咲いた
五彩の花びらまきちらし
おどろいた提灯の火がゆれる
人々はその明りに照らされ
少女のように上気した顔で
浮かれ踊り続ける
みな手と手を結び 心と心を
つなげ のどかで楽しげで
顔をしかめるものもいなければ
勿論 喧嘩などするものもいない
これこそ実に花 戦に平和
毎日が祭りなら この世に
いざこざや争いもないだろうに
ああ 毎日が祭りなら
毎日が祭りならいい
だが 無情の雨が祭りの終わりを告げぬ!!
藤子 不二雄A『わが分裂の花咲ける時』
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2.感想と言う名の戯言
脳漿をぶちまけられたが如くの衝撃。
本作への表現として使うに相違ない。作中の木村は、僕にとって「求道者」の象徴。だったらこの作品はどう象徴しよう。預言書? 指南書? 個人的には至難書と名付けたい。人生の至難を描いた指南書爆誕。
何を書こうか思い、何も思いつかんからこんなつまんねえ駄洒落言う破目になった。失笑を買う。別に売りたい訳じゃないし、書く内容だって決まってる。でも文章構成が上手く頭に思い浮かばない。取り敢えずウォームアップがてら、適当な想い出話でも書く。戯言。
生きていく中で、大事にしたいものって必ずあるらしいね。その対象は人それぞれ様々十人十色の千差万別なんだろうけど、僕はそもそも何が大事かと言う自問自答から考えてしまう人間だった。生まれて物心付いて「何者にもなれない」と言う価値観が、心の中で蔓延増殖。幼稚小学中学高校、倍々算にてアイ(愛、I)の喪失過程辿る。
まあ、色々あったよ。
頭が良いと勉強が出来るの相違を知ったし、頭脳明晰が素晴らしき人間性を作り上げるなんて嘘っぱちを知った。大人は子供が思った以上に大人じゃない現実を知ったし、子供は大人が思う程子供じゃない現実も知った。他人をスキへと至る無意味さに痛感し、愛って言葉が意外に脆いと悲観した。希望溢れる言葉が実に多くても、その輪の中へは入れず卒業。将来の夢? そんな若者らしい言葉もあったなあ。未来の希望? そんな輝かしい言葉もあったなあ。
平成不況、失われた10年、大災害勃発、猟奇事件頻発
辛く苦しい悲しみの時代に、生を受け成長したから、僕はこんなんになっちまったんだろうか? 冷静沈着頭脳が反論。それは時代へ甘えてるだけだよ、キミの本質自体が狂っているんだ。そうかそうか、ボクが狂っているだけか。はい、貴方は狂人です。しかしぼくは狂って等ないよ、一瞬といえども狂った事無い。狂人は大抵そう言うのです、合掌。
世間における偏見欺瞞価値観の相違を今日に至るまで痛感し、多くの絶望で無慈悲な理不尽を体感した。ニヒリストをきどるほど楽天家ではないが、希望を語るにはゴミと気心を通わせすぎた。至った結末は狂人露呈。アハハ、どうしようもねえ人生。死んだっていいよう、死んだっていいよう、僕は死にたかった。
そして『CARNIVAL』に出会う。
殺人へ至る前の過程、殺人へ至った後の行動、そして結末。
初めてプレイした時、木村学・木村武は有り得たかもしれない未来だと思った。殺人を犯した俺の失われし分岐路。可能性路線の求道者に、心底共感相成った次第。この「どちらにも」共感した所がミソである。作中では2つの「人格」と言う形でメッセージを伝えているけど、僕自身にも「人格」とまで昇華されないにしても「二面性」が宿っていたんだ。そんな妙に恐ろしく悩ましい筈な事が、途轍もなく嬉しい。ここまでくるともう、共感と言うより共鳴と言って良い。プレイすれば、僕は確実にこの2人とシンクロ出来る。ス・テ・キ、あはん。
そして、九条理紗と言う少女の話。彼女に同情出来るってのは、人間としてとても正常な証だ。可哀想。切ない。そして何より可愛いからね。見た目ってのは同情を誘う上で1番重要な要素だよ。不細工だけど、可愛い理紗に同情するって人もいるかもしれないが、少なくともこの娘より恵まれた立ち位置にいる人だけが彼女の事を「同情」出来るだろう。「理紗より不細工だけど理紗よりマシ」と思える人が大半であるのを切に願う。今は分からん社会だからさ。
で、結果的に僕は同情できなかった。別に彼女より恵まれてなかった訳じゃない。ただ、特に何とも思わんかった。可愛い。素敵。最高のヒロイン。だけど別に何とも思わなかった。主人公としても、悪くはなかったけど、特段良かった訳じゃない。ガハハハしゃあねえ、学達の印象強すぎる。勿論、キャラクターそれぞれの性格と思想は隅から隅まで10周ばかし体感したので、当然彼女についても出来る限りの理解を持った。しかし、やはり同情には至らず、共感も発せず、当然共鳴にも至らない。物語視点を占有した者同士、この違いは何か。
「あの娘ってさ、『動き』が無いんだよね」僕はそう結論付けた。
個人的戯言から少し逸れよう。三者三様の相違をちょっと考えてみる。これが中々面白い。
学は「神様」になろうとしている。武は「人間」のまま足掻き続ける。そして理紗の立ち位置は「罪の女」だった。
木村学と言う人間は、幼少期のいじめ及び虐待をこんな風に捉えている。
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小さいころから、父親がいない片親ということで、まあ他にも何か僕自身に問題があったのかもしれないけれど、とにかくそれを理由に、いじめられていた。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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いじめの理由なんか、いつだってやられてる方にはよくわからないものだけれど、僕が親のない子供だって事とか、他人にうち解けない性格だとか、そういう事が原因なんじゃないかと思う。
まあ、他にもあるだろう。
別になんだっていいけれど。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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いじめた連中に対して、どうだとは思わなかった。
彼らは彼らなりに何かそうさせるものがあったんだろうし、僕はそんなことをされるような人間だ。
そうなってしまう仕組みが、嫌だった。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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「本当にいいと思ってたら、お前だってこんな辛い思いしなくて済むはずだろ?」
「それは、まだ僕が子供だからだよ。人間にはいろんな顔があるんだ。よく解らないところが辛いだけで、もっといろんなことをたくさん知って、今理解できないことがわかるようになればきっと……」
『CARNIVAL』第2章 MONTE-CRISTO
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僕も頭の中で色々考えていたのを止した。
誰かが何か望むなら、それをすれば良いだけのことだ。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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学は、他者に責任の所在を求めない子供だった。自分はそんな人間、罪人、咎人。嫌いだったのは人間が陥る「不条理」と言うシステムだけ。それだけをなんとかしたい、どうにかしたいと思い、彼は多くの知識を身につける。現状どうにも出来ないのは自分のせい、本当の意味でどうしようもない事は存在しない、だから自分だけでもしっかりしよう、さすれば「不条理」は瓦解する筈だから。それが彼本来の生き方、自身を傷つけ他者は信じ、仕組みだけ憎むマイポリシー。
三沢&詠美の暴虐及び武の覚醒により、その思考は合間合間で武に影響された合一思想として昇華する。試練の伴う巡礼の旅、だったら武は神を惑わし誑かす悪魔か? そうじゃない、武はぶっちゃけニヒリスト。「神になれる」と信じ続ける学の思想に全く同調せず、「不条理」は知識より行動によって克服すべしと言う人間。反逆思想を謳っているけど、ヒューマニズムも奥底に秘めた所存。「神は死んだ」と叫ぶ事で「人間」は行動でしか運命を切り開けないと主張したんだ。最も「実存主義」と言う生き方を体現しているのはこいつ、だから俺は彼にも惹かれるんだろう。
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一体この世界中に、自分より大事にしなきゃいけないものなんか何があるってんだ?
馬鹿馬鹿しい、自分を壊してまで大事にするほどのものなんか、世の中には何もねえよ。
あいつがその気になれば、誰だって従わせられたはずだ。
ガキの頃から何だって知ってたし、その仕組みだってわかってた。
なんであいつは干渉しないんだ?
あいつがその気になれば俺よりもっと複雑なやり方で出来る筈だろ?
なんで他人を自分と対等だと思うんだ?
それどころか、自分の方が劣ってると考えてやがる。
馬鹿にもほどがある。
『CARNIVAL』第2章 MONTE-CRISTO
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さて、このくだらねえ日常の連続にとどめを刺してやる。
こんな場所は本来俺らのいる場所じゃなかったんだ。
ふさわしい場所へ行こうぜ?
世の中には、もっと明らかにクソみてえなやつしかいない単純な場所があるはずだ。
お前だって、そんな場所に行ったらそのくだらねえ内省主義を変えざるをえないだろうよ。
『CARNIVAL』第2章 MONTE-CRISTO
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「あ、答えなくても良いぜ。それはさっきお前が自分で言ってたからな。俺はいてもいなくても同然のくだらない人間だって。……そうだな、じゃあ、俺がここに存在するってことを、ちゃんと教えてやるか」
『CARNIVAL』第2章 MONTE-CRISTO
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そう、ここまでの2人はどんな形であれ、自分なりに動こうとしている。恐らく私が理紗に共鳴出来なかったのはこの相違。九条理紗と言う少女は、全く動かない。行動力が足りねえと言われてた学より足りてない。相手の為すまま自分は為されるまま、結果、自傷と言う名の諦観で人生を見渡すようになる。第3章 TRAUMEREIに選択肢がない理由。私は信じる事しか出来ない、だから、絶対なる人間へ話してその誰かが決めてくれたらと思うのです。
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「あなたたちと、私は違うよ」
「そうか?」
「学君も武君も、なんとか変えようと一生懸命頑張ってる。私は、何にもしないでただ閉じこもっているだけ。だから汚いの」
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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彼女はキリスト教とも出会った。そして、自身が抱えてきた罪悪感を宗教が解放してくれるんじゃないかと期待する。しかし、信じる事しか出来なかった少女は、その信じる事すら難しくなっていた。これまで信じてきた結果により蓄えられてきた不信が、彼女に宗教の信心を形作る事を許さない。不審と罪悪感に苛まれながら「仮面」を被り続け、そしてその対象は家族だけでなく学校の友人にまで広がる始末。絶対なる人間「学」にまでも。彼はもう、彼女にとっての「神様」じゃなかった。
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もし、誰か絶対の人に全部を話すことが出来て、その誰かが、これは正しい、それは悪い、と決めてくれたら、きっと何もかもうまくいくのに、と思いました。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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しかし、それでも最後は信じる他ない。自身の罪が理解され、赦され、救われる事を信じる他ない。その可能性が最も高く感じたのは「学」の隣。かつて「絶対なる人間」と信じた彼の隣なら、「幸福」にはなれなくとも「世界を好き」なままでいられると思うから。彼と至れる未来を信じて、それに伴う不審も顔出して、この物語は幕を閉じる。
最初、私は理紗と学を「似ている」と感じた。お互い自身を「正しくない」と見て、虐待されても為すがまま。
でも、何回かプレイして思考は変わったよ。彼等は相似しているようで、全く似ていない。向けられた悪意に対して、行動しているかしていないかの違いがそこにあった。相手に影響を及ぼす行為は武しかしないし、そんな行動以外無駄と呼ばれてもしょうがない。
しかし、学は確かに行動してたし、理紗は確かに行動出来なかった。そこにあるのは、対象(学……先人の知識、理紗……キリスト教)を信じられたかどうか。いやまあ、結局どっちも信じ切れてないんだけどさ。どんなに不審を抱いても行動し尽くせたかどうか、それだけの違いは結構大きいと思う。そして、互いに似てないからこそ彼等は同じ道を歩み、似てなかったからこそ関係は破滅した。
でも、彼は神様になり彼女を導く。彼と彼女が出会ってからの日々は、全く以って無駄じゃない。彼等は万華鏡の合わせ鏡。3人合わさって世界は彩り始めるんだ。
因みに学は中原中也大好きなので、キリスト教思想はとっくの昔に辿り着いていたでしょう。理紗よ遅遅。
そして、彼女の立ち位置はイエス・キリストが登場しない世界における「罪の女」でしょう。聖書におけるマグダラのマリア、非処女な性的不品行、娼婦の守護聖人にして死を見届けた証人、ただキリストを信奉する為だけの存在、そして「救い主」を目指した者の伴侶である。
さて、随分真面目文章長くなったから、巻きで行く。
以上が視点人物3人の個人的見解だけど、だったら泉ちゃんはどうか。思うに彼女は「近代人」の象徴。かわいい。どんな形でも自らを適応し、神を信じずに社会へ渡っていく、実は武とよく似た強き存在。可愛い。泉ルートで武が出ない理由かしらん。後カワイイ。
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さて、このくだらねえ日常の連続にとどめを刺してやる。
こんな場所は本来俺らのいる場所じゃなかったんだ。
ふさわしい場所へ行こうぜ?
世の中には、もっと明らかにクソみてえなやつしかいない単純な場所があるはずだ。
お前だって、そんな場所に行ったらそのくだらねえ内省主義を変えざるをえないだろうよ。
『CARNIVAL』第2章 MONTE-CRISTO
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この「クソみてえなやつしかいない単純な場所」を目指したのが泉ルート
「くだらねえ内省主義」は変わっていき、それは理紗の願っていた空想でもある。
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泉ちゃんと学君が仲良くなったら、きっとお互いを高めあって、いいパートナーになれるでしょう。
それはとても素敵な想像で、そして、もし私に望ませてもらえるならば、そうなったあとも、ずっと二人と仲が良い友達でいられたらなあ、と思うのです。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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皆さんこのエンドに辿り着くと、かなりの人が「破滅の序章」を思い描いてるみたいなんですけど、僕は意外にも、この2人なら上手くやるんじゃないかって思うんです。なぜなら、渡会泉は木村学と似通った性質且つ、木村武の代替存在、学を導く2人の内1人だから。もう1人は勿論武なんだけど、泉ちゃんがいるからもう出番を貰う必要はない、故に登場しない、とまあ、こういう寸法ですねはい。
類は友を呼ぶってよく言うけど、あれ結構的を射ていると実感する。理紗が学のような人間に惹かれるなら、学とよく似た泉を好むのも当然の理屈。だから学は、泉と出会えた。そして、泉は学の事を好きになってくれた。類は恋人も呼ぶ。僥倖。
でも、彼にとって誤算だったのは、彼女がとても強い「人間」だったって事。学より寧ろ武寄りなんだ彼女。「逃げる」事に対して積極性を示し、それは「1人も2人も変わんない」って逃げる事に前向きだった学ですら、躊躇させてしまう程。学は端からその行為をやっていたのに、おかしい話。
でもそれって、泉が加わったからこそ、他者の事を考えられるようになった証明でもある。要するに泉ルートって、学が武の如き存在を現実に見つけて、過重なストレスを「一人で」抱え込む必要が無くなったルートなんです。学にとって、武にとって、なんて幸福なんでしょうそれは。泉ちゃんは理紗ちゃんみたいに「歪」な視点を与えないで、彼を見てくれる。「神様」として試練の旅に赴く学じゃなく、「人間」として自由の旅に出た学と共にいてくれる。そんな「木村君」を好きになってくれた泉ちゃん。彼女の如き存在に巡り会えた事って言うのは、途轍もない幸運、幸福なんだよ。僕はそう思う、思う他ない。
まあ、ただしそれは、学が「独りで」頑張る成長が無くなった結果でもあります。牧草で腹を満たした末路。瀬戸口氏にとってこれは惰性の象徴であり、生きる上で抗う事を重視する彼の嗜好にはそぐわない。だから途中で旅描写終了。結末は各々の妄想にて補完すべし。投げっ放しジャーマン・スープレックスって訳。
余談だけど、同じく僕の好きなエロゲライターに希って人がいてさ、彼だったら寧ろこっちのルートを本筋にしたんじゃねえかなって思う。瀬戸口廉也と対極、堕落にして惰性を好む人種にて相成り候。余談終了。
結局の所、学と泉が真に互いを理解出来ているかどうかは何とも言えない。彼が解離性同一性障害だって事、彼女は知らないだろうし。でも、それで良いんじゃないかって思う。だからこそこの2人は、恋人として歩めるんだって思う。完全に理解しなくたって、僕らは運命共同体。互いに理解出来てないからこそ同じ道を歩み、無理に理解しようとしなかったからこそ関係が続くんだ。愛はお互いを見つめ合うことでなく、共に同じ方向を見つめる事。もしかするとこのカップルが、本作の中で1番「愛し合ってた」かもしれないなって、正直思う。
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「話は戻るけど、木村君のこと、なんか自分と似てるって思ってて」
「そうなんだ。理紗もそんなこと言ってたなあ。なんでだろう?」
「きっとたぶん、何か同じ方向を向いていけるような気がする」
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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あのね、もし、世界に完全に理解しあった二人だけがいて、その世界は本当にうまくいくの?
いくら仲良くても、そこに食事が一人分しかなかったらどうするの?
分け合ったら、二人とも死んじゃう。
どっちかが食べれば、食べなかったほうは餓死しちゃう。
これって、どうやったって悲しい事でしょう。
理解とかとはまた違うよねっ!
これはたとえ話なんだもんっ!
食べ物の話だけじゃないの!
あのね、世界には絶対的に何かが足りないんだよ!
みんなが、全員が幸せになるための何かが足りないの!
その足りないことが作り上げた悲しみだとか苦しみが、別のつらいことの原因になってるんだよ!
全てを理解しあえなければ、一緒に楽しくやっていけないとしたら、それってとても寂しいことだよね。
でも、そんなことはないじゃんっ!
理解なんかできなくたって、あたしたち、仲良しになれるんだもんっ!!
『キラ☆キラ』椎野きらりの言葉より抜粋
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もし興味あるなら、理紗ルートと照らし合わせて読むと、凄く面白いと思う。特に最後のCGにおける「学と理紗」「学と泉」の視線の違いは凝視推奨。
後、他キャラは感想書く程興味ねえので割愛。はい、ウォームアップ終了、木村君とシンクロ出来た良いエロゲでした。
3.宗教と哲学
「実存主義」
前項で武を語る際ちらっと出たけど、僕はこの思想が好きだ。太宰安吾らもに町田、ケルアックサリンジャーパラニュークブコウスキー。嘉村磯多にヘッセドストエフスキー、ジョン・ファンテセリーヌ車谷長吉。俺の好きな作家は皆一様に本思想を示唆する。戦後、生きる意味を失った人間に希望の光となった為、影響はあったかもしれん。しかし、絶望があるから希望なんてものもある訳で、だったら別に大して欲しくねえと思ってしまう、失せし希望うっせえし希望。
まあ、それは別に良い。『CARNIVAL』はその「実存主義」が根底にある作品である。フランツ・カフカの『変身』出てたし、今や、多くの感想でも言及が為されているから、改めて懇切丁寧説明する程の事じゃないだろう。「俺」と言う個人を重く見た生き方。逆境故に人生は人生足り得る思想。極限状態の中、世界に抗ったり向き合ったりして「人間」の根源を全うする。自身の存在証明のみ特筆して描く、それが実存主義。
作中で最も色濃く残したのが、ニヒリズムを強く発揮した武。「世界には実存しかなく、全ての本質に意味が無い」と主張する虚無主義は、実存主義を先鋭的に研ぎ澄ました形であり、彼はその思想で世界と関わる事で、学にも確かな影響を与えたんだ。
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「戸棚の中にあるより、誰かへのプレゼントになった方が、千代紙だってずっと嬉しいと思うよ」
「千代紙に感情なんかないけどね」
「そうだけど、じゃあ、千代紙の神様がいたら、きっとそうしろって言うと思う」
「千代紙の神様もいないよ」
「日本には八百万の神様が……」
「それは迷信」
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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上記は、学と武が本質的に同義な「思想」を秘めてる証拠、「神がいない」と思うは虚無主義の証明、ニヒリズムは無神論に特化した実存主義の1つである。
ただ、どちらも同じ「思考」へ至るかは別の話。ヨーロッパ最初にしてパーフェクトニヒリスト、フリードリヒ・ニーチェは、ニヒリズムを実感した際に取る態度を、以下の2つに分類した。
・何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)
・すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)
大雑把に分けよう、上が「学」で下が「武」だ。まあ、分類はそんな簡単じゃないんだけど。彼等が解離性同一性障害染みてるのが大きい、互いの態度が屡々混ざる。「学」が多くの知識を身につけ「神がいない」から「神になろうとした」のは『積極的ニヒリズム』の現れだし、第2章ラストシーンにおける「武」の描写は『消極的ニヒリズム』を少しばかり孕んでいる。
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学、どうやら俺とお前が元通り一人になれば、全部解決するらしいぜ。
お前はもう俺の知ってることを全部知ったんだ。
今のお前はそう言うの受け入れても大丈夫になったってことだ。
二人で分担してやるよりも、一人でやったほうが、きっと正しいんだ。
もともと一人だったんだしな。
それに、きっと、一人になったって、俺はいなくなるんじゃない。
きっと、学の一部になって、そこに俺はいるんだ。
だから、今までは俺が必要だったようなことも、お前が出来るようになるんじゃねえのかな。
もっと前にそうなってれば良かったのかもな。
今さら言ってもしょうがねえけどな。
学はしんどいかもしれねえけど、だいたい、それが普通ってもんなんだぜ。
俺がしたことは、お前にとって不都合な事かもしれないけど、今だったらもう、俺がなんでそうしたか、これからどうしようとしてたか、わかってるはずだよな。
それならもう、良いんだ。
スカスカだった記憶も全部埋り、自分をそんなに疑う必要ももうないだろう。
そうすればもう、お前一人でなんでもできるさ。
結局、俺の将来の夢ってやつは見つからなかったなあ。
お前の夢は、叶うかもしんねえな。
どこか気分の良い広い場所が見つかるといいな。
『まあ、がんばれよ』
って、俺が言った言葉が、学に聞こえたかどうかはわからない。
そうして俺は、もう、俺であることをやめた。
『CARNIVAL』第2章 MONTE-CRISTO
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2人は1人、1人は2人。そして最後に1人となるから、彼は理紗の為に生きる事が出来た。
じゃあ、理紗はどうなのかっていったら、彼女はどちらかと言うと有神論的実存主義で行動していた。あくまで「どちらかと言うと」であって、本人がキリスト教を信じ切れてないから、曖昧な立ち位置。でも決して無神論者じゃない。彼女はずっと自分にとっての「神」を探していたのであり、行動変遷辿っていくと、あらあら不思議有神論なのである。実存主義はサルトルが全てじゃない! 「本質は実存に先立つ」前時代があったからこそ、実存は本質に先立てたんだ! そこを見誤っちゃ、真の「実存」には至れない! そんな戯言を、理紗の行動から叙述していこうと思う。
ってな訳で、セーレン・キェルケゴールの思想から彼女の有神論的実存主義を証明していく。キェルケゴールは、人間の実存ってのを3つの段階に分けて考えていた。
①「美的実存」
「楽しければ、それでいい」と言う幼稚精神状態。「あれもこれも」とひたすら自己欲求を追いかけて生きる。しかし、何度か痛い目を見て、深く反省する事で、人間はその生き方に疑問を抱くようになる。
《理紗の場合》
父の教えが、彼女の段階を追いやった。すぐに終了、幼少期。
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そのころ私は、泣いてぐずってばかりいたらしいのですが、そのたびに、
「お前もお姉ちゃんなんだから、家のために、しっかりしなくちゃだめだぞ」
そう、父に言われました。
その言葉は覚えています。
「なんで、泣きたいときに泣いちゃだめなの?」
私が言うと、
「家族には役割があって、お前はお姉ちゃんだから、しっかりしないといけないんだ。そうしないと、家族ってうまくいかないんだよ。みんなが幸せになるのは嫌だろ?」
「私が頑張れば、みんな幸せになる?」
「うん、頑張ればきっとそうなる。みんなのためだよ。もうお姉ちゃんなんだから」
おそらく、下に弟妹が出来て、
「お姉ちゃんだから」
「お兄ちゃんだから」
と言われて、それまでの居心地の良い場所を奪われた人は、多いと思います。
世の中には兄弟というものは多いのですから。
他の人は、みな、どうやって新しい立場に慣れたんでしょうか。
そんなことを言われたからといって、すぐにしっかりするなんて出来る筈もなく、やっぱり泣きたいときは泣きたいし、欲しいものは欲しかったんです。
でも、そういった気持ちは、我慢しているうちに、不思議と薄くなってしまうものなんですね。
そのことは、すぐにあまり苦にならなくなりました。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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②「倫理的実存」
「もっと正しい生き方をしたい」と言う成熟精神状態。人間として道徳的に正しい事をしようとする。しかし、正しく生きられない。その事に深い罪悪感を抱く第2段階=「死に至る病」
《理紗の場合》
両親が、孤独な彼女に段階を導いた。幼少期の理紗は主にこれ。
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我慢することはすぐに覚えましたが、私はもっとしっかりした人にならなくてはいけないと思い、必死の思いで、顔をうまく作り、面白くもないのにおどけたり、思ってもいないような言葉を紡いで、家の中でちゃんとやれるように努力しました。
それが私のやり方でした。
でも、私が知っているほんとうの私は決してそんな立派な人間ではなかったので、ずるいことをしている気がして、努力すればするほど、どんどん、やましい嘘を次々と重ねてゆくことになり、それが見透かされてしまえばいいのですが、どういう訳かそれがうまくいってしまい、私は一度ついた嘘にさらに嘘を重ねて、ほとんど本当のことを口に出すことはなくなりました。
そうして、両親が言うには、私はあまり手のかからない、聞き分けの良い子になったそうです。
はじめのうちこそ、それこそ苦心惨憺だったと思うのですが、そのうち、さして意識しなくても、自然にやってゆくことが出来るようになりました。
なんだか、変な感じで、そうやって、「しっかりした人」を演じるのが上手になればなるほど、本当の真実の自分は、どんどん卑怯で醜い人間になっていくような気がして、胸が苦しくなるのです。
でもそのことは決して誰にも打ち明けることができなくて、ただずっと苦しいだけの毎日でした。
笑顔を浮かべながら。
いやな、子供だったと思います。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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早過ぎる早熟と自罰的性格が、自分を造り上げた創造主(=父親→神様→学)への不信を色濃くしていく。
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父が部屋を去った後、一人になって私は考えました。
秘密にしなきゃいけないってことは本当は、あんまり正しくないことをしているのかもしれない。
それは、いつからか、ずっと心に思っていました。
そして、もしそうだったとしたら、私は嘘を重ねてまで、正しくないことをしている。
自分がいやなことを、無理してまで。
一体何のためにそんなことをしているんだろう。
それに、もし正しかったとしても、父の行為を受け入れられない自分は、やっぱり間違った子なんじゃないだろうか。
考えているうちに、なんだか訳がわからなくなって、とにかく、私は悪い子なんだ、だからいけないんだ、と、その気持ちだけが残るのです。
そして、そうやって自分だけが全部間違っていることにして、自分を責めていれば、なんとなく落ち着くことが出来たのです。
つらくなくなる訳ではないのですが。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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はっきり言うと、私には、ここに書かれてあることを信じきることが出来なかったのです。
幾分かは、そこに真理はあるのかもしれないとは、思いましたが。
元々、何かを信じると言う性質に欠けたものがあるのかもしません。
デビッド神父のあの確信に満ちた言葉に、嘘があるとは思えませんでしたが、全てをさらけだして、罪の意識を告白しようという気持ちには、どうしてもなれませんでした。
それが出来たなら、もう少し何かが変わっていたかもしれません。
それこそ、『信じるものは救われる』と言うものなんでしょうか。
私は、繰り返しますが、自分という人間に、救われる権利があるとは、どうしても思えませんでした。
もし終わりの日が本当に来るのなら、私は世界と一緒に滅んでしまったほうが、よほど辻褄があってると思いました。
滅ぼされてしまうような間違った世界から生まれた私なのだから、世界と一緒になくなってしまった方が良いのだと思います。
そんな考えは間違っているのかもしれません。ただ読んで、ただ個人的にそう思っただけです。
うまく言えないんですが、これを読んで、
「助かりたい」
と思う人もいるでしょうけれど、私はむしろ
「助かるべきじゃない」
と自分が無意識に思っていたのを、自覚させられたんです。
学君と、話したいなあと思いました。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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「待って」
私は、駆け足で学君の真正面に周りました。
「なんだよ」
と言う学君の目は、前より少し尖っている感じがしました。
鼻をおさえています。
鼻血を止めているのが、わかりました。
私はハンカチを取り出して、避けようとする学君につきまとって押しつけました。
やっと受け取った学君に向けた笑顔は、昔学君に向けていたものとは違う、普段使っている、あの偽物じみた笑顔でした。
学君は、いつのまにかだいぶ変わっているはずの私に、気がついていないようでした。
私の顔さえ、ちゃんと見てくれていないようです。
私は内心で、ひどく失望しました。
学君と会えば、彼はきっと私のなかで起こっていることに気がついてくれるんじゃないかと、心のどこかで信じていたのです。
彼は彼で、精一杯だったのだと思います。
後に、彼が新しいクラスでいじめに遭っていると聞きました。
「どうしたの? 何かあったの?」
ある時泉ちゃんに不思議そうに言われて、内心のとげとげした感情が表面に出ている自分を気づかされました。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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③「宗教的実存」
ごく一部が辿り着く「神の前にただ一人立ち、神の意志に従う」という究極の境地。無力な自己を神に投げ出して一対一で向き合い、信仰に生きる決意をする事で、人間(の一部)は絶望を乗り越えられると主張した。
《理紗の場合》
一切の我欲を捨て去った「宗教的実存」を、彼女も目指した。しかし出来なかった。彼女はその「一部」じゃないから(4.文学祭 Ex-③『カラマーゾフの兄弟』も参照)
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「もし神様がいたら、きっと人間のことは嫌いなんだと思うな」
「そうかな、嫌いじゃないけど、好きでもないんだと思うよ。あんまり興味持ってくれてないんじゃないかな」
「そうだね。罰も与えてくれない。世界は愛してくれない」
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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しかし、そんな「神様」が造った信じきれない「世界」を信じる他ない。彼女にはその道しか残されていない。だから苦しい。片思い。
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「だけど、私はこの世界が好きなんだ」
「そうだね」
「だから苦しい」
「片思いだ」
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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だから「学」の隣にいようと決意する。「ニンジン」を彼と共に追いかける事で、彼女は「世界を好き」な状態のままでいられると思ったから。「幸福」を信じられると思ったから。追いかけている頃ってのが、1番「何か」を信じられる。
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私はがんばって一緒にいて、学君が幸福になって、そして私も幸福になる。
それが正しいと、決めたのです。
それがきっと私の幸福で、私は私の幸福を願う。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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しかし、彼女は「一部の人間」じゃないから、やっぱり「信じる」に全てを委ねられない。結局、宗教的実存と言うものには至れず、理紗は学と歩んでいく。1番信じる事が出来ている「この瞬間」が、少しでも長く続く事を祈りながら。
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とても怖いけれど、とても幸せです。
この瞬間が、少しでも長く続けばいいのに。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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こうしてみると、九条理紗って少女は神様を信じ切れなかったキェルケゴールって感じがするね。人間は生まれながらのキリスト者でなく、キリスト者になると提唱した彼。でも、理紗のように宗教的実存へ至れないなら、結局は絶望の道へ突き進むしかない。理論破綻の面持ち。死に至る病が、第3段階の到達でしか克服出来ないなら、一部の人しか幸せにはなれないだろう。南無。
しかし、それを踏まえた上で『CARNIVAL』最後の言葉を聞くと、鳥肌が立つ。学が本作最後に思った戯言、それは神様が不信心者を幸せにする構図と成る。絶対に幸せになれないと思っている彼女の想いへ反逆を予感させる発言。「何か」を信じると言う、その信じ方が分からない人間に、信じられなくても生きる事を決意させる想いだった。そして、彼は小説版でその野望を果たす。その決意の源流は、間違いなく此処にある。
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理紗が望むなら、僕は人をやめて、神にでもなんでもなろう。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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EX-① カール・ヤスパースについて
今回、九条理紗の有神論的実存主義をセーレン・キェルケゴールの思想から説明したけど、余りに長すぎて、他の哲学者から見た見解を纏められなかった。ここでは、もう1人の哲学者、カール・ヤスパースから見た九条理紗をざっと掻い摘んで説明しようと思う。もしかすると、こっちの方が幾分的確かもしれないな。
一般的に申すなら、日常に埋没している人間ってのは、キェルケゴールの言う「美的実存」のままである。難しい事考えんの面倒なだけだし、興味もないから、生活の安定と享楽だけ望んで生きてる。ただ、その中で決定的挫折に直面した人間がいたら、そいつはそのままではいられない。孤独と絶望に突き落とされ、終わり無き苦しみに苛まれる。
このカール・ヤスパースって人はそんな対象者に向けた哲学と言って良い。死や苦しみ、争いに罪責と言った生きていく上で訪れるどうしようもない出来事が、人間を陥れる。そんな出来事をヤスパースは「限界状況」って呼んだんだけど、その「八方塞がりな状況」を迎えた時こそ、自分を超えた存在、自分を支えてくれる「超越者」と出会って、本来の自己=実存に目覚めると考えたんだ。絶望して初めて実存を知る。挫折を知らなければ実存には至らない。
と、ここで思ったのが理紗と学の出会いだった。あれは、理紗にとって「超越者」との邂逅に他ならないんだよ。彼女が学・武と出会うまでの安寧タイムは「私にとって一番大事な時間で、これがなくなったら、とても日常に耐えることができそうにない」ようだった。そして、学の特異性ってヤツも、多くの人が証言している。
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私は平静を装いながら、母がきっと言うであろう、学君への賛辞を待っていました。
「あんなしゃべり方を出来る子なんて、いないわよ。それに、なんだか目の輝きがとても知的で、あんなに凄い目つきの人、お祖父ちゃんが可愛がってたような、立派な大人の人たちにもいなかったわ。すごい子と仲良くなれたのねえ」
「そうかなあ? でも、宿題とかたくさん間違えるんだよ」
「そうなの? だけど、あの子はそういう枠組みの子じゃないと思うよ、お母さんは」
「そーかなー」
言いながらも、私が言って欲しかった言葉と、ほぼ一致していたので、内心では喜んでいました。
「でも……」
母は、ふと顔を曇らせます。
「なに?」
「すごすぎて、とても怖い子ね。ほらあなた達二人で話してた時にあの子が言ってたこととかあったでしょう?」
「えっ」
私が最初のときに感じた印象と同じ言葉ですが、母の言っている意味は、少し違うような気がしました。
「理紗、どうなるかわからないけど、きっとあの子は普通の人生は送れないわよ」
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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「ほら、一年のとき、学君て図書室で司書さんと喧嘩したんでしょ? 泉ちゃん、見てたんだって」
「うーん、僕に似てる別の人じゃないのかなあ、記憶にないけど……」
「そんなことするの学君以外にいるのかなあ。それに、どうせ覚えてるんでしょ」
「まあ、どうせ覚えてた」
「あの、木村君て、どういうところであれだけの知識を覚えたの?」
泉ちゃんが、学君の顔を見つめながら、言いました。
「うーん、住んでる部屋が本ばっかりだったからかな」
「じゃあ、自分一人だけで?」
「そうだね、だから、偏ってると思うし、だいたいそんなに大した知識でもないよ」
「そうかな、私、あんなの初めて見た」
「あんなの、ただのハッタリだよ。寝惚けてわーっと言ったから、悪いことしちゃったな」
「かなり、理路整然としてたけれど?」
「寝起きで、何か不思議な力が取り憑いていたのかも」
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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まあ、それでも客観的に見たら学は「超越者」じゃなくて人間だ。しかし、理紗にとっては「超越者」と呼んでも差し支えない。何故なら彼女は苦しんでいたから。限界状況真っ只中だったから。
そしてその中で、その極限の苦悩と孤独の中で、真の実存にめざめるためには、自分一人だけでは不可能だとヤスパースは語った訳。他者と本音で付き合う、つまり、互いに率直に自己を曝け出して問いかけ合う「愛しながらの戦い」が必要と考えた。それは、深い理解と共感への切実な飢え。この「飢え」を感じない者は、実存的交わりを求める事もないのです。
理紗は「超越者」である学と出会っていたけど、この「戦い」をこれまでしてこなかったんだよ。だから、尚更苦しかった。でも、第1章 CARNIVALと第3章 TRAUMEREIのラストでようやく彼等は戦った。高台に着いてから一連のやり取り。そして、彼等は連帯する。
ただ、この関係は異質でね、それは「超越者」自身と「愛しながらの戦い」をしている点にある。普通、超越者とは神の総称であり、完全なる存在を信仰したからこそ、初めて他者と分かち合う為の戦いが出来る。でも彼女はキリスト教を信じていないから、まだマシな「超越者」であり「人間」の学君としか、愛しながら戦う他ない。要するに、不完全なんですこの戦い。完全な「超越者」じゃないから。不完全な「人間」だから。効果も一時的、最後まで続かない。その結末については、小説版を是非どうぞ。
Ex-② 何故、高杉百恵と言うキャラクターは生まれたか?
そして、この実存主義という観点から見てみると、高杉百恵って女には1つの見方が生まれる。彼女は単なるエロ堕ち要因じゃない。「女」になる事を選んだ求道者だった。
スタンフォード監獄実験って有名な出来事が示すからわかるだろ? 人間の役割は、その者を形成する重要な要素であり、役割が人格に影響を与える事もある。
彼女も同じ。
少々極端な話になるけど、真面目な性格だから警察官をしている訳じゃない、警察官だから真面目な性格に成らざるを得ないんだよ。
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「女に生まれた事を後悔させてあげますよ」
「私は女である前に公僕よ!」
「それは思い込みですね」
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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だからぶっちゃけ、彼女は実存から至る「本質」を見誤っているんだよね。生まれてきたは良いものの、適合性とか資質とか素質とか本心とか間違えまくった挙句に、警察官として公僕に治まってる。だから、学はそれを結果的に、予期せぬ事態とは言え、分からせてやったんだよ。その結果は小説版でお察しの通り。良かったね、自分に合った道を歩めて。秘めた才能体現させなきゃ意味が無い。彼女はやっと自らの人生を歩めたんだ。花丸!
「警察官」以前に「女」
いつだって「実存は本質に先立つ」
人は女に生まれるのではない、女になるのだ。って皮肉。傑作だろう?
4.文学祭
①『グスコーブドリの伝記』
さて、ここからは『CARNIVAL』を文学的に捉えてみようと思う。はしがきで放った質問の答えにも触れる。ただ、その前に本作の「幸福論」について誤解している方がちらほら見受けられるので、訂正の意を込めここに見解を与えよう。
本作における幸福論は以下の通りである。
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「うーん、幸福ってなに?」
「またすごい質問だなあ」
「なんだと思うの?」
「そうだなあ、わからないけど、なんとなく、今思ってるものだけどいい?」
「うん、なに?」
「ガラクタ」
「えー、幸福はガラクタなの?」
「気に入らなかったら、違うのもある」
「なに 」
「ほら、マンガとかでさあ、馬の頭に釣竿つけて、先っぽにニンジンつるすでしょ。馬はそれを追いかけてずっと走るって 」
「うん 」
「あのニンジン」
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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上記を読んで、多くの人が「絶対幸せになれない」と言う意味で捉えているけど、それは後半だけしか見てない証拠、ニンジンを追いかける「馬」しか見えてない証明。見る場所が違うんだ、「ニンジン」に目を向けなくちゃ、「ガラクタ」に目を向けないと、学の言っている意味、考えている内容は分からないだろう。幸福観を知る手がかりは、この前の文章にある。
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「何の話を読んだの?」
「『グスコーブドリの伝記』っていうやつ」
学君が『あ、どういう話だっけ?』と言った場合には、少しあらすじを話せば『あ、わかった。大丈夫』と思い出してくれるし、こんなふうに『うん』とだけ軽く答えたときには、その必要さえなく、いずれにしても、読み終わったばかりの私とほとんど同じくらい、内容を詳細に記憶していました。
「不思議に思ったことがあるんだけど、学君はどう思うかなあって」
「なに?」
「ねえ、おとうさんとおかあさんがいなくなった後、ブドリとネリの兄妹は家に置いてかれちゃうでしょ」
「うん」
「ネリはどこへ行ったんだと思う?」
その物語は最初の方に、主人公の兄妹のお父さんとお母さんが相次いでいなくなってしまうのです。
そして、残された兄妹のうち、やがて妹のネリも人に連れて行かれ、主人公のブドリも、別の人に連れて行かれて、そうして、一生を一人の仕事に費やし、仕事のために死んでしまうのです。
私は両親をなくし、兄までなくしたネリはどうなったんだろうと、ぼんやりと思っていました。
そのことを言うと、学君は笑いながら「なんでお父さんとお母さんの事は気にしないの?」と言いました。
「だって、おとうさんとおかあさんは大人じゃない」
「まあそうだけどねえ」
「それに、自分の意志で行っちゃったし。とにかく、ネリが気になったんだ。ネリはどこへ行ったと思う?」
「自分の意志だけかなあ。まあ、それはいいや。ネリが行ったのは、多分、あんまり良くないところだと思うよ」
「良くないところって、どんなところ? なんでネリだけ連れていかれたの?」
「どんなところだろう。ネリが連れて行かれたのは、女の子だからじゃないかな」
「なんで女の子だと連れて行かれるの?」
「そういう仕事があるんだよ」
「うーん、よくわからないなあ」
「そうだね」
「ねえ、最後にブドリは本当に死んじゃったんだよね」
「多分」
「ネリはじゃあ、ブドリと別れたあとどうなったと思う? 幸せになったと思う?」
「思わない」
「なんで? じゃあやっぱりブドリみたいに死んじゃったのかなあ」
「死んじゃったとも思わないなあ」
「じゃあ、どうしてるの?」
「僕は、ネリは、あんまり救いがない毎日を送ってるんだと思うよ」
「ふーん、私は、きっと幸福になってると思うな。宮沢賢治が書かなかったのは、そんなこと書くと、もっとブドリが可哀想だから」
「そうかもね。でも、ブドリは可哀想じゃないよ」
「そう?」
「うん、幸福だったと思う」
「でもやっぱり、可哀想だよ」
「それはきっと、あれがブドリにとっての幸福だったから、可哀想に見えるんだ」
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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グスコーブドリの物語にあるのは「自己犠牲」の精神。飢饉が迫り、家中に食べ物が欠乏していく状況から、両親は子の為、餓死を選ぶ。その結果、生き延びたブドリは様々な人間と出会い、巡り会えた大切な存在と子供を救った両親の行動に報いる為、その身を火中に沈める。そうして、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。
上記にあるのは、世の中に対する不条理と愛である。親が死んで孤児になったグスコーブドリと妹のネリは、辛い思いをしながら育っていく。グスコーブドリは悪い人間や環境に搾取され、ネリもまた籠をしょった目の鋭い男に攫われる。辛酸舐めて紆余曲折に生き、多くの温かい人とも出会って青年になったけど、その努力を誤解して暴力を振るうヤツもいる。何故こんな辛い思いばかりせんといかんのか。
だが、世の中とはそもそも不条理だらけなんだ。そんな理不尽の中でも、人間は人間らしくあるしかないんだ。だから、ブドリは生きる。行動を信念を以て続ける。そして、色々な人が生きているこの「世界」を愛したいと想う。不条理で理不尽な「世界」だったけど、自分は確かに其処で多くの存在に救われたから。大旱魃が迫ってくる最中も、自分と同じ境遇を「世界」の子供達にまで背負わせたくなかった。親が救ってくれた行動の意味を、忘れてなんていなかったから。
そして、彼は死を選ぶ。自らの「幸福」の為に。
「ガラクタ」の意味、分かったんじゃねえかな。それは「他者に理解されずとも『自らが幸福と思える概念』」である。実を言うと「ニンジン」にもその意味は含まれてるんだけどね。だって、ニンジンなんて馬しか追いかけない産物じゃん? 馬だけが追いかけるニンジン=「他者に理解されずとも『自らが幸福と思える概念』」の条件を満たしてる。
「ブドリが幸福」と断言した事から、学は幸福が「どこにも無い!」なんて思ってない。どこかしらにはある、ただ、つかまえるのが偉く難しいってだけ。
そしてブドリを「幸福」と断言した理由は、彼が「自らの信念を最後まで貫き通したから」に他ならない。ブドリにとって「幸福」と思えた概念は他者から見たら「ガラクタ」に過ぎないけど、彼にとっては「宝物」の如く輝いている。ブドリの「幸福」=「貫き通した信念が齎した産物」=「誰かを生かす事」であり、その行動手段こそ「自己犠牲」しかなかった。これが、少なからず学の思う「幸福」の指針となる。
第1章 CARNIVAL 2周目新規シーンを見ると良く分かると思う。学はあの全てが変わると思った「CARNIVAL」まで、自分を貫き通したかったんだ。そして母さんが生きてる、理紗も輝いてる、皆が笑ってる、そんな幸福世界に辿り着きたかった。だから、いっぱい本を読んで勉強して調べて、知る。絶対こんな風にはなれないと。理想は結局理想だったんだと。否定され続ける。現実もその通り、あの場所で全てが変わってしまった、更に悪い方へ。
だから、これは結局在り得なかった夢想。信念を貫き通す事は難しかったって当たり前の事実を再確認したに過ぎない。でも、紛れもなく彼は幸福だった。「夢」の彼は間違いなく、ブドリのように「信念を貫き通して」「他者を生かした」から。「夢」の中ならニンジンだって、仮初の残像、食べれるのです。
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「そうかもね。でも、ブドリは可哀想じゃないよ」
「そう?」
「うん、幸福だったと思う」
「でもやっぱり、可哀想だよ」
「それはきっと、あれがブドリにとっての幸福だったから、可哀想に見えるんだ」
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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「僕のこと、可哀想だと思う?」
「ああ、思うよ」
「じゃあきっと、すごい幸せなんだ」
「ああ、そうだね。でも、お前は、これからも生きて行かなくちゃいけない。ここじゃまだ死ねない」
「うん、わかってる」
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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でも「現実」の彼は「まだ」ブドリじゃない。母さんは死んでしまったし、理紗を救えてない。そして生きて行かなくちゃいけない。ブドリのように「自己犠牲」するには早すぎる。そう、「理紗をまだ救えてない」からね。だから、彼は生き続ける、歩み続ける、いずれブドリと成る為に。
要するに、学にとって「幸福」ってのは「ブドリのように信念を貫き通す事」
そしてその結果「誰かを生かす」って事。
でもね、「誰かを生かす」って事は結果として「自分を殺す」って事だ。ブドリがそうだったろう?
人間ってのは最後まで信念を貫き通せない。信じ続ける事が出来ない。理紗がそうだった、学もそうだった。貫き通せていたら、母親を殺す事もなかったんだから。
彼は作中だと「夢の中」でしか自らの信念を貫き通せなかった。だから、「現実」で自らの信念を貫き通す為、生き続ける。理紗を、幸せにする。その決意の表明が、最後の学の想いなんだ。
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理紗が望むなら、僕は人をやめて、神にでもなんでもなろう。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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学が「ブドリ」になれたかどうかは、小説版を是非どうぞ。
②引用の特徴
『CARNIVAL』を深く分析する際、学が使った引用作品って果てしなく重要だ。なぜならそれは、彼が何に救いを求め、信念としたかの指針になるから。この「引用した書き物」を理解したかどうかで、彼の「理解」に辿り着けるかどうかが決まる、かもしれない。まあ、ヒントには絶対なるだろうさ、それは確実。
と言う訳で、本項目ではそんな文学及び詩の一部対象作について取り上げましょうか。僕が100時間かけて調べ上げた『CARNIVAL』全引用集も挙げようか迷ったけど、ちょめちょめ法怖いので止めます。要望多けりゃ追記しようか、多分皆無だろうけど。自分で言ってて悲しくなるわあ。
まず、序盤も序盤。圧倒的且つ鮮烈なイメージを植えつけた始まり、月の描写。
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月の表面に小さな蛆が無数に湧いて、その蛆が月面に笑顔を形作っている。
表面だけ笑みの形を作った、見下すような蔑むような腐敗した気持ちの悪い笑顔だね。
笑顔って言っても、ちっとも朗らかでもなんでもない。
ただ不快な笑顔。
僕はそうやって嗤う月を見ながら歩いていたんだ。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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このアイディアは、安部公房の掌編小説集『笑う月』の表題作「笑う月」から取っている。「月が笑顔を形作っている」のは間違いなく「笑う月」であり、決してムジュラじゃございません。
何故そこまで断言できるか。1つは『笑う月』の特徴から来る理由、もう1つは学が安部公房を知ってる根拠が存在するから。
まず前者。『笑う月』って短編小説集は、安部公房が見た「夢」を紹介している夢日記でね。表題作は著者自身が小学生の頃からよく見る、花王のマークみてえな満月に、笑顔で追いかけられる夢の話だ。
さあ、ここで問題。『CARNIVAL』において、この月の描写の後、学は何の話をするでしょうか?
アンサー、そう、夢の話をするんだ。
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昔、そういえば夢のなかで、
「おまえは呪われている。一生苦しみ続ける」
と、一晩中ずっと頭のなかで繰り返し繰り返しささやき続けられたことがあるのだけれど、この近代世界で僕は何か得体のしれないものに呪われているのだろうか。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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そして2つ目。学、お前安部公房読んだ事あるだろって描写がはっきりある。分かる人には分かる、分からない人には分からない、そんな独白。
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女性の足が美しいのは、ひとつには性器の蓋であるからだ、って、誰の言葉だったっけ。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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これ、安部公房の『箱男』ね。該当箇所抜粋。
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いったいあの脚の、何がこれほどぼくをひきつけるのだろう。
生殖器を暗示しているからだろうか。
たしかに現代の衣服の構造からすれば、性器は胴よりも、脚に属していると考えるべきかもしれない。
だが、それだけだったら、もっと性的な脚がいくらもある。
箱暮しをしていると、もっぱら下半身で人間を観察するようになるので、脚には詳しいのだ。
脚の女らしさは、なんと言っても、その曲面の単純ななだらかさにあるだろう。
骨も、腱も、関節もすっかり肉に融けてしまって、表面にはもうなんの影響も残さないのだ。
歩く道具としてよりは、性器の蓋としてのほうが(嫌味ではない、嫌味なんて言うわけがないだろう、大事な容器には当然「蓋」がいる)、たしかにずっとよく似合う。
蓋はどうしても手を使って開けなければならない。
だから女っぽい脚の魅力は(この魅力を否定する奴は偽善者だ)、視覚的であるよりも、むしろ触覚的でにならざるを得ないのだ。
『箱男』
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以上、学君も安部公房読んでたんですねって話。
学が参考にした「文学」は実存主義や、それとよく似た精神・思想が根底にあるモノばっかりだから面白い。
あ、それと上記で語った「夢」って概念、存外重要だから、憶えておきましょう。
さて、次。母さんとの夕食を描いた「夢」の情景どうぞ。
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テーブルに母さんと二人きりで向かい合って夕食を食べている。
母さんはとても優しくてニコニコしているけれど、それは今にも全てが壊れてしまいそうな脆くて危ういものに感じられて、かえってとても恐ろしい。
僕は自分の動作が母さんを刺激しないように、ビクビク気を配りながら、愛想笑いを浮かべている。
「愛想笑いかよ。気持ちわりいな。嫌なら嫌って言えよ」
この声は、記憶の底のほうにある、武の声だ。
「嫌かどうかなんて、自分じゃわからないよ」と僕は言う。
僕の声も幼い。
あのころの僕に戻っている。
「馬鹿かよ、自分でわからなかったら、誰がわかるっていうんだ。わからないんじゃなくて、わかりたくないんじゃないのか?」
それは、どこかで聞いた事がある。
って、これは、僕の考えていた事だ。
僕の意見だ。
僕だってそんなの気がついているよ。
武には関係がない。
「なんでわかりたくないんだ? もうわかってて、ただ受け入れられないだけなんじゃないのか?」
「わからない、僕にはわからないんだ」
「まだそんなこと言うのか。簡単なことだよ、ほら、そこに鏡がある。覗いてみろよ、一目でわかることだ」
「いい」
「お前が見なくたって、みんなは知ってるぜ。『自分のフォークの先に何があるかをみんなが直視する、あの凍り付いた一瞬』ってね。知らずに食ってるのはお前だけだ。ほら、食ってるものを見ろ」
僕は、自分の箸の先にあるものを見てみた。
白くて細長い糸状のものが、うねうねと箸の先端にからみついている。
僕はテーブルの上に箸を投げ捨てた。
食器の上には、同じような、気色の悪い生き物が盛られ、うごめいている。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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武――と言うより「学の夢」にいる武だから、学と言った方が正しいんだよね、本当の武はこんな博学絶対に知らない、だけど紛らわしいから武にする――の言った言葉『自分のフォークの先に何があるかをみんなが直視する、あの凍り付いた一瞬』は、ウィリアム・シュワード・バロウズ二世『裸のランチ』出典。麻薬中毒者ウィリアム・リーが語る幻視文章の集合体から抽出された一節である。これも「夢」、夢幻の如くなり。
この狂気文学代表作は『CARNIVAL』と同じく、主人公が警察に追われている所から始まる。それは結局麻薬が見せてる幻ってすぐに分かるんだけど、ここで重要なのは、幻の中でも「現実」が彼を追いかけ、追い詰めているって所。逃げて逃げて逃げまくっても、あらゆる邪悪な存在が外部から我々を乗っ取ろうとしている。そこを照らし合わせているからこそ、『裸のランチ』の一節を「敢えて」「夢で」出したんだと推測出来る(「笑顔の月」も「現実に」出ている「夢」であり、邪悪な存在の侵食を示してんじゃねえかな)
そして何より、これまで話題から外してた「蛆虫」が存外キーワードでね、『裸のランチ』は「虫」を寄生の象徴として描いてるんだな、こんな風に。
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「今しがた例のランチというやつが届いたところだ。殻をとった堅ゆでの卵は未だかつて見たことがないような代物だ。おそろしく小さな黄褐色の卵、たぶんカモノハシが生んだものだ。黄身の中には大きな蛆虫が入っていて、その他にはほとんど何もなかった。この蛆虫のやつはまさにいの一番に黄身の中に入り込んで占領してしまった」
『裸のランチ』
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バロウズは特に、言葉のウィルスが体内に侵入して人々を支配する惨状を思い描いていたそうな。ランゲージ・イズ・ア・ヴァイルス。ローリー・アンダーソンである。蛆虫=言葉=ウィルスと考えると、ある人物の言動に葛藤が生まれる。
それは学の言動。学って、他者の知識が生み出した「言葉」による模倣が多いんだよね。それってつまり「邪悪な存在に乗っ取られてる」「自分がない」って事でもある。そこから脱却を図ろうとする話、と『CARNIVAL』を捉えても面白いかもしれない。
小説版持ってる人は読んでみると良い。学はこの続編小説で一切、他者の知識が生み出した「言葉」による模倣をしていない。「邪悪な存在」から克服しかけていると考えてもいい解釈、になれば良いなあ。断定は出来んねやっぱり。
そして、分かってる人多いと思うけど、この夢全体はフランツ・カフカ『変身』のオマージュ。もしかすると、百恵が来た後、嘔吐したのはサルトルのオマージュかもしれない。見極めたい人は読み比べる事を求む。
後、学が模倣していた言葉で多いのは「中原中也」と「尾崎放哉」であり、彼等はエリート街道順風満帆な道を捨てた者達って共通点があるとか(ついでに「種田山頭火」と「石川啄木」も)
さっき出てきた「宮沢賢治」と後述する某作家にも共通点があって、周囲に対しての搾取や犠牲によって、自らの暮らしが成り立っている事に苦悩したりとか。
考え過ぎと見られてもしょうがないんだけど、同じ文学好きとしてはもう興味深すぎて驚嘆の一途だった。興味有るならもっと深掘りしてみる事を薦める、中々面白いぜこの作業。
③『人間失格』
さて、お待たせしました。はしがきで語った質問解答篇の時間でございます。『CARNIVAL』の根底にありまするは稀代の傑作『人間失格』、文豪太宰治が、死ぬ1ヶ月前に作り上げた代表作です。はい終わり。
いやだってさ、正直、答えを教えた以上、これはもう読んで確認してみてくれとしか言えないんだよね。意識して本作を紡いだ事はもう確実にして明白だよマジで。ん、それじゃあまりに無責任? じゃあ少しだけ、その共通点たる根拠羅列していくわ。引用地獄でも、怒るなよ。
取り敢えず、理紗の幼少期の行動。あれね、まんま幼少期の大庭葉蔵。
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我慢することはすぐに覚えましたが、私はもっとしっかりした人にならなくてはいけないと思い、必死の思いで、顔をうまく作り、面白くもないのにおどけたり、思ってもいないような言葉を紡いで、家の中でちゃんとやれるように努力しました。
それが私のやり方でした。
でも、私が知っているほんとうの私は決してそんな立派な人間ではなかったので、ずるいことをしている気がして、努力すればするほど、どんどん、やましい嘘を次々と重ねてゆくことになり、それが見透かされてしまえばいいのですが、どういう訳かそれがうまくいってしまい、私は一度ついた嘘にさらに嘘を重ねて、ほとんど本当のことを口に出すことはなくなりました。
そうして、両親が言うには、私はあまり手のかからない、聞き分けの良い子になったそうです。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。
自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。
そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。
おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。
つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。
『人間失格』第一の手記
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そして理紗の考えと言うのは、葉蔵が大人になってから感じた事でもある。
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たぶん、いま正しい行動は、教会を訪ねて、あの、温厚そうなデビッド神父に相談することなのかもしれません。
洗礼を受けて、全ての罪を神に告白すれは、罪は赦され、苦しみはなくなり、世界に終わりの日が来ても、生き残れるそうなのですから。
でも、そんなことは、正直、ちょっと虫の良すぎる考え方じゃないかと、少なくとも私自身については、思われたのです。
私の犯した罪は、そんなに簡単に赦されていいのでしょうか。
それは、神様にしたら、そんなことは些細なことなのかもしれないですけれど。
でも、どう考えても私にとっては、赦されてはいけないような気がして、すんなり受け入れることが出来なかったのです。
はっきり言うと、私には、ここに書かれてあることを信じきることが出来なかったのです。
幾分かは、そこに真理はあるのかもしれないとは、思いましたが。
元々、何かを信じると言う性質に欠けたものがあるのかもしません。
デビッド神父のあの確信に満ちた言葉に、嘘があるとは思えませんでしたが、全てをさらけだして、罪の意識を告白しようという気持ちには、どうしてもなれませんでした。
それが出来たなら、もう少し何かが変わっていたかもしれません。
それこそ、『信じるものは救われる』と言うものなんでしょうか。
私は、繰り返しますが、自分という人間に、救われる権利があるとは、どうしても思えませんでした。
もし終わりの日が本当に来るのなら、私は世界と一緒に滅んでしまったほうが、よほど辻褄があってると思いました。
滅ぼされてしまうような間違った世界から生まれた私なのだから、世界と一緒になくなってしまった方が良いのだと思います。
そんな考えは間違っているのかもしれません。ただ読んで、ただ個人的にそう思っただけです。
うまく言えないんですが、これを読んで、
「助かりたい」
と思う人もいるでしょうけれど、私はむしろ
「助かるべきじゃない」
と自分が無意識に思っていたのを、自覚させられたんです。
学君と、話したいなあと思いました。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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「お父ちゃん。お祈りをすると、神様が、何でも下さるって、ほんとう?」
自分こそ、そのお祈りをしたいと思いました。
ああ、われに冷き意志を与え給え。
われに、「人間」の本質を知らしめ給え。
人が人を押しのけても、罪ならずや。
われに、怒りのマスクを与え給え。
「うん、そう。シゲちゃんには何でも下さるだろうけれども、お父ちゃんには、駄目かも知れない」
自分は神にさえ、おびえていました。
神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。
信仰。
それは、ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。
地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。
『人間失格』第三の手記
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この第3章 TRAUMEREIってヤツは特に『人間失格』との共通点を感じられるんだよね。理紗の思考が葉蔵に通じる箇所多々あり。
まあ、そもそもにして、第1章の文体から明らかに「太宰治」を意識していると言って良いんだけど。読んですぐ思ったよ、ああ、太宰の新作読んでるみたいだなあって。しかし、テクスト論の話になると、無頼派全員同じ感じじゃねえかと言われたら反論しようが無い。難しいんだ文体抗論。でも、こうした内容の一致は見るべき所である。対比として最高の一言。
因みに最初の「道化」と言う部分に関して言えば、学の方が正確じゃねえかと思う。そう、彼も葉蔵と似てる。「道化」を現在進行形でやって、葉蔵のように上手く行かなかったのは、プレイした人なら分かるでしょう? 青春なんて気持ち悪いし分からない、おぞましさを結束させた固形物、だから僕は、自然彼等に共感するんだろう。
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何というか、他人と雑談したり、仲良くしたり、というのが、あまりよく解らないのだ。
何が楽しいのか、何でそんなことをしなければならないのか、よく解らない。
それにそもそも、どうやったら他人と仲良くなれるのかということが、よく解らない。
他の人たちはあんなに楽しそうにしているのだから、それはきっとかなり楽しいことなんだろうと想像は出来るのだけれど、僕には実感として理解することが出来ないのだ。
解ることが出来ないのだ。
哀しいね。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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四年から受けて見よ、と言われたので、自分も桜と海の中学はもういい加減あきていましたし、五年に進級せず、四年修了のままで、東京の高等学校に受験して合格し、すぐに寮生活にはいりましたが、その不潔と粗暴に辟易して、道化どころではなく、医師に肺浸潤の診断書を書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。
自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。
それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール・スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。
教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気さえして、自分の完璧に近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。
『人間失格』第二の手記
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そして、そんなおどけた態度を行う根底には、人間に対する限りない不信と、しかしそれでも人間を信じたい思いがあったんだと思う。其処は恐らく変わらん、理由の源流。どちらも人間に対して「思い切れなかった」んだよ、きっと。
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「……ねえ、やっぱりでも、一緒にいちゃ駄目かな」
「良いことではないと思う。でもどうするかを決めるのは学だよ」
「学君は、どうするかなあ」
「多分、連れてくと思うよ。あいつバカだから。まだ、人間が人間を助けられると思ってる」
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。
自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。
『人間失格』第一の手記
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後は、哀しい事を受けていたって所も、特筆した共通点とは断ぜられないが、挙げられる。理紗と葉蔵の対比。まあ、この時点の理紗はまだ、信じられる対象がいるだけ葉蔵より楽かもしれんけど。
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もしかしたら、母に父のあの行為を告白したら、何かうまく行くかもしれない、何か教えてくれるかもしれない、と、ふと思い浮かんだ私は、のど元まで言葉が出かかったのですが、先に話始めたのは母でした。
「理紗は、偉いわね。私なんか、ずっとお祖母ちゃんのところで育って、山暮らしで世間知らずでしょう? 洋一も生まれて、そっちばかりに構ってて、理紗がこんなちゃんとした子じゃなかったら、もっと苦労してたと思うの」
「もう、何言ってるの?」
「ほんとよ。まだこんな子供なのに、家のこととかもちゃんとやってくれるし、ありがとうね。何かあったら、すぐお母さんを頼るのよ」
「なんか、へんなの」
しんみりした母の口調を私は笑って流すと、もう、母には何も相談できないな、と、思いました。
そしてふと、学君の顔が浮かびました。
『CARNIVAL』第3章 TRAUMEREI
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けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、凡そ対蹠的なものでした。
その頃、既に自分は、女中や下男から、哀しい事を教えられ、犯されていました。
幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。
しかし、自分は、忍びました。
これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。
もし自分に、本当の事を言う習慣がついていたなら、悪びれず、彼等の犯罪を父や母に訴える事が出来たのかも知れませんが、しかし、自分は、その父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。
人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。
父に訴えても、母に訴えても、お巡りに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。
『人間失格』第一の手記
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そして最後、これまで何度も本批評にて頻出した『CARNIVAL』の結末。
『人間失格』と照らし合わせて見てほしい。
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「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
『人間失格』あとがき
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理紗が望むなら、僕は人をやめて、神にでもなんでもなろう。
『CARNIVAL』第1章 CARNIVAL
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どちらも「お父さん」が原因の一端ではあった。でも、小説版を読むと『CARNIVAL』の方が幾分救いがあって良い。生きている人間同士なら、許し合うことが出来る。それはなんて素晴らしい事なんだろう。
ただ、『人間失格』における「お父さん」を「神」と捉えて、『CARNIVAL』のお父さんも「神」と考えると、もっと面白いかも。それだと、どちらも救われない、それもまた良い。まあ、論拠もろくに出ない戯言だから話半分で聞いといて。
でもまあ、こんだけ類似してたら、意識してないと抜かす方が無理ってもんだろベイベー!
そして、ここまで2つの文学作品交えて語ったけどさ、両者を知っていたなら『CARNIVAL』の真の結末も俄然分かるって寸法さチェケラ!
だから、小説版高くて買えないよママァ!!って人は上記の2つを読めば、学がどうなるか分かるよ、お楽しみにね。
次項の5.では小説版を読んだ人だけの話をする、読んでない人は飛ばす事推奨。
Ex-③ 『カラマーゾフの兄弟』
と、その前におまけおまけ、おまけのコラム。『CARNIVAL』とロシア文学についての話だ。
瀬戸口氏がロシア文学を好んでいるのは、ファン諸兄であれば誰しも周知かと思うが、本作にもその片鱗は数多く見られる。特に顕著なのは第3章 TRAUMEREIかな、まんまドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でイワンが宣言した内容を踏襲している。引用しようかと思ったがクソ長いんで、別のエロゲで本作について語った文章そのまま載せよう。しかし言っておくが、この内容が全てじゃない。これ以外にも意識していると感じられた描写、メッセージ、いっぱいある次第。気が向いたら読んでみて欲しい。特に大審問官の章は必見。
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イワンという男が神について語っていた。
彼は神と神の作った世界を認めることができないのだという。
まだ知恵の実の味も知らない無垢な子供をはじめ、なんの罪も犯していない人間までもが、どうして胸をかきむしるような思いで神に救いを求めなければならず――それでも救われずに無残な死を遂げるような世界をなぜ赦し、あまつさえ死を振りまく醜い殺人者をまでも、隣人として愛することができようかと。
このような理不尽を赦せる者はこの世界を作った神と、罪のない血をあらゆるもののために捧げた神の子のみであり、自分たちのような人間には到底、不可能だと語っていた。
『Missing-X-Link~天のゆりかご、伽の花~』3.Heaven Exists
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因みに先刻述べた『人間失格』には『罪と罰』の言及がある。『CARNIVAL』にも言わずもがな、要素として含まれてる。太宰ってキリスト教大好きなんだよ。「狂言の神」「トカトントン」「桜桃」「世界的」「駈込み訴え」「HUMAN LOST」挙げれば限が無い。ところで、瀬戸口もキリスト教大好きなんだよ。『CARNIVAL』『SWAN SONG』『キラ☆キラ』完全完璧皆勤賞。
ドストイエフスキイを両者どう思っていたやら、いるやら。興味関心尽きないねえ全く。
5.小説版の話
①『グスコーブドリの伝記』
「世界は残酷で恐ろしいものかもしれないけれど、とても美しい。思えば、そんなこと、僕らは最初から知っていたはずなんだ」
この文章が、僕は最初分からなかった。「知っていた」って何だ、幼少期の輝かしかった日の事か。しかし学は別に、幼年時代も世界が美しいと思える体験なんてしていない。理紗は心地良かった経験があったからこそ、それを思い出して幸福に思う、トルストイと同じ事していたけれど、彼にそんなものはない。しかし、その美しさは「僕ら」が知っていたと言う。「最初から」知っていたと言う。お前は何時何処でそれを知ったんだ。
今なら分かる。何時知ったか、何処が起因か。これは、小説版で学が辿り着いた場面もそうだけど、幼少期に読んだ本が教えてくれたメッセージの再確認でもあるんだね。要するに「グスコーブドリの伝記」僕らなら読んだから分かるよな?って事。
宮沢賢治は自分と世界の間に、深い裂け目があると自覚していた人間だった。『春と修羅』の意味は、春のように豊穣な美しさに包まれた世界に対して、相容れない1人の修羅である自分の対比。生命の豊かさを享受出来ないばかりか、いつもこの世から疎外されているとしか感じない自らを、美しさ溢れる春の世界と対照的に卑下して綴ったモノである。
その「疎外感」が数多くの作品で形と成って賢治を悩まし続ける。「フランドン農学校の豚」のように、意味もなく死んでいく強迫観念に捉われ、「よだかの星」が如く、他者を犠牲に生きて、困難を痛感して、そのまま生涯を終える事に恐怖する。
どうしたら、この疎外感を克服して、世界と和解出来るだろう。
1人の人間として、世界に生まれ出た意味を感じられるだろう。
そんな苦悩の果て、辿り着いたのが自己犠牲の観念、ブドリ。
「グスコーブドリの伝記」は、不条理だらけな世界の中で人間らしく生きようとした青年の話であり、その強き想いが結果として彼自身を「幸福」にする。
様々な経験を通して、ブドリは自らの信念を貫き通す強さを身に付け、誰かを生かす為に死ぬ事が出来た。
この過程こそ、自己犠牲を通じて世界と和解すると言う事。
自己犠牲という行動を通して、誰かの生命に関わりを持ち、責任を果たすことで、この理不尽で残酷な世界との和解を図ると言う事だ。
学は最後、自分を捨てた父親の前で、世界に対する感謝の言葉を口にする。
「生まれてきて本当に良かった」
その直後、理紗への責任を果たした遺書を書いて、首を吊る。
世界を愛したまま、木村学は死ぬ事が出来た。和解出来た。
学はあの時、確かにブドリになれたんだ。
②『人間失格』
洋一の立ち位置が良く分からなかった。 早く本題入れよ、学と理紗の結末が気になったのであって、ゲームでほぼモブ同然だったキャラクターの事なんて知るかボケェ。CHAPTER5以外は、取るに足らない与太話であり、15000円もかけたと思うと泣けてくる。
しかし、CHAPTER5、これだけで15000円以上の価値を間違いなく頂いた。
本作が『人間失格』に準えているなら納得がいく。洋一は『人間失格』における「私」だった。手記を書き綴った狂人を探す語り部。「彼」の真相には辿り着けなかったが、過去と未来を繋いだ架け橋。『人間失格』と違って『CARNIVAL』では邂逅を果たしている分、その重要な役割は色濃く残ったと思う。
2人が逃げた所は、確か港の近い水産物の盛んな地域だったな。もしかするとそれは『人間失格』で、葉蔵が最後に辿り着いた終着点かもしれない。学が精神病院に入るのは『人間失格』の葉蔵も同じ、最後に「いなくなる」のも同様である。
正確に言うなら、葉蔵は廃人になった後行方不明だけどさ、彼はもうほぼ「死」が確定した存在だよ。「失格」を与えられた彼はもう「人間」に戻れない。与えられた人間は、死ぬしかない。
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「このノートは、しばらく貸していただけませんか」
「ええ、どうぞ」
「このひとは、まだ生きているのですか?」
「さあ、それが、さっぱりわからないんです。十年ほど前に、京橋のお店あてに、そのノートと写真の小包が送られて来て、差し出し人は葉ちゃんにきまっているのですが、その小包には、葉ちゃんの住所も、名前さえも書いていなかったんです。空襲の時、ほかのものにまぎれて、これも不思議にたすかって、私はこないだはじめて、全部読んでみて、……」
「泣きましたか?」
「いいえ、泣くというより、……だめね、人間も、ああなっては、もう駄目ね」
「それから十年、とすると、もう亡くなっているかも知れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、誇張して書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこのひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない」
『人間失格』あとがき
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でも、彼は最後、スタンド・バアのマダムから認められた。救いを貰い「合格」を手に入れた。
例え、自分が自分を愛せなくとも、他人から見た自分は違う。こんな自分でも、誰かを生かす事が出来る、他者を救える。
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「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
『人間失格』あとがき
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「全てを受け入れて、出来れば乗り越えてください。そうしてくれたなら、きっと、私も、それでも本当は嫌だけど、でも、学くんが……」
『CARNIVAL』小説版
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誰かを導き、誰かを救う。
そんな愛すべき存在へ報いる神様に。
学は漸く、理紗にとっての神様になれたんだ。
7.あとがき
遂に書き終えた。苦節ウン十年……までは行かねえけど、長時間作業ようやく終了、安心安心。誰も観てない辺境の地にて、こんな苦しく無意味な執筆。地獄である。もう少しマシな事した方良いんじゃねえのとか、甘美なる誘惑の手口が陥れようとしたが打ち勝った。僕は、自分の信念が齎した勝負に勝ったのである。痛快極みの次第。勝利の雄叫び爆発四散。
とか、何とか言っても信念なんてそんな大したもんじゃない。心にあったのは怒り。信念等と綺麗な言葉で上塗りするには、あまりにも粗忽な表現である。最初の方でニヒリズムからの脱却とか批評書く適当な理由謳ったけど、真のきっかけは『くっすん大黒』を読んだ事だった。知ってる町田康? 町田康は町抱こうって世界に対する愛を示す為、そのペンネームにしたんだよ。
そんな嘘は兎も角として、僕は『くっすん大黒』をその時読んでいて、はあ、やっぱり町田康は素晴らしいねえ、リリンの生み出した文化の極みだよとか思いつつ、感想サイトを巡っていたんだけど、何の因果か「瀬戸口廉也は町田康のパクリだよね」とか抜かす妄言を見つけちまって、怒髪、天を衝いたのがそもそもの起因である。うわあ、俗人。
瀬戸口作品に対する批判で「町田のパクリ」とは良く聞く戯言でございますが、こちらからしたら当たり前じゃんと言う他無い。町田も太宰を意識してんだから。同じ人を意識して描いているんだから似るのはたりめえだトーシローめ、これだからエロゲーマーは文学読んでねえとバカにされんだこん畜生が。そもそも、瀬戸口氏のニックネームに「人間の屑」ってあるけど、あれ町田作品から取ってるだろどう考えても。『キラ☆キラ』と併用して読みやがれ初心者諸君!
とまあ、そんな感じで、どちらも好きな私は段々腹が立ってきて、この糞ったれ野郎共が適当な事抜かすなこのダラズゥ!とか言う憤怒で糞尿垂れ流しつつ書き上げたのがこれである。そう考えたら汚物極まりない批評って感じで、読むのは自分の全てを曝け出している感じがして、どこか心地良い。そうか、これが快感と言うものか。僕はまた1つ新たなる扉を開いたよ。新感覚。この心地良い時間がずっと続けば良いと思う僕は、やはり頭がおかしいのでした。
そんな戯言も踏まえた上で、この批評も遂に終わりである。
それは、本作に対する僕の長年の見解が漸く消化された証拠であり、それ即ち、1つの区切りを付けたと言う証明に他ならない。
今は、嬉しい半面、途轍もなく寂しく思う。
思い返すとこれは、初めて『CARNIVAL』と言う作品を読み終えた時の感覚と似ている。
幸福はつかまえるのが難しいけど、僕が思う幸福求めて、人は生きていく他無いのです。
与えられたメッセージは振り返ってみても中々悲しい、夢とか希望とかへったくれもねえなおい、結局突き放してるじゃねえかこの野郎、と憤慨するヤツもいるだろう。
ああ、そうだよ。この作品は至難を描いてるのであって、そこに指南は無い。至難を描いた指南書に過ぎないのであって、そこにそれ以上の明確なメッセージは無い。
ただ、世の中には自分の鬱屈を体現してくれただけで、救われると言う現象が確かにある。『絶望名人カフカの人生論』って本が一時期話題になったけど、人が本当に辛い時求めるのは、希望じゃなく絶望なんだ。
「大丈夫だよ」「頑張ろうよ」「やれば出来るよ」
そんな希望は、正直重い。
「やれる訳ないよ」「もう頑張れねえよ」「出来る事と出来ない事があるんだよ」
そんな絶望が、正直救い。
だから、オレはこの作品に救われたんだ。
鬱屈してた価値観をここまで体現したエロゲって、自分史上類を見なかったからさ。健全な考え方、明るい発想、楽しい思い出、勇気の出る記憶、オレはもう無いからさ。
「頑張れば『生きる意味』が見出せる」人生はもう無くて。
「頑張ったって『生きるだけの意味』は見つからない」のが我が人生
でも、絶望が齎したディスコミュニケーションは、結果としてコミュニケーションになる。
鬱屈の共有ってコミュニケーション。独り膝を抱えてプレイしてた馬鹿野郎にとって、それは悪くない感覚だった。
オレもこの作品と同様、何も教わってないし何も掴めてない。幸せの定義とか悲しみの置き場とか、生まれてから死ぬまでずっと探してる。脳みそは役立たずに埋め尽くされたゴミ箱で、プレイする前と後で何も変わっちゃいない。まだ死にたいままの狂人だ。
でも、死ぬ時位は自分自身で見極めよう。
それだけで、生きているオレは愛を掴めるから、幸福になれるから。
そう思わないか、なあ?
最後に、理紗の心境とオレの想いを端的に纏めた1つの言葉を引用する事で、批評は結びとさせて頂く。
ここまで読んでくれて本当にありがとうございます。誰かが「読んでくれた」事実だけが、これからの自分を生かし続けるでしょう。
忘れられたって構わない。こんな気狂い文章書いてたやべえヤツがいたなあと、偶に思い出してくれるだけで丁度良い、充分すぎる幸福だ。
皆さんの今後が、幸せ万華鏡で彩られる事を願って。
出来ることならば、誰も憎まないで生きてください。
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世界にとって彼は敗者だった。
それでも私にとって、彼こそが世界だった。
チャック・パラニューク『サバイバー』トレヴァー・ホリスの墓石碑文
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