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soulfeeler316さんのBLACK SHEEP TOWNの長文感想

ユーザー
soulfeeler316
ゲーム
BLACK SHEEP TOWN
ブランド
BA-KU
得点
100
参照数
616

一言コメント

『ヒラヒラヒヒル』発売記念『BLACK SHEEP TOWN』徹底感想】Once Upon a Time in “AREA Y”――THE WORLD IS NOT YOURS……――

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

不死者もそうでない者もひとしなみに『人生』を謳歌する。















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そうだ、己はこういう精神にこの身を捧げているのだ。
それは叡智の、最高の結論だが、
「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活とを享くるに値する」
そしてこの土地ではそんな風に、危険に取囲まれて、子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。
己はそういう人の群を見たい。
己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
そういう瞬間に向って、己は呼びかけたい。
「とまれ、お前はいかにも美しい」と。
己の地上の生活の痕跡は、幾世を経ても滅びるということがないだろう――
そういう無上の幸福を想像して、今、己はこの最高の刹那を味わうのだ。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト 第二部』第五幕「宮殿の大きな前庭」
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DAY1.黒い羊の戯言
 命懸けで読まなければいけない作品としての息吹が感じられない。そんな事ばかりを感じていた日々だった。

 昔から好きだったストーリーテラーが時を経るにつれて思ってなかった期待外れの方向へと導かれていき、期待する気も湧かなくなる程、その現状に失望してしまう事がこの世の中には多々存在する。寝食を忘れてしまう程にその身を夢中と言う名の快楽に委ね、ただ只管にその安寧へと深く浸っていた日々。真摯且つ純粋にその実を楽しんでいた食事風景は、今では最早過去の麗しき郷愁と化して愚鈍の眠りを貪っている。
 本作が発売された当時、この手の事象があまりに多くて、正直随分辟易していた節がある。物語性とやらを杜撰に消費するだけの媒体。素晴らしき内容に富んだ結実よりも客を集めた莫大な儲けへの頓着。リメイクやリバイバルと言えば聞こえは良いが、結局の所は新しい何かを生み出せないからこそ、豊潤な過去に縋っている現状。そして仮に新しい人気が生まれたとしても、それはどこぞのよくわからん配慮に従った気持ち悪くも醜悪な要素に支配されているモノばかりと来たもんで。
 ……とまあ、そんな事ばっか考えてしまうような作品だらけで、世界がそんな商業主義に目出度く汚染されているように感じて。これまた時の流れに乗れない厄介者の妄想。戯言。時代遅れが極まった若者の愚痴。実情は三歳の翁である。
 あーあ、全く楽しい事が碌に無い。感情というものが死にそうだ。なんて生き辛くつまんねえ世の中になっちまったんだろう……?なんてな疑問を一人ごちるも、そこにはそもそもこの時代に適応出来ていないから不平不満を漏らしているだけと言う正に単純明快、自業自得の解答しかないんだよね。僕がつまらないと思うモノの中にも『物語』としての価値は確かにあるんだろうし、それだけで全てを否定する程には狭量ではないつもりだったけど、でも、自分に嘘をつく事だけは出来なかったよ。面白くも何ともねえものを面白いと万歳三唱したり、くだらねえと抜かす他にないものを素晴らしいと万歳賞賛したり。イチイチそんなに万歳する度、手を挙げていたら腱鞘炎で上腕にガタが来ちまう。やってらんねえ。反吐が出らぁな?

 『BLACK SHEEP TOWN』と目出度く邂逅を果たしたのは、そんな絶望の哀愁に暮れていた丁度その頃の事である。

 初報から5年の時を経て発売された瀬戸口廉也最新作『BLACK SHEEP TOWN』
 ずっと待ち望んでいた彼の作品。1年前には読み終えていた作品。目出度く本作を読了したその時、僕の感情は渦巻を描いたように様々な想いが繋がり合って、形とならない形を成した。
 これだこれだ。この感覚だ!と思った。命懸けで読んだからこそ体感出来る。命を賭けられた感覚だと思った。会心と興奮。悔恨と郷愁。焦燥と逼迫。憤怒と絶望。そして思わず流れる幸福の涙。キャラクター個々人の感情がサラリと激流の如く襲い掛かってくる激情の全てに、僕の心は見事囚われ……それは正しく水を得た魚の如く。この身が人間である事を改めて謳歌した瞬間。それは正しく抗いようのない歓喜の結晶。闇より出でし自身の光であった。La Lumiere sortant par soi-mesme des tenebres.(ら……るみえれ……そーたんと……)
 今回取り上げるのは、そんな衝動の全てを紡ぎし作品。無駄な戯言ばかりを綴った感想もセットに添えて、本作の内容を語るとしよう。「添えて」なんて綴るとまるでフランス料理みたいだが、そんな大層なもんでもない。ああいう風に形容された料理は、偉そうに語った所で、実際は大した事ねえ不味い料理だったりするけれど、今回の感想もまあ、同じようなもんである。ぶっちゃけてしまえば、そんな大層な事は書いてすらいないとも言える。
 言うなればそれは黒い羊の戯言なりや。白い羊ばかりが跋扈する暗黒世界のこの世の中、白くその身を染める事の出来ない黒い羊は決して他者とは馴れ合えず……誰かと無理して迎合するか、融合を拒否して突進するか……二者択一のどうでもいい選択肢によって阻まれているこの世界。今回の文章はそんな感傷を紐解いて、この世界に隠れキリシタンの如く存在している「黒い羊」に向けて感想を綴っただけの話である。産み落とされた文章は同類の戯言。ある意味「平成」と言う時代に取り残された置き土産そのものとも言えるだろう。

 御託はこれで充分か。取り敢えず超有名なマフィア映画音楽の1つである「デボラのテーマ」でも聴きながら、かつて隆盛を誇ったY地区と言う場所にて起きた、数々の出来事に対する僕なりの想いを、リラックスしながら読んで欲しい。そして共に郷愁の海へと浸ろうじゃないか?


 愛しき人々、憎らしき人々、そして今は亡き全ての人々に送られしこの『物語』に、僅かばかりの返礼を。
 あの頃から既に1年以上経った。最早誰の記憶に残っているやもしれないY地区の『物語』に、僅かばかりの追想を。
 人の数だけ『物語』があるこの世界全てに愛を込めて。気高き黒い羊達の生き様を、下記より語っていくとしよう。















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「ようこそ、全てに価値がない世界へ」

『BLACK SHEEP TOWN』エリオット・ネス
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DAY2.黒い羊の群像劇――世界劇場との対峙――
 さあ、それでは早速本題へ入っていこうかと思ったがその前に1つ。本作の「群像劇」と「黒い羊」について、少しばかり語らせて欲しい。「おいおい、コイツいきなり何語っちゃってんの?」と思うかもしれないが、まあ、取り敢えず聞いて欲しい。
 かつて古代ローマの大詩人ペトロニウスが「世界中の人々は役者として生きている」と述べたように。かつてイングランドの劇作家ウィリアム・シェイクスピアが『ヴェニスの商人』『マクベス』『お気に召すまま』『ジュリアス・シーザー』その他諸々で語ったように。この世は「人間」って言う小さな世界と彼等を取り巻く大きな世界が呼応する事によって、1つの物語が成されている。それが顕著に発揮されるジャンルこそ『群像劇』であり、1人1人の価値観に従って時には足掻き、時にはもがきと、個々の人物が生きていく様を作中で存分に描く事が出来る。
 瀬戸口廉也作品の『群像劇』と言うのもその他多くの名作達と同様、キャラクター1人1人が自分なりの世界観を形に秘めて、その価値基準に従った幸福や信念、葛藤や生き様を随所に発揮させている。そしてその小さな世界観から見た大きな世界を「どうしようもなく残酷で恐ろしいクソッタレの場所だけど、とても美しい価値で溢れている」事を彼は僕等に見せていく。僕達は多種多様な人生観を抱きし登場人物からその様をまじまじと見せ付けられて、多くの人生観に愛着を抱き、時には共感し、時には反発しながらも『物語』の中に潜む彼等を愛する事が出来るのだ。


 さて『BLACK SHEEP TOWN』はそんな彼の実に久し振りな群像劇作品だった訳なんだけど、群像劇としての魅力は処女作の『CARNIVAL』や次作の『SWAN SONG』以上に優れていると言っても過言じゃないと思っている。その2作は内容の是非はどうあれ「群像劇」としてのポテンシャル自体は、最大限発揮されてはいなかったように感じるんだよね。『CARNIVAL』は複数の人格から同一の出来事を描写して、個々人の考え方の違いから「他者と分かり合えない壁」を描く本質には辿り着いている……ただし舞台設定についてはどこか等閑感があって、群像劇としては勿体無い印象も拭えない(それ以上に評価出来る部分が多すぎる為、本作は僕の中だと金字塔的作品なんだけど、それは『CARNIVAL』の批評で存分に語ったので割愛) 『SWAN SONG』は舞台設定にある程度の改善は示されたものの、その効果が発揮されるのは散り散りになる中盤~終盤以降だし、そして何より個々の登場人物の文章表現にムラがある為、人物造形によってテキストの面白味がまるで異なった産物と化している不調和感も拭えない。
 そんな印象を抱いたからか、この「Y地区」と言う広大無辺な世界の中で気儘に生きる人々の姿を一定以上の高い文才で描き切った『BLACK SHEEP TOWN』に対して、高評価を与えない訳にはいかないのである。多様な人種。様々な思想。タイプA、タイプB、ノーマルと言った人間識別3形態。何処かが明らかにおかしく映っているヤツの心境を読んで不思議と共感出来ちまったり、真っ当且つ懸命に日々を生きている過程で他者から見えない苦悩や葛藤を抱えていたりするヤツも居て。呆れ果てるような振る舞いをして無惨に殺される輩の中にも窺い知れない想いがあったり、傍から見れば善良な素振りを見せている人間が別の場所ではどう振る舞っているかなんて分からなかったりもする。もしかすると、深くその心境に触れた所で結局何が言いたかったのか、そしてしたかったのか……まるでわかんねえヤツだって居るかもしれない。
 そういった事を全て踏まえた上でそれでも断言出来るのは、各々には各々の立場や役割、事情や心情が存在の数だけ存在しているって事だ。
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「根っから悪い奴なんかそこまでいないし、間違いを犯した奴が特別愚かだったわけでも、イカレてるわけでもない。ただちょっと、うまくいかないだけなんだ」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮
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「立場が違えば利害が違うのはわかるよ。利害が異なれば戦わなくてはいけないこともある。でも、憎む必要はあるのかい?」
「でも、相手が間違ったことをしていれば……」
「我々から見たら間違っていても、相手にすればそうとは限らない。立場が変われば善悪も変わるんだ。おれはガキの頃から色んなヤツと喧嘩して来たし、卑劣なこともされたけど、一度も相手を憎んだことはないね。怒ったことはあるけれど」
「……タイプBを差別するノーマルなど、弱い者を虐げるような卑劣な人々も憎まないと?」
「そうだよ。もちろん好き嫌いはあるけど、憎みはしないな。嫌うのと憎むってのは違うものだろう? なあカミラ、人間ってのはね、はたから見ればどんな異常でとんでもない行動でも、本人にしてみればやむを得なかったり、筋が通っていたりするんだよ」

『BLACK SHEEP TOWN』見土道夫、カミラ・ノーサム
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 人の善悪と言うものは、対峙する相手との関係性によって如何様にも変化を遂げる。1人の人間を善い人、悪い人なんて簡単に決め付ける事は出来ないし、だからこそ、色々な側面を魅せてくれる人間らしい表情の数々に、安堵の微笑を覚えたりもする。杓子定規で感情を規定する程に愚かな行為は無い……って、こうして文章に示してみると実に何とも当たり前の主張。「他人の気持ちを考えられる人間になりなさい」と、小学生時分に教わった事を思い出したりもしたもんだった。
 しかし、そんな当たり前のようでいて当たり前ではないこれこそが、過去作からこれまでにずっと放ってきた瀬戸口氏の主張……所謂「バックボーン」である(そして同時に僕は『MUSICUS!』のクラウドファンディング開発日誌で瀬戸口氏が語っていた「道徳の授業」を思い出した。彼は小学生時代『道徳』の時間をくだらないと感じていたそうだが、それは「子供に道徳を学ばせ倫理観を身につけさせるというお題目で個人の感受性まで規定しようという馬鹿馬鹿しい授業科目」だったからだ。二元論では図れないモノがある事を知っていた故の作風が、現在に至るまで尚、こうして未だに続いている)
 自分にとって正しく当たり前の事をしているだけでも、世間から見たら上手く行っていなかったり、常識外れの行動となってしまう。そしてだからこそ、この「他者との相違」を描くにおいてそんな『道徳』が通用しない、自分の立場や性に従って行動している『空気読めない星人』改め『黒い羊』の姿を、彼は偏に描きまくった。そして彼等は瀬戸口廉也と称されし神様の下にて、展開を動かす実に素晴らしき「羊達」として、つじつま合わせに生まれた僕等として、全員が実に有効的に使われたのである。クリアした皆々様にとっては、言わずもがなの話でございましょう?


 さて、その黒い羊。厳密に申せば、聖書に「黒い羊」なる項目は存在しないんだけど、その「厄介者、溢れ者」と称されし解釈の基になった話が存在する。それは「見失った羊のたとえ」というもので、100匹居る羊の内、1匹の羊が居なくなったとしても、羊飼いは懸命に探し出そうとする……つまり、道を外れた罪人も不要ではない大切な存在なんだ。神はそんな罪人も必要に思って下さるんだ。そして、私も勿論そうだと語ったイエス・キリストの説話である。とまあ、此処だけ聞いたらば非常にありふれていて食傷気味な神様の慈愛ってヤツをこの手に示した、敬虔に溢れしありがたやありがたやな素晴らしき教えの1つに過ぎないだろうが、どうか其処にもう少し、解釈の幅を広げる事を許して欲しい。
 この99匹の羊を置いて1匹の迷える子羊を探す例え話。実は前者より後者を重要視していたのではないかと言う説も少なからず存在する。元々羊と言うのは臆病で群れるのを好む習性にあり、99匹の羊と言うのは言わば、食い物にされやすい無個性の多数派とも見て取れる。羊飼いはそんな有象無象に目もくれないからこそ、平気で彼等を置いていけるし、1匹の個性の塊の如き強烈な意志と体力を持った「黒い羊」を偏に探し続ける。神である父にとってブラックシープとは正にその象徴であり、イエス・キリストもまたそのように運命付けられた黒羊ではないか。そんな説もまた存在するんだな。
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「駄々っ子のように、自分が嫌いなものを否定して生きゆくだけでは見えるものも見えなくなる……きみもさまよえる羊だよ。しかし、厄介者の黒い羊だ。きみは解放と自立を街にもたらすつもりなのかもしれないが、その結果さらなる混沌が生まれ、強い者はより強く、弱い者はより弱くなり、苦しむだろう。導く者を殺してはいけない」
(中略)
「黒い羊で結構。おれはこの街を、気高く生きる黒い羊たちの街に変えるのさ。なあ神父よ。人間は所詮土くれだ。誇りをなくし、心を濁らせれば糞と変わらねえのさ」

『BLACK SHEEP TOWN』神父、クリス・ツェー
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 其処で思い出したのがクリス・ツェーである。彼が此処で語った「気高く生きる黒い羊たち」とは、正にその解釈に則ったシンボルではないか? たとえ多数派から省かれようとも、強烈な意志と体力を抱いて世界を歩み続ける気高き戦士。彼自身がこれまで培ってきたその人生。自由意志に従って自らの道を築き上げてきた強者が紡ぎしその主張こそ、自らは黒い羊であると切に体現していた証明でもあったって訳だ。
 『BLACK SHEEP TOWN』と言う物語を生み出した「神」の瀬戸口廉也にとって、ブラックシープとはどちらの意味を示していたのだろう。タイプBの惨事を見たなら「厄介者」にしか見えないだろうし、クリス・ツェーや息子の謝亮に視点を据えれば「気高く生きる孤高の強者」へと解釈の幅が広がるだろう。いずれにせよ、此処で断言出来るたった1つの確かな事は、彼等はそんな風に「動かざるを得なかった」と言う結末だけだ。それだけは「神」の下に生きた彼等にとって、覆しようの無い事実であった。


 で、だ。此処で漸く肝心要の箇所に触れられる(語るよりも先に無駄な豆知識を披露してしまうのは僕の非常に悪い癖である)
 実は今回満点の評価をつけたのは上記の他にも根拠がある。『群像劇』として描かれし物語の完成度は基より『視点によって見方が変わる人の善悪の話』と言うのも、正に瀬戸口作品の根幹を形成しながら更にグレードアップした真価を魅せつけてくれていて、素晴らしき事限り無しと言った感じなんだけど、逆に申せば、それらの要素は彼の作品の中でもかなりオーソドックスなメッセージでしかないのは否めない。SF色を前面に出した新境地でギャング・ストーリーをサスペンス風味豊かに彩って描き切った事についても、至極好感触に思っている事は確かだけれど、あくまで高得点に与した位で。其処へ満点をつけるとなると、更に変わった工夫が必要となるだろう。そこで今回の主張が役立つ次第。

 そう、それは「世界劇場」についての話だ。

 世界とは1つの舞台であり、全ての男も女も役者にすぎない。それぞれが舞台に登場しては消えていき、その時々で人は色々な役を演じている。先程そのような事を話したと思うが、こういう考え方は新プラトン主義的用語だと「世界劇場」って呼ばれていてね。その思想の根っこには「『私』や『自己』はそもそも存在せず、仮に存在したとしても、それは世界の只中に置かれたそれ自体としては何者をも意味しない……即ち『もの』に過ぎない」って淋しくも虚しい「無の思想」ってヤツが内在している。要するに本作はそれに則った『物語』でもある事を、僕はこの場で伝えたいんだ。
 それじゃあ、此処で1つ問題を出そう。『BLACK SHEEP TOWN』を読んだ方々、そんな「無の思想」にどこか心当たりはないだろうか?
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「納豆を食べるときはみんなまずかき混ぜると思うんだけれど、僕は小さい時からどうも力の加減がヘタクソでね。買ったままの発泡スチロールのなかでかき混ぜるとどうしても箸で突き破ってしまう。だから、皿にいれてかき混ぜるようにしてたんだ」
「はあ」
姉妹は戸惑いを浮かべたまま生返事をかえす。
彼女らの気持ちはわかるけれど、僕は喋りたかったので勝手にそのまま続ける。
「でも一人暮らしをするようになったある日にね、洗い物が増えるのが面倒だったから、ケースのなかでかき混ぜてみたんだ。そんなのいつ以来だかわからないくらいだったんだけど、そうしたら、破らないでうまく混ぜられたんだよ。子供のときはどうしてもうまく出来なかったけど、大人が慎重にやればね、別にそんな難しいことじゃなかったんだ。そういうことってあるだろう?」
「ええ、まあ……」
「おそらく」
「だけど、それで皿を使うのをやめるってことにはならなかった。薬味を入れるなら大きな皿の方がやりやすいし、それに僕は気がついたんだけど、慎重に丁寧にかき混ぜるより、皿のなかで思いっきりかき混ぜる方が爽快感があって好きなんだよ。だからそれからはいつも、皿を使うか使わないか考えるようになった。自分はいまダイナミックにかき混ぜたい気分なのか、皿を洗う面倒がそれを上回るのか……でも今は、皿なんか全部人が洗ってくれる。それどころか頼めばシェフが綺麗にかき混ぜて持って来てくれるし、なんならスプーンで口まで運ばせることだって出来る。なんといっても僕は龍頭だからね。ここでは王様みたいなものさ。くだらない」
僕は困惑する姉妹の前ではあと溜息をつき、
「……それでしばらくその葛藤を忘れていたんだけど、この間一人のとき納豆ご飯を作って食おうと思ったときにね、ふと昔の悩みが蘇ったんだよ。皿で混ぜようかなあ、そのまま混ぜようかなあって悩んでたんだ。二、三分は迷ったかな。随分長いだろう? 僕は仕事のことだったらそんなに優柔不断になったりしないのにおかしいと思わないかい? 人が死ぬか死なないかって決定をあっさり下すのに、納豆の皿を使うか使わないかで悩むんだ。人間の価値観ってのは面白いものだなと思ったよ。結局さ、我々の行動なんてものは……」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮、黄天明、黄天祥
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 随分と長く引用してしまったが、上記は謝亮が終盤、黄姉妹に向かって語った納豆談義である。子供の頃に同様の経験をしている僕は共感の気持ちで沁み沁みと読んでいたんだけれど、振り返って考えてみるに、此処は「大人になってしまった彼の悲哀に満ちた感傷」を描いていたんだろう。「我々の行動なんてものは……立場や肩書、役割や事情によって予め規定されているに過ぎない」事を伝えようとしたのだろう。それをグランドタワーの頭首であり、Y地区の第三代龍頭と言う最高位の地位に就任し、何もかもを思いのまま、意図的に動かしている謝亮が語る所に哀愁があり、そしてその意図はこうして『物語』として読んでいる神様視点の僕等にとっては「世界劇場」に対する指摘に他ならない。
 思えば、この納豆談義を披露する前にダリオ・ボネットは拳銃で自殺している。彼は自死を選ぶ前に「さあ、幕を引け! 喜劇は終わりだ!」なんてフランソワ・ラブレーが臨終の際に放った台詞を唱えている。その他人の言葉を借りて同様の死を選ぶ光景が僕にはどうにも自身の言葉を持たない演者染みていて大層不思議でならなかったんだけど、その後で謝亮にこうして語らせた事から、その発言には意味があったと気付くんだ。


 瀬戸口廉也と言う人は処女作から今日に至るまで「実存主義」と言う思想を根幹に据えて、物語全般を紡いできた。「俺」と言う個人を重く見て。逆境故に人生は人生足り得て。世界に抗い向き合って「人間」の根源を全うしていた。キャラクター達は「実存は本質に先立つ」と言う前提の通りに、自身の本質を掴み取らんが為、懸命に世界と対峙し続けた。しかし、本作はそんな思想から微妙にズレている箇所もある。そうなってしまったのは、彼が最新作で描いた描写が「世界劇場に踊らされる人間の姿」そのものだったからなんだ。
 この『BLACK SHEEP TOWN』と言う作品が興味深いのは此処にある。彼等は彼等なりの『人生』を生きている中、その光景は路地邦昭によって『物語』としての役割も満たしている。しかし、人生とは人生であり、決して物語と同一じゃない。起承転結なんてものは無く、劇的な場面なんて中々起こらず、誰もが考えるような王道の展開に至る事だって稀だ。そんなそれぞれの人生を描いたにも関わらず、本作は物語のように語られるなんて。世界劇場で演じる役者のようだとキャラの口から思わせるなんて。彼等の役割の全てが立場から予め決められているなんて……実に御大層な皮肉で満ちたジョークだと思わないか?
 謝亮は血筋に抗えず龍頭を継ぎ、見土道夫は周囲の圧力に従いテロリストの隊長となり、汐松子は特殊タイプBと言う宿命から逃れられない。しかしそれでも、そうだとしても、自身の立場や役割、事情や心情によってどう振舞うべきかが変わる世界で、謝亮は自身の運命を共に、懸命に自らを演じ切ったのだ。いや、謝亮だけじゃない。松子も、道夫も、路地も、太刀川も。灰上姉妹も、さくらも、トーマスも、リタも。死者も生者も男も女も、黒い羊の誰も彼もが懸命に何かを演じながらも、大切なモノの為に行動する事を止めなかった。諦めなかった。その結果、至った結末は人それぞれ様々な十人十色の千差万別だけれども、僕はそれが確かに彼等彼女等の『人生』であったと思いたいんだ。

「『私』や『自己』はそもそも存在せず、仮に存在したとしても、それは世界の只中に置かれたそれ自体としては何者をも意味しない……即ち『もの』に過ぎない」

 『理不尽な物語性』と言う本作のメタ的視点に気付いた時、僕はどうにも反論の狼煙を上げたくなった。彼等の生きた道程を『もの』として消費する行為に、僅かばかりの不快感が生じたからだろう。
 しかし、此処で不満を抱えたまま終わらせない所に、瀬戸口廉也と言うシナリオライターの素晴らしさがある。彼は最後に『物語』としての価値を本作に強く伝えてくれた。『物語』としてのギャング・ストーリーのジンクスを新生の『人生』によって打ち破った。だから僕にとってこの作品は唯一無二の代えが効かない、実に最高の道標と足り得た『物語』として、この世に目出度く君臨したのである。


 随分と長い戯言を挟んでしまったようだ。少しばかりとか言ったのに、大分長く語っちゃってごめんね? そして抽象的にも程がある長ったらしい文章をここまで読んでくれて、本当にありがとう。いや、感謝を述べるにはまだ早いか。何はともあれ、もう付き合う覚悟決めた連中しかいないだろう。下記からはそんな「黒い羊達」の生き様について、僕なりの想いで可能な限り語ろうと思う。
 最後までつきあってくれたら、いいな。















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生活は冗談でもなければ、慰みでもない。
またそれは享楽でさえもない……生活は苦しい労働なのだ。
欲望の拒否、不断の拒否、これこそ人生の秘められたる意味であり、その謎を解くべき鍵である。
たとえいかに崇高なものであろうとも己れの好む想念や空想の実行ではなく、ただ義務の履行――これこそ人間の心に懸けなければならぬことである。
自分の体に鎖をかけなかったら、義務という鉄鎖をまとわなかったら、人間は生涯の行程を最後まで倒れることなしに行き着くことは出来ない。
誰でも若い時には、人間は自由なほど有難い、自由であればあるほど、それだけ発展することが出来る、とこんな風に考え勝ちなものである。
若い時には、そういう考え方も許されるが、峻厳な真実の顔が、ついに自分を真面に見つめるようになった時、偽りの観念で自ら慰めるのは恥ずべきことだ。

イワン・ツルゲーネフ『ファウスト』
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DAY3.Once upon a time in Black Sheep Town
 実に唐突な話であるが、僕は『ゴッドファーザー』と言うシリーズ映画にそこまで思い入れが無い。そして、アル・パチーノが演じたマイケル・コルレオーネと言う主役の男も実はそんなに好きじゃない。アイツを「冷酷に生きる格好良い男」と感情移入しながら熱く語る人の心境は良く分からなくてね……自分のしでかした過ちに後から懺悔ほざいたのも情けないし(生命と言うモノへの最大の侮辱だと思う)ケイ・アダムスと終始一途な関係を貫かなかったのもみっともない。僕はこういう近くに居てくれる大切な存在と真摯に向き合わない馬鹿野郎が大嫌いなので、それは初見当時から強く思っていた事だった。
 さて、そんな本作を発売したきっかけに改めて観返してみたんだけれど、その印象、やはり覆らず。1970年代と言うハリウッド超大作活況の時代、当時32歳の若手映画監督フランシス・フォード・コッポラがイタリアの歴史的背景を念頭に据えて作り上げた描画の価値は理解しているが、結局は「その時代感覚で観たら面白いよなあ……!」って妥協の感想が滲み出てしまう。同じギャング映画だったら、僕はフリッツ・ラングやブライアン・デ・パルマ、セルジオ・レオーネにマーティン・スコセッシの方が遥かに好きだ。ただ、そんな作品でも1番好きな場面ってヤツは確かにあって。『ゴッドファーザー PARTIII』のラストシーン――あそこの破滅へと至る一連の流れの美しさは、正に無類の甘美である。


 さて、これまで『ゴッドファーザー』を観た事が無い人は「何故コイツはいきなり映画の愚痴を述べてんだ?」と、不思議な気分に駆られたと思う。なあに、深い意味はない。この『BLACK SHEEP TOWN』と言う作品は明らかに『ゴッドファーザー』を意識して創られたと言っても過言じゃないから語っただけの話である。分かりやすい所だと「結婚式から始まる」ってのは紛れもない同一箇所だし、謝亮ってキャラクターは間違いなくマイケル・コルレオーネを意識した存在だと断言しても良い(僕の中での好感度は段違いだが) 中盤で親父のクリス・ツェーの過去篇が挿入されるのも『ゴッドファーザー PARTII』の造形を想起させるし、終盤に切ない想い出の挿話が入るのも意図したものだろう。勿論『ゴッドファーザー』だけじゃなく『スカーフェイス』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』『カリートの道』『シティ・オブ・ゴッド』『BACCANO!-バッカーノ!-』と言ったその他数多くの名作ギャング作品を踏襲した要素も見受けられ、そうした過去の傑作群によって本作が紡ぎ上げられた事は、物語を多く拝見する方なら誰もが痛感すべし流れである(これら一連の作品は本作を気に入ったら1度観てみると良い。カリート・ブリガンテと言う男は文句無しに格好良いし、『シティ・オブ・ゴッド』は「神の街」が舞台なニワトリの飼育小屋の世界みたいな映画である)


 そんな「過去の遺産」に支えられて生まれた『BLACK SHEEP TOWN』だが、勿論本作独自の魅力も数限りなく存在する。皆様も重々ご周知の通り、それは個々人のキャラクターが語る『物語』から綴られし思想だったり、それらの対比によって膨らむ人生観だったり、そんな叙述を通して更に広がるY地区と言う巨大な街の歴史と全容だったりと、語るのも超絶困難な程に多種多様且つ該博深遠と言っていい。
 此処からは前述した通り、そんなY地区と言う暗黒街に産み落とされた黒い羊の一部にスポットを当てて、彼等に対する僕なりの考えをこの場で綴っていこうと思う。流石に全員とまではいかないだろうが、僕の印象に残った人達を少しばかり取り上げていくつもりだ。最初に予め謝っておくと、お気に入りのキャラが居なくても許して欲しい。そして最後に言及しておくと、本章は1人1人のキャラクターについて述べた所以で正直長いので「物語のテーマ」に早く触れたい人は飛ばしても構わない。寧ろ飛ばしてくれた方が、本作の意図は掴みやすくなる事だろう。
 本当にどちらでも構わない。時は金なり。有限の世界。時間は大事だ。判断を乞うた上であれ、僕はただ書き続けるのみである。
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同じ時代、こんなに近い場所にいながら、それぞれの立場で見えているものが違う。
感じているものも違う。
当たり前のことだがそれが面白く、そして既に遠い過去の出来事になったせいか全てが愛おしく思えた。
しかし、このまま誰もが記録に残さなければ、この愛おしい全ては忘れ去られてしまうだろう。

『BLACK SHEEP TOWN』路地邦昭
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①謝亮
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僕は何も感じない。
死者たちを恐れることもなく、死なせたことの罪悪感も覚えない。
むしろ気軽に話しかけたいような親近感がある。
このまともにつき合うのはいささか厄介な世界に生まれ、苦しみ、戦い、そして目一杯楽しんできたんだ。
僕らは同じショーに参加した役者であり、観客であり、オーナーだ。
僕も近いうちに誰かが夢に見る亡霊になるのだろう。
誰かに殺されるか、病気が進行するか、いずれにしろ死ってのは生まれた時に予約済なんだ。
大騒ぎする事じゃない。

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮
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 優しい男。彼を形容する際はどうしてもそんな言葉が僕の心に湧き出てしまう。
 最後までプレイしたなら誰もが分かっていると思うけど、この謝亮と言う青年は何よりも鉄の掟を重視し、YSの規則に歯向かった者や規律を乱した者全員に重い罰則を与え続けた。罰則……と申せば聞こえは良いが、有体に語れば処刑や誘拐と言った犯罪以外の何物でもなく、その範囲は敵対する者に留まらず自らを親身に支えてくれた身内の人間から元来関係の深かった幼馴染に至るまで、その惨状を強く轟かせている。
 白河の、清きに魚も、棲みかねて、もとの濁りの、田沼恋しき。統一改革でYSをこれまで以上に急成長させた挙句、彼等の支配する徹底した監視社会へとY地区を作り変えた……大衆の不満なんて惨憺たるものだったろうし、そして何よりこんなに生命と言うものの営みを蹂躙し続けた人間はY地区の中でもそうそう居ないだろう。強くこの身に思う次第。


 しかし何故だろう。そんな極悪非道と称されても可笑しくない謝亮と言う人間を、僕は変わらず「優しい」と思えるし、そんな彼の事を僕は変わる事無く「誇らしい」と思えるんだな。いや、理由は言わずともはっきりしている。変わっているようにみせかけて、その実、まるで変化していない彼の葛藤をまじまじと描いてきたからだろうし、こんなにも生きる事、生きている事、命の全てに対して「愛」を抱いていた青年が「ただちょっと、もう少しこの状況を好きになりたいなっていうだけさ」と、ぼやきながらも刑を執行せざるを得ない負の連鎖に、悔しさを滲ませる他無かったからだろう。
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「じゃあ、マツコにしよう! 木の松に子供の子で松子!」
「随分古臭い名前をつけるんだな」
「松は不老長寿の象徴だからね。こういじましく必死に動いている姿を見ていると、なんだかいつまでも長生きして欲しいような気持ちになってしまうから」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮、汐健慈郎
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「ここまで来たものを捨てるなんてどうかしている! この先を見ようよ。きっと、この子は人間になるんだよ。僕や汐さんと同じ人間さ。歩いて、泣いたり笑ったりするんだ。どんな子になるか見ようよ。それを途中で捨てるだなんて……生きてるのに。これを捨てるなんて、そんなの科学者じゃなくても、人間として許されないことだよ」
亮は椅子を立ち上がると培養器に駆け寄り、
「ほら、みてよ! もう心臓が動いてる。これを止めようだなんて、本当に言えるの? 汐さんは? これは死体とは全然ちがうよ。生きているんだ……」
そして俯いた。

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮
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 マイケル・コルレオーネと言う男は、自分が大切に思えた存在も碌に把握せず掴めず守り通せず、切なさと言う郷愁の中に埋もれた情けねえセンチメンタルクソ野郎としか思えなくて、僕は不思議とムカついたのだが、この謝亮と言う人物は彼と違い、徹底した「自己犠牲」(彼は断固否定するだろうが、此処は強く言わせて欲しい)で、父の後を継ぐ所以の数割を形成した妹の筱喬、そして共に未来を担う筈だった最も大切な存在の松子を守り通している。「自分が行動すれば問題ない」と嘯いて、誰もがやりたくない事をやり、世界から『悲しみの総量』を減らす為、彼は盛大な大芝居を繰り出した。
 その根幹は幼年時代から齎されし営みの結実と言えるだろう。泣き顔を決して見せなかった少年が、初めて見せる自身の涙。彼は子供の頃から「生命」に対する深い愛を秘めていた。それは多くの人間を殺してきた父、クリス・ツェーの所業を痛感していたが故の思想であり、親身に寄り添い世話をしてきた松子を愛おしく想うが故の激情でもある。
 そして、そんな彼女に対して「生命」というモノに対する向き合い方を説いた彼の場面が、僕の中では不思議と印象に残った次第。
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「蟻はたくさんいる。僕らからするとどれも見分けがつかなくて、一匹殺しても意味なんかないような気がするけれど、きみがいま潰した一匹一匹には、別々の一生がある。卵から幼虫になって、成虫になって、狩りをして……全部、ほかにかわりがない一匹だ。彼らの一生はきみがここで終わらせてしまった。そしてもう誰もこの蟻を元に戻すことは出来ない。潰すのはちょっと棒で押すだけだけど、一度やってしまったら、世界で一番賢い人でも、偉い人でも、取り戻すことは出来ないんだ」
「特別な一匹一匹を、とりもどすことが出来ない……?」
そこで私ははっとしてリョウさんの顔を見つめました。
彼は頷きを返します。
「それにね、こちらの潰さなかった方は今は生きているけど、これだってずっと生きているわけじゃなくて、いずれ死ぬんだ。寿命やら、他の生き物に襲われるやらでね。世の中には永遠に生き続けるものなんかない。生物はいつか死んで、この潰れた蟻みたいになるって決まっている。猫や犬だって、人間だって、みんなだ」
「全員……」
「そうさ。僕も、汐さんも、それにきみだっていつかは倒れる。その死は、知らない人からみれば僕と汐さんの違いもわからないし、何の意味もないものだろう。僕らがこうして蟻を見ても区別がつかないように……」
言われてまた私は蟻の亡骸に目を向けました。
「僕は『生き物を殺すな』と言うつもりはない。そんな馬鹿げたことは言わない。食べるためにも、生きるためにも殺すことは必要だ。身体に入った細菌は退治しなくちゃいけないし、脅威となる敵は排除しなくちゃいけない。それでいいんだ……僕が言いたいのはそんなことじゃなくて、どんなときでも、自分の行為がどういうものか、ちゃんと考えて欲しいということだけだ。きみがこれから何かの命を奪うときは、奪っている命がどんなものか考えた上でやるといい。それなら僕は文句は言わない」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮、汐松子
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 瀬戸口廉也作品は簡単に潰れてしまう儚き人生結晶を「虫」を用いて例える癖があるが、本作もまた「蟻」と言うちっぽけな昆虫を通して、存在自体が希薄で矮小な人間の泡沫に消える虚しさについて亮少年の口から語らせていた。そして、この時点で本作の『物語』は「そんな風になる」と言う事も、過去の情景から予感させている事に気付く次第。
 此処の小さな自然の縮図が世界の形を決定付ける。Y地区と言うクロオオアリの巣における「松子」は作者の「瀬戸口廉也」自身を指し示しているのかもしれないし、そんな彼の話を読み進める「読者」もまた同様の存在と言えるのかもしれない。これまでの作品で、上位存在への指摘を重ねてきた過去作とはまた違ったメタ的アプローチが群像劇を通して為されている訳だ。
 いずれにしても、これは『どうでもいいとしか思われない生命が紡ぐ世界の話』である。そして、この教えを受けてから平穏な気持ちで何かを殺す事が出来なくなった松子と対照的に、謝亮は今後、平常心で敵対する者を殺す技術を身につけていく。それは、彼がこの街でリーダーとして生きていく上で必要不可欠の儘ならない義務であったが、上記を見る限り「好きで殺したい訳ではないが、必要とあらば止むを得ない」と言う彼の諦観は、この頃から充分に察する事が出来る次第。
 謝亮は何故その道へと至ったのか。その諦観にどうやって辿り着いたのか。それは灰上姉妹が言っていたように、彼女等の兄を殺した時点で気付いた衝動性だったのかもしれないし、クリス・ツェーの息子としてこの世に生を受けた時点で、自ずと察しが付いていたのかもしれない。ギャングの息子と定食屋の倅。自分と言うモノを持てない二重生活の中で自分を持とうとした周囲に潜む要素全てが、彼を大人への道に辿り着かせた。そしてそれこそ謝亮って人間の確かな実存から至りし「本質」となってしまったんだと思う。何1つ望んだ訳ではなく、その先に自身の願望なんて何も待ってすらいないと言うのに。本人がそれを望む望まないとに関わらず、世界を動かす一役者として、彼は自身を磔にしたんだ。


 さて、そんな謝亮の本質をただ一面的に「哀しい」と感情的に語るだけの行為程、愚かしい真似は無いと思うので。もう少し深く掘り下げていくとしよう。
 突然美美の結婚式に呼ばれて、父親の危篤故に嫌いな故郷へ留まらざるを得なくなって、タイプBの研究をする為に大学へ入学した努力も全部無駄になって(動機の詳細は描かれなかったが、松子の為でもあるんだろう……きっと)生命を湯水の如く消費する無価値の殺人をせざるを得なくなった謝亮。そんな彼が自身の真情を吐露する場面と言うのは、意外にも数多く存在する。
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「この世界では無生物でいることのほうが当たり前で、生物としていまここに存在して、こうやって自我を保っているということの方がずっと不思議なことなんだ。僕たちは存在している時点で奇跡みたいなものなんだ。この無数の星が散らばる広大無辺な宇宙に、生物が存在する場所がどれだけあるか……僕は、僕という存在として何かを考えたり、意志を持ってる時点で、悲劇だろうがなんだろうが、充分モトがとれていて、いつか死ぬ定めだとしても、この偉大な奇跡の前では全てどうでもいいことのような気がするんだよ」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮
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「僕はね、この仕事を始める前はずっと思っていたんだよ。人間の最も素晴らしい叡智というのは、本来なんの価値もない生命と言うものを、最上の価値があるものだとでっちあげることだと。でも、この仕事をはじめてから、僕はまったく正反対のことをしている。生命を小銭みたいに消費している。別にそうしたいってわけじゃないけれど、最善策を選ぶと自然にそうなるんだよ」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮
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「僕はこのままでいい。このままで勝負したいんだ。気持ちはありがたいけどね」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮
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「僕は今までたくさんの人間を死に追いやったけれども、そのうち一人だって憎いとか嫌いだから殺したわけじゃないんだ。むしろ人殺しなんか全然したくないね。ただ、必要だから殺したんだ。それだけだよ。心情がつらい、つらくないなんて、本当に些細な問題なんだ。生命という貴いものを奪うおそるべき重罪の前ではね。そんな話をすること自体失礼というものさ。死んでいった奴らに対してじゃなくて、生命そのものに対してね」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮
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「僕だって、誰も死なないで済むならそのほうがいいって思ってるよ。いつだってね」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮
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 上記はそんな謝亮の思想の根幹を成す「生命」についての価値観である。要するに、彼は「有限に流れる人間の生」そのものに価値を見出しているのであり、結果はどうであれ、その生きてきた日々が存在する全ての「生命」を価値のある美しい奇跡だと信じているんだな。それは、人の原動力を何よりもかけがえのないものだと語る畏敬の念に満ちた思想。何者になれずとも、悩み苦しみ悲しみ楽しみと言った考えで以って生きてきた証を持つなら、それは等しく価値がある。其処にあるだけで輝く全ての「生命」と主張する一方、個人的感情で「生命」を綴るのは失礼だと語った訳。
 そこで僕は『トーマス・リャオの冒険』でトーマスが謝亮に自身の想いを伝えた際、彼が「ま、悩むことが出来るうちは悩めばいいよ」と、苦笑していた事を思い出す。苦しみと悩みは、偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって、常に必然的なもの。謝亮はあの時、苦悩しながら生きているトーマスに好感を抱きながら、彼のように「生きてはいない」自分を哀れんだのだ。ただ与えられた役割を忠実に全うするだけの自分。彼の価値観では「自分が生きていない」事に気付いたからこそ、正体不明な苦笑をかましたのだろう。
 しかし、この何者になれずとも、ありのままを全うする生に価値を抱く謝亮の思想は、実に素晴らしき「優しさ」で満ちていると思う。さっきから何度も見ていてうざってえ位に「優しい」と言う言葉を口にしているけれど、これは僕の紛れも無い本心だ。そしてだからこそ、謝亮がそのように生きられなかった事だけが、僕は至極残念でならない。


 謝亮はただ、彼自身の『義務』を履行する為だけに自らの人生を全うした。彼からすれば、それは「昔にして貰ったことをしてるだけのこと」なんだろう。「何にも特別なことじゃない、借りた物を返してるだけの当たり前のこと」として、育ててくれた母親の面倒を見たし、人を殺す事で守ってきたクリス・ツェーの後継者として君臨した。義理を果たす為に自己を犠牲にした行為を「優しさ」と称せない程、僕の心は冷酷ではないつもりである(この「借りた物は返さなければいけない」と言う考えに、本作は誰もが囚われている。亮だけじゃなく、老人たちに従う他なかった道夫も、自身を育ててくれた父とリョウさんに対する想いの強い松子も、懺悔と感謝に報いた江梨子も。全員が律儀で愛おしく、そしてだからこそ少し哀しく思う)
 そして、そんな謝亮に僕が一際愛着を抱けるのは、ただ単に冷静沈着な思考で無感情に「義務」を遂行しているからではなく……彼自身が自らの本心と戦いながらも精一杯やり切ろうとしている側面を随所に発揮させていたからだ。
 謝亮は本来泣き虫のガキだった。そんな彼が大人になるにつれて感情を押し殺していく中、ふとした時に湧き出る想いが僕の心も締め付けていく。「義務」で彩られた謝亮が一部の大切な人にのみ浮かぶ涙。それこそ、彼本来の優しさが示した温かさだった。
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とにかく、彼女がここに生きている。
眺めていると、手の甲に温かいものが落ちた。
見ると、水滴がその部分を濡らしている。
――なんだこれは?
僕はそっと自分の頬を触ってみた。
そこもしっとりと濡れている。

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮
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 滲んだクリス。堪えた馬明。そして、流れ落ちた松子。特に松子関連の描写は、冷静沈着な彼の様相を改めさせる程に印象深く、そしてその時に僕は思ったんだよ。ああ、本当に亮は松子の事が大好きなんだ。やっぱり彼はクリス・ツェーの息子なんだ。惚れた女の為に涙を流す事が出来る人間なんだって……彼と共に不思議な安堵を覚えた。哀しみと安らぎの涙を流せた。此処まで付き合ってきたからこそ芽生えた共感だけが、其処には確かにあったんだ。
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「残念なことだが、この街ではよくあることだ……それに、あそこはかなりの借金を抱えていたそうだよ。あのまま生きていたとしても、ミカもその母さんも、もっと恐ろしい地獄を見ていただろう。キレイに死ねて良かったのかもしれない」
そのリョウさんの言い方は、普段の彼の価値観とは違いました。
彼は『キレイに死ねて良かった』なんて言う人間ではないです。
そんな考え方は認めず、どんなかたちでも死は死で、生きなくては意味がないというのが彼の言い分でした。

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮、汐松子
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「思ったようにはならなかったが、しかし生きるしかない。そもそも、我々は全員、生まれてきたから、生きているというだけなんだからね」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮
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 そう、生きなくては意味がない。生まれてきたからには生きるしかない。だからこそ、限りある「生命」を大事にしなければいけない。そんな当たり前の方程式思想だけが其処にはある。
 しかし「当たり前を終始貫くと言うのは難しい事」を、僕達は謝亮を通した本作から知る。とても優しかった彼の想いは、こうして『物語』として記録された限り、いつまでも誰かの心に残り続けて、僕等の記憶に残り続けるだろう。それは決して無駄なものとはならない筈だ。
 そして最後に1つ。これまでの叙述で気付いた人も多いと思うが、彼は大切な理紗の為に「神にでもなんでもなろう」と誓った木村学であり、大切な鹿クンの為に「世界に向けて歌い続けよう」と誓った椎野きらりでもある。生命を最大限尊重する思想は尼子司であり、自分の感情を制御して生きる姿勢は前島鹿之助その人でもある。
 そう、謝亮とは瀬戸口作品過去作における主人公達が意識されて生まれた者であり、これまでの『物語』の一部要素を切り取って産み落とされた申し子でもあった。そしてそんな集合体を支点として生み出された彼の物語があのような結末を迎えるからこそ、その「おわり」は僕の心に終始ブッ刺さり続けたのだろう。


 もしかするとそれは、長い間付き合ってくれた読者に対する瀬戸口廉也なりの「愛」だったのかもしれない。
 そんな戯言を最後の最後に思う他に無い僕だった。ありがとう。生きている全ての者に等しく感謝を。ありがとう。





②見土道夫
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「暴力は嫌いだよ。争いはくだらない。目一杯長生きしたって百年も生きないような寿命の短い生物同士が、さらにその寿命を削り合うんだから、そんなのジョークとしか言いようがないと思わないか? だから僕は、そのくだらないことに使う労力を減らすために、争いの時はなるべく効率的に、手短に済ませるようにしてるのさ」
「いい性格してやがる。だが、おれは全く正反対の考え方だな。どうせ人生短いんだから、ちょっとばかり引き延ばそうなんてセコいことは考えず、情熱全部をこの瞬間にかけるぜっ」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮、見土道夫
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 見土道夫と言う人間は、謝亮と比較してみると実に面白いデータが取れる。それは彼等との共通点相違点。世界と言う盤上を生きる上で何を最重要視するのか、彼等の根本が見て取れる。その『人間』ってヤツが群像劇を駆使して強く作中に感じられるこの瞬間程、読んでいて面白いモノも無いだろう。
 例えば「人間同士がお互い殺し合うことはちっぽけな問題」「殺し合わなくたって人間はいつか死ぬ」「殺し合いになったって、軽く笑えるジョークみたいなもん」と言うのは、互いに同じ想いを抱いていた事が窺える。
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「争いっていうのはまったく下らない。生命なんてものは、放っておくだけでも勝手に寿命で滅んでしまうのに、何を焦ってお互いの寿命を縮める必要があるのか。しかもみんな悪ふざけじゃなくて真剣だって言うんだから、おかしくって、おかしくって……」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮
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「つまりね、この世界はとても寂しい場所で、同時に賑やかで素敵な場所なんだ。おれの言ってることわかるかい?……このあまりにも壮大な舞台の上では、人間同士がお互い殺し合うとか、そんなことはちっぽけな問題なんだよ。だって、たとえ殺し合わなくたって人間はいつか死ぬんじゃないか? 大事なことは、この短い人生のなかで自分の意志で何かを選択して行動するってことだ。何かを愛し、恐れるものに対しては勇気を振り絞って立ち向かう。それは本当に素晴らしいことで、その結果殺し合いになったって、軽く笑えるジョークみたいなもんだよ」

『BLACK SHEEP TOWN』見土道夫
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 ただし此処で重要なのは、戦闘行為そのものに対する価値を見出しているか否かの違いである。戦いについて謝亮は「下らないモノ」だとはっきり語り、見土道夫は「ちっぽけな問題」とはっきり語った。これはつまり、人々の闘争を「おままごと気分で」俯瞰的に眺めるタイプか(=個々の戦闘に価値は無し)「フィールドワーク気分で」主観的に率先して参戦するタイプか(=個々の戦闘に価値が在り)の視点で明確に異なっている事を示しており、そこに人間としての価値観の相違も窺えるのだ。
 神様が下界を見下ろすように、フィクサーが計画を完遂するように、おままごとの如く観察しながら世間の抗争を眺める謝亮。俯瞰する立ち位置を併せ持つ龍頭の立場に君臨した前提も然る事ながら、元来の性格である「戦いに対する嫌悪感」が、彼自身の主義主張には見事繋がっている。他人事ではいられないながらも他人事として抵抗。その観点。それこそが彼自身を見捨てる諦観であり、尚且つ、彼自身を強く見せる為の叛逆でもあった訳で。
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この世界では、戦いと言うものが一番正直だ。
お互いが持っているものを全て出し合って、最後に立っているものが生き残るだけ。
そこには善も悪もなく、どんな解釈もなく、ただ現実だけがある。
もしこの現実が神によって作られたものならば、まさにその現実のなかで明白な結果が出る闘争というものほど神聖なものはない。

『BLACK SHEEP TOWN』見土道夫
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「生まれ持った業が深いんだ。見土道夫とちょっと似ている」
「おれと?」
「そうだよ」
「見土道夫は暴力に取り憑かれている。一時は離れようとしていたけれど、結局戻ってきたね」

『BLACK SHEEP TOWN』灰上姉妹、見土道夫
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 しかし、見土道夫と言うヤツは本質的に「戦いが大好き」な人間だ。徹底的な現場主義者で、謝亮のようなブレインでもない為、先頭に立って戦闘を取り仕切る。そして灰上姉妹も言及した通り、これは見土道夫と言う人間自体が暴力に満ちた生活への誘惑から逃れられなかった事に対する結果とも見て取れるだろう。
 この立ち位置こそ「生命より大事なモノがある」彼の考えに繋がっていく。短い人生の中でも、何かを選択して行動する為に必要なもの……そう、生きていく上で重要な「意志」と言うものこそ最も大事だと道夫は語り、だからこそ戦いと言うモノが「意志」を成就させる上で不可欠なものだと信じている。「下らない」とはまるで思ってはいないのだ。


 謝亮は「生きていく事で育まれし過程」全てを最上の価値としている。それは「意志」のみに限らず、生きていく上で齎されし感情だったり、導かれし行動だったり(それらはある種度し難いものも含まれる) そうした生き方の全てを全肯定した思想。何かをしなくちゃいけないと心から思ってくれたなら、それはしたのと同じこと。醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしい。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしい。
 対して、見土道夫は「生きてきた事で生み出されし結果」を最上の価値としている。人々が殺し合う情景を「意志の闘争」「一種のスポーツ」と思いつつ、短い人生の中で選択して行動した事で齎される結果こそ、最も尊く素晴らしい価値であると綴る。そうすれば、この等しく全てに価値無き世界で「自分の人生には価値があった」と考える事が出来る(クリス・ツェーやジェフリー・ウォン、そしてリタも同じ穴の狢)


 改めて比較してみると、こんな対極的に生きる彼等がY地区の取り巻く抗争世界において、別々の道を歩む事になるのは宣なるかなと言った所かもしれない。「存在している時点で奇跡みたいなもの」と語った謝亮の思想は「生命」そのものに価値を見出し。「自分の意志で何かを選択して行動する」と語った見土道夫のそれは「人生」に価値を見出す為の思想である。実にはっきり分かるでしょう、この違い。
 そしてだからこそ、僕は腹が立って仕方ない。見土道夫の『人生』ってヤツについて俯瞰的に眺めてみた時「手前はどうしてそうなっちまったんだ?」って切なる想いが、彼と言う人間を語る際には存在してしまう。実にファッキン。
 コイツはね、読めば読む程、哀れでムカつく男なんだよ。「甘いものは皆を笑顔にする」なんてよくわかんねえけど微笑ましい動機を軸に、グレートホール饅頭なんてお菓子作りに精を出していた頭ほんわか野郎がさ。自分の本来やってきた事も貫き通せず、やり続ける行為の意味も次第にわからなくなった結果、現実と向き合うテロリズムに加担し続けたんだ。それも老人たちの恩義に報いたいって、街で苦しむ全てのタイプBを救いたいって、そんな義理立ての為って根拠も当初据えていた筈なのに、それなのに……場の雰囲気に流され行動する内に老人たちの真実を知って放逐した挙句、自分が関わってきた事の報いを受けて斃れ死ぬ。しかもそんな死亡のきっかけとなった実質的実行犯は自分ではなく、カミラ・ノーサムって馬鹿女である。八龍解放軍のリーダーとしての責任を一身に受けたとも言えるだろうが、終着点へと導かれる覚悟は謝亮共々とうの昔に決めていたろうが、携わるに至った変移と結末については、実に哀れと称する他に無く。結局世界の流れに逆らう事もままならないまま、考える行為もしないまま、舞台に上がった役者として無類なき演技を発揮したまま絶命したのが実に嘆かわしい。そして本当に腹が立つ。


 ただこれについては前述した通り、見土道夫と言う人間自体が暴力に満ちた生活への誘惑から逃れられなかった事への因果とも見て取れよう。誰の為でもない。大切な人の為とか、タイプBを救う為とか言う虚言ではなく。ただ単に自分が戦いたいが為の生き方をしたからこそ、彼はこのような結末を辿ったとも言える訳だ。
 そう考えると、道夫の本質ってのは「Y地区」で誕生した生来から既に定められし概念だったのかもしれない。躍進、躍動の興奮の裏に潜むは戦闘狂である自身の本質。グレートホール饅頭なんてお菓子作りに生涯精を出したかった理性的な見土道夫の「夢」は、Y地区に生まれ育った事で培われた本性に粉々に食い千切られ、消化不良の状態へと崩れ果ててしまった。そしてそうなってしまった要素は紛れもなく、実の母親と過ごした僅か5年の生活から表われていたと考えるのが妥当な所でもある。
 瀬戸口廉也が作品毎に随時語る「人間はそう簡単に変わらない」精神。それは「自業自得」って見方も取れるが、少しニュアンスが違くて。Y地区と言う社会に生まれ育ったが故の環境が精神を「そうさせてしまった」事への哀れみも含まれる。頭で考える事と心が望む事、その相違。ほんわかに生きていたい「夢」を抱いた少年の幻想は泡沫へ沈み、自身の生命も地獄へ沈み。母に対する後悔と懺悔のみを胸に遺して、花の香りに包まれたまま、見土道夫と言う人間は消滅した次第。
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「なんてことするんだ! 死ね! 死ね!」
と繰り返す。
もう慣れきったおれにはその言葉は何も響かない。
最初の頃はもっと敏感に反応したらしい。
泣いてすがりついたり、興奮したり……そう、今日のレナの娘のような……でも、毎日繰り返されれば人は慣れるものだ。
どんなことにも。

『BLACK SHEEP TOWN』見土道夫
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 慣れる事が出来なければ淘汰されてしまう残酷な世界。暴力と愛情に飢え切った彼の幼少期。幼子として唯一の生存戦略を、自然、彼はあの生活から学ぶ他に無かった。それは成長後も続く。老人たちやタイプBに対する恩義の為、正義に反する事をする。いや、少し違うな。正義に反する振る舞いを正義と必死に言い聞かせ、自身の夢想に抗う事もせず飄々と他者からの要求に従っていき、任務を遂行していく。慣れていく。そんな状態を踏まえて読むと、見土道夫って人間はYSに対する反抗、灰上姉妹との闘争、作戦における決定権と言った自身の意志的行動も含めて、最後は操られたままだったとも言えるだろう。
 僕はね、この「慣れてしまう」というのが1番怖い事だと思うんですよ。明るく生き生きと楽しげに振舞うが、それは中身が空っぽのキリングマシーン。考える事すらまるでせず、色々と御託をほざきながらも本能である戦闘狂の本質に従う姿。それは言ってしまえば獣の習性。野生の誘惑に抗う事の出来なかった狼が抱きし弱さである。その姿はどこか幼少期に徒党を組んで争っていた遊戯の延長線とも感じられ。「そんな生き方しか出来ない男=見土道夫」って哀れな人間の方程式も紡ぎ出す。それこそがここまで読んできた僕の、彼に対する正直な印象ってヤツに他ならない。


 端的に申せば馬鹿野郎だが、それは彼に限った話じゃない。寧ろ彼以上にクソで間抜けなアホンダラが本作には登場している。八龍解放軍。はたまた僕は『MUSICUS!』のクラウドファンディング開発日誌で瀬戸口氏が語っていた「道徳の授業」を思い出していた。あの中で登場した言及の中には「自分が心優しいと信じながらも恐ろしい行為をしてしまう人間の姿」「それを指摘しただけで悪人扱いしてしまう人間の姿」も確かにあり「そんな恐ろしい事態に皆と一緒になって順応するより、空気が読めない方が良い」ともはっきり語っていた始末。
 だから結局、八龍解放軍と言うのは瀬戸口氏にとって「正義」の名を傘にして混乱と暴動を振り撒いた恐ろしい存在でしかない。全員等しく阿呆に過ぎないだろう。
 しかし阿呆である事、それだけで見土道夫を嫌いになる理由とはならない。筱喬を八龍会へ入れないよう動いたのは道夫なりの優しさだったと思うし、彼が優しくも温かい気遣いに溢れた人間だった事は読んできた誰もが知っている事実だ。親友の名に相応しく亮の事だって自分の事以上に良く分かっていたし、彼と松子の関係が幸せなものとなるよう祈っていた気持ちも本物である。
 そこには正しく瀬戸口廉也の温かみに溢れし人間の描写があり、人が容易に善悪では白黒の付かない存在である事を巧みに描き切った真実があった。その事を知っている誰かが居るだけで、運命に押し潰された可哀想なミジンコの如き存在であったとしても、それは少なからずの救いとなるんじゃなかろうか?
 だから僕は、知ってしまった僕だけは、彼をそんな風に陥れてしまった不条理の悲喜劇を憎らしく思う。『SWAN SONG』の田能村慎と同じ匂いを感じた見土道夫だったが、蓋を開けてみれば「選択」で結末を決める事の出来た彼とはまるで違い、悲壮感は尚の事沸いてくる。例え道夫は夢の中だとしても自身の行動に対する絶望と向き合い、思うように振舞えない苦悩を露わとした。苦悩していたと言うのは、物事と真摯に向き合おうとした証でもある。悪夢を彷徨ったのは僅か数瞬の出来事に過ぎないとしても、彼は確かに「苦悩」していたのだ。
 だから僕は見土道夫の事が嫌いじゃない。ムカつくが、馬鹿なヤツだと思うが、それ以上に悲しくて仕方ない。例え彼が操られながら自ら選んだ道だとしても。やっぱり僕は悲しくて……尚且つ腹が立って仕方ない。全く以って遣る瀬無く、そして彼の視点から見た本作は結局の所、そうとしか言いようの無い話なのだ。
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「見土さんは、自分のことがわかりますか?」
「自分のこと?」
「自分がどういう人間で、何を目的にしていて、その時どんな気持ちなのか……わかるものなのですか?」
「わかるね。もちろんさ」
見土さんは頷きました。
「おれは、気持ちのいいことがしたいのさ。自分の周りのみんなが幸せになって、楽しそうにしているところを見たいんだよ。苦しみで泣く子供や母親なんかは見たくないね。だから、見たくない悲しいことをなくすために、こうして饅頭を作っているのさ」

『BLACK SHEEP TOWN』汐松子、見土道夫
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③路地邦昭
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ありもしないものをあると信じて死にものぐるいで探し回り、結局何も見つからなかった。
そして最後は愛する人々のために何かをしてやることも出来ず、惨めに死んでしまうのか。
どんな形でも生き延びたい。
嗚呼、それは自分のための欲求ではない。
ただ、死なせてしまった人々のため、その恨みを晴らすための命が欲しいのだ。
これでは、死んでも死にきれない。

『BLACK SHEEP TOWN』路地邦昭
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 大切な恋人を奪われた男は斯くして復讐者となり、標的の影を追い求める……これだけで1本の映画が撮れそうな――と言うかハリウッドなんてそういう映画ばっか豊富にある――ある種王道の姿勢を醸し出す『物語』こそ、彼……路地邦昭の舞台である。恋人のミユキ(+友人の堂島謙一)の敵を取る為、死に急ぐ形で標的を追い求めるタイプAの元探偵は、本当に死に追いつかれながらも不死者としてこの世へ蘇り、鬼神の如き執着性でコシチェイと灰上姉妹を追い詰めていく。自分に近づく者は全て利用する覚悟でレゾンデートルを果たそうと動くその姿。死に対する恐怖の感覚をどこか喪失させた新生特殊タイプB。彼は、そんなどこか危うい状態で以って『物語』の世界を我道驀進歩み続けた。
 そしてその実態はこの架空なようでいて真実に満ちた物語『BLACK SHEEP TOWN』を書き綴った作者でもある。彼の紡いだ軌跡と描いた情報が織り成す舞台。本作はそのどちらもが「Y地区」と言う地域の全容を広げるのに一役買ったと断言出来るし、その世界を伝えた登場人物……路地邦昭は正に「瀬戸口廉也」の想いが乗り移ったキャラだと感じてもいる。それはキャラクターとしての「彼」ではなく、この物語を紡いだ「彼」に対して、瀬戸口氏の想いが含まれているんじゃないかと、僕が感じてしまったからだろう。


 しかし、その妄想は一先ず後に取っといて。まずは最初に物語としてのキャラクターであった「彼」について述べる事としよう。この路地邦昭と言う人間についてファーストインプレッションを語るとするなら「どうにもこうにも詰めが甘い」と言う感想が最初に浮き出る。彼はとにかく、ここぞと言う時に実力を発揮出来ずに引き分ける、若しくは敗れてしまう印象がかなり強い。最初にこんな欠点を述べるのはどうかと思うが、太刀川先生が死んでコシチェイが現れた場面、不意打ちを食らわさず律儀に声をかけたのはそれこそどうかと思ったし。APTGでもオートマチックピストルでもとにかく肝心な時に的を外すので、読者側としては1番ヤキモキさせられた人物であった。
 まあ、これはあくまで僕がそんだけ彼に対して感情移入していた軌跡の証明であり、好感を持って読めた愛着の証明でもある。寧ろ怒髪天を衝いた根源に支配されているからこそ、人間臭さとしての焦燥を随所に感じ。その中でも正々堂々と殺すバランスの不均衡加減が何とも一辺倒に描かれていない彼の面白さとも言える始末。見た目はデコに角のついたオーガだが、最も人間らしさを持ち合わせていた人物だったと言うのも、強ち過言とは言えないかもしれない。
 さて、そんな路地邦昭がそうなるに至った経緯の発露、復讐鬼と化した根源の記憶にミユキとの関係があるのは、懇切丁寧説明せずとも最早言うまでもない事である。序盤にしか登場しない彼女と、彼女が居なくなってからも人生は続く彼と。2人の会話を眺めた際、僕が最初に思ったのは「『MUSICUS!」の馨と澄に酷似している……」って事だろうな。この街では「ありふれている」ようだが。
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彼女は自分の素性と職業のことで私に引け目を感じている。
そしてまた、私の方も彼女を平然と食い物にしている自分の生活態度に引け目を感じている。が、感じながらも、彼女のその引け目を利用して、食い物にし続けているのだ。
私は彼女に金を稼がせてそれを浪費し、手持ち無沙汰になれば、その肉体を性欲のはけ口として使う。彼女は私に対して好意があるらしい。人の感情に無限なものというものはないからいつか枯れるのだろうが、今のところはまだ枯渇の徴候は見えなかった。
それを考えると私は若干の自己嫌悪を覚えるが、しかしその感情が自堕落な欲求を上回ることはなかった。
醜く、そしてこの街ではありふれたこの関係はいつまで続くのだろう。

『BLACK SHEEP TOWN』路地邦昭
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 ミユキが死んだのは結局の所、彼のその「自堕落な欲求」が生んだ、紛う事なき自業自得である。被害者である彼女は独りその難儀を背負い破滅した。路地と言う人間は嫌いじゃないが、少なくともこの点に関してはクソ野郎の極みと言って良い。
 しかし彼はそんな自分のクソさ加減を1番理解し、1番悔やみ、そして1番許せなかった。その慙愧に満ちた無念を晴らさんとするが為、怨敵を追い続ける路地邦昭の姿。そしてそんな彼に付き添う三芳星の姿。キャリア街道まっしぐらを歩んできた糞真面目お嬢ちゃん、THE 堅物おまわりさんって感じだった彼女が徐々に路地から心絆され、どんどん彼への愛着が湧いてきて、彼に対する情が次第次第芽生えていく姿。大人っぽく対等に振舞おうとしているが、本質はまるで伴ってないまま、自信も無いのに頑張って付いていこうとする、そんな親鶏を追いかけるヒヨコの如き姿。
 何だか妙に可愛く感じられ、実に対極な2人の動向から自然と目が離せなくなった始末。
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「路地さんっ!」
三芳はそんな私に駆けつけ、抱き起こしてくれた。
彼女のグレーのスーツは、私の血液と、泥水で汚れてしまっている。
「路地さんっ!」
彼女は目から涙をこぼし、それは私の顔を暖かく濡らす。
泣いているのだ。
「大丈夫、大丈夫だ……」
私は薄れ行く意識のなかそう言った。

『BLACK SHEEP TOWN』三芳星、路地邦昭
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 そしてこの時にね。「ああ、彼等の関係は素晴らしいなあ」と思ったよ。苦渋を知っている老獪の探偵と初々しく付き従う新人警察官。自身の経験を元にさりげなく彼女へ教えを与える路地に対して、その恋愛……とまでは決していかない、共に標的を追い求めていくあぶれ者の同志だけが抱ける確かな関係の強さとでも言おうか。いつの間にかお互いがお互いを支え合えているパートナーになっている所が良い。とても良いね。凄く良いよこれは。
 まあ、そんな2人の関係も、殺人を遂げてほしくない三芳の想いとは裏腹に、路地は最後まで我儘にそのままにあるがままに、自分の道を突き進んで傷つけていく事になる訳だけども。寧ろ彼女に助けられなければ死んでいた場面だってあると言うのに、何とも薄情の権現。勝手気儘な男であるよなあ、全く。

 閑話休題。

 結局の所、路地邦昭の復讐と言うモノは全く以って果たされず。そもそも殺人行為自体が為されず。ミユキの幻影や変身を目の当たりにして、彼は復讐そのものを止めてしまった訳なんだけど。実はその事に対しても読み終えた今、不思議と納得感がある。「自分にはミユキを殺す事は出来ないと痛感したが故の諦念」「ミユキの幻影による想いを肌身に感じたが故のふんぎり」「全てどうでも良くなったが故の旅立ち」
 解釈は人それぞれ好みに分かれると思うが、例えどの答えであったとしても、彼は自分の中に潜むミユキへの愛情を、復讐ではないまた別の形で昇華させたのだろう。そして、そんな復讐鬼の成れの果ての末、全てが喪われた彼の中で最後に残ったのは、たった1つの想いだったんだと思う。
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「私はね太刀川さん、我々のような人間は、常に奉仕の気持ちでいなければならないと思ってるんですよ。そうでなければ、きっと恐ろしいことをしでかしてしまうでしょうからね」

『BLACK SHEEP TOWN』路地邦昭
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路地は太刀川のことを過去の感傷に浸っているなどと言っていたが、松子はそうは思わない。忙しい勤務の間を縫って、なんの得にもならない事前診療を続けるのはただの感傷で出来ることだろうか? いや、たとえ感傷にしても結果として意味のある行動に結びついている。職員たちが、彼の行為にどれだけ感謝していることか。
路地だって、ただの利己的な復讐だのなんだのとうそぶいていたが、そうだろうか? 彼は元々貧者のための探偵だったという話だ。今の行動だって、本人は自嘲してひどくしか言わないが、故人への愛や殺人鬼への正義感がその心にあるのを、少なくとも松子には感じ取ることが出来た。

『BLACK SHEEP TOWN』汐松子
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実際に執筆をはじめると、何度も胸が締め付けられるような息苦しさを覚えた。
この作品には私自身も登場人物としてあらわれる。となると、もう二度と思い出したくない、いくつかの事柄も思い出さなくてはいけなかった。――もうやめよう。諦めそうになるときはいつも、私の文筆家としての成功を願い続けてくれた、今は亡き恋人の顔が思い浮かんだ。
この恋人の面影が、この長いマラソンを私に完走させる原動力となったのである。

『BLACK SHEEP TOWN』路地邦昭
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「いや、今日が特別ってわけじゃない。この街の調査をはじめてからずっとこれを着ている。この格好でいると、こんな私でも、自分以外のもののために行動出来るような気がしてね。けっして、感傷のつもりではないんだ。……いや、感傷なのかな」
「どちらにしても、いいことだと思います」

『BLACK SHEEP TOWN』路地邦昭、汐松子
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 ミユキとの約束。忘れ形見。全てが喪われていった中で、残った未練の解消。現実にあったノンフィクションを想起しながら、其処に苦痛を感じながらも描き上げたその姿。過去。世界の体現。それを「奉仕」と言わずとして何と言おう?
 路地邦昭はミユキへの愛を通して、世界の一部で起きた歴史を紡ぎ上げると言う精神に報いた。そして内心尊敬していた太刀川の想いも少しばかりではあるが受け継いだ。まずは形から。死者の仮面を被って生者に成りすます不死者として行動する事で、路地は彼自身が考える太刀川の想いも見事に昇華させたんだ。
 自分以外のもののために行動出来る。行動出来ている。それはなんて素晴らしい事なんだろう。誰かや何かの為に自分の想いを貫き通す術を再度身に沁みて学んだ男の姿が其処にはある。喪われし彼女からの愛情で包まれた奉仕の気持ちが、離れ離れとなった恋人達をも再会させる。自分達には成り得なかった、成し得なかった事を成し遂げる為に。彼女と共に尽力した男の行動が其処には確かにあったんだ。


 自分がミユキと傍へ居られなかったからこその贖罪。ミユキの分まで彼女に報いたい気持ちが生んだ奉仕。自身の望むハッピーエンドを叶える為に動いたある種の慰め。正に故人への愛を昇華させた路地邦昭の新生があり。前島鹿之助を思い出してしまうような感無量の情熱が其処にはあり。そしてだからこそ「瀬戸口氏は路地邦昭に人殺しをさせたくなかったんじゃなかろうか?」って可能性にも思い当たってしまう次第。「奉仕を捧げる精神」の一面が作家としての想いにも繋がっているからこそ、自分自身と重なるからこそ、彼に復讐を成し遂げさせようとする真似をさせなかったんじゃないか……と、思ってしまうんだねこれが。
 「今度生まれ変わったら、せめて人の役に立つ仕事がしたい」と語った真心。「読んでくれている時間だけちょっと面白がってくれたらいいな」と願った真情。それは物語を紡ぐ者としての奉仕者の一面。その想いの一部が最後の路地邦昭にも表れている。そしてその書き上げた文章に対する彼なりの努力と彼女の想いを信じているからこそ、この物語はあの帰結を選んだ……そう考えると本作は尚の事、心に響くのではないだろうか?
 まあ、これはまた1つの妄想に過ぎない。しかし信じるのもまた勝手な話だ。キャラクターと言う概念は本質的に作者の一部が投影された形と言えるだろう? だからこそ、最後の彼の生き様が……作家・瀬戸口廉也の残酷な世界と、残酷な世界を生きる強さと、残酷な世界の中に潜む優しさを見事指し示している。そう思ってしまうだけの気持ちがある。
 この架空なようでいて真実に満ち満ちた叙事的ノンフィクション『BLACK SHEEP TOWN』の著者、路地邦昭。彼が描いた生き様を通して本作を見ると、これは単なる悲しい哀しい歴史の末路ではなくなった。この世界で生きた人々の想い。伝えたかった言葉。文章を通して生まれて生きて息衝いていく事で、この記録は愛すべき過去の記憶をも映し出す。彼が描いたそれは『物語』としての他人事ではなく、紛れもなく1人1人の『人生』に値するものとして昇華した。
 それはタイプAの枠に留まらない彼の奉仕精神の賜物である。歴史を紡ぎ、人生を描く。そんな世界へ殉じた作家精神に、僕は心からの敬服を送ろう。どうかこの先も亡くした彼女の想いと共に、力強く生きてくれ。そう思わざるを得ない『人生』が、彼の記憶の中にはあるのだから。
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「小さなことを心配しないで。私はね、本がたくさんうれてお金持ちになるよりも、邦昭さんが幸せにしていることの方が大事なんだよ? だから、邦昭さんにはこまかいことを気にせずに、いつも好きなことをやっていてほしいの」

『BLACK SHEEP TOWN』ミユキ
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④太刀川良馬
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「おれの力はただ隠されたものを暴くだけだが、あんたは違う。他人の感情をそのまま受け入れて共感するんだ。なんて優しい能力だろう? おれの知っている限り、これほど優しい能力を見たことがない。……そしてタイプAは多かれ少なかれ自分の能力に人生が囚われる。あんたの場合それは少々哀しい結果をもたらしたようだ。そんなにえげつない能力を持ちながら、スラムを這いずり回って壊れた心に触れるだけで人生を終えようとするのは、あまりに無欲すぎやしねえか? 今からでも遅くない。もう少し、自分のための人生を歩んだらどうだい? 貧しい病人の気持ちに触れることが、そんなに楽しいのか?」
(中略)
「私は別に何かに囚われているわけじゃありません。ただこの街と、その住民が好きなだけなんですよ」

『BLACK SHEEP TOWN』クリス・ツェー、太刀川良馬
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 この『BLACK SHEEP TOWN』と言う物語において、最も純粋だったキャラクターは誰か。そんな事を尋ねられて1人を選ばなければいけないとするならば、僕は彼を選ぶと思う。太刀川良馬。一途さの象徴。この作品の登場人物は誰も彼もが自身の「愛」に従って生きているが、彼はその中でも筋金入りの別格。意図的に避けてきた過去が、現実に牙をむいて追いかけてくる現状。自身の聖人的な行為の裏側に満ち満ちた娼婦・ミアオに対する愛。女性に疎まれ、世間に区別されて生きてきたタイプAの人生。医者としての自分のあり方。その全てが噛み合いながらも、上手く解けなかった世界を生きた……そんな彼の事を語らずして、この批評は幕を閉じれないだろう。
 僕はこの太刀川良馬の事を聖母の愛に殉ずる聖職者の如く感じていた。キリストの使徒か、マリアの信徒か。在り得たかもしれない路地邦昭のもう1つの姿か。裏側か。どんな風に語ってもそれは構わないだろうが、隠された彼の本質が揺らぐ事はない。太刀川良馬と言う人間が感じていた本音の大部分は、下記の文章に集約されていたと言えるだろう。
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「ミアオ……」
我知らず、その名が口から出ていた。
そしてその言葉が出ると、体中が熱くなって、傷の痛みなどほとんど感じなくなった。
そのかわりに、締め付けるような苦しい感情が胸に沸き起こる。
「ミアオ……」
もう一度、今度は自分の意志で呟くと、目から熱いものがこぼれ落ちた。
私には、まだ彼女のために出来ることがある。――そう思うと、体中に充満していた黒いガスが抜け、代わりに光が差し込むような喜びがあった。もう認めなくてはいけない。――私はずっと何かを彼女にしてやりたくて、してやりたくて仕方なかったのだ。病院で見た患者たちに、施設で見た子供たちに、どこかミアオの面影を見ていた。ロジャー・アダムスを殺し、クラブを燃やし、そしてもう彼女のためにすることがなくなってしまったのを受け入れがたくて、ずっとしがみついていた。
ミアオ、お前の仇はまだ生き残っていた。今度こそ息の根をとめてやる。きっとそのために私は今日まで生きていたのだ。クリスの言葉を借りれば、「半分死んだようになって」。

『BLACK SHEEP TOWN』太刀川良馬
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 太刀川良馬は本心をひた隠しに真っ向から自分を見つめようとせず、厄介事であると断じて過去の事象を避けながら今日を生きてきた。クリスと別れた際は自分がサイキックとして生まれ、人の心を分かち合う事の出来る共感性の高い能力を与えられた事に対する感謝を述べていたのに。それはどこか前向きな印象で、タイプBの心を見る事によりミアオの笑顔の宿題に対する回答を得られるかもしれないと言う可能性で満ち満ちていたように思う。
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「死の瞬間を迎えた人間と感覚を共有したのは今回が初めてだったのですがね、とても不思議な感覚でした」
「不思議な感覚?」
「それは、ただ死に行く人の心だからというだけじゃ説明がつかない。彼女がタイプBだったせいもあるのでしょう……とても独特で不思議な世界で、体験したことのないものでした。その余韻として、しこりのようなものが心に残っているんです。……いや、しこりというより、もっと別の……彼女の魂が私の心の中に存在しているような。わかりますか?」
「わかるような、わからないような……。いや、やっぱり全然わからねえな!」
クリスはそう言って苦笑する。
「そうですか、残念ですね。でも、これはとても重要なもののような気がするんですよ。何か新しい価値観を与えてくれそうな……。あの世界の向こうには、とても穏やかで平和な……満ち足りた……そんなものがあるような気がします。もしかしたら逆に酷くおそろしいものかもしれませんが」

『BLACK SHEEP TOWN』太刀川良馬、クリス・ツェー
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 しかし、過ぎ去りし15年と言う長い年月はやはり人の心を鬱屈とした諦観に染めていく事を辞さないのだろう。ミアオと死に別れた痛ましい過去から生まれた価値観。医者として振舞いながら彼女の残滓を捜し続けた名医の人生観。1人のいきずりの女の為に全てを捨ててそして舞い戻り、180度何もかも変わってしまった感情の全てが其処にある。そしてやはり僕の些末な感性では、彼のそんな人生を幸福だったと断じる事は断じて出来ないだろう。
 15年にも亘って1人の女性だけを真摯に想い続け、彼女の根源に触れんが為に個人的な夜間診療を全うし続けた。それは路地も語っていたように「感傷」と称されるに相応しい行為なのだろうが、初恋の女や美しい過去、大切だった人と言うものを未だ思い出して哀愁に暮れる身の上として、僕は彼の事を決して他人事と思えなかった。見て触れて感じていくもの全てに対していつもその面影を追いかけてしまう。口では否定しながらも、心に嘘をつく事はできない、ゾンビのように生きる自分。これは忘れたくても忘れられない人の心の弱さだろうか。しかし、忘れないと言う覚悟を背負いながらも夜間診療を続けているその姿は、確かな強さであるとも言える次第。
 そしてそういう印象を改めて振り返ってみると、僕はやっぱり「謝亮と太刀川良馬が似ているなあ」と思ってしまう訳で。
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私は先ほどクリスが使った『家畜』と言う言葉を思い出した。彼は先ほど命そのものに価値はないと言った。私はそうは思わない。命はそれ自体が価値のある美しいものだと思う。それは私が医師であるからそう思うのではなく、医師を目指す前から、心の奥に根ざした感情的なものだ。それがこのように扱われている。
彼女が自らこれを選んだのだと考えると、何か心の奥が冷え冷えとするような絶望的な苦しみを胸に感じた。

『BLACK SHEEP TOWN』太刀川良馬
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 上記は人肉バーベキューがミアオの身体を使って行われている惨状を知った太刀川が「命」と言う物に対する価値観を語る場面だが、これは前述した謝亮の価値観と同じである事が、比較して読んでみると実に良く分かるだろう。本音となる感情をあまり表に出さない性格や、参謀的なスタイルで君臨する場面を通しても、やはり彼等の価値観は非常に良く似ている。上記の本質や辿ってきた人生を照らし合わせると、彼は路地邦昭とも強く似ている。そして、クリス・ツェーと3人は全く以って似ていない。
 そんな「命」自体を最重要視する太刀川先生が仮にギャングの世界で活躍していたら一体どうなっていたんだろう。謝亮のようになっていたのか。あくまで似ている部分があると言うだけで、全く別の道を辿って行ったのか。太刀川が死んだ今となってはたらればの空想話に過ぎないだろうが、彼の辿ってきた人生について考える時、僕は無駄な事だと分かっていながらも、在り得たかもしれない夢想をせざるを得ない。


 もしミアオにもっと深く踏み込んでいたなら。ローズ・クラブへ行った時に女性陣の一覧が並んだアルバムを見ていたなら。クラブへもっと早く足を踏み入れていたなら。
 もしYSから離れずクリス・ツェーと共にギャング活動へ邁進していたなら。自分を捨て去りミアオの事を忘れられたなら。これまでに出逢った他の女と新たな道を歩み、家族を作ると言う無限の可能性も、もしかしたら其処にはあったのかもしれないし、もしくは皆目なかったのかもしれない。
 しかし、そもそもこんな妄想は考えるだけ全く無駄な話だ。そうなった時点で、考えた所で、太刀川良馬という人間が太刀川良馬ではなくなってしまう。それだけの話となってしまう。人間が自分を捨て去ってしまった時点で、それは世界に対する敗北である。太刀川良馬……黒い羊としての誇りは、彼の中にも確かにあったのだ。
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とにかくきみは、最後の最後に、この世界は地獄だというメッセージを私に残して去って行った。
あれ以来、ずっと死の世界から私を呼んでいたような気がする。
でも、この瞬間を迎えた私の感情はきみとは違う。幸福は感じない。ただ、奇妙な安堵感はある。
これは――なんだろう?
小学校のマラソン大会で、運動が苦手な私がへとへとになって、やっとゴールに辿り着いたような、穏やかな気持ちだ。
そのゴールには、もう二度と会えないと思っていた、たくさんの懐かしい顔が待っているのだろう。
そう考えれば、何も寂しくはないのかもしれない。
だけど、その安堵感だけじゃないんだ。
私には、もっと強い別の感情があるんだ。
ミアオ、私は生が惜しいよ。
たとえ毎日目を覆いたくなることばかり起きるこの世界でも、きみがいない味気ないこの世界でも、私は惜しいんだ。

『BLACK SHEEP TOWN』太刀川良馬
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 クリス・ツェーやミアオの幻影を見た事について考えた際、太刀川良馬の心中には椎野きらりを喪った前島鹿之助を思い出してしまうような感無量の情熱が確かにあった。此処にもあった。その想いを無碍にする行為等、恐らく太刀川良馬自身が1番それを許さないだろう。
 思えば僕が『BLACK SHEEP TOWN』の体験版をプレイしていた時、最も心を深く捕らえて離さなかったのは、金色の夢に光るミアオの温かな笑顔だった。全く太刀川先生の事を笑えない。それ程までに、忘れられないと感じる程に、それは温かくも美しい微笑みだった。
 そんな彼の心を描いたこの場面は路地邦昭の妄想が場を占めているのかもしれない。死ぬ前に本人が何を考えていたのかと言うのは、幾ら鍵を必要としない能力が使える鬼であっても破れない開かずの扉であり。その気持ちは当人以外は誰も知る由のない未知の領域に他ならない(死者との対話が出来る能力者が存在するなら教えてくれるかもしれないがね)
 そしてだからこそ、太刀川良馬はそれを求めたのだろう。幻影に死んだ奉仕者。夢幻の世界を生きた流浪者。幻をも現実と認知して生きた、そんな幻の如き現実を生きた名医は死する内も尚、命を求め、ミアオの笑顔のその先に、生の謳歌を学んだ次第。彼女こそが生の要であり、その先を歩む標だったと証明しつつ。彼が最も大事にしていた「命」はこうして無残に儚く散ったのだ。
 しかし、想いは後世にも受け継がれる。
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「タイプAというものの存在が認知されると、これまで我々が築き上げてきた科学理論というものが根本的に崩れ去ってしまいました。人間の意志や考えだけで、触れてもいないものが動いたり、壁の向こうが見通せたりなんて、あまりにもふざけた話です。そんなものあり得るはずがないんですよ。ただ、夢のなかでならそういうことも起こる……今のこの世の中は夢が脳内に留まらずに現実にはみ出しています。世界を構成するルールが狂ってしまったのか……あるいは最初からルールなんかなくて、たまたま紛らわしい振る舞いをしていただけなのか……とにかく、こんなでたらめな世界で起こる色々なことにいちいち振り回されていても仕方がありません。受け入れる事です。そして必要なものだけを追い求めるべきです」

『BLACK SHEEP TOWN』太刀川良馬
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「もちろん科学的には間違っている。でも、今のこの世界だったら、そんなこともあると思わないか? ミュータントが現れてから、人間ってのは念じただけで物を動かしたり、触っただけで鍵を開けることが出来るようになったんだぜ。あんたの強い意志が、現実を塗り替えることだってあるかもしれない」

『BLACK SHEEP TOWN』路地邦昭
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 歴史の中で。連綿として。確かな形で。誰かの心に残り続ける。必要なものだけを追い求める。
 死者の想いを抱き締めて、生者の奉仕は事を成す。親友の息子に報いる形で、死者の奉仕は事を成す。
 彼の命は確かに価値で溢れたモノだったんだ。僕はその影響がどうしようもなく嬉しくて。でも哀しくて。やっぱり嬉しくて仕方ない。
 人間と言うものが死んだら終わりなのは分かっている。しかし、もし死後の世界が存在するのなら。幽霊と言う存在が実在するのなら。グレートホールに引き寄せられて、魂魄の概念だけでも生き続ける事が出来るのならば……どうか太刀川良馬の強い意志が、ミアオと2人で温かく安らかに暮らす世界を結びつけ、其処へクリス達も交えて賑やかに、過ごしている事を強く願う。願う他にない僕だった。















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「キャロル、幻想から解放されるのだ。物語に始まりがあり、終わりがあるという幻想を捨てるのだ。物語には始まりなど無い。終わりも無い。あるのはただ、人と人が繋がり、作用し合い、影響し、拡散していく生の在り様だけなのだ。物語に終わりなどあってはならないのだよ、キャロル」
「副社長、私には難しすぎます……」
「おお、これは悪かったぁ。だが、そうとしか言いようのないこともあるのだよ」
「じゃあ副社長、どうして物語には終わりがあってはいけないんですか?」
(中略)
「この質問には、無数の答えが用意出来るだろう。だが、お前の為に敢えて分かりやすい答えを教えるとすればだ……楽しいからだなぁ……」
「楽しいから?」
「そうだ、楽しいからだ」
「物語に終わりがない事に不満を持つ人もいるんじゃないですか?」
「それもまた楽しみなのだ、キャロル!」

『BACCANO! バッカーノ!』第16話「物語に終わりがあってはならないことをキャロルは悟った」ギュスターヴ・サンジェルマン、キャロル
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DAY4.The World is not Yours,But……

 「結局の所さあ、この『BLACK SHEEP TOWN』って物語は一体何を伝えたかったんだよ?」

 そんな疑問が何処かから聞こえてきそうな程、僕は盛大な回り道をしてしまったように思う。発売から数ヵ月後に投稿する筈がずるずると先延ばし、何かとスランプになり、やる気もなくなり、こうして舞い戻ってきたのがごく最近の事である身の上の人間として、僕も路地邦昭の事を馬鹿には出来ない。全く以って笑っちまうぜ。ハハッ!!
 そして何とか漸くこうして紡ぎ上げたこの最終章。『BLACK SHEEP TOWN』と称される不死のスパイスを加えた群像劇。終わりの無い祭りを描いた本作におけるテーマの1つについて最後に語る事で、本批評は幕引きとさせて戴こう。
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「私は、人間より偉大な何かは存在すると思っています……きっと、我々がこうして醜く争う姿を、世界の上から見つめているのでしょう。そして私たちの誰にも伝えられない苦しみや悲しみも、ご存知なのです。そうでなければ、あまりにも残酷すぎる……」

『BLACK SHEEP TOWN』運転手
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 僕達人間は、この連綿と紡がれてきたY地区の歴史を描いた叙述を通して「偉大な何か」に摩り替わる。俯瞰した僕がこの世界を通して見えてきたのは「個々人にはそれぞれ『自分の物語』が存在し、誰にも伝えられない喜びや悲しみ、苦しみや淋しみを抱えながらも全うする事を余儀なくされる」と言う悲しき哀しき事実である。
 誰を中心に据えるかで千変万化に姿形を変える事件の中、それは多種多様且つ十人十色な千差万別の道を築き上げていった。満たされない孤独を配下に据えて、実行する手段を手中に据えて。此処で語れなかった、語られなかった部分も含めて、多くの現実的な血が地上に流れて。あるだけで大切だと思えるその命が儚くも身体の中から離れて行った。
 その成れの果ての序章が最後に描かれた「Y地区」の姿である。屍の上に立つ街は今尚健在ながらも、其処に以前までの活気は存在しない。全ては虚しい1つの栄枯盛衰、盛者必衰。屍と同じように街も死に絶え、間もなく衰退を向かえるのみ……と考えるのは聊か気が早い話だろうか?


 しかし、そんな変わり果てていく地上の中にも生まれてくるものは確かにある。其処にある『人生』は関わった人の数だけ存在していく。彼と彼女も、また然り。
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「色んなことがはっきりして、全部が終わったら、そうしたら……だから、ちょっとだけ待ってくださいね」

『BLACK SHEEP TOWN』汐松子
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「それより、最近思うんですけれど、人間には、運命というものがあるのかもしれませんね」
「なんだい急に」
「実は、今、自分についていろいろ調べているんです。それで、新しいことがいろいろわかってきて」
「へえ、それはすごいね。何がわかったの?」
「父が私を拾う前のこととか……。リョウさんが最近忙しかったように、私にもあれからとてもいろんなことがあって……全部はっきりしたら、リョウさんにも報告したいです」
「今わかっていることだけでも、教えてよ」
「それは駄目ですよー」
松子は笑って言う。気になったが、何か考えがあるのだろう。

『BLACK SHEEP TOWN』汐松子、謝亮
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こんな風に思いながら彼女と話すときが来るとは思わなかったな。僕は彼女がちっぽけな肉片だったときから、いつも自分の一部のように思って守ってきたし、色んなことを教えて来た。僕だって、一生ずっと一緒にいるものだと思っていたんだ。
だが、これでいいのだろう。
今の彼女は以前ほど僕を必要とはしない。昔よりもずっと感情を表現出来るようになったし、自分のことは自分で決められて、本人なりの夢も希望も持っている。こんな風に積極的に自分の人生を楽しむようになるだなんて、僕の理想通りじゃないか。
少なくとも今彼女がこうしているということは、僕の夢が一つ叶ったということだ。他の全ての夢が実現しなくとも、僕が何もない世界に行くのだとしても、彼女がこのまま自分の日常生活を送っていけるのならば、全てが無駄だったということにはならない。
今日食事に誘えてよかった。
やっとそう思えてきたとき、
「……やっぱり私、リョウさんが遠くにいると寂しいです」
それまで施設の子供たちの笑えるエピソードなどを話していた松子が、急にそんなことを言い出した。
抑えてはいるが、悲痛な声だった。
(中略)
「いろいろ、申し訳ないと思っている」
「とんでもないですよ。でも、お互い最後にしようと思っても、きっと最後にならないような気がするんだけどな」
松子は肩をすくめ、
「これってただの錯覚なんですかね? 私、物心ついたときからずっとリョウさんがいたから、最後っていうのがどうしてもよくわからないんですよね。少し時間が経ったら、理解出来るようになるのかな……」
その声は震えている。
僕は何も言えず、彼女が自分で心の整理をつけるのを待つほかなかった。
「へんなこと言ってすみません。でも、大丈夫です。ただ、子どもの時から、リョウさんとはずっと一緒にいるんだなって、そう思ってたんですよね。だからちょっとだけ……」
彼女はまた笑う。そして、笑った拍子に涙がこぼれた。

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮、汐松子
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「歯車が狂っちゃったんだよ。私たちのせいで……。それに、松子が死んだのだって私たちのせいじゃないか。松子は関係ないただの友だちなんだから、コシチェイにあんなことをさせないようにしなきゃいけなかった。……だから、私たちは汐松子を届けなきゃいけないの。ねえ、汐松子を蘇らせられるんでしょ? そうしたら、一緒に暮らしなよ、そしたら、菅原亮も少しは元に戻れるかもしれない」
そのおとぎ話みたいな江梨子の言葉を一笑に付したかったが、僕の顔はひきつって笑えなかった。

『BLACK SHEEP TOWN』灰上江梨子、謝亮
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 ワンス・アポン・ア・タイム。昔々の、今や既に遠い過去の、愛すべき記憶と成り果てた出来事。
 思えば、最初の「待ってください」は逆だったんだな……と思わず苦笑してしまう程に長い時間が経ってしまった。Y地区から抜け出したい謝亮が共に街の外へと出て行きたくて持ち掛けた提案。自身の遍歴を確かめたかった松子は申し出を断り、運命が噛み合わなかったその結果、2人は離れ離れになり、再会のチャンスは別れを告げるきっかけと変わり、そして気がつけば10年と言う長い年月が経ってしまった。灰上江梨子が語った松子との夢想の御伽話も謝亮の死と共に潰えてしまった。
 全ては昔々の話。今や既に遠い過去の、愛すべき記録と成り果てた御伽話である。
 しかし『人生』は未だ終わらない。連綿と確かに続いて行く。彼と彼女も、また然り。
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「おれが一人で見に行ったら、謝亮は死んでいるよきっと。でも、誰よりも彼と会いたいと願っているあんたと一緒なら、一番良い形で生きているような気がするんだ」
「そんな……」
「もちろん科学的には間違っている。でも、今のこの世界だったら、そんなこともあると思わないか? ミュータントが現れてから、人間ってのは念じただけで物を動かしたり、触っただけで鍵を開けることが出来るようになったんだぜ。あんたの強い意志が、現実を塗り替えることだってあるかもしれない」

『BLACK SHEEP TOWN』路地邦昭・汐松子
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 この『BLACK SHEEP TOWN』と言う作品は、マフィアやギャングを題材とした作品の要素を随所に織り交ぜた舞台を生きなければいけない『物語』と、その枠組みに支配されながらも確かな自分だけの価値を見出そうと動いた『人生』の対比が明確に紡がれていた。全てのキャラに価値があり、全ての描写に意味がある。「Y地区」と言う街の中で生まれ、個々の価値観を抱きながらも生き、自分だけの大切な存在を愛し続けた。『物語』と言う世界の中でどんな人生を辿りながらも、懸命に力強く生きた黒羊達の『人生』の記録が、確かに其処にはあった次第。
 そして本作の素晴らしい所は、この終盤からの遣り取りにある。作中世界が「世界劇場」である事を逆手にとって、自らの役を演じ切った彼と彼女の想いを『物語』の中で昇華させて『人生』を塗り替えた箇所にある。そう、言わば本作は『ギャング・ストーリー』の「主人公は必ず悲惨な最期を遂げる」と言う在り来たりな『物語』の結末で終わらなかった所に、最大の真価が存在するのだ。
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「いろんなものが鎖みたいにからみついてて普通なんだよ。みんな自分の物語に縛り付けられている。勝手な一抜けなんかしたら後の人がこまる」
「でも、木村くんには、もうちょっとくらい何かあっても良いと思う」

『CARNIVAL』木村学、渡会泉
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 瀬戸口廉也処女作において、自らの運命に縛り付けられ『自分の物語』を全うする事しか出来なかった少年がいた。
 彼の作品はその後もそれぞれ『自分の物語』に縛り付けられた登場人物達が等しく相関関係を築き上げていきつつ、そんな世界に対して反抗する事しか出来なかった。その世界で生きる事を選ぶ他に道は存在せず、その中でも負けない決意を唱え続けた変遷しかなかった。自分の思ったように生きていけたら。それが叶わない世界でも懸命に前を向いて生き続ける他にない『物語』しか、其処には無かった次第。
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「おれもね、あんたと亮が再会するところを見たいのさ。生き別れた恋人が、お互い一度死んで、生まれ変わって再会するんだ。その感動の場面こそが、ラストシーンに相応しいからね」

『BLACK SHEEP TOWN』路地邦昭
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 しかし、本作はある意味初めて、この『自分の物語』を作り上げた世界に対する「反逆」を成し遂げたのだ。異能を根底に据えた作品とする事で、彼と彼女に関わった人間達の想い――路地邦昭、太刀川良馬、エリー・ホワイトが叶える事の出来なかった再会の情念――を受け取る事で、この2人の奇跡のような現実は見事に成し遂げられたのである。
 この台詞は「路地邦昭」と言う語り部を通して見出されし「瀬戸口廉也」の意志なのだろうか? だとするならば……それは、なんて優しく温かく気高く美しい『物語』への愛にも満ちているのだろう。動かされた心に価値があり、その感情こそ最も意味のあるものだとすれば、この文章を読み終えた時の感慨は今尚鮮明に覚えている程、素晴らしいものだった。僕の感情は間違いなくこの「ラストシーン」に全て収束されて、物の見事に囚われたと言っていいだろう。
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「ベルーハさん、目をそらさないで聞いてください」
「そ、その仮面をつけて言うのは卑怯です……」
ベルーハはそれでも言葉に逆らえず私を見る。その表情は、ここに来てから初めて歪んでいる。
「私はあんたにしっかり聞いて欲しいんですよ。……なあベルーハさん、あんたはクリス・ツェーの息子とその恋人を引き合わせなければいけない。そして、その場面に立ちあうんだ」
「なぜ私がそんなことを……」
ベルーハの青い目にうっすら涙が浮かぶ。この仮面の効果は思った以上に絶大なようだ。
「あんたに彼らの邪魔をする権利はない」

『BLACK SHEEP TOWN』路地邦昭(太刀川良馬)、エリー・ホワイト
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 それは「屍の上に立つ街」の現実としては奇跡に近い出来事でもありつつ、寧ろ逆にあまりに現実的過ぎると言えるかもしれない。喪われた命は数知れず。叶わなかった想いや満たされなかった心を置き去りにして、それでも生き続けなければいけない世界がある。薄まった血の呪いにより、いずれ発症してしまう可能性もゼロではないだろう。
 しかし、そんな世界の中でもまだやり直せる事があるのなら。再会を果たす事が出来るなら。誰かの為に奉仕の精神で生き続ける事が出来るなら。そして、其処で人が愛し合うなら。それだけで価値のある世界となる。
 人間らしく生きる事。人間らしく生きぬ事。その両方あって、それこそ生きる事。
 素晴らしく生きる事。みすぼらしく生きる事。その両方あって、それこそ素晴らしい。
 欲望が世界を美しく価値のあるものにする。それだけで、意味は無くとも価値に溢れた世界となる。
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「思ったようにはならなかったが、しかし生きるしかない。そもそも、我々は全員、生まれてきたから、生きているというだけなんだからね」
そう言った瞬間、松子は膝を折って泣き崩れた。
少年は立ち上がる。
それにあわせて、横方向から照らす光が作る影が、彼の顔の上で生き物のように動いた。
彼は号泣する松子に近づき、その震える肩にぽんと手を置く。
松子は微かに顔を上げ、その潤んだ瞳で、すぐ目の前で自分を見つめている少年を見る。
少年は溜息をつき、唇を開いた。
「長い間ごめん。でも、もう全部終わったんだ」

『BLACK SHEEP TOWN』謝亮、汐松子
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 変わり果てていく地上の中に生まれてくるもの。価値のあるもの。
 それは、彼と必ず共にある。





「The World is not Yours,But……Your World is only Yours.」(世界は貴方のものではない。しかし、貴方の世界は貴方だけのものだ)















DAY5.あとがき
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マクシミリアンさん、わたしはあなたに、わたしのあなたへの行動の真諦をお知らせしましょう。
この世には、幸福もあり不幸もあり、ただ在るものは、一つの状態と他の状態との比較にすぎないということなのです。
きわめて大きな不幸を経験したもののみ、きわめて大きな幸福を感じることができるのです。
マクシミリアンさん、生きることのいかに楽しいかを知るためには、1度、死を思ってみることが大切です。
では、なつかしいお二方、どうか幸福にお暮らしください。
そして、主が、人間に将来のことまでわかるようにさせてくださるであろうその日まで、人間の叡智はすべて次の言葉に尽きることをお忘れにならずに。
待て、しかして希望せよ!

アレクサンドル・デュマ・ペール『モンテ・クリスト伯』
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 今回は、僕が『BLACK SHEEP TOWN』を通して追い求めてきた軌跡の一端を認める事と相成った。本作の感想を紡ぐに当たり、いつもと違い、これまで語られてきたモノも少し拝見してみた訳なんだけど。確か「本作には深いテーマやメッセージなんてモノは微塵もない」と言う意見を多く目の当たりにした事を覚えている。
 まあ、そういう感想もあるだろう。否定はしない。ただ僕自身はそんな食べたら終わりのジャンクフードみたいに、本作の彼等が歩んできた『人生』を考える事すらしないで扱いたくないと思ったからこそ、ここまで文章を紡ぎ続けてきたのだろうと、終わった今になって思うのが正直な所だ。
 「情報を手にした瞬間、それが真実であろうと偽りであろうと、考える事を止めてはならない。物語とは情報そのものではなく、情報の蓄積でもない。考えられた結果だ」
 某新聞社副編集長の言葉の重みに、沁み沁み感じ入った執筆時間だった。


 本作は『どうでも良いとしか思われない生命が紡ぐ残酷な世界の話』であるが、その本質は『全ての生命がどうでも良くない事を魅せていく物語』である。
 人々が次々と死んでいく『物語』を「もの」として消費する全てのユーザーに贈られし『反逆の物語』であるが、最後には『人生』に対する「愛」を見事描き切った作品である。
 謝亮も、松子も、道夫も、路地も。太刀川も、灰上姉妹も、さくらも、リタも。クリスも、ジェフリーも、馬明も、トーマスも。筱喬も、アイスも、紺太も、ベルーハも。死者も生者も男も女も、黒い羊の誰も彼もが懸命に何かを演じながらも、大切なモノの為に行動する事を止めなかった。諦めなかった。それこそがこの作品の多大なる価値を、僕に強く示してくれた。
 そして、僕は特に体験版感想で述べた「愛おしき『普通』のままで彼女が生きていける世界を祈り願い奉る」と言う願いに溢れた祈りを叶えられた事がとても嬉しくて堪らない。それは紛れもなく、同じ想いを抱いた彼等による粉骨砕身の努力の賜物である。彼等が頑張って彼女を「普通」にしてくれたからこそ、自分自身も対価に入れて「普通の道」に戻してくれたからこそ、懸命に守り抜いたその「普通」が再度、最後にまた輝きを放ちながら、戻ってきてくれたのだ。
 だから僕は彼等に改めて敬意を表しながら、この批評を終える事にしよう。「普通の『人生』」に至らせてくれた彼等の『人生』に、心からの感謝を伝えるとしよう。人を生かす命懸けの愛を全うした2人に最大級の賛辞と謝辞を。本当にありがとう。


 『BLACK SHEEP TOWN』それは、自身の立場や役割、事情や心情によってどう振舞うべきかが変わる世界で、懸命に自らを演じ切った愛すべき黒い羊達の物語。生きていかざるを得なかった不死者は『物語』を終えてからも続いていく。また別の不死者の『物語』へと、人間の心を巻き込んで、更に更に時流を越えて、確かに続いていくのである。





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