哀なるかな哀なるかな長眠の子、苦なるかな痛なるかな狂酔の人、痛狂は酔はざるを笑ひ、酷酔は覚者を嘲る。
新世界より縁を込めて
☆攻略順
レイア→ミハヤ→ナユ→クオン(ルートロック)
1.はしがき
毎年、必ずクリアしているエロゲがあります。
プレイしなければ物足りない、違和感しかない、季節が到来した気がしない。ある種の郷愁を想起させるような作品をプレイしないと、感性が前へ動かない。実に難儀な性分。自分で言ってりゃ世話ありません。
現状僕の場合、『CARNIVAL』は夏が始まる7月序盤に必ず起動していますし、『腐り姫』は物語の舞台設定となる8月11日になったら必ずプレイしています。それは、夏と言う季節が生死の狭間に立つ象徴と考えているからです。
「夏まで生きていようと思った」と、作中で言わせた某作家。生者と生者、生者と死者が相見える再会の盂蘭盆会。夏が終われば自殺者増加な昨今の現状。そんな様々な要素が僕の中を駆け巡り、1つの解釈を導き出します。
夏とは、生を与えてくれる生命の季節であり、その裏で死が腹を空かして見守っている運命の時節でもあると。
昔からそんなイメージが頭の中にこびり付いて離れなかったので、畢竟本作も毎年プレイするようになったのは、最早定めと呼ぶ他ないでしょう。
それは夏の暑い最中、死んでしまった少女の魂を裁く、甘くて優しすぎた未熟者の物語。そんな彼と彼女等の繋がりがただ只管に「生きろ!」と心の底から伝えてくる傑作。そして、縁を軸とした輪廻に関して述べるなら『なないろリンカネーション』より良く出来ていると感じた逸材です。
唯一この作品だけは、発売日に是非ともお会いしたかったと思いました。なぜなら、その時本作をプレイ出来ていれば、リアルタイムで想いを伝えられたのに……と痛切に実感したからです。本作を語る際はどうしても、そんな悲憤の念が湧き出てしまうのが実情と言えます。
しかし、過ぎ去りしどうしようもない流れに後悔しても詮無き事。だから今回、このより良い機会に改めて本作を批評していくと致します。
「ぱじゃまソフト、20周年おめでとう!」の意も込めて『夏の終わりのニルヴァーナ』語っていくと致しましょう。
※
批評へ入る前に1つだけ。
Adobe Flash Player廃止の影響で、本作の公式サイトは2021年から見られなくなる可能性があります。
中々手が込んでいて、僕は結構好きなサイトなので、興味のある方はお早めに。
2.使用クラシック・オペラ・ジャズBGM(編曲済み)
『夏の終わりのニルヴァーナ』に登場するアレンジBGMを羅列しました。
1人攻略すれば鑑賞画面のサウンドで分かりますが、その前に気になってしょうがない人向けです。
○アントニーン・レオポルト・ドヴォルザーク
・交響曲第9番 ホ短調 作品95『新世界より』
・『8つのユーモレスク』作品101 第7曲「ポコ・レント・エ・グラツィオーソ」変ト長調
○エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ『ペール・ギュント』作品23 第4幕「朝」
○ジョルジュ・ビゼー『アルルの女』第2曲「メヌエット」
○ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
・『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』K. 525(「セレナード第13番」)
・『きらきら星変奏曲』ハ長調 K. 265(原題:『フランスの歌曲「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」による12の変奏曲』)
○ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 管弦楽組曲第3番 BWV1068「G線上のアリア」
○ロベルト・アレクサンダー・シューマン『子供の情景』作品15 第7曲「トロイメライ(夢)」
○モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 組曲『展覧会の絵』
○ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル『メサイア』第2部:メシアの受難と復活、メシアの教えの伝播「ハレルヤ」
○ジャック・オッフェンバック『地獄のオルフェ』(別題:『天国と地獄』)序曲第3部「カンカン(ギャロップ)」
○ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ『レクイエム』「Dies Irae(怒りの日)」
○ピエトロ・マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲
○ジョージ・ガーシュウィン『ラプソディ・イン・ブルー』
3.共通ルート
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(原文)
三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず。生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。(空海『秘蔵宝鑰』序)
(現代語訳)
迷いの世界に狂える人は、そこが狂っている事を知らない。真理に盲目な生きとし生ける者は、自分が何も見えていない事が分からない。人間は何度も生まれてくるが、その時に何が真理であるかを知らず生まれてくる。そして、何度も死んでいく時でさえ、真理に目覚める事無く死んでいく。
(解説)
「三界」とは……?
欲界(欲望にとらわれた者が住む世界。我々人間の住む世界を指す)
色界(欲望は殆ど超越したが、まだ物質的な形のある世界。欲はほぼ消え失せたが、その形にはまだ囚われている者が住む)
無色界(欲望も超越し、物質的な形もない世界。欲は消失して形も無いが、精神作用のみはまだ現存している世界)
の総称であり、人間は生死を繰り返しながらこの3つの世界を輪廻していると説いた。
「四生」とは……?
仏教における生物の分類方法であり、その出生方法によって胎生・卵生・湿生・化生の4つに分かれる、つまりは「生きとし生ける全ての生物」
どんなに優れた学者や知識人であっても、何故生まれるのか、何故死ぬのかを知らずに輪廻の流転を繰り返すならば、それは盲人と変わらない。果てしない輪廻転生の連鎖に苦しみ続けている間は、悟りを開けていない証明
ニルヴァーナへ到れば、この三界の住人ではなくなり、輪廻から解脱した事になる。
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それでは、これより本作を語ろうかと思い立った所で困った事。どうやら早速他人との感性がまるで違うじゃねえかと思い至る状況へぶち当たりました。
「共通ルートがつまらない」
本作をプレイした多くの方を打てば響くこの壮言。耳に蛸が出来て「もう聞き飽きたわ」と鬱陶しく感じてしまう程、そんな感想が耳目に触れます。
これこそ正に寝耳に水。普通に楽しんでプレイしてきた身としては、それこそ耳目を疑う呆然の一言。「共通ルートが面白い!」と思ってなければ、そもそも毎年本作をプレイ等しません。カルマと彼を取り巻く彼女等の掛け合いを純粋に笑って楽しんだ僕。クリアして色んな感想を眺めたあの時程、絶句の一文字が揺蕩った事は無いでしょう。
自分のギャグセンスがおかしいのか?と考えたりもしましたが、それを証明する為の手立ても無いので、個人の見解を僭越ながら述べさせて貰います。
基本僕はキャラの好みや世界観に嵌れば、何でも夢中になって楽しめてしまいますが、如何せんそこへ没入出来るまでが難しくて。面白みの無い文章や無個性な会話がキャラゲーとして場を席巻する昨今、個性が浮き出ているならば、それだけで価値があると考えてしまう思考でござい。
その点において本作は、造形描写は分かりやすくありながらも、そこに渦巻くキャラクター性やテキストのテンポ、類稀な世界観が酷く強靭。それぞれが実に素晴らしい個性の塊として、猛烈に美味く感じていた次第
ヒロイン勢の濃さは声優含めてもピカイチであり、そんな彼女達と触れ合う中で「天国と地獄」や「展覧会の絵」等の最強アレンジBGMが流れ、知る人ぞ知るネタが仕込まれ(『どろろんエンマくん』『セクシーコマンドー外伝 すごいよマサルさん』『ブレードランナー』『フルメタルジャケット』『ドルアーガの塔』『コナミコマンド』etc……)主人公カルマの性格が更に面白くさせ、その上、後の展開に繋がる伏線も上手く挿入されています。
彼の過去を垣間見る力がただの面白可笑しい共通ルートで終わらせない証明として見事機能し、この絶妙なバランスを保ったまま、ノリ良く駆け抜けた鋭い手腕こそ、本作のテキストとシナリオ構成の妙であります。だからこそ、この流れへ導いた共通ルートを高評価したく感じた次第
ヒロインの好みにおける詳細付記。僕の場合、本作ではナユが1番好きだったんですが、彼女が会話に加わるだけで、カルマとの掛け合いは凄く楽しくなりました。一緒に居るだけで、こっちも自然と元気になってしまうような能天気。いつも元気いっぱいのナユが垣間見せる、暗い部分を内に秘めたギャップ。しかし、前向きに僕の好きな映画ネタ、ゲームネタを出してくるシーンの数々。その全てが偏に好ましく感じました。特に『ポール・バーホーベン』は大好きなので、笑いながらも感嘆の頻り。ネタの提供者としても、魅力的なヒロインとしても、可愛いナユと過ごせて本当に幸せだったと感じます。
また、流れる楽曲の素晴らしさ。作風にあった編曲をする事の大変さは身に沁みて分かる若輩として、本作のBGMは本当に完璧。クラシックのアレンジは「ぱじゃまソフト」の十八番でこそありますが、この作品の出来も至極手が込んでいた次第。特に『新世界より』『トロイメライ』『展覧会の絵』『天国と地獄』『カヴァレリア・ルスティカーナ』は言う事無しの傑物
新曲も『新緑』『寂寥』『悲愴』『絶望』『焦燥』と、どうしてここまで心に沁みる楽曲を作れるのか、偏に疑問が湧いた優秀なモノばかり。I've Soundはマジでマーベラス。賞賛の拍手で迎えたく思います(サントラ出てないのが本当に悔しい)
そして何より、要所要所で上手く過去の情景から来るシリアスを混ぜて、ただの面白おかしい共通ルートに留めていない。そこを上手い演出で大事に取り扱っていたのが、至極好印象の極みだったんです。
序章で最初に挙げた空海の言葉(上記の文章)があります。これは本作において、少女達(+彼の事でもあるがここでは不明)を端的に言い表している格言です。三界の狂者。盲目の愚者。だからこその共通ルート、ハイテンションドタバタコメディである皮肉に、誰も言及してないのが、実に悲しくてなりません。
『夏の終わりのニルヴァーナ』は、常世へ来てしまった少女達の「生」を描いた物語。そして、この「生」は「未だに悟り切ってない者の象徴」です。本作の共通ルートが、カルマを基点とした「成長してない者」のイメージで語られるのも。記憶を失った少女が取り戻すまでの前段階として機能しているのも。全て空海の言葉を参考に描かれているからと言えます。
未熟者達の集いが形となって刻まれたモラトリアムこそ本作の共通ルートであり、以上の観点から、僕は何ら問題なく楽しんで進められました。『夏の終わりのニルヴァーナ』=「共通ルートがつまらない」って方程式で纏めておけば良いや!と思ったら大間違いです。そんな安易な結論で終始した好悪のみに留めず、自身で体感して確かめる重要性も切に感じたルートと相成った始末
ってか、ドタバタギャグコメディとか天丼ギャグとか、需要が無いんでしょうか。Liar-softのバカゲーなんて僕は大好きだったんですが、今はそういった作品をあまり見かけなくなりました。過ぎ去りし時代に思わず想い馳せてしまう、ある意味僕にとっても考えさせられた共通ルートだったのでした。
3.レイア&ノノルート
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(原文)
罪ふかければとて、卑下し給ふべからず、十悪五逆廻心すれば往生をとぐ。功徳すくなければとて望をたつべからず、一念十念の心を致せば来迎す。(『平家物語』巻十「戒文」法然の言葉)
(現代語訳)
自身の罪が深いからと言って、自分を卑下する必要はないんです。十の大罪、五の悪行を犯しても、心を改めたなら極楽往生を遂げられます。善行が少ないからと言って、望みを絶ってはいけません。念仏を一度唱え、十度唱えと心を尽くしたなら、仏は貴方を迎えてくれるでしょう。
(解説)
奈良の都に火を点けて、興福寺や東大寺を炎上させる「南部焼き討ち」の罪を犯した平重衝。処刑される前に「法然様へ会わせて欲しい」と語る。彼は法然に会った途端、「私はたった一つの善い事もしていない。善行も働いていない。こんなに貴い奈良の都へ火を点け、大仏殿まで焼いてしまった。このままでは地獄に堕ちて獄卒の拷問を受ける。どうしたらいいでしょうか」と涙ながらに懇願した。その懺悔を受け、同じく涙を流して共感した法然が語ったのが上記の言葉である。
寺院を破壊して僧侶の命を絶つと言うのは、阿弥陀仏の本願でさえも本来は救えない業であった。そこを「回心すれば往生する」と唱える所に、法然の徹底した救済思想がある。
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まずは1番ムカつくヤツからやろうってのが、ヒロイン攻略第1項。その結果選ばれた少女こそ、九条院玲亜嬢その人でございます。コングラッチュレージョン!
なんて妄言からも分かるように、正直あんま期待しないで読み進めたんです。すみません、文句無しで大号泣したので、謹んで謝罪致します。嗚咽が漏れて、涙で前が見えなくなる位に止め処なく溢れてきて、下手したら脱水症状でエロゲプレイしたままおっちんじゃうんじゃねえかと危惧しちまった程、沁みたシナリオでした。
何度もクリアしてきた僕が思うに、このレイアルートは1番に攻略した方が良いと思っていて。
特に共通ルートでキャラクターの誰かしらにムカついた人は、絶対に彼女のシナリオからプレイすべきと考えていて。
と言うのも、このシナリオではそんな登場人物の振る舞いに対して、カルマから明確な答えが告げられているからです。
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「確かにお前の言う通り……人間には汚い部分、醜い部分がある」
「ミハヤやナユ……クオンに、脱衣婆たちも……」
「他者を顧みなかったり、己の都合に周囲を巻き込んだりすることはある」
「お前の嫌う、見たくない部分が、見えてしまうときもあるだろう」
「かく言う俺様だって、きっとお前の知っている通りの存在なんだ」
「でも、だけどな……」
「あいつらは、お前のために、ああやって言ってくれる奴らなんだ」
「あいつらには、伝えたい言葉がある。知りたい気持ちがある」
「おまえと、同じ世界にいるために」
「それはやっぱり、あいつらの都合なのかもしれないけれど……」
「それでも、そこに嘘や偽りはない」
「嘘や偽りなら、俺様が斬ってやる」
「本気の言葉に目を閉じ耳までふさごうってんなら、俺様が説いて聴かせてやる」
「だからあの声に耳を傾け、そしておまえの声を聴かせてくれ」
「俺様たちはお前を信じる」
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ
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この台詞を「カルマ」が言う所に、僕は至極価値があると思うんです。共通ルートでは正直、好待遇と呼べなかった彼が、きちんと彼女等の真性を理解した上で甘んじて受け容れたからこその「これまで」だったんだと。それを言わずとも察していた彼だから、父親やマスコミ、クラスメイトに側近達と、誰も信頼出来ずに人は醜いと思い込んだレイアを諭せるんだと。此処ではっきり分かるから、彼の度量に感服するんです。
この時点で「カルマは良い主人公である」と確信持って断言出来たのは実に大きくて。救い救われる構図に、主人公の真価ってヤツを強く感じられたのは、本当に良かったと言えるでしょう。
さて、レイアの業について。
彼女の罪は信頼していた人に裏切られて、人間は美しくない「醜い存在」であると思い込んだ業にあります。これは延暦13年、優しかった祖父、藤原是公の非道な策略を知って食い止めようとするも、彼の手によって殺された藤原伊予の悔恨が土台にあったと分かります。レイアの反応から察するに、父親もまた藤原是公と同様「変わってしまった」んでしょう。見方が変わったか、性格が変わったかは知る由もないですが。
これは、そんな彼女がもう1度「人間を信じられる」までのシナリオです。見たくないと目を塞いだレイアが、カルマを橋渡しとしてノノの手を掴み、その先に居る無数の人間へ再び「目を向ける」事が出来た物語です。
そして、その裏ではノノと住む世界が違う為に別れなければいけない現実があり、そこを受け容れなければ生き返る事の出来ない無常があって。だからこそ、最後にノノとレイアの記憶が追想されるあのシーンが物の見事に映える次第
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「ノノは……おまえを助けるために、死んでいる」
「そうして救われた命を、無駄にするんじゃない」
「ノノの気持ちから、目を背けるんじゃない」
「よく見てやれよ……ノノの姿を」
「受け止めてやれよ……生きてくれると信じた、大事な友達の気持ちをっ」
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ
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ノノが寧々だった時、彼女は伊予の傍に居られませんでした。伊予の命令に従う為、傍に控える事が出来ず、助ける事も出来ず。双方命を落とし、彼女の場合はそれが業となって、1200年彷徨い続けました。
しかし、盲導犬として生まれ変わった彼女は、今度こそ「ご主人様」を救う事が出来たんです。それは、果たされなかった悔恨を後世で解消し、自力で成し遂げた「生きた証」となります。それを思い出すと、僕はどうにも涙が堪えられなくなってしまう始末
そんな彼女からご主人様へ与えられる命のエール。生命のバトン。受け継がれる魂。ご主人様へ心を尽くして生きる事を選んだ家来と、家来の忠義を胸に生きていく心を改めたご主人様の決意が、実に沁み渡ったシナリオなのでした。
と、ここまで賛美で語ってきたレイアルートですが、2つ程欠点があります。
①レイアもしくはノノと、カルマが恋人っぽくない。
ご主人様とその家来であるレイアとノノの関係性が兎角重視されており、普通に楽しむ分だとカルマはそこに割り込む男性キャラとしての役割しかあまり感じません。
他ルートだと恋人らしい事をしたりして、関係を深めたりしているんですけど、このルートに限っては肝心のレイアがノノにべったりな為、それもまた不足。レイアがカルマを気になっている(これもまた業?)のは描写で分かるんですが、それも個別ルートだと鳴りを潜めたまま過ぎ去った印象で綴じられます。
本ルートは彼女等2人の関係が兎角重視され、カルマはあくまでそこを繋げる役割でしかありません。だから煩悩ノ章は個人的に違和感マシマシだったのも、ここだけの話なのでした。
②レイアのキャラクター
自分勝手なお嬢様と言う立ち位置は、カルマに裁かれる終盤まで変わる事がないので、人によってはストレスが溜まるでしょう。僕は「気持ちは分かる」とほぼ終始客観的に見る事が出来ましたが、クオンに対しては先に謝るべきだったんじゃねえの?って追及が少々湧いたのも事実。ただ、最初の頃よりは好きになれたので、その点は良かったかなと思えたレイア嬢なのでした。
まあ、ノノは終始可愛くて大好きだったけどな!(本作で2番目に好きなヒロイン)
4.ミハヤルート
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(原文)
我身即弥陀、弥陀即我身なれば、娑婆即極楽、極楽即娑婆なり。(源信『歓心略要集』)
(現代語訳)
自身が阿弥陀、阿弥陀が自身となったらば、この世界は極楽、極楽こそが世界となる。
(解説)
「自分自身とそこに住む世界から離れる事で、得られる悟りや仏国土は無い」と言うのを端的に示した言葉
厭世主義に陥りがちな浄土思想において、目を逸らさず自分自身を肯定して賢明に生き抜いてこそ、阿弥陀仏の救いを肌身に感じられると説いた源信の考えが表れている。
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次に攻略したのは橘美羽夜のミハヤルート。「Project of Secret Birthday Party for Mihaya」通称「プロジェクトM」を立ち上げて、彼女の誕生日を祝う御話。自殺志願者で死にたがりの彼女に、自身の生まれた日を祝わせると言う、猛烈に皮肉のエッセンスが効いたシナリオです。
まず、1つだけ難点を。ヨウコと言うキャラクターが作中、カルマの思考から突然登場します。突如として知らぬ名前が出てきたので、此方としては大変混乱致しました。何回プレイしても、その名は聞き覚えがなかったので、恐らくライターのミスです。水に流しましょう。
ミハヤルートは、攻略対象のミハヤと、彼女の父、それからその「ヨウコ」が関係した物語になっており、また「赤ん坊が産声を上げる理由」について2つの見解が挙げられるシナリオであります(一方はウィリアム・シェイクスピアが『リア王』で語っていた内容「人は皆、泣きながらこの世に生まれて来る。だが、この世を去るときは人それぞれだ」「赤ん坊の産声は、この世に否応なしに引き出される、恐ろしく不安でならない孤独な人間の叫び声なのだ」)
自分が生まれた事によって母を殺してしまった事。自分が犯した不手際によって父を殺してしまった事。その結果、自身を呪われた身であり、幸せになるべき存在じゃないと断定付けるようになったミハヤ。その強き思い込みは、ずっと彼女を苛んで来ました。
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「生き物は、自らの意志で誕生することはないっ。だから、生を受けるというんだ」
「でも、この世に生を受けた後は、自分の責任で生きていくように定められている」
「生を呪いだなんて安易な一言ですませるんじゃない。そんなもの、おまえが意識して取り込んだものなんだ」
「生きる自由を手に入れたものが、軽々しく生きる理由を捨てるんじゃない」
「おまえを許していないのは、おまえだ」
「おまえが自分を許していないんだ。自分が無力だったことを、おまえ自身が許せていないんだ」
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ
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傍にいてくれた者へ凶事を植えつけ、何も出来ないまま傍観し続けた結果、自殺した美羽の業。それが1200年後、受け継がれしミハヤの業として根付きます。
そんな彼女の凝り固まった因果を解す為に、このシナリオは存在していると言えましょう。
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「ミハヤ、生きろ、生きろ、生きろっ、生きろっ!」
「私の分まで……幸せに……生きて……ください……」
「お姉ちゃんが守った命を……翔一さんが守った命を……どうして……私が憎むと思うのっ」
『夏の終わりのニルヴァーナ』翔一・麻夜・陽子
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誰かが誰かの屍の上に生きる時、死んだ者の想いを受け継いで生きようとしない行為程、人を馬鹿にしたモノはないと思っています。
その点において、間違いなくミハヤは大馬鹿でしょう。カルネアデスの板を手放した2人の奉仕を無に帰し、命を賭けて託した想いがまるで伝わっていなかったんですから。命を賭した行動の意味が、彼女の中には入ってなかったんですから。それを大馬鹿と言わずして、何と言えましょうか。
人間は他者の想いなんて分かりません。しかし、それを懸命に伝え、形にしようと支えてきた人は、ミハヤの隣には確かに居た次第。彼女ではお母さんにこそなれませんでしたが、それでもミハヤを支える義務を、お母さんだったらするだろう責務を、決して欠かす事はなかったんです。
そうして一生懸命向き合ってきた彼女の言葉も聞かず、部外者の噂だけに耳を傾け、自殺志願者として生きる道しか見出さなかった1人の少女。こんなの本当にふざけてやがると、無性に苛立ちの悔し涙が零れてしまいました。
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「ミハヤ……何があっても、生きるんだ」
「お願い……幸せになって」
「ふたりの愛を……あなたに、届けなければ……」
『夏の終わりのニルヴァーナ』翔一・麻夜・陽子
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しかし、ミハヤはそこまでの大馬鹿ではなかった。愚者の鎖を噛み千切り、両親と叔母の想いを知り、生きる意味を掴み直せたんですから。
橘美羽夜は「愛」に包まれていた。これは結局、それを改めて知るだけの、ただそれだけの話であり、世界から離れる必要はない事を学習した少女の話に過ぎません。
でもこれは、人間が1番見落としがちな。人が持つ意志の力は、正と負双方に強いからこそ失いがちな。生へ苦しむ全ての者が陥りがちな苦悩に立ち向かう物語でもあります。
生者全てに伝えたい。
「生き残った者は、等しく生きる権利がある」
「生を受けた者は、精一杯生きる義務がある」
それは彼女もまた同じ。両親の名前を「翔び立つ美しい羽」と「不変に過ぎる夜」から受け継いだ美羽夜の人生は、再び此処から始まる次第
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「どこにも居場所がないということは……どこもが居場所になりうるということなんだ」
「たとえ、おまえの言うとおりだったとして……おまえが寄る辺なき者だったのだとしても……それでも、おまえの居場所はある」
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ
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自分だけの権利と義務を全うする為に。彼女の居場所は、此処(浮世)にある。
5.クオンルート
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(原文)
これある故に彼あり、これ起る故に彼起る、これ無きゆえに彼無く、これ滅する故に彼滅す。(釈迦牟尼『阿含経』)
(現代語訳)
これがあるから、あれがある。これが生じるから、あれも生じる。これがなければ、あれはない。これがなくなれば、あれもなくなる。
(解説)
「ある条件が調う事によって成立する現象は、その条件が失われたら存在しなくなる」事を示した言葉
全ての物事は様々な因果、相互の因縁の元で成り立っており、決してそれらから離れた独立存在等ありえない。縁起の法則は、時間と空間を越えて厳然に貫かれている普遍の真理
物体も、現象も、そして人間も同じ。目に見えない色んな縁があるからこそ、「これ」や「あれ」は存在し、全てのものがお互いに関係しあって現存している事を肝に銘じるべしと説いている。
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次にクオンルートを語るとします。本シナリオは言わばグランドルートであり、本来だと語るべき順番にありません。最後の真打としての内容と根付いているのも事実でしょう。
しかし、敢えて僕はここで語ります。それは、本作をクオンルートしか価値がないとは思ってないから。クオンルート第一主義でもないから。そして、『夏の終わりのニルヴァーナ』をグランドルートだけに特化したエロゲと見做されるのが果てしなく嫌いだからです。
だからこれは、そんな僕の勝手気侭な我儘価値観で紡がれる感想となります。最後にこのシナリオ感想で閉じたくないと望んだ僕が、勝手に書いていく愚かな解釈に他ありません。
しかし、カルマ君も我儘に物語を終わらせました。よって僕も気侭に語らせてもらいます。その点どうかご容赦下さいませ。
さて、それではクオンルートについての端的な感想なんですけど。賛美の感想が多い中に大変申し訳ないんですが、唯一「期待外れ」と化した内容だったと言わざるを得ません。
クオンルートに関しては正直、全く泣けなかった。このシナリオをプレイするまで、本作は満点街道を突っ走っていたのに、心が少しも震えないまま、最後に出鼻を挫かれ、画竜点睛を欠いた事態となった事、今でも大変悔しく感じています。-10点の減点箇所は正直、ほぼこのクオンルートにあると言って良い位です(正直これでも甘い位かも?)
久遠ノ章は、はっきり申せばつまらなかった。4人の少女達が消えて、カルマとクオンが生活している様を見せ付けられるだけの御話に、何の価値も見出せませんでした。ダラダラつまらん日常で茶を濁すパートは要りません。時間の大切さを感じたいなら『モモ』を読んだ方が遥かに良いです。
その後、業ノ章でやっと「本領発揮か!」とテンション高めに読み進められた次第。随所に可笑しい部分もありましたが、初見時は気にせず楽しもうと決めて、物の一気に駆け抜けられた道中(可笑しい部分については後述)
そして、気がつけば終章。4人の少女達とめでたく邂逅を果たし、会話を交わした後、消えた久遠にけじめをつけようと最終地へ足を踏み入れたカルマ。で、あの選択ですよ……
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おまえとの縁を切る訳にはいかない。
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ
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正直「は?」って思いましたよね。これまでカルマがレイア、ミハヤ、ナユに語ってきた「苦しくても精一杯生きる」理念をまるで反故にしたんですから。初見時は本当に混乱し、どうしてそういう結末にしたのかまるで理解出来ず。結果としては、最悪な方向へ舵を振り切ったと言う胸糞悪い感覚だけが、僕の中に残った次第
そして、後日談となる悠久ノ章はもう最悪。幼児化したクオンに、カルマがお世話したり(下の)お世話されたりしていたら、何故か彼女が正気に戻って、贖罪は終わりました。終わり。って馬鹿にするにも限度がある終幕。一緒に居る事を誓った為の罪滅ぼしがこんなハッピーデイズなのに、懺悔もクソも無いでしょう。実にふざけたエピローグ。僕は呆れて言葉も出なかったのでした。
と、ここで勘違いしないで貰いたいのは、ヒロインの為に理念を捨てる主人公の行動自体は別に特段気にしませんって事
『Fate/stay night』で僕が1番好きなのは「Heaven's Feel」であり、主人公が自身の想いを正当化して、それ以外の全てを切り捨てるだけの説得力を「物語」に込めていたなら、此方としても不満は全く生まれません。
つまり、此処で重要なのは「支えたいヒロインの魅力」にあります。「この娘だけはどうしても救いたい」と思わせる圧倒的なまでの魅力。「支えたい(救いたい)と思わせたら8割勝ち」の、Myヒロイン鉄則に基づいた審査。意外に基準は甘いので、簡単に助けたくなる……筈でした。
しかし、ここに来て僕と主人公の間に1つの乖離が発生し、自然と疑問視しちゃいます。
「最後のクオン回想ラッシュ、何これ?」
僕はそもそも、言う程クオンに対して思い入れが湧かなかったんですね。
客観的に考えれば一応、カルマの選択も理解は出来ます。彼は久遠という非実在存在に固執しており、そこに潜む弱さがこの結末へ導いたって過程も分からなくはありませんし、1200年前に救えなかったのみならず、ずっと無用な苦しみを背負わせてしまったと懺悔して、そう選択してしまうのも致し方無しでしょう。
しかし、此方としては只々疑問に思う他無かったんです。だってこっちにはクオンとの間で何も良い想い出がないから、こんな回想されたって反応しようがねえからさ。
まず、共通ルートでクオンがカルマの支えになっていた場面は無い。カルマの気持ちは考えず、好き放題宜しく勝手に青春を謳歌していた記憶しかなく。お目付け役とは名ばかりのカルマ制裁要員です。
そして個別ルートでは、ほぼカルマの業務を邪魔していた記憶しかありません。お目付け役の立ち位置はどこ行ったとばかりに、少女達の罪を裁く為に向き合おうとする彼の想いを、過剰な嫉妬で執拗に妨害します。
個別ルートの中だけなら「嫉妬する幼馴染」としてキャラが立っていたので、普通に受容出来ましたが「こんな暴力的振る舞いばっかで好きになって貰えると思ったら片腹痛いよな」と感じてもいた次第。それ故、グランドルートは割り切ってプレイした矢先に最後の最後、共通ルートや個別ルートの回想をされても、別に何とも思わないんですよね。僕からしたら、あの碌に良い想い出が無い回想で一体何を想い涙すればいいんだろうと、逆に疑問を感じた始末
所変わって2人の馴れ初め。業ノ章から2人の出会いが語られる訳ですが、あの櫛の1件だけでその関係を「純愛物語」と綴るのは、理由付けに些か無理があるとしか思えません。初恋となったきっかけ。櫛を新たに作ってくれたから好きになった(カルマかどうかは未確定)って、終始好きでいるだけの理由としては濃縮度0%です。
まあ、百歩譲ってクオンがカルマを好きになるのはまだ分かります。自分だけの櫛を作ってくれた殿方だと、カルマが作ったかどうかも確信はねえだろうに何故か絶対の信頼で語る彼女。正直ちょっと怖いですが、まだ純粋さが見えるから許容範囲でしょう。
しかし、カルマがクオンを好きになる理由はまるで分からないんです。櫛を直した一件で惚れたので忘れられず、再会してまた恋に落ちた?とかなら分かるんですけど、彼の反応は明らかに違いますから。
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「あれ? なんか……おまえ、見覚えがあるな……」
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ
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明らかにカルマと気付いていた久遠と違って、すっかり存在が頭の片隅に埋没していたヤツの反応じゃないですか。
その癖、櫛が絡んだ次のシーンでは何故か2人揃って発情し、他の女共と仲良くしていたら「妙な気が飛んできた」と、意味不明な理由で行動をセーブするカルマ。肝心のクオンは何も面白い事を喋らず、展開も面白くさせず、他の女性と深まる交流だけ無闇矢鱈に妨害すると言う邪悪な正妻面と化します。
その上10年時が経って、彼等が明確に近付く出来事があるかと思ったら、それもまるで無し。久遠を魅せるイベントも全く作らず、幼少期の「櫛の想い出」だけで「純愛」を紡ごうとしているのは、正直滑稽と言わざるを得ません。同じ「死ぬヒロイン」だったら、奈津や伊予、寧々の方が余程心に沁みましたし。彼女等と比べて圧倒的に魅力不足。もう少しクオンを大事に想わせてくれよって懇願しか、僕には残らなかったのでした。
亜麻矢幹氏の表現、描写は結構好きです。しかし、本作のクオンルートにおいては実に明確な欠点があります。それは「純愛を描くのが下手」って事。カルマはクオンの事なんて抜け落ちていたのに、急にクオン一色で脳内がピンクに染まりすぎだし、その癖、理由付けは櫛の案件以外全く無し。
これが「現実」だったら、恋愛に理由なんて要らねえと格好つけられますが、本作は立派なシナリオゲーであり。物語の主人公に共感する身として、惚れた理由を察せられるってのは正に必要不可欠な要素です。
そこが欠けている泣きゲーに、一体どう感情移入したら良いのでしょう? 向ける意識は行方不明、急激な変化も猛烈な違和感と化して、僕の脳は本作を「純愛」と認識させません。泣ける筈もありません。
それに前提として、クオンをメインヒロインに据えるなら、もう少し上手いやり方があった筈です。クオン以外の個別ルートで、彼女がした行動はあまりにやりすぎの一言に尽きます。自身がその業を受け容れて、カルマと一緒に居る事を望んだなら、関係を邪魔する以前にやるべき事はあるでしょう。
大体この1200年間クオンは一体何をしていた?って疑問もあります。胡坐を掻いて現を抜かしていたのはそっちです。カルマの記憶が消されたのはクオンも分かっている事。いずれ自身も消えると分かっているなら、何故カルマとの関係はずっと停滞していたんでしょう? いずれ消えるから? 迷惑がかかるから? 2人だけの楽しかった想い出も碌に出てこないまま、勝手に消える方が、此方としては迷惑千万糞食らえです。
ただ他の女性に優しくするカルマへの嫉妬で邪魔をする。そんなヒロインを好きにはなれませんし、裁きの為に彼女等と接していた部分もあるのに、クオンの行動は良い迷惑。好ましく思うのは、暴力嫉妬を可愛いと思うドMだけ。
個別ルートの中ではそれもまだ良いエッセンスになっていたからマシでした。しかし、グランドルートで無かったかのようにクオンが変貌しても、此方が急に好きになる訳ありません。もう少し陰からこっそり彼を支えて、想いを押し隠し、自分以外の誰かと恋人同士になったら快く祝福する。そんな少女だったら、クオンルートの見方だって大分変わっていた筈。「優しい」「慈悲深い」と語らせる前に、物語の中でその動向を詳しく魅せろよって話
クオンが1200年間ずっとカルマを想っていたのは、共通ルートでもう分かっています。だから本作はクオンのカルマに対する想いってのを強く形にするべきでした。しかし、その間の事情はまるで分からず、只々過程が足りないの一言に尽きるし、当然、クオンを大切に思える訳もありません(こういう「過程」をカットして「結末」だけ見せて「泣け!」って作品、エロゲだと本当に多いですよね。泣けるかっての)
そして、最後の結末。僕は勿論否定寄り。カルマはその想いをきちんと把握した上で、楽しかった想い出を胸に生きていく事を臨み、4人の少女達へ教えた生き様を自身にも適用した上で、苦しい「生」を生きるべきでした。
その間、会えるかも分からないまま時が過ぎ去っていく罪を背負い、弥勒菩薩が全てを救済した時、世界の片隅でこっそり彼女との縁が再度現れたって展開なら、まだ上手く纏まった筈。少なくとも、本作の終わりよりは断然マシです。
だってさ、格好つけてクオンと生きる決意をした後、悠久ノ章があんな爛れた甘え一辺倒生活だったってだけで、僕の印象最悪でしたし。これが贖罪の末に起きた結果だと思うと臍で茶を沸かせるレベルであり、弥勒に救済されるまでの間を贖罪として生き続け、最後に邂逅出来たかも?って結末の方が断然良いと感じた次第
描かれなかった内容を無視して、安易に納得出来る訳がありません。成長物語として碌に機能せず、ヒロインの魅力もそこまで至らず、結果的に中途半端で終わったシナリオ。最後の最後に落ちぶれた物語。それが、僕の感じた「クオンルート」その物なのでした。
現時点での欠点羅列はこれ位で。ここから長所。業ノ章は凄く良かった。
本章はクオン関連以外の部分は本当に良くて、随所の下調べに力が入っているのを強く感じられます。その熱意は本当に素晴らしかったと思う他ありません。
奈良時代ではレタスが既に栽培されており「苣(ちしゃ)」と言う名前で食べられていた事実や、藤原京に遷都した年代、流刑の最中に憤死した早良親王が実は生きていて、クオンを守っていた状況等、上手く歴史と絡めているのを感じますね。ちゃんと調べた上で形にしている作品は、やっぱり大好物だと改めて感じました。
ただ、史実だと藤原是公は延暦13年にはもう死んでいるし、その孫の伊予はそもそも皇子、幽閉事件で自殺して生涯を終えています。勝道って和尚も奈良時代に実在していましたが、史実じゃまだ生きていましたし、早良親王の後日談も適当に使った印象があります。要するに、人間側の歴史だけ妙にガバガバ。人々の過去は敢えてフィクションで纏めて作り上げたのかって疑念も少々芽生えた次第
しかしそれでも、決して疎かに物語を作っていない頑張りは強く感じられました。下調べが杜撰だったとは全く思えず、意図的に変更しているんだろうと確信が持てたのは、僕の中だと確かな真実
だからこそ、2人の愛を感じられなかったのが本当に悔しい。「愛がなければ視えない」って言葉もありますが、僕には彼等の愛を感じられるだけの素養が足りていなかったんでしょう。現在へ至っても、何回プレイしても、強い繋がりとやらが全然全くさっぱりわかりませんもん。
だから思うに『夏の終わりのニルヴァーナ』は「純愛の物語」じゃなくて「贖罪の物語」にすべきだったし、僕は今でも本作を、無理は承知でそのように解釈しています。
カルマがクオンを助けたのは、自身がずっと記憶を無くしていた事への罪滅ぼしに過ぎず、純愛じゃなくて業ですし。カルマが「好き」と言う想いを勘違いしているだけで、彼は彼女の境遇に同情しているだけの話ですし。悠久ノ章は、そんな彼の甘えた精神が放出された実に情けない結末ですし。彼が、彼等が、本作を純愛と断じても、絶対そうは思いません。罪の意識に耐え切れず、贖罪とは名ばかりの甘ったれ道を選んだ未熟者の物語としか思えません。
「愛心なきは、すなわち法器にあらざる人なり」と、明恵上人って有名な僧は語りました。「愛の心、愛情のない人は仏法を学ぶ資格がない」って趣旨の言葉です。僕は恐らく修行が足りてないんでしょう。しかし、これこそ僕が我儘に述べた忌憚なき感想であり、「凄く後味悪い」と胸糞悪い読後感を示した文章に他なりません。
カルマは結局、序章で空海が述べた格言のように、真理を掴む事無く、囚われたまま終幕を遂げます。釈迦牟尼が語った言葉も踏まえて、もう少し考えて使って欲しかったと感じた読後感なのでした。
6.ナユルート
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(原文)
ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがうべきもなし。
このときはじめて生死をはなるる分あり。
生より死にうつるとこころうるはこれあやまりなり。(道元『正法眼蔵』生死の巻)
(現代語訳)
ただ、生きる時は生きる事のみ、死ぬ時は死ぬ事のみと、現在の瞬間、瞬間にある事のみに徹する事こそを悟りであると心得よ。その生死を忌み嫌って遠ざけようとしたり、逆にその生死を渇望したりするべきではない。
この時初めて、生の苦しみや楽しみ、死の苦しみ、恐怖、渇望と言った生死の悩みから離れられる。
生から死に移っていくと考えるのは、間違いなのだ。
(解説)
普段、我々は『時間』というものを「矢印」の如く連続的に流れていく概念と考える。しかし、仏教で『時間』とは、瞬間、瞬間の繰り返しで、前の瞬間と次の瞬間が独立した点。それらが映画フィルムのように、一コマ一コマ連なっているものと考える事が多い。
道元もまた、同じように考えていた。「生」や「死」は、それぞれが初めと終わりで囲まれた一つの領域に過ぎないと。生きている間は「生」だけで「死」とは無関係、死ねば「死」だけで「生」は関係なくなる。だから「生から死へ移ると考えるのは間違いだ」と。
それは、生命活動が終わると死ぬ、死んでないのを生きている、こう言った「領域」で捉える価値観とは異なったものである。そう至ったのには、人間が「死」を「生」の否定と考え、人生の最期に待ち受けている悲惨な出来事と感じているからに他ならない。
しかし、道元曰くその考えは誤り。生きている事は一つの時点における瞬間の状態であり、その瞬間が積み重なっての「生」となる。それ故「生」は「生」限り。何かから「生」が発生したり「生」が「死」に変わっていく事もない。(「死」もまた同様)
その瞬間を生きろ。その瞬間を死ね。そんな気持ちのまま、自分が居る「領域」で強くあり続けた者は涅槃へと至れる。道元が語った思想は、要するにそういう事だ。
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さて、最後に語るは『夏の終わりのニルヴァーナ』の真打。僕が本作を傑作と賞する理由付けの、根本に存在しているルートでござい。僕が毎年毎年、絶対に欠かす事無くプレイして、その結果、1番涙を流しちまうシナリオとなります。
それは如月那由ノ章。橘美羽夜ノ章後にプレイ推奨の、強く強く生き抜いて生き抜いて、頼まれなくたって生きてやる事を望んだ、1人の少女の物語です。
さて、ナユと言うのは本当に可愛い女の子です。この作品は、発売日前に公式サイトでヒロインの人気投票が行われており、その中でめでたく1位を取っていた程の人気!
しかし、共通ルートをプレイしたら選ばれた理由は一目瞭然なんですよね。カルマと一緒になって楽しく遊んだり、1番友好的に彼と仲良く接してくれたりと、本当に元気一杯な良い娘で。僕自身、すぐに好きになったヒロインでした。
子供のように無垢な純粋性を秘めた少女は、基本好ましさを覚える僕にとって、そんな彼女との掛け合いが本作で最も面白かったのは前述した通り。「この娘とはずっとゲームして遊んでお喋りしていたい」と切に感じた程、天真爛漫に生きている魅力少女。それこそが、接していて本当に面白い少女「ナユ」の一面であり、彼女の魅力そのものなのでした。
そして、そんな僕がカルマとナユの掛け合いを俯瞰して芽生えた感想。「彼の事を本当に良く見ているなあ……」って感心に尽きます。
ナユルートは2人で仲良く遊んだり、キスの一歩手前まで行ったりして深まる関係が、他ルートと比べて上手く長く描写されているんですが。その中で、彼女は彼の為人にきちんと気付き、本気で彼の事を好きになったんだろうと察せられる描写が数多くあるんです。
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「……ありがとね」
「……何が?」
「……いやじゃなかった……んだもんね」
「あ?」
「つまりさ、楽しかったんだよね! それ、大事よっ!」
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ・ナユ
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ナユの声がまたわずかに後ろに下がっていたのに気づいた。
しばらく歩いているうちに、また俺様と距離が開いていたらしい。
ナユがちょこちょこと小走りで追いついてきた。
少しだけ、ナユの息遣いが速くなっていた。
歩く速さは人それぞれ……か。
わずかに歩幅を小さく取った。
動く景色の早さがちょっとだけ緩やかに変わった。
「……ま、楽しければ、それでいいか」
「……」
ナユは息を整えながら、俺様の顔を見ていた。
「カー君……」
「今度はなんだ」
「……えへへへ」
不意に笑う。
「なんだよ」
「案外、優しいね」
「案外って言葉は、いろんなものを台無しにするから気をつけろ。……別に俺様は優しくなんかない。荷物が重たいんだ。持てよ」
「……そっか……。よし、だったら、ボクも持とうっ」
「……いや、待て。よく考えたら、おまえに持たせると、いつまで経っても帰れなくなる。残念だったな」
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ・ナユ
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「女の娘はたったひとりの大切な人が欲しいわけ。男の子とは違うのっ」
「いや、男だってみんながみんなハーレム大好き思考をしているわけじゃない。たったひとりの女に執着し続ける、ピュアなんだか痛いだけなんだかわかんない奴だってたくさんいるからな」
「そっか……そう考えると……どっちも同じだね」
「そうだな」
(中略)
「キスしてみよう」
「……あ?」
「二度も言わせるの?」
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ・ナユ
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「カー君って、おでこにしわ寄せるタイプだよね」
「……何?」
「豪快で横暴な態度を取るくせに、実はいつも難しいことばかり考えてる面倒くさいタイプってこと」
「嫌な表現をする奴だな」
「たまには、考えるより、感じることを重んじてもいいんじゃないかな」
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ・ナユ
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こうした「通じ合っている関係」が本作の中だと1番好きで。4人の中だと、1番恋人恋人しているから悶絶。特にキスシーンで互いに互いを意識している感じは、最もドキドキさせられました。
ナユはカルマの行動に対して察しが良く、だからこそ彼の性根にもきちんと気付いています。甘くて未熟者だが優しい男の子だと。豪快破天荒に見えて考えてしまう性格だと。その点を踏まえた上で気になっちゃう彼の気持ち。彼女の懊悩が、詳しく表現されないながらも偏に伝わってきました。
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「……ボクは通りすがりだしね……うん……」
「ボクはお客さんだから、それくらい……許してもらうってことでいいかなぁって思ったんだけど……」
『夏の終わりのニルヴァーナ』ナユ
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「大人って、面倒くさいことをたくさん考えてるんだよ」
「いつもいつも、眉間にしわ寄せて。きっと、そうしないと生きていけないから」
「ううん……生きていけなくなっちゃうんだ」
(中略)
「だから、今が大事」
「子供やってるのって、楽しいもの」
「将来に、未来に、全然、関係ないこと……意味のないことをしているのが、楽しいんだ」
『夏の終わりのニルヴァーナ』ナユ
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人間はそういう生き物になってしまった。
自分たちが生きていく上で社会を作り上げ、互いに協力して生きていく本質的な契約を結んだ。
その結果、生産性のない行為を罪とみなすようになった。
本能ではない意志を持っての、意図的な弱者の排除である。
もともと生き物は……そこにいて、生きるだけでよかったのに、生きるために制限をつけられ、生きていくことに理由をつけられてしまった。
「大人になるのって、寂しいよね」
「ずっと……子供でいられたらいいのにね」
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ・ナユ
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そんな察しの良くて優しい彼女だから、クオンに気を遣うようにして。
記憶を徐々に想起するようになってから、自分の辿って来た道、ベッドで母親に殺されかけた過去も因果の感覚として理解出来てしまって。
そして、子供のままであり続けたいと、ずっと無意味な時間に遊んでいたいと憧れる気持ちが抑えられなくなって。
上記の要素が重なった結果、触れられる事を恐れたナユはカルマとの目合ひを拒絶し、様子がおかしくなってしまうのが本当に悲しかったです。たとえ彼の事が好きでも、決して逃れられない業の調べ。いつまでもこのままでいられない悲哀。だからこそ、苦しいのに平気な振りして嘘を放ち続けた彼女の姿。全てが繋がり、見ているだけで切なくなり、心が終始締め付けられていました。
さて、そんなナユの業について。
生まれながらに身体が弱かった彼女。それは因果の宿命として1200年前の奈津にも同様に根付いていましたが、彼女等は双方共に「やりたい事を果たせず常世へ来てしまった」側面があります。
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「テレビなんかもういいよっ……ネットもゲームも……どうでもいいよっ……」
「外で遊びたい……買い物に行きたい……学校に行きたいよ……」
「勉強なんてもう全然わかんない」
「何にも……できないじゃないっ……」
「お母さんも、お父さんも……迷惑ばっかりかけてっ……」
「友だちもいなくてっ……」
「ボクはっ……そんなの……望んでないっ……」
「ボクはこんな思いをするために……生まれてきたんじゃないよ」
「ボクは……なんのために生まれてきたの」
「ボクは、いったい、なんのために、生まれてきたのっ!」
『夏の終わりのニルヴァーナ』ナユ
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村人へ危機を伝える役目を果たせなかった奈津と、やりたい事も全く出来なかったナユ。普通なら当たり前に出来る事が身体虚弱のせいで碌に果たせなくて、楽しく逃避していた事もどうでも良くなって、実を結ばないまま枯れていく。その悔しき気持ちを慟哭した一連のシーンが本当に辛くて、気がつけば自然と滂沱の涙に支配されていました。
涙の国って、ほんとにふしぎなところですね。人間はこんなに感情移入出来てしまうものかと毎夏プレイする度、驚きます。あまりに辛くて悲しくて切なくて悔しくて、嗚咽が堪えようもなく漏れてしまって、この幼気な少女に苦境を背負わせた世界へ理不尽な怒気をぶつけたくなる。そして、そこまで苦しんだ失意の少女を精一杯の想いで抱き留め、力の限り守ってあげたくなる。それこそが僕にとっての、ナユの浮世時代における記憶の数々でした。
このシナリオは、そんなナユの人生が無念ばかりじゃなかったと、空にプカプカと浮かんでプツリと消えるだけのシャボン玉では断じて無いと証明する為にあります。ナユは精一杯生きて生きて生き抜いたんだと。その想いを受け取ってくれた誰かが居たんだと。彼女が必死に起こした願いは1つ叶っていたんだと、それが実を結び花開いていたんだと、知らせる為の物語です。
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「どこかの誰かさん、幸せのお裾分けです。このお花の種を育てて……優しい気持ちになってください」
「コスモスさん……コスモスの種さん、優しい人に出会って……育ってください」
「ボクの所みたいな、きれいな花を咲かせてください」
「誰かが、にっこりできますよーにっ」
『夏の終わりのニルヴァーナ』ナユ
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ナユが飛ばした風船は、決して無駄になっていなかった。それは彼女が生きた証として、確かに芽吹いて蕾をつけて、華の情景を美麗に彩り、見知った彼女等へ確かな微笑を齎したんです。
その笑顔は、決して無念でも無駄でも無意味でもない。ナユが行動した事によって、確かに生まれた意味を持つ証明となり、それは彼女等が生き続ける限り、決して色褪せない色合いとなっていくんです。
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「ボク……死……にたく……ない……」
「……わかっている」
『夏の終わりのニルヴァーナ』ナユ・カルマ
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悪人になるのはだめだと思うけど、たとえ、誰かに恨まれるなら、それでもよかった。
卑しいのは情けないけれど、たとえ、誰かに嫌われるなら、それでもよかった。
何でもいいのだ。
大きく立派なことでなくてよい。
どんなに小さいことでも、たとえ、とてつもなく愚かなことでもいい。
未来永劫でなくていい。
ほんの一瞬でもかまわない。
何かを残したい。
誰かの心に残りたい。
『夏の終わりのニルヴァーナ』ナユ
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力強き太陽の下へ少しでも近付く為。手を伸ばし、風船を飛ばし、必死に燃え続けようと決めたのが、如月那由の人生でした。
余命半年と「しのせんこく」を告げられても、生きる事を無念で無駄で無意味と思っても、必死に燃え続けようと決めたのが、如月那由の人生となりました。
人は決して死にたい訳じゃない。
辛い世界から解き離れたいが故に人は死を選ぼうとするが、それは死を媒介に成立する救済があると信じているからで。「愛」を感じられないからこその、掴もうとする悪魔の導き。救いが無いと分かっているなら、人は決して自死を望まないでしょう。
そして、彼女は決してその誘惑に絆されませんでした。死ねば救いと逃げる身に反旗を翻し、精一杯の生きる道を構築し続けました。華奢でも一生懸命なコスモスのように、いつでも精一杯生き続ける道を選んだんです。
神仏は下界に不干渉で、世の理は人の力で動かす他ない世界。しかし、それでも「生」は掴める。彼女自身が掴み取った確かな「生」は、世界で確かに生き続ける。思わず歓喜の涙が零れてしまう、名シーンと言わざるを得ない展開の妙。ナユルートは、本当に涙涙で明け暮れる、毎年必ず滂沱の涙を零してしまう「生命」のシナリオと化したのです。
グランドルートがある作品において、これまでのルートが「前座」と称される事は少なくありません。それは構成的に仕方ない話。最終帰結がある作品ってのは、得てしてそのような部分があるのも事実でしょう。
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「俺様は、ここしばらく、おまえと全力で遊んだ」
「千手にめっちゃ怒られた。クオンに殴られまくった。レイアたちには呆れられた」
「毎日毎日、おまえに振り回された。この日々が無駄だっていうのか」
「忘れられるものか」
「俺様が覚えている」
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ
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しかし、本作に限って言えばそんな言葉を使って欲しくありません。それこそ、このシナリオにおけるカルマの言葉に対する最大の侮辱。そして、毎夏このシナリオだけは欠かさずクリアしている、僕の純粋な本音と言えます。
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「何、言ってんの」
「何、言ってんの。何、言ってんの。何、言ってんの」
「何言ってんだよっ! バカじゃねーのっ!」
「呪いとかなんとか……知らないよ! どうでもいいよっ!」
「生きてるくせに死にたがるなんて……許せないよっ……」
「要らないんだったら……ちょうだいよっ。ボクに、その命、ちょうだいよっ!」
『夏の終わりのニルヴァーナ』ナユ
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命の力は、逃げる為でなく、生きる為に使うべきだ。
慟哭を強く心にぶち当ててくれた魂の物語。それは僕が辛い時、悲しい時、苦しい時に思い出すモノであり、この先の人生、どんな事が待ち構えていても、立ち向かうだけの勇気を植えつけてくれる命の軌跡そのものです。
物語は、生命を繋ぐバトンに成り得る事を、このルートで改めて体感しました。だからこそ、僕を生かしてくれたナユルートを、初見プレイ時から幾年月経過しても、何度もプレイして魂に刻み込んでいる次第
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今まで生きてきて、苦しむことは好きじゃないって気づいた。
痛いのも、怖いのも、気持ちが悪いのも、全部いやだ。
つらいのは嫌いだ。
決して心地よいものではない。
それでも、こうやって走っている間は、そんな想いを超越した何かを感じられる気がする。
強い炎は早く燃え尽きると言う。
それはとても儚くて哀しいものだろう。
でも、とても幸福なことではないだろうか。
華々しく美しく輝いて、いさぎよく退場するのだから。
弱々しくいつまでも無残にくすぶり続けるより、はるかに素晴らしい。
死なずに生き続けるよりも、生きて死ぬ方が価値がある。
そう。
我が身を呪って惨めに消えていくくらいなら。
今、一瞬を、力の限り、心に刻み込んで駆け抜けよう。
『夏の終わりのニルヴァーナ』ナユ
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不条理な生と栄誉ある死の狭間で、極限の縁を歩く者よ。
ここではないどこかが極楽ではないとわかっていても、もしかしたら、そこが煉獄かもしれないと察していても、それでもなお、歩を進めようとする、愚かで、ちっぽけな魂よ。
どんなに苦しくても。
どんなにつらくても。
どんなに惨めで汚い生であっても。
生きるがいい。
『夏の終わりのニルヴァーナ』カルマ
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それは、少女の叫びを、生きたくても上手く生きれなかった彼女の叫びを、決して忘れない為に。
そして、少女の生きた証を、彼女が一生を賭けて懸命に飛ばした想いを、決して無くさない為に。
自分の魂を決して失くさないよう、毎夏プレイするナユルート。その行動はいつしかナユに更なる意味を与え、自然と彼女が生まれた証になっていました。
それはナユの生まれてきた理由が、もう1つ増えた証明と言えます。僕が生きようと思えているのは、この娘が生きてくれたおかげなんです。
生まれてきてくれて、ありがとう。
生きていてくれて、本当にありがとう。
これは、そんな当たり前に初めて気付いた鈍感な僕の、今年の夏に湧いた感謝を、改めて示した感想なのでした。
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『彼氏?』
『……そうかも!』
『夏の終わりのニルヴァーナ』
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自分だけの義務と権利を全うする為に、浮世で生きる事を望んだ証。それはずっと、彼女の心の其処(常世)にある。
7.あとがき
この文章を書き始めてから、多くの方が命を落としました。某有名俳優、女優の方が自殺しましたし、病気で落命した人もいます。最近では「生きる理由」も曖昧と化し、その有無に纏わり付かれたら最期、お陀仏となってしまう情景を見かけてしまうのも少なくありません。
選択次第で如何様にも道が選べてしまう自由度の高さが、簡単に死の道へ誘われる現代。そんな世界を生きる僕等にとって重要なのは、如何に生きる理由を植えつけられるかに尽きると存じます。
夏とは、生を与えてくれる生命の季節であり、その裏で死が腹を空かして見守っている運命の時節である。
夏を越えられるか否かが生死の分水嶺となるなら。僕が夏を越えたその先を生きていけるのは、間違いなく本作のおかげと言えましょう。
生きる理由。生きていく理由。そんな本質を突きつけられたから、僕は夏を越えた新たな季節へ迎えます。だからこそ愚痴愚痴語ったとしても、根底にあるのは紛う事なき感謝の気持ちなんです。
改めてお礼を述べさせて下さい。
継続は力なりとは古来より続く言葉でありますが、言ってみるとやってみるとでは、重みと言うモノがまるで違いますよね。20年存続させるのがどれだけ難しいか。若輩者には想像すら出来ませんが、本作を生み出してくれたからこうして生き長らえている身としては、感謝の気持ちしか芽生えません。
人を生かすと言う事。そんな中々に成し遂げられない大事業を達成したぱじゃまソフト様の歴史に、最大級の賛辞と謝辞を。
そして『夏の終わりのニルヴァーナ』を作り上げてくださって、本当にありがとうございました。