ソメイヨシノは死なない
ソメイヨシノは一人では咲けない。
これは何も比喩的な話ではなく、ソメイヨシノには自然交配の能力がないのである。
人間が接ぎ木することのみにより増える品種だ。
ゆえにソメイヨシノの美は個で完結しない。
通常、花が咲くのは人のためではなく、自分のためだ。
自分が生きて、増えていくために咲く。
しかしソメイヨシノは誰かのために咲く。
人との交流によってのみ、その美しさを手に入れる。
人間が放置すれば100年経たずに絶滅してしまう桜。
もちろん、全ての桜がこんな性質を持ってるわけではない。
美しさを求めて、自然の桜から人為的に作り上げた桜であるソメイヨシノの性質だ。
つまりは……模倣芸術の桜。
同時に、芸術模倣の桜でもある。
自然の桜を模倣して生まれたとも言えるし、人間の中の美しさを模倣して生まれたとも言える。
しかし、果たしてそのどちらなのかを考えるのにどれだけの意味があるのだろうか。
草薙直哉は因果交流の芸術家である。
『櫻日狂騒』は亡き母親の為に描かれた。
糸杉と櫻のグラフィックアートは氷川里奈の為の共作。
『櫻達の足跡』は明石と美術部員との共作。
『櫻七相図』は草薙健一郎の為に描かれた。
プールの点描画は吹との共作。
『蝶を夢む』は夏目圭の為に描かれた。
『櫻達の足跡』の改変は美術部と自分と草薙健一郎の為に作られた。
また、『櫻達の足跡』の改変は、未来の誰かに『楽しさ』を伝える為にも作ったと語っている。
フリッドマンは日本を『アート不在の地』と言っている。
草薙直哉は、そんな日本に終止符を打てるかと言えば、絶対に打てない。
何故なら、彼にとってと作品は手段、あるいは副産物でしかない。
美の為の美ではない。
御桜禀は「なおくんの頭の中には無数のアイデアがある」と語った。
彼の作品は、誰かのために、無数のアイデアから零れ落ちたものなのだ。
言うなれば、草薙健一郎もそうだったのかもしれない。
彼は絵で金を儲けたが、それは金が必要だったからだ。
考えてみれば、『オランピア』は破られるために描いた絵である。
美の為の美を追求するならば、こんなことは絶対にあってはならないことだ。
彼もまた因果交流の芸術家だったのだろう。
長山香奈はどうだろうか。
長山香奈は天才ではない。
だから『蝶を夢む』のことを好きだと言った。
何故ならあの絵は天才の絵ではない。凡才の逆襲だ。
技巧を凝らし、テーマ性を盛り込み、道具を工夫し、計算によって成り立たせた一枚。
全てを圧倒する圭の向日葵には及ばず、禀の具現化にも及ばない。
それでも、あの絵は天才の喉元に迫った。
及ばなかったとしても、それでも迫った。
それは正に長山香奈の生き様そのものじゃないか。
『蝶を夢む』は彼女の芸術観を破壊するような力はなかった。
それでも、だからこそ、彼女はその絵が好きだと言ったのだ。
因果交流の光が灯った。
草薙直哉は今や、いやあるいは最初から、誰もにとっての天才ではない。
しかし、誰かにとっての天才にはなり得る。
御桜禀にとっての、鳥谷真琴にとっての、鳥谷圭にとっての、氷川里奈にとっての、河内野優美にとっての、明石亘にとっての、タキザワ・トーマスにとっての、草薙健一郎にとっての、長山香奈にとっての、天才にはなり得る。
因果交流によって。
御桜禀は誰もにとっての天才で。
長山香奈も誰もにとっての天才を目指した。
ただし、それは手段だ。彼女にとっての美は自分の美。
それを取り戻す為に彼女は誰もにとっての天才を目指す。
オンリーワンの為にナンバーワンを目指している。
全く彼女は正しい。
オンリーワンは甘くない。
元々特別に誰もが至っているようなものではない。
ナンバーワンを手に入れずして、オンリーワンにはなれない。
だから彼女は正しい。
しかし草薙直哉は違う。彼は誰かにとっての天才。
誰かにとってのナンバーワンで、かつオンリーワン。
誰もにとってのナンバーワンに至れるのは本物の天才だけだ。
草薙直哉ほどの才能を以ってしても、誰もにとってという舞台では夏目圭にも御桜禀にも届かなかった。
このゲームは天才というものを、ある種残酷に描いている。
凡才の足掻きではどこまでいっても届かなない。
御桜禀を越える人間はついに現れなかった。
しかしわ誰かにとってのナンバーワンに、オンリーワンには天才でなくともなることが出来る。
いや、誰かにとっての天才であればなることが出来ると言うべきかもしれない。
『本物の天才は、才能を忘れさせる』
夏目圭はそう語った。
これは実は一面の真理でしかない。
何故なら、誰もが才能を忘れたのなら、それはもう天才には見えない。
普通の人間に見えてしまう。
しかし、誰かにとっての天才であれば、才能を忘れさせることは可能だ。
『楽しい』という感情だけを感じさせることも可能なのだ。
才能さえ忘れさせるのは、因果交流電燈。
因果交流によって輝く芸術家。
人とともにしかない、弱い神様。
絶対の美ではなく、相対の美。
美の不合理さの体現。
草薙直哉はそういうものだ。
それはまるで桜のように。
ソメイヨシノは接ぎ木によってしか増えない。つまり、全国のソメイヨシノは全て元を正せば一本の木のクローンである。
ソメイヨシノは人の手を借りて永遠を生きている。
毎年同じように咲くが、「今年の桜は去年より綺麗だ」なんて人は感じたりする。
何度でも発見される。そのために咲く。
芸術の模倣品だとしても、自然の模倣品だとしても、そんなことには関係なく。
自分のためではなく、誰かのために咲いている。
瞬間を閉じ込めた永遠であると同時に、永遠を瞬間の因果交流に還元する。
自分の限界であり、世界の限界である瞬間が、遠い未来の誰かに『楽しさ』や『美しさ』を伝えたなら、その瞬間、世界の限界を越えている。
『サクラノ詩』は、『素晴らしき日々』の「幸福に生きよ!」も独我論も、否定した訳ではない。
ただその先を見ただけだ。
幸福過ぎても食中りを起こすのだから、苦痛を楽しむべきであるし、世界の限界は越えられるものだと言う。
言うなればこういうことだろう……「美しく生きよ!」
誰かとの因果交流によって、苦痛を愛し、最高の瞬間を過ぎて、誰もにとっての天才でなくとも……桜のように。
つまりは、草薙直哉は、そんな櫻の芸術家だ。